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フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

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ドリュド将軍の帰任決定

1907年12月28日(土)

一昨日(26日)の朝、アヴァス通信社の情報では「政府がドリュド将軍に対し、メディウナの城砦を奪取せよと命令した」と伝えた。この命令が出された厳密な日時は不明だが、ドリュド将軍に宛てて出されたのは間違いない。しかし、その数時間後に軍事相のピカール将軍が首相のところに赴き、そのあと非公式ながら「ドリュド将軍がマラリアの発作に襲われ、深刻な病状になっている」との談話を発表した。これはフィリベール提督からの電報をもとに出された情報だったが、前後してピカール軍相に召還を願うドリュド将軍の文書を受け取った。これらの出来事はすべて一昨日(26日)のうちに続けざまに起きたことである。
政府の出した命令とドリュド将軍の帰還要請が交差したことになる。
残念ながらドリュド将軍の病気は、自身の評判を落としかねないという懸念がある。病気はかなり重い。フィリベール提督の新たな電報でも「マラリア」と「無力症」という言葉が同時に使われている。

ドリュド将軍の後継者には、ラ・ロシェルの第69旅団長ダマド将軍が指名された。一昨日の晩、彼はピカール軍相からパリに呼び出され、大統領、首相と軍相に会見し、直ちに新任地に赴くこととなった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287950 « Le Figaro » le 28 Déc. 1907

ドリュド将軍の帰任決定_f0028703_1733556.jpg[ Ψ 蛇足 ]
(←)これまでのドリュド将軍(Général Drude, 1853-19xx)は、カサブランカへの上陸作戦、カサブランカの制圧、カサブランカ近郊のシディ・ブラヒムやタデールの占拠など一応の成果を上げていた。かたや頻繁にモロッコの各部族の首長たちによる反撃にも応戦し続けていた。
下記のグラッセ大尉の従軍記によれば、12月になってカサブランカ南東約18kmのところにあるメヂィウナ(Mediouna)の城砦に部族の軍隊の再結集の動きが見られ、偵察の兵士が狙撃される事件も多くなってきていた。ただしドリュド将軍はその城砦を攻略するには手持ちの6千名の兵力だけでは不十分と考え、兵力の補強を要請していた。またこの頃、ドリュド将軍がマラリアの発症で体調を崩していたのも確かであった。

**参考文献:A travers la Chaouïa, avec le corps de débarquement de Casablanca (1907-1908) par Capitaine Grasset, 118e Régiment d’Infanterie「カサブランカ上陸作戦~シャウィアを横切って」第118歩兵連隊グラッセ大尉著(BNF-Gallica 電子図書105220)
http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-105220

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)仏人青年の殺害とタデールでの戦闘~モロッコ戦役(7)(1907.10.19)
(2)シディ・ブラヒムの占拠~モロッコ戦役(6)(1907.09.21)
by utsushihara | 2007-12-28 17:01 | モロッコ問題、アフリカ1907-08