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フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

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ヴィクトリアン・サルドゥの新作「毒薬事件」の総稽古

ヴィクトリアン・サルドゥの新作「毒薬事件」の総稽古_f0028703_18101789.jpg1907年12月6日(金)

ヴィクトリアン・サルドゥ氏の新作「毒薬事件」は12月6日ポルト・サン=マルタン座で総稽古が行なわれる。これにはファリエール大統領が臨席されるため、その到着の20時15分きっかりに開演となる。劇場ではすべての招待客に対し、平土間と桟敷席への帽子無しでの来場を請願している。

上掲(↑)の画像は演劇界の巨匠ヴィクトリアン・サルドゥ氏の5幕6場の歴史劇「毒薬事件」の最終幕の場面である。ルイ14世の宮廷を題材に贅を凝らした作りになっており、コクラン氏、デジャルダン氏、ジルダ・ダルティ女史などの巧みな演技によりかなりの成功作となるのは間違いない。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287928 « Le Figaro » le 6 Déc. 1907
出典Crédit:©BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907
画像 Crédit d’image : ©CMN: Archives photographiques (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Gilda Darthy

ヴィクトリアン・サルドゥの新作「毒薬事件」の総稽古_f0028703_1810413.jpg[ Ψ 蛇足 ]
フランス史で「毒薬事件」(L’Affaire des poisons)と言えばルイ14世の時代の1670年からの10年余りの時期で宮廷内で毒薬を用いた犯罪が多発したことを指す。上の画像は左からコクラン(Coquelin)扮するグリファール神父、デジャルダン(Desjardins)扮するルイ14世、ジルダ・ダルティ(Gilda Darthy)扮するモンテスパン夫人(右も→)である。
ヴィクトリアン・サルドゥ (Victorien Sardou, 1831-1908)が最晩年の76歳でこのような歴史から題材を採った豪華絢爛な新作劇を発表するのも長年の夢だったといっても驚異的なことであった。

ヴィクトリアン・サルドゥの新作「毒薬事件」の総稽古_f0028703_13473558.jpg*参考サイト:Wikipedia(仏語)Affaire des poisons 歴史上の毒薬事件
**これまでの関連記事france100.exblog:ヴィクトリアン・サルドゥに大十字勲章(1907.01.05)

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
上記の本文中ほどに「帽子無しでの来場を請願して」(de vouloir bien venir sans chapeau ...)とあるが、ベルエポック時代の劇場における観客の(特にご婦人方のかぶる)帽子の問題は社会問題として論争が絶えなかった。屋内で帽子を脱ぐのは紳士だけであって、淑女は脱ぐ必要はない、装いとはそれも含めてのものだから・・・となっていたからである。すでに19世紀末にアルフォンス・アレのコントなどにも取り上げられている。

*12月9日の「フィガロ」の記事から:
昨日オデオン座での「その父親」(Son Père)のマチネ公演において、客席の大きすぎる帽子に対して観客たちが不平を訴え、口論が繰り返されため、演技が何度も中断されることとなった。
原題:La question des chapeaux
出典Crédit:©BNF-Gallica #287931 « Le Figaro » le 9 Déc. 1907
# by utsushihara | 2007-12-06 18:08 | オペラ、音楽、演劇1907-08

モントルイユの井戸から謎の人骨(3)

1907年12月6日(金)

予審判事のブカール氏は(Boucard)昨日、司法医のソッケ氏(Socquet)とアマール警視(Hamard)を伴ってモントルイユに赴いた。彼は井戸の中の死体の上に撒かれた土はその土地の土ではなく、犯人が他所から運んだものと断定した。
井戸のある土地は塀で囲まれておらず、何人かの証言によれば1900年頃、夜間に見知らぬ男が何度かそこに出入りするのを見かけたという。死体は深さ4m50の井戸に、前もって砕石の入った袋に入れて投げ込まれていた。
この井戸は冬の終わり頃までは水がたくさんあったが、最近水量が減少したため持ち主のプレオー氏が底を浚うことにした。かき回しているうちに彼は鼻持ちならない臭いを感じ、裁断された人骨を見つけたのである。昨日もまた井戸の中から足の骨その他が見つかった。だが頭蓋骨はまだ見つかっていない。
司法医のソッケ氏とバルタザール氏(Balthazar)は人骨の年齢と犯罪の行なわれた時期を特定する最終的な検査を行なう。
モントルイユで行方不明となった女性に関する捜査にはまったく手がかりが得られなかった。死体はパリから運ばれたものと推測している。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287928 « Le Figaro » le 6 Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
原題:La découverte d’un ancien crime à Montreuil-sous-bois

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# by utsushihara | 2007-12-06 15:34 | ★ベルエポック事件簿1908

パリ旧馬芸館でフォーレの舞台劇「プロメテウス」再演

パリ旧馬芸館でフォーレの舞台劇「プロメテウス」再演_f0028703_1541470.jpg1907年12月5日(木)

南仏の洪水被災者を支援するために12月5日と8日の2回、クリシー広場の馬芸館で大掛かりな抒情悲劇「プロメテウス」の公演が行なわれた。ジャン・ロランとフェルディナン・エロルド氏の台本にもとづき、ガブリエル・フォーレ氏が作曲したもので、出演者が600人にのぼる大規模な公演であった。ファリエール大統領も公演に臨席した。
この作品は数年前に南仏のベジエ市にある古代劇場で初演されたときと同じように舞台が準備された。つまりハープを加えた弦楽オーケストラの他に3つの軍楽隊が会場に別々に配置され、その音響のすごさには圧倒された。弦楽器はパリ音楽院の学生たちが担当し、軍楽隊はパリ管区司令官のダルスタン将軍が全面的に協力を申し出て、共和国軍楽隊(ラ・ガルド・レピュブリケーヌ)と第1工兵連隊音楽隊、第89歩兵連隊音楽隊を参加させた。
通常「総練習」と呼ばれる招待客向けの事前公演に関する問い合わせが主催者側に多数寄せられたが、代表のカステルボン=ド=ボーゾスト氏は正式に、そうした招待公演は今回はなく、非公開の最終練習のみであると表明し、報道陣にも取材が許されなかった。

主催者のカステルボン=ド=ボーゾスト氏の努力は無駄ではなかっただろう。エロー県の洪水の被災者は支援を受け、パリの人々は稀にみるスペクタクルを享受できたのである。公演に際しては、準備に費やせる期間の短かさや、音響に適さない会場からも様々な困難が重なったが、公演は熱狂的に受け入れられた。フォーレ氏は熱烈な喝采に何度も繰り返し応えなければならなかった。(M. Gabriel Fauré a été l’objet à plusieurs reprises de chaleureuses ovations.)出演者たちもそれに劣らず賞賛された。プロメテウス役のド・マックス氏は素晴らしく緊張感があり、またパンドラ役のバディ女史はとても美しくとても感動的だった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287925-28 « Le Figaro » le 3-6 Déc. 1907
画像 Crédit d’image : ©CMN: Archives photographiques (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Gabriel Fauré
画像 Crédit d’image : © Internaute.com – Photos anciens de Paris - L'Hippodrome de Paris
http://www.linternaute.com/paris/magazine/photos-anciennes-de-paris/l-hippodrome-de-paris.shtml

***『フォーレ・その人と芸術』(Gabriel Fauré) :フィリップ・フォーレ=フルミエ著(Philippe Fauré-Fremiet)、©藤原裕・訳、音楽之友社・1972年6月25日刊、から引用:
(・・・)《プロメテウス》は混成された作品で、悲劇としての作品の宿命も、またオペラとしての定めも持っていると自負できず、両方のジャンルに第一級の解釈の方法を要求し、悲劇としての真の形式の斬新さを自らに押しつけることもないのであった。(中略)《プロメテウス》は(・・・)1907年パリ競馬場で再登場した。エロー県での大洪水の罹災者の救援のため、二回の上演が行なわれるはずであった。ベジエと同じく三つの軍楽隊が加わった。この恐るべきオーケストラは音がバラバラに鳴り、まさに山彦騒ぎであった。ド・マックスは空間に向かって息切れしたような声を出し、大きな白熱灯が眩しく輝いて観衆の三分の一からその顔を隠してしまった。(・・・)ガブリエル・フォーレが指揮をとり、これはまさに素晴らしいけれどももちろん束の間の音楽会であった。

[ Ψ 蛇足 ]
「プロメテウス」(Prométhée)は、ギリシアのアイスキュロス(Eschyle)原作の悲劇をジャン・ロラン(Jean Lorrain, 1855-1906)とアンドレ=フェルディナン・エロルド(André-Ferdinand Hérold, 1865-1940)が自由に翻案した台本にもとづく抒情悲劇で、フォーレ(Gabriel Fauré, 1845-1924)は付帯音楽とともに独唱、重唱、合唱の曲を作った。人類に初めて火をもたらしたプロメテウスの役は俳優ド・マックスが台詞を語り、また女優のベルト・バディがパンドラの役で出演した。彼らとは別にそれぞれの独唱部分をオペラ座の歌手が歌った。

もともとこの作品は南仏のベジェ(Bézier)で文化活動をしていたフェルナン・カステルボン=ド=ボーゾスト(Fernand Castelbon de Beauxhostes, 1859-1934)の依頼で1900年8月に当地で初演されたもので、今回水害にあったエロー県(Hérault)に位置している。

パリ旧馬芸館でフォーレの舞台劇「プロメテウス」再演_f0028703_15413586.jpgこの600人を超す出演者というような大規模な演奏会は、ベルリオーズやワーグナーならば熱心に取り組んだだろうが、柔らかな和声と穏やかな旋律を特徴とするフォーレの音楽からはとても結び付かない、と思う人は多いだろう。交響曲や協奏曲で満足な曲を作れなかったフォーレとしては、残された唯一の可能性である劇場音楽(オペラ)への挑戦を試みたのではないだろうか。音楽事典ではこの「プロメテウス」が歌劇に分類されているが、むしろベルリオーズの「レリオ」のような歌唱と管弦楽曲との混合作品であった。この頃からフォーレは新たに歌劇「ペネロープ」(Pénélope)の作曲に着手していた。

当初はトロカデロ劇場が会場となる予定だったが、暖房設備が不十分だったので、この「旧パリ馬芸館」(L’Ancien Hippodrome de Paris)(画像↑)に変更された。上記のフォーレの息子フィリップ著の文献にもあるとおり、直訳すれば「競馬場」となるが、実際はサーカスなどの動物の曲芸を見せるための興行館であったようだ。このあとゴーモン映画館(Gaumont Cinéma)となり最大の客席数を誇った。

*参考サイト:
(1)Cartes Postales anciennes de l’Hérault : Béziers - Théâtre aux arènes
(2)Les Célebrités Boujanaises : Fernand Castelbon de Beauxhostes

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)新パリ音楽院長にフォーレ氏(1905.06.13)
(2)南フランスの大洪水(1907.09.30)
(3)作家ジャン・ロランの死(1906.06.30)

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# by utsushihara | 2007-12-05 15:35 | オペラ、音楽、演劇1907-08

モントルイユの井戸から謎の人骨(2)

1907年12月5日(木)

モントルイユに住む人々を騒がせた謎の人骨事件は新たな局面に入った。グレジエールの井戸から見つかった人骨は10年前に行方不明になったワイン商のジャクランのものではないことが判明した。
法医学研究所の医師ソッケ氏が行なった検査の結果、女性の切断された骨であり、骨に鋸のあとが認められ、袋に石や土とともに入れて投げ込まれたものだという。
従ってここに犯罪が行なわれたのがわかったが、ソッケ医師はすでに20年の歳月が経過していると見ている。警視庁では捜査に着手したが、アマール警視はかなりの難事件になるだろうと語っている。予審判事のブカール氏は調書の作成を進めるため、昨日モントルイユに赴いた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287927 « Le Figaro » le 5 Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
原題:Le crime de Montreuil
グレジエールの井戸(Le puit de la glaisière)は、このまま訳せば「粘土採取場の井戸」となるが、前回では大文字(Glaisière)の地名として出ていたので、そのまま固有名詞として考えることにした。
* vient d’enter dans une nouvelle phase 新しい局面に入ったところ

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# by utsushihara | 2007-12-05 15:15 | ★ベルエポック事件簿1908

モナコの殺人犯に死刑判決

モナコの殺人犯に死刑判決_f0028703_17191866.jpg1907年12月4日(水)

12月4日、モナコの高等裁判所は、ゴールド夫人に死刑を、夫のアイルランド人ヴェア・ゴールドに無期懲役の判決を下した。彼らは賭博場の得意客であったスウェーデン人エンマ・レヴィン夫人から金品を奪うため殺害し、死体を切断してトランクに詰め、小荷物として託送したが、ニースで押収され、中を開けられて発覚した。高等裁判所長のローラン男爵が公判を取仕切っている。

出典Crédit:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.36; Jan. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #287924-28 « Le Figaro » le 2-6 Déc. 1907
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 25 Août. 1907
Le crime de Monte-Carlo : Une femme coupée en morceaux; Portraits de la victime et des coupables
http://pagesperso-orange.fr/cen.tans/pj1907/pj87525081907.jpg

[ Ψ 蛇足 ]
この事件は1907年8月に起きた。裕福な人々が多数移り住むコート・ダジュールでの凄惨な殺人事件は大きなセンセーションを巻き起こした。その直後の絵入り新聞では、色刷りの表紙に極端なほどのグロテスクな犯行の発覚時のトランクが描かれていた。上掲(↑)は差しさわりのない一部分のみを引用した。中央が犠牲者のレヴィン夫人(Mme Levin)、左が主犯のゴールド夫人、右が従犯のヴェア・ゴールド(Vare Gold)である。
12月2日からモナコの高等裁判所で公判が開始されるに伴い、その詳細を伝える記事がフィガロでは連日掲載された。ここに抄訳してみようと思ったが、興味本位に走り過ぎの感があるので止めた。
探究してみたい方は、それぞれの日のフィガロの4ページ目の « Gazette des Tribunaux» (裁判新報)の欄を参照されたい。
# by utsushihara | 2007-12-04 17:17 | フランス政治社会1907-08