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フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

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伊藤博文公ハルビンで暗殺される(1909)

1909年10月26日(火)
伊藤博文公ハルビンで暗殺される(1909)_f0028703_1881050.jpg
10月26日、日本で最も優れた政治家の一人、伊藤博文公が満州のハルビン(哈爾浜)で暗殺された。犯人は朝鮮人の青年で、自分の国が日本によって蹂躙された復讐だと語っている。伊藤公は長州藩武士の出身で、71歳、《黄色のビスマルク》(Bismarck jaune)は4年間にわたって朝鮮における日本の初代統監として保護国制を定着させたが、流血沙汰なしという訳ではなかった。

(フラ伊藤博文公ハルビンで暗殺される(1909)_f0028703_1882625.jpgンスの主要各紙でもいち早くこの事件は一面トップで掲載された。右は「プチジュルナル」紙の一面→)
日本の元外務大臣(*ママ下注)で、前朝鮮統監の伊藤博文公(Prince Ito)は26日朝、哈爾浜で朝鮮人によって暗殺された。伊藤公は9時半ごろ列車から降り、ロシアの財務大臣ココツォフ氏一行とともに儀仗兵の前を通り、諸外国の領事団のところに近寄ったとき、背後から数発の銃弾が発射され、致命傷を受けて倒れた。
それと同時に南満州鉄道総裁の田中氏は足に軽い傷を負い、また満州総領事の川上氏はかなり重傷を負ったが生命は取り留めた。伊藤公は銃弾を3発受けていた。
すぐさま犯人は取り押さえられた。彼は朝鮮人であると言い、わざわざ伊藤公の暗殺のために哈爾浜までやってきたという。その意図は主権が蹂躙された国の恨みを晴らすことと、公の統治期間中に彼の親族が殺害されたことへの復讐であった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618789 « Le Petit journal » No.17106, le 27 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.45; 6 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
伊藤博文(Hirobumi Ito, 1841-1909)は華族の称号では侯爵(marquis)だったが「伊藤公」(Prince Ito)で通っていた。前日25日(月)にロシアの財務大臣と交渉事のために哈爾浜に赴いていた。ロシア側は北京駐在の特命全権公使も会議に出席していたが、満州鉄道の買収に関するものと思われた。
世界史での「日韓併合」はこの翌年の1910年となるが、それまでに保護国制を敷き、着々と日本側への権限の拡大を浸透させてきた頃である。日本国内における衝撃は計り知れないほど大きなものだったようだ。
(この辺は日本史研究のサイトにお任せしたい。)
(*)記事原文には « Le prince Ito, ancien ministre des Affaires étrangères du Japon »(外相)とあり、私たちの常識であるはずの「初代総理大臣」という記述は残念ながら皆無であった。
伊藤博文公ハルビンで暗殺される(1909)_f0028703_1884377.jpg(←)左掲は伊藤公夫妻と孫たちの写真である。明治時代は、家庭ではまだ和服が普通であった。

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
数年前に偶然、東京都品川区の伊藤小学校の近くを仕事で訪れる機会があった。西大井駅のすぐそばに立派な構えの神社かお寺のような境内があって、人が容易に中には入れないようになっていた。そこが「伊藤公墓所」だった。昔は大井伊藤町という町名だったようで、あまり区の観光案内には出ていなかったので、意外な発見をしたような気がした。
by utsushihara | 2009-10-26 18:06 | 日本・東洋事情1909-10