フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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タグ:ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世 ( 10 ) タグの人気記事

ラッコニージの露伊両君主会談

1909年10月24日(日)f0028703_22482872.jpg

ロシア皇帝ニコライ2世のイタリア訪問における両君主の会談は有名なラッコニージの夏の離宮で催されたが、晩餐会で交された何度かの乾杯の発声には月並み以上に変わったことはないものの、欧州の均衡に影響を及ぼしかねない出来事ゆえに、各国から大いに注目を浴びる結果となった。
これはイタリア外交における恐らく重要な変更のきざしと思われた。両国の外相イスヴォルスキー(Isvolsky)氏とティットーニ(Tittoni)氏とは、この機会に先年のオーストリア帝国によるボスニア併合以来途切れていた折衝を、中東の現状維持の意向ともども会談の項目に取り上げた。彼らはまた、独墺伊の「三国同盟」(Triplice)条約の次の更新についても意見を交し、イタリアが依然として忠実にその枠組に留まっていることを踏まえながらも、新たな平和の手段を模索した。総体的に両国間の会談は平和の保証であり、他の諸国に対し好意的に受けとめられた。
わがフランスの外相ピション(Pichon)氏も帰途につくロシア皇帝の列車に乗り込み、同行のフランス外交官との打合せの時間を持った。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.45; 6 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]f0028703_22485239.jpg
ラッコニージ(Racconigi)はトリノの南約40kmにある町で、中世から城館(Castello Reale di Racconigi)があり、ヴィットリオ=エマヌエーレ3世も夏の離宮として使っていた。(町の全景→)

三国同盟(Triplice)は、ビスマルクの時代の1882年に独墺伊で締結された軍事同盟である。この時各国の君主も宰相もほとんど代替わりして、まもなく30年を経過しようとしていたので「次の更新」(prochain renouvellement)という言葉も出てきていたのだろう。

*参考サイト:Wikipedia(和文)ラッコニージ(Racconigi)
**これまでの関連記事france100.exblog:欧州バカンス外交(1907)(1907.08)
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by utsushihara | 2009-10-24 22:47 | 各国事情1909-10

ソルフェリーノの戦勝50周年(1909)

1909年6月24日(木)f0028703_2323236.jpg

50年前の1869年6月24日、北伊ソルフェリーノにおいてイタリア・フランス連合軍がオーストリア軍に勝利した戦闘を記念して、イタリアとフランス双方で式典が催された。
この戦いにおいては、ナポレオン3世率いるフランス軍はカンロベール(Canrobert)、ニール(Niel)、マクマオン(Mac-Mahon)、バラゲー=ディリエ(Baraguay d’Hilliers)ら諸将がそれぞれの軍団を指揮した。戦死者は仏伊軍17000人、墺軍22000人という大きな犠牲を払ったが、この勝利が和平を導き、イタリア統一への足がかりとなった。イタリアのヴィットーリオ=エマヌエーレ3世国王夫妻は、この式典のためフランスから赴いた代表団に最大級の敬意を示した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569103 « Le Matin » No.9250 - le 25 Juin, 1909
f0028703_23543367.jpg画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738245 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.28; 10 Juil. 1909
画像 Crédit photographique : © RMN/ Michel Urtado / Cote cliché : 07-514683 / Titre : Bataille de Solférino, 24 juin 1859 / Auteur : Adolphe Yvon (1817-1893)/ Localisation : Compiègne, château

[ Ψ 蛇足 ]
20世紀初頭においては、ナポレオン1世の甥にあたる皇帝ナポレオン3世が全軍を率いて戦場を駆けていたのがわずか50年前だったということになる。フランス人は当然のように知っていることだが、第2帝政時代にフランスが戦争に勝ったという印象は薄い、むしろその後、富国強兵のプロシアに対して無謀な戦争を仕掛けて散々な敗戦を負ったことのほうが大きい。歴史的に国家間の抗争が続く欧州の地では、それぞれの国が国威の維持と発揚が常に必要であったのではなかろうか?(今でもなお?)
現にパリの街路にも過去の戦争名や軍人名がつけられるのが伝統で、戦勝の記憶を人心に刻みとめる結果となっている。「ソルフェリーノ街」(rue de Solférino)もオルセー美術館に近い場所にあり、地下鉄の駅名にもなっている。

上掲の歴史絵画は祝賀行事を報じる6月25日付のマタン紙にも掲載された「ソルフェリーノの戦いにおけるナポレオン3世」(Napoléon III à la bataille de Solférino)で、アドルフ・イヴォン(Adolphe Yvon, 1817-1893)の作品である。背景中央奥の小高い丘の上に有名な物見櫓《スピア・ディタリア》(Spia d’Italia = イタリアの間諜(スパイ))が見える。皇帝は自らの軍にあの塔が攻略目標だと指し示している。ナポレオン1世の雄姿を髣髴とさせる、ある意味ではノスタルジックな場面である。
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by utsushihara | 2009-06-24 23:21 | 科学、軍事、海事1909-10

英国詩人キーツとシェリーの記念館がローマに開設

1909年4月6日(火)

f0028703_1444190.jpgロマン主義詩人のジョン・キーツは、90年ほど前にローマのスペイン広場とトリニタ・デイ・モンティ階段の脇にある家で療養のため最後の数年間を送り、死去した。その家はその後、詩人のシェリーも住んだため、この2人のロマン派詩人を記念して小さな博物館に作り変えられた。その開館式は4月6日、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世を始め、駐伊英国大使、そして数多くの著名人たちが列席した。その中にはノーベル賞作家ラドヤード・キップリング氏の姿もあった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.52; Mai, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ジョン・キーツ(John Keats, 1795-1821)はバイロンに続く英国ロマン派詩人である。母親や弟と同じように結核を患い、イタリアへの転地療養しつつ詩作を続けたが、25歳で早世した。
パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)もバイロンを慕ってスイスやイタリアの風物に親しみ、詩作や古典の翻訳を試みたが、航海の途中で船が難破して死去した。上記の記事ではキーツの家に住んだと書いているが、1年たらずでシェリーも世を去った。30歳目前であった。
上記記事の記念館は、英語で« The Keats-Shelley House »と呼ばれており、2009年で100周年(Centenary Appeal)となった。
http://www.keats-shelley-house.org/show_news.php?id_news=36

*参考サイト: The Keats-Shelley House, Rome(英文)
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by utsushihara | 2009-04-06 14:42 | 文芸、評論1909-10

イタリア大地震・各国からの救援拡大

1909年1月1日(金)
f0028703_23452523.jpg甚大な被害が全世界に報じられると、ただちに救援活動の大きな動きが始まった。ロシアと英国の艦隊が現場に急行したのに続き、フランスの4隻の戦艦が救援物資をもたらした。
国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世とエレナ王妃は地震発生の翌日には被災地に入り、負傷者の搬送に手を貸したり、手当に加わったり、激励して回ったりと、骨身を惜しまない活動を続けている。(画像→)
義捐金の募集も各地で始まった。フランス赤十字では特別列車で医師・看護士、大量の救援物資を送り出した。

画像 Crédit d’image:©Centans.free.fr; Le Petit Journal, supplément illustré, Dimanche 17 Janvier, 1909


(メッシーナ発、12/30フィガロ紙)
メッシーナでは伊海軍の兵士たちが目覚しい献身ぶりで救援作業に取り組んでいる。すでに数百人が瓦礫の下から救い出された。何人かは生埋めになった恐怖から言葉を失っていた。
f0028703_23465431.jpg(←画像)昨夜、地震後初めてメッシーナの県知事から公式電報がローマに届いた。被害はあらゆる想像を超えたもので、メッシーナの市街はほぼ全体が破壊された。約1万人の死者が横たえられている。この悲嘆を言い表すのは不可能で、無秩序が支配し、被害は計り知れない。あらゆる救援物資が不足しているが、最も急を要するのは食糧だ。至る所で火災が発生したが、鎮火させることができない。架橋が崩壊し、水道も断水で、郊外の地域まで延焼している。
(ナポリ/メッシーナ発、01/01プチ・ジュルナル紙)
多数の被災者たちを乗せた船舶は次々とナポリ港に着き、たちまち膨大な病院となった。フランス艦隊のメッシーナへの到着は熱狂的に歓迎された。兵士たちはただちに救援作業に加わり、伊露英の水兵たちにひけをとらぬ勇敢さで献身的に活動している。
(レッジオ発、01/01プチ・ジュルナル紙)
報道によれば、兵営の建物の倒壊によってレッジオでは600人、メッシーナでは800人の兵士が死亡した。不十分な食糧供給のため略奪行為も発生している。
f0028703_23472583.jpg国王はナポリとカセルトの王宮内に収容された負傷者や避難民を見舞った。レッジオでは国王は瓦礫に腰から下が挟まれた状態の一人の男性を激励した。男は「食べ物をもらっているので、まだ待てますよ。」と答えた。実際この男の救出は困難だった。彼の周囲はぐらぐらする壁に取り囲まれており、その一つでも崩れれば圧死する恐れがあった。レッジオでは被害を免れた多くの生存者たちが野営テントに集まり、家屋の残骸から木片を運んで火を焚いていた。何人かは食糧も衣服も失って、放棄された村や鉄道駅での略奪に手を染めている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288321 « Le Figaro » le 31 Déc. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #618491 «Le Petit journal» No.16808, le 2 Jan. 1909
画像 Crédit d’image:© BNF-Gallica #5525528 «Touche à tout», AnnéeII-1; Jan. 1909 Quelques images d’actualité
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by utsushihara | 2009-01-01 23:43 | 各国事情1909-10

独皇帝のヴェネチア訪問

f0028703_1755875.jpg1908年3月25日(水)

イタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、3月25日ヴェネチアにドイツ皇帝ウィルヘルム2世を出迎えた。独皇帝は、皇妃と最年少の2人の王子を同伴していた。市内のあらゆる家々はドイツとイタリアの国旗で飾られた。王宮で昼食会が催され、両国の同盟の強固さを祝福する乾杯が繰り返された。独皇帝一行は「ホーエンツォレルン」号にてヴェネチアを後にした。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.40; Mai, 1908
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by utsushihara | 2008-03-25 17:04 | 独墺バルカン情勢1907-08

戦艦「ローマ」号の進水式

f0028703_15155067.jpg1907年4月21日(日)

4月21日スペツィアにおいてイタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエレ3世、海軍提督たちおよびバッテンベルク公の列席のもと、イタリア艦隊の新戦力となる戦艦「ローマ」号の進水式が行なわれた。

主要各国間の最新の軍事協定については各国海軍の総排水量の一覧が興味深い。下記のトン数は保有戦艦の合計である。

 英日合計 1953千トン          ドイツ     418千トン
 フランス   781千トン         イタリア    402千トン
 ロシア    526千トン         オーストリア 124千トン
―――――――――――――    ―――――――――――――――
   計    3260千トン           計     944千トン

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.29; JUIN, 1907

[ Ψ 蛇足 ]
スペツィア(Spezia)はイタリアの港湾都市ジェノア(Genova)の東南約70kmにある軍港。バッテンベルク公(Duke of Battenberg)は英国に帰化した大貴族。第一次大戦以降はマウントバッテン卿(Mountbatten)と改名した。
上記の表は、三国協商と三国同盟との集計比較となっている。日本は日英同盟で英国と合算された。建造された戦艦「ローマ」号(Roma)は排水量12000t、主砲4門を備えるそれまでの大型戦艦「レジナ・エレナ」(Regina Elena)と同型の戦艦であった。

*参考サイト: Battleships-Cruisers.co.uk(英文)Regina Elena Type
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by utsushihara | 2007-04-21 15:12 | 科学、軍事、海事1907-08

英伊両国王ガエタで会見

f0028703_14263587.jpg1907年4月18日(木)

英国王エドワード7世は4月18日、イタリアの軍港ガエタ(Gaeta)に停泊中の伊王室御用船「トリナクリア」号においてヴィットーリオ=エマヌエーレ3世と会見し、英伊関係の協調を高める成果となった。画像はその翌日ナポリを訪問する英国王の様子である。ドイツの新聞の論調はこの出来事に対し不快の念をあらわにしている。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.29; JUIN, 1907

[ Ψ 蛇足 ]
世界史で学んだ記憶によれば、第一次世界大戦(1914~1918)までの西欧世界では三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)の対立の構図だったとされていたはずだが、前年のモロッコ問題のアルヘシラス国際会議(↓)で見られたようにイタリアの政治姿勢はかなり英仏寄りだったことがわかる。この会見でもその傾向がうかがえる。伊国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(Vittorio-Emanuele III, 1869-1947)は、結果的に大戦勃発時には中立宣言をすることになる。

「トリナクリア」(Trinacria)の名前はシチリア島の別の呼称である。「三脚巴」(Triskelion)の紋章を島国のシンボルとしたことからとも言われる。
*参考サイト:Wikipedia(英文)Trinacria
**これまでの関連記事france100.exblog:三国同盟の危機(1906.03)
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by utsushihara | 2007-04-18 14:26 | 各国事情1907-08

ウィルヘルム2世のウィーン訪問

f0028703_17275276.jpg1906年6月7日(木)

ウィルヘルム2世は6月6日、ウィーンに到着した。特に歓迎式典はなかった。駐墺ドイツ大使館での昼食のあと、ウィルヘルム2世とフランツ=ヨーゼフ皇帝は、連名で三国同盟としての第3の忠実な盟友であるイタリアのヴィットーリオ=エマヌエーレ3世に宛てて、変わらぬ友誼の念を表明する電報を送った。イタリア国王はその返答として同様の内容の電報を送ってきた。ドイツ皇帝は6月7日、ベルリンに向けて出発した。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
独墺伊の三国同盟は、第一次大戦突入となる1914年にはイタリアが脱退するほど当初から関係の脆弱さが認められたが、中心的な存在のドイツとしては様々な工作による連携強化を図ったが、こうした皇帝自らの行動は、かえって軽々しく見えてくるから不思議である。
画像は、フランツ=ヨーゼフ皇帝の馬車に同乗してウィーン市内を巡るウィルヘルム2世。
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by utsushihara | 2006-06-07 17:28 | ドイツ情勢1905-06

シンプロン・トンネルの落成式

f0028703_16264613.jpg1906年5月19日(土)

シンプロン・トンネルの落成式が5月19日ドーモドッソラにてイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ陛下とスイス連邦議長フォラー氏の臨席のもと盛大に行なわれた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.17; Juin, 1906
画像Crédit : Leopoldo Metlicovitz, Simplon Tunnels, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
トンネル工事で両側が貫通したのは1905年2月24日のことである。「ジュセトゥ」の記事はこちら。トンネル工事も炭鉱同様の苛酷な労働条件ながら貫通後1年3ヶ月足らずで完成となった。ドーモドッソラ(Domo d’Ossola)はトンネルのイタリア側出口にある町である。
画像は、シンプロン・トンネルの当時の宣伝ポスター、レオポルド・メトリコヴィッツ(Leopoldo Metlicovitz)作。
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by utsushihara | 2006-05-19 16:26 | 各国事情1905-06

ミラノの国際博覧会

f0028703_16155056.jpg1906年4月28日(土)

イタリアのヴィットーリオ=エマヌエーレ国王は王妃を伴い、4月28日のミラノ国際博の開会式に臨んだ。このような博覧会ではつねにあることだが、展示館の設営工事はまだ完成しておらず、国王夫妻は5月初めに改めて何度か会場を訪れることになった。特に航空部門でのドイツ軍で実際使用されている飛行船の展示に興味を持たれている。この飛行船は円筒形をしており、風速5mまでの風に向かっても飛行することが出来る。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.17; Juin, 1906 & No.6, Juillet, 1905
f0028703_1612611.jpg
[ Ψ 蛇足 ]
画像上↑はミラノ博に出展したドイツ軍の飛行船操縦士たち。参考知識として1年~半年前
①1905年2月12日、フランスの軽気球「アエロ・クラブⅡ」による英仏海峡横断飛行
②1905年10月5日、米国ノースカロライナ州でライト兄弟の飛行機の初飛行の成功
やっと人類に飛行する時代が到来したところである。
画像右→は飛行船や無線を使う近未来の後方戦線想像図。
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by utsushihara | 2006-04-28 16:12 | 各国事情1905-06