フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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飛行船《共和国》号の犠牲者たちの国葬

1909年9月28日(火)
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痛ましい墜落事故の起きたムーランでの厳粛な葬儀の後、4人の犠牲者を悼む国葬(Obsèques nationales)が9月28日ヴェルサイユで執り行なわれた。4つの棺は工兵部隊の兵舎に安置され、出棺の儀式は大聖堂でジビエ枢機卿による悲しみに満ちた追悼で行なわれた。政府関係者と各国の代表が参列した。墓地の入口では、軍事相のブリュン将軍をはじめ、セーヌ・エ・オワズ県知事などが弔辞を述べた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618761 « Le Petit journal » No.17078, le 29 Sep. 1909f0028703_1954237.jpg
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405973 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ローギエ司令官の先導で葬儀会場のヴェルサイユ大聖堂に向かう閣僚たち、軍事相ブリュン将軍、ブリアン首相、ミルラン建設相それに各国武官たちが続く。(↑)

フランス陸軍の誇る第一線の飛行船《共和国》(レピュブリク)号の逸失事故である。7月からの新聞記事にも頻繁に取り上げられ、フランスの飛行船の中でも最も優美な勇姿と讃えられた。飛行船という存在感の大きな建造物は、後世の巨大戦艦と同じように国家の威信と国民の期待が込められていた。しかしその反面、その運行上の不安定性と脆弱性がこれほどまでにと考え直させる悲惨な事件が世界中で続出した。このとき、人間が空を飛べるようになってからまだ100年余りしか経っていない。

**これまでの関連記事france100.exblog:飛行船《共和国》号の惨事(1909.09.25)
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by utsushihara | 2009-09-28 18:40 | フランス社会政経1909-10

飛行船《共和国》号の惨事

1909年9月25日(土)f0028703_23142590.jpg

サントル地方で実施された軍事大演習に参加するという壮挙をあげた飛行船《共和国》号は、数日間の待機の後、9月25日に本拠地であるシャレー=ムードン緑地に帰るため装備を整え、朝6時50分にロジエール繋留地を出発した。マルシャル大尉、ショーレ中尉、そして機関士のレオーとヴァンスノの計4人が乗り込んでいた。約千人の兵士と民衆が見送った。機体はすぐさま約150mの高さまで上昇し、国道7号線に沿って時速40kmの速さでパリに向かった。部品や装備品を積んだ軍用自動車が2台、国道を追走した。
8時30分頃、飛行船は50kmほど安定した飛行を続け、ムーラン市の上空を通過した。しかし、それから8km過ぎたところで突然プロペラが破損して飛び散り、その羽根の1つが飛行船の気球に大穴をあけたのだ。見る見るうちに飛行船は墜落し、地表に激突した。乗組員の4人全員とも即死であった。併走していた軍用自動車が不幸にもその最期の目撃者となった。すぐに現場に駆けつけたが、帆布は引き裂かれ、装備が飛び散り、操縦台の中に4人の死体が横たわっていた。
この悲報はすぐに軍と政府に伝えられ、フランス全土が衝撃と悲しみに覆われた。

f0028703_23151018.jpg画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405973 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #716873 « Le Petit journal; Supplément du dimanche» No.986, le 10 Oct. 1909

**これまでの関連記事france100.exblog:陸軍大演習と飛行船《共和国(レピュブリック)》号の修復(1909.09.14)
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by utsushihara | 2009-09-25 23:13 | 科学、軍事、海事1909-10

陸軍大演習と飛行船《共和国(レピュブリック)》号の修復

1909年9月14日(火)
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9月上旬に中仏アリエ県のラパリス付近で実施されたフランス陸軍の大演習(Grand manoeuvre)において、第3ズアーヴ歩兵連隊の機関銃部隊がすばらしい威力を発揮したのが注目された。参加各部隊は至る所で最も英気あふれる行動を示した。
今回は初の試みとして飛行船《共和国(レピュブリク)》号が演習に加わり、何回にもわたり陸上部隊の指揮官たちに適切な指示を送ることができた。しかし、パリからヌヴェール付近までの見事な長距離飛行のあとすぐに軍事大演習に参加したことが原因と思われる機体に亀裂が生じ、全壊の恐れが出たためブリュイエールで不時着した。飛行船の空気を抜いて分解した部品は陸路、停泊予定地のラパリス(Lapalisse)まで運搬された。兵士たちの懸命の作業の結果、8日間で修復が完了した。9月13日にはラパリスの上空に飛び立ち、翌日には偵察飛行の任務につくことができた。

f0028703_101351100.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.57; Oct. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526296 « Touche à tout » No.10; Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738270 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.39; 25 Sep. 1909

**これまでの関連記事france100.exblog:飛行船《共和国》(レピュブリク)号パリ上空へ (1909.08.07)
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by utsushihara | 2009-09-14 10:08 | 科学、軍事、海事1909-10

独飛行船『ツェッペリン3号』のベルリン訪問

1909年8月~9月f0028703_182834.jpg

好天と微風に恵まれ、ツェッペリン3号(Zeppelin-III)は8月29日正午過ぎに無事ベルリンに到着した。市の中心部上空とテンペルホーフの演習場の上を高度150~200mで通り過ぎた後、テーツェル射撃場に着陸した。皇帝ウィルヘルム2世は搭乗するツェッペリン伯爵がゴンドラから降り立つのを待ちうけ、最初に握手をして飛行の成功を祝福した。軍楽隊が愛国賛歌「ドイツ、すべてに冠たるドイツ」を続ける中、皇族一行は搭乗員を歓迎し、ベルリン市長ベイッケ氏が公務員を代表して飛行船とツェッペリン伯爵(→)の栄誉を称える演説を行なった。
式典の後、皇帝はツェッペリン伯爵のほか、操縦士のコルスマン氏、機関士のデュルとコバーらの搭乗員を皇室主催の昼食会に招いた。宮殿の外には入場を許された群衆が集まり、皇帝と伯爵が演台に何度か立ち現われると歓呼の声と賛歌で包まれた。この飛行船は民衆の愛着心の対象であり、伯爵はあたかも英雄であった。

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ツェッペリン3号は29日の夜11時24分に南西方向の母基地フリートリヒスハーフェンを目指して離陸した。30日朝、飛行船はウィテンベルク付近のバルジッヒに緊急着陸を余儀なくされた。前面の2番目のプロペラが破損して飛び散り、その破片が飛行船の本体に穴をあけ、ガスが抜けてしまったのである。錨と砂袋を捨ててバランスを保ちながら飛行を続けることはできたが、着地して修理するほうを選んだ。デュル技師は電信を打ち、補修部品と修理工員を派遣するよう要請した。修理には約2日間かかる見込みである。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.57; Oct. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618731-32 « Le Petit journal » No.17048-49, le 30-31 Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
フリートリヒスハーフェン(Friedrichshafen)はコンスタンス湖畔の町。ヴュルテンブルク侯の夏の離宮があった。地名の由来は、1811年領主フリートリヒ1世が古来修道院のあったホーフェン村と自由市ビュヒホルンを併せて新しい町を作ったときに命名された。
飛行船はその存在感は人々を圧倒させるが、風雨や事故に対して非常に脆弱な機体であり、操作の扱いにくさからも、やがて飛行機にとって代わられる運命にあったと予見できる。

**これまでの関連記事france100.exblog:飛行船「ツェッペリンZ-II」の不時着(1909.06.02)
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by utsushihara | 2009-09-01 18:25 | 科学、軍事、海事1909-10

飛行船《バヤール=クレマン》号の墜落

1909年8月23日(月)

飛行船《バヤール=クレマン》(Bayard-Clément)号はこれまでしばしばパリの上空を飛行するのが見られたが、23日の朝、原因不明の事故によりセーヌ川に墜落した。飛行船には3人搭乗しており、3人とも泳いで無事に救出され、また機体の全壊は免れた。損傷はかなり重大であったが修復可能の範囲にとどまった。
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《バヤール=クレマン》号は半月ほど前にロシア政府に譲渡が決まっていた。その最終的な引渡しの前にいくつかの条件を満たす必要があった。飛行船がある高度を保って飛行することもそのチェック・ポイントの一つであり、少なくとも高度1200m以上のところを十分な時間安定して航行しなければならない。この確認作業を実施するために早朝、ロシア使節団代表のナッシュ大佐がサルトルーヴィルの飛行船基地を訪れた。
午前6時半に《バヤール=クレマン》号は格納庫を出た。天候は晴れ、すべての望ましい条件を満たすには絶好の日であった。操縦士としてよく知られたカパッツァ氏が機体を操縦し、ナッシュ大佐と機関士のディラセ氏が乗り込んだ。出航前の点検後、飛行船は優美にそしてかろやかに青空に浮かび上がった。それからいきなり1500mの高さまで上昇し、その高度を安定させるのに成功した。
飛行船は2時間以上のあいだ、高度を1300m以下に下がることなくとても安定して航行を続け、操縦士の手のままに忠実に従った。《バヤール=クレマン》号は初めのうちはメゾン=ラフィット(Maisons-Laffitte)付近の上空を飛んでいたが、それからウィユ(Houilles)やヌィイ(Neuilly)をかすめ、クレマン社の工場の敷地の上で何回か旋回してみせた。こうして確認飛行は非常に満足すべき結果で終わろうとしていた。午前9時頃、飛行船は着陸のため出発地点へ戻った。
しかしながらその時突如、大気の状態が急変した。暴力的な風が地上から吹き上げ、降下した飛行船を繋ぎとめる艫綱を引く役割の20人ほどの兵士はうまく引き止めることができなかった。何度かの試みの後、突風に煽られた飛行船は地面すれすれにセーヌ川に向かって飛び、中洲に不時着を試みる前に水面に着水した。3人の乗組員はゴンドラが川に落ちると同時に脱出した。幸いにも川岸からは7~8mのところであり、泳ぎの巧みなカパッツァ氏とディラセ氏がナッシュ大佐を助けながら無事岸へと泳ぎ着いた。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618725 « Le Petit journal » No.17042, le 24 Août, 1909

f0028703_913445.jpg[ Ψ 蛇足 ]
(←)ルイ・カパッツァ(Louis Capazza, 1862-1928)はコルシカ島のバスティア出身の飛行家。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)フランス飛行クラブの夜会(1908.06.10)
(2)イタリア軍の新型秘密飛行船(1908.08.16)
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by utsushihara | 2009-08-23 09:12 | スポーツ、乗物、探検1909-10

飛行船《共和国》(レピュブリク)号パリ上空へ

1909年8月7日(土)f0028703_2347127.jpg

7日(土)の午前9時頃、パリでは大通りや交差点や道端で人々が立ち止まる人垣ができた。大勢のパリ市民が自分の用事をそっちのけで上空を横切る飛行船《共和国》号の動きを目で追っていたのである。飛行船は、抜けるような青空に、薄黄色のひと刷毛のように映え、その素早く安定した動きは人々の一様な感服の念を掻き立てた。
《共和国》号は高度を下げてラファイエット街付近、わが「プチ・ジュルナル」社の上を航行したので、動作の機敏なわが社の写真班員はさっそくカメラに収めた。この飛行船の新たな航行は大成功であった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618709 « Le Petit journal » No.17026, le 8 Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
飛行船の飛来は何としてもその存在感で人々の注目を集めた。《共和国》(レピュブリク)号(Le dirigeable《République》)は、7月14日の軍事パレードでも、もう一機の《ナンシー市》号とともに大勢の喝采を受けた。しかし風雨の影響を受けやすい脆弱性はいかんともし難く、この後に大きなトラブルが待っていた。(後日報あり)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)革命記念日の飛行船 (1909.07.14)
(2)飛行船《ナンシー市》号の不時着(1909.07.16)
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by utsushihara | 2009-08-10 23:45 | スポーツ、乗物、探検1909-10

飛行船《ナンシー市》号の不時着

1909年7月16日(金)f0028703_19122618.jpg

飛行船《ナンシー市》(ヴィル・ド・ナンシー)号は7月14日の革命記念日のパレードにおいてロンシャン競馬場上空でその優美な姿と機動性のすばやさで人々の熱狂を引き起こした。この飛行船はその名前の町「ナンシー」を表敬するため最初の大旅行を試みたが、雨と強風という悪天候により、パリ東方約60kmのクロミエ付近の小村ファルムーティエに不時着し、風よけの森の木立の陰でさびしく繋留されるとことなった。

ナンシー市民は長い間、自分たちの名前のついた飛行船の飛来を待ち望んでいた。気象条件の悪い日々が続いたこともあり、また7月14日のパレードにも参加しなければならなかった。それも大成功で済ませ、昨夜、シュルクフ、カプフェレ両氏はナンシーへの飛行を決めたのである。
けさ天候は最良の好天、信じられないことに晴天だった。気圧計は高気圧を示し、風は弱く、とにかく飛行には好条件であった。《ナンシー市》号は出航準備を整え、サルトルーヴィルの格納庫を出た。最終的な検査が行なわれ、午前4時半きっかりにシュルクフ、カプフェレ両氏が乗り込んだ。「全部放せ!」(Lâchez tout !)の号令で飛行船はエンジンの唸り音の中、ゆっくりと浮かび上がった。
《ナンシー市》号はアニエール側からパリ上空をすべるように通過し、ヴァンセンヌの森を抜けてナンシーへ進路をとった。ラニーやモーを過ぎたときには時速64kmで航行していたが、急に雲が出てきて視界が悪くなり、高度を下げることにした。午前5時半頃だった。飛行船がファルムーティエ村に近づいたときエンジンの不調が起きた。それまでは至って快調に飛び、1時間に70km近く稼いだエンジンが小刻みに震えだし、急に出力が衰えた。すぐに機械を止めて原因を確かめねばならなかった。電気のショートか、燃料パイプの詰まりかわからなかった。
f0028703_19124525.jpgエンジンを切ろうとしたがそのまま動き続けた。墜落を回避するため乗組員は冷静に最大限の努力を行なった。素早く方向舵を切りながら森の木に衝突するのを避け、最後は馬肥草の畑に着陸した。しかし最後までプロペラの回転を止めることができず、羽根の1枚が地面に接触して大破した。(→)右掲はクロミエの副郡長ブファール氏と共に破損したプロペラを見るシュルクフ氏である。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #569125 « Le Matin » No.9272 - le 17 Juil. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288524 « Le Figaro » le 19 Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
その翌々日7月18日の早朝、大急ぎの修理を済ませ、晴天に恵まれた《ナンシー市》号はカプフェレの操縦により、再出発し午前8時10分にナンシーに市民の大歓声に包まれて無事到着した。

**これまでの関連記事france100.exblog:革命記念日の飛行船(1909.07.14)
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by utsushihara | 2009-07-16 18:06 | スポーツ、乗物、探検1909-10

革命記念日の飛行船

1909年7月14日(水)
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ロンシャン競馬場で行なわれた革命記念日の軍事パレードの際に、上空に2つの飛行船「共和国(レピュブリク)」(République)号と「ナンシー市」(Ville de Nancy)号が飛来し、観衆から大きな喝采を受けた。「ナンシー市」号は数日後パリからナンシーに向けて飛び立った。

(6月25日付の「マタン」紙の記事から)
軍事相のピカール氏は訓練用飛行船「ルボーディ」(Lebaudy)号を数日前から露営させる実験を指示した。この「空気よりも軽い」(plus léger que l’air)機体が天候次第では逸失する恐れもある。しかしこの試みは8日間無事に続いており、その小さな機体はヴェルサイユ付近のサトリー基地の緑地で一昨日来の厳しい風雨に耐え抜いた。隊員たちは毎日、艫綱と縁索を使う訓練に取り組み、夜は機体の傍の緑地にテントを張っている。
この訓練は恐らく来週火曜日まで続けられ、その後飛行船は畳み込んでシャレ=ムードンに移されることになっている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569104 « Le Matin » No.9251 - le 26 Juin, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.30; 24 Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
第一次大戦直前における軍事的な飛行船の重要度を示す記事である。この時代には7月14日の軍事パレードはシャンゼリゼではなく、ブローニュの森の中の競馬場で例年行なわれていたようだ。
飛行船はその大きな存在感とともに国民の期待も大きかった。しかし何と言っても「空気よりも軽い」ため、悪天候に弱く、ドイツの「ツェッペリン」号もあっけなく大破してしまうような事故が頻発した。露営訓練もそれを克服したい意図があったと思われる。「ルボーディ」は4年前の記事(↓)では最先端の機能を誇示していたが、ここでは老朽化した訓練用飛行船となっている。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)操縦可能な気球「ルボーディ」号 (1905.11)
(2)飛行船「ツェッペリンZ-II」の不時着 (1909.06.02)
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by utsushihara | 2009-07-14 14:05 | 科学、軍事、海事1909-10

飛行船「ツェッペリンZ-II」の不時着

1909年6月2日(水)
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36時間以上の長距離飛行からの帰途、飛行船「ツェッペリンII」は5月31日に一本のリンゴの木に衝突し、その先端部が大きく損傷した。それでも3日間の作業で先端部を全部切離し、応急措置で取付けた内部の2つの気嚢部と1基のモーターによって、この巨大な飛行船はコンスタンツ湖畔の基地まで戻ることができた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.54; Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
10ヶ月前にドイツの誇る巨大飛行船「ツェッペリン4号」は、やはり試験飛行の帰途に事故を起こし、炎上した。その直後に「5号」(LZ5)の製造が開始され、完成直後の5月26日に36時間以上の飛行を達成し、母港に戻るところであった。製造番号とは別にドイツ陸軍では《 Z-II 》と呼称していたため、何号と呼んだらいいのか多少混乱が生じた。”LZ” はドイツ語の« Luftschiffbau-Zeppelin »の略号でツェッペリン飛行船の建造通し番号として用いられたようだ。
このあと先端部の修復が施され、軍用飛行船として就役することになる。しかし「リンゴの木」(un pommier)で巨大な飛行船が動けなくなるとは、のどかな時代である。

*参考サイト:Wikipedia(和文)ツェッペリン飛行船一覧
**これまでの関連記事france100.exblog:巨大飛行船「ツェッペリン4号」の成功と失敗(1908.08.04-05)
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by utsushihara | 2009-06-02 18:24 | 科学、軍事、海事1909-10

英軍製造の飛行船「ヌリ・セクンドゥス」が大破

f0028703_2352771.jpg1907年10月10日(木)

英国軍が初めて製造した飛行船「ヌリ・セクンドゥス」号は9月10日に完成した。一度だけロンドン上空を飛行した後、水晶宮(クリスタル・パレス)の基地に繋留されていたが、10月10日強い風雨にあおられて気球カバーが破損した。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.34; Nov. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
名前の「ヌリ・セクンドゥス」(Nulli Secundus)とはラテン語で「二位にあらず」(=常にトップであり続ける)という意味らしい。
製作者は英国軍のカッパー大佐(Colonel Capper)と技師のサミュエル=フランクリン・コディ(Samuel Franklin Cody, 1867-1913)である。全長37m、容積1560㎥で50馬力のモーターが備わっていた。
大破した飛行船は修理のため、ファーンボロー(Farnborough)にある飛行船工廠に運ばれ、数年後「ヌリ・セクンドゥス2世」号(Nulli Secundus II )として復活する。

*参考サイト: The Pioneers of aviation and aeromodelling – Samuel Franklin Cody(英文)
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by utsushihara | 2007-10-10 23:03 | 科学、軍事、海事1907-08