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フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

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消え行く古きパリと生き残る「白馬亭」

消え行く古きパリと生き残る「白馬亭」_f0028703_1711634.jpg1907年7月

パリの街には変わらぬ発展がある。人々が家を建てるのは西の方の新しい地区にとどまらず、古い街区の廃墟の上にも建設が進められている。画像の左(←)の古いアンドラル病院の建物は、まさに取り壊しの真っ最中であり、もはや涙を流すすべもない。
また右の画像(→)は、サン=ジェルマン大通りから数歩入ったところに今なお昔のままで残されている旅籠「白馬亭」である。「三銃士」でダルタニャンが投宿したところだと大デュマが語っている。ここはルイ14世の時代にはオルレアンとブロワからの駅馬車の宿駅となっていた。今日ではうらぶれた絵のような中庭で、とりわけ近所の鶏と子供たちが戯れている。
消え行く古きパリと生き残る「白馬亭」_f0028703_17111955.jpg
出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.32; Sept 1907

[ Ψ 蛇足 ]
アンドラル病院(L’Hôpital Andral)については、この時取り壊されたためか、記録はほとんど探し出せなかった。反対に旅籠「白馬亭」(L’auberge《Cheval Blanc》)については21世紀の現在でもその当時の建物が残っていると思われる。この付近はパリ左岸でも最も歴史的に古いサン=タンドレ・デ・ザール地区である。「白馬亭」の住所は現在のマゼ街5番地(5 rue Mazet)である。この辺りでパリ左岸は古い城壁で取り囲まれていた。白馬亭は歴史的にも有名で、ルイ14世から18世の時代まで、フランス南西部のオルレアン、トゥール、ラ・ロシェル、ボルドー方面向けの駅馬車や乗合馬車の宿駅で、1906年まで続いていた。パリ~オルレアンが2日の道程だった。

上記の記事では、「三銃士」の中でダルタニャンが投宿した所と語っているが、原作の第1章にあるダルタニャンのパリ到着の場面では残念ながら白馬亭の名前はどこにも出てこない。恐らくデュマはその宿をモデルにして書いたということなのだろう。

***参考資料:「三銃士」第1章から:Les Trois Mousquetaires, Chapitre I, P.36-37
La Bibliothèque d’Alexandre Dumas; La collection À tous les vents
http://jydupuis.apinc.org/vents/dumas-mousquetaires-1.pdf
そして彼は自分の黄色い馬に乗って、何の事件もなくパリのサン=タントワーヌ門に着いた。そこでダルタニャンは馬を3エキュで売り払ったが、最後の道のりでへとへとに疲れさせたのを考慮すればごくましな値段だった。(…)従ってダルタニャンは小さな荷物を腕にかかえてパリに徒歩で入った。そして懐具合の厳しさに合いそうな部屋を探して歩き回った。その部屋はリュクサンブール宮に近いフォソワユール街(墓掘り人街)にある屋根裏部屋だった。(写原試訳)
Puis il ( --- ) remonta sur son cheval jaune, qui le conduisit sans autre incident jusqu'à la porte Saint- Antoine à Paris, où son propriétaire le vendit trois écus, ce qui était fort bien payé, attendu que d'Artagnan l'avait fort surmené pendant la dernière étape. ( --- )D'Artagnan entra donc dans Paris à pied, portant son petit paquet sous son bras, et marcha tant qu'il trouvât à louer une chambre qui convînt à l'exiguïté de ses ressources. Cette chambre fut une espèce de mansarde, sise rue des Fossoyeurs, près du Luxembourg.

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by utsushihara | 2007-07-17 17:09 | フランス政治社会1907-08