フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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モンマルトルの道路陥没で死者

1909年10月31日(日)f0028703_21362697.jpg

恐ろしい事故が31日夕刻、パリ18区モンマルトルの丘の西側斜面、ダムレモン街とトゥールラク街の角で発生した。道路の一部が長さ6mにわたって陥没し、通行人2人が生き埋めとなったのである。道端の建物は衣料品店と家具倉庫になっている。
夕方6時40分だった。男1人、女1人がトゥールラク街の坂を下りてきたとき、突然足元の地面が崩落し、2人とも穴に転落した。この瞬間、あたりに鈍い音が走り、周辺の住居に強い振動が伝わった。もっとも近い服飾店には30人ほどの女性店員が働いていたが、驚いて叫び声をあげながら外に出てきた。彼女らは目の前に恐ろしいほど深い穴が開いているのを見てさらに驚いた。その穴の中からは助けを呼ぶ人の叫び声が聞こえた。そばを通りかかった私服のアガス巡査部長は、駆けつけた2人の巡査とともにすぐさま被害者の救出にかかった。
すぐに長いロープを手に入れ、比較的浅い場所に落ちた男性のほうに投げた。男はそれにしがみつき、引き上げることができた。彼は商店員ミショネ氏、53歳で近所のカルポー街に住んでいた。右脚と頭部に軽い怪我をしていたので付近の薬局に運ばれて手当を受けた。

もう一人の女性のほうは、彼よりも1m深いところに落ちていて、必死になって「助けて頂戴!」(Sauvez-moi !)と叫び続けていた。しかし地面の崩落は続いており、土砂が動き、わずかに見えていた女性の姿は穴の奥に飲み込まれてしまった。
消防隊は午後7時頃から救出のため数人の隊員の身体にロープをしばり、穴を降りて捜索した。しかしまもなくこの活動を断念することにした。というのも絶えず土砂が彼らの頭上に降りかかり、彼ら自身が生き埋めになる危険が出たためである。
救出の試みは断続的に続けられた。地区警察署のデュピュイ署長、地区消防署の署長をはじめ、警視総監のレーピン氏、県知事秘書官のローラン氏、18区選出の国会議員マルセル・サンバ氏などが現場を訪れた。

土木工事の技術者たちは穴の周囲から支柱を組む作業を始め、穴の中への捜索が容易に続けられるように試みた。午後10時を過ぎても状況は変わらなかった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618793 « Le Petit journal » No.17110, le 31 Oct. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526308 « Touche à tout » No.12; Déc. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
結局、残念ながら女性の命を助けることは出来なかった。パリの街角が崩落するなど誰も思いつかないことである。
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by utsushihara | 2009-11-01 21:35 | ★ベルエポック事件簿1909

ガス灯と夜のパリの保安問題

1909年10月

パリの街路のガス灯の点灯人組合(Le Syndicat des allumeurs du gaz)は市議会に対し、公共の街路に設置されているガス灯が朝まで一晩中灯されるように働きかけを続けている。現在は、真夜中になると街路の1/4以上のガス灯が消されている。しかし実際のところ、真夜中といえどもパリはまだ人通りの盛んな生活が続いている。人々は劇場から出てくるし、すべてのカフェはお客で混みあっている。この時間帯にお役所ではすでに明かりが少なくなった街路をさらに半暗闇にして、その中に人々を放り出すことを選んだのである。

組合が指摘するのはこの点であり、個人の利益を尊重すれば構造改革にぶち当たるというのもよくわかる。また一方では、真夜中にガス灯を消しに歩かなくともいいことになれば、すべての組合員が寛いだ宵を過ごせる利点となるだろう。

ガス会社では、点灯した街灯の減少に乗じた犯罪や強盗が増大する可能性を心配する広告を貼り出している。この時間にガス灯を消すということは今やかなり危険なことと言わねばならない。大都会の生活は昼夜を分けず続けられている。真夜中を過ぎれば、遊興者や追いはぎしかいなかった時代ではもはやない。むしろ真夜中から午前3時頃にようやく仕事が終わるという労働者も多い。馬車の御者、カフェやレストランの給仕、劇場の係員、印刷所の工員、新聞記者などなど。こうしてやむを得ず夜間に働く者たちは、邪悪な事件との遭遇から保護されるべき権利がある。
街路を明るく照らすことよりましな保安手段があるだろうか? レーピン総監が市議会で証言したときに、明るく照らされた街路が3人の警官に相当すると語ったのではなかったか?

f0028703_2123205.jpgパリ市全体にある約6万基のガス灯のうち、毎晩1万5千基だけ消し続けることで、年8万5千フランの経費の削減になるという。しかしながら3億7千フランの予算に対する0.02%にこだわり続けてパリ市民の安全を損なうよりも、経費を大幅に削減できる方法は他にいくらでもあるはずではなかろうか?

出典Crédit:©BNF-Gallica #618767 « Le Petit journal » No.17084, le 5 Oct. 1909
画像 Crédit photo : ©CMN: Donation André Kertész, Ministère de la culture (Médiathèque de l'architecture et du patrimoine), diffusion RMN
Titre série : La France 1926-1936 / Légende : Après la pluie ; [Homme allumant un bec de gaz] / Auteur de la photo : Kertész, André (photographe, 1894-1985) / Date prise vue 1927 / N° phototype : 72L000359
Publication : André Kertész et Pierre Mac Orlan, Paris vu par André Kertész, Edition d'histoire et d'art – Librairie Plon, Paris, 1934

[ Ψ 蛇足 ]
百年前のパリでは深夜にガス灯を部分的に消していたことを知る興味深い論説記事である。ガス灯(Bec de gaz)は20世紀の前半までは続けて使用されていた。ありふれていたはずだが、意外と参考となる写真画像が見つけにくかった。(↑上掲は©アンドレ・ケルテスの写真「雨の後」(ガス灯を点す男))

今でも東京をはじめとする大都会では一晩中煌々と照明が照らし続けられているのが当然のようになっているが、《本当は》こうした電力エネルギーが「不便だから」とか「危険だから」という理由で「ふんだんに」消費され続ける意味は改めて問い直す必要もあるような気がする。(さすがに災害時の大停電には人間の無力さを痛感するが…)
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by utsushihara | 2009-10-07 21:21 | フランス社会政経1909-10

シャルル・フロケの記念碑

1909年3月7日(日)
f0028703_16595320.jpg
3月7日、パリ11区のリシャール・ルノワール大通りとレピュブリック通りの交差する角にシャルル・フロケの記念像の落成式が行なわれた。フロケはセーヌ県知事、下院議長、各大臣を歴任した。記念碑は11区長の依頼で彫刻家デキャン氏と建築家ヴィエ氏が制作した。式典にはファリエール大統領も臨み、クレマンソー首相がフロケの業績を賞賛する重要な演説を行なった。しかし付近では社会主義者たちが組織した抗議行動も起き、レーピン警視総監は100名余りの逮捕者を余儀なくされた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.51; Avr. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #55256243 « Touche à tout » No.4; Avr. 1909

f0028703_170927.jpg[ Ψ 蛇足 ]
f0028703_1729065.jpgシャルル・フロケ(Charles Floquet, 1828-1896)は19世紀末の第3共和制初期に活躍した政治家である。記念碑の落成式はかなり大がかりだったことが写真で推察できる。地図上ではバスティーユ広場の一角と思われるが現在では記念碑の存在は確認できない。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Charles Floquet
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by utsushihara | 2009-03-06 16:57 | フランス社会政経1909-10

通商産業展、通称パリ商工祭(1909)

1909年2月15日(月)~25日(木)
f0028703_2342472.jpg

掲載の写真は、今年の通商産業展、通称パリ商工祭のメイン通路の眺めである。この商工祭は毎年グラン=パレを会場に警視総監のレーピン氏が主宰して開催される。今年は2月15日から25日までで、特に写真芸術の展示が目立っている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.51; Avr. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
通商産業展、通称パリ商工祭の原文:L’ exposition du commerce et de l’industrie, dite Foire de Paris
この年で第7回目になる。

**これまでの関連記事france100.exblog:第5回パリ商工祭(1907.02.15)
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by utsushihara | 2009-02-24 23:03 | フランス社会政経1909-10

セーヌ川の増水と地下鉄工事現場への浸水

f0028703_17375011.jpg1908年2月26日(水)

セーヌ川が増水しており、ここ数年間でこれほどの水位に達したことはなかった。とりわけ水はけの悪いコンコルド広場付近で被害が出るのではと懸念されている。ロワイヤル橋の近くでは、パリの詩的情緒をかもし出していた見事なポプラ並木の根元がえぐられる事態となっている。

昨日(26日)最初に届いた知らせは大いに驚かされた。地下鉄のヴァンセンヌ~ポルト・マイヨ線に浸水の被害が出たと言うのである。幸いにもこれは誤報であった。以下が出来事の真相である。
コンコルド広場付近にはかつて「渡し守の納屋」(グランジュ=バトリエール)と呼ばれる小川がセーヌ川に流れ込んでいた。実は今でも広場の地下を流れており、セーヌ川の水位が上がったときに、この川の水がコンコルド広場の中央部まで逆流するのである。また、ちょうど今、地下鉄8号線(オペラ~オートゥイユ)の建設がこの広場の下で進められており、内壁の隙間から工事現場に大量の水が流れ込むこととなった。正午には現場の水位は1mに達し、午後4時には2m50にまで至った。さらに水はけの悪さにより、ついにヴァンセンヌ~ポルト・マイヨ線(1号線)の線路にも約100mの区間で浸水が及ぶこととなった。幸いにも地下鉄の運行には支障がなく、単に排水作業に取り組んでいる消防隊員が感電事故の危険を回避できるようにレーピン総監をはじめ、消防幹部が指揮をとった。夜間には消防隊に代わってフレーヌ設備会社の従業員が作業を続けている。

f0028703_13413770.jpg(続報2/28)浸水したコンコルド広場の地下鉄工事現場は、午前3時までのフレーヌ設備会社の従業員の排水作業により復旧が進んだ。しかし工事現場の機械や用具はめちゃくちゃになっており、木組みなどは歪んだり動いたりして耐久度が弱まっている恐れがある。地上ではコンコルド広場は警官隊が交通を遮断し、復旧作業のすみやかな進行を支援している。

(続報3/01)降り続けた雨によりセーヌ川はさらに勢いよく水嵩を増している。昨日の朝、ロワイヤル橋では通常の2倍近くの水位の4m57に達した。パリの水上バス(バトー・パリジァン)は運行を限定を余儀なくされ、各港の荷役作業はほとんど中止となった。駅河岸、ラペ河岸、ベルシー港だけが浸水の被害が及んでいない。片や、モンテベロ橋とトゥルネル橋付近では濁流が資材置場の河岸に押し寄せた。
オーステルリッツ河岸では午後7時頃、1艘の平底船が濁流にもまれ、沈没を免れるために大変な思いをさせられた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.39; Avril, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288011 « Le Figaro » le 27 Fév. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288012 « Le Figaro » le 28 Fév. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288014 « Le Figaro » le 1er Mars, 1908
画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN
Titre série:Inondations de 1908 ; Paysage, études d'arbres et de cours d'eau
Légende:Crue de la Seine à Paris, quai et arbres dans l'eau; Auteur de la photo: Jules Girard

**これまでの関連記事france100.exblog: セーヌ川の増水(1906)(1906.03)

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by utsushihara | 2008-02-26 17:35 | フランス社会政経1909-10

ブローニュの森の池での惨事

f0028703_15172818.jpg1908年1月14日(火)

昨日(14日)の午後5時半頃、パリの大通りに大惨事の噂が口から口へと伝わった。ブローニュの森の池でスケートに興じていた多くの人々の下で氷が割れて、その裂け目に50人ほどが落ちたというのである。記者はすぐ自動車で現場に駆けつけた。
寒い日が続いていたため、数日前からスケート愛好者たちが森の中の池に集まって滑るのに熱中していたのである。(・・・)現場は、池の中ノ島の向こう側にある通称「ロン・ロワイヤル」(Rond-Royal 王の円形広場)という所で、夏の季節には多くのパリ市民が涼を求めて憩う場所である。池の畔には数多くの消防士が松明を手に横一列に並んでいた。その何人かは強力な電気反射鏡で水面を照らしていて、一方で消防士の乗り込んだ4隻のボートが《セーヌ川水難救助隊》の捜索を支援していた。彼らは事故の起きた付近の氷を割り、長い鈎竿で池の底を探っていた。
警視総監のレーピン氏みずから、市警察署長のトゥニー氏ほかの役職者、および警官たちとともに現場で捜索の指揮をとっていた。すでに1人の溺死者が引き上げられていた。ピュトー市のマニッシエ街に住む組立工ルイ=アレクサンドル・ペリエール氏、16歳で、すぐにボージョン病院に運ばれたがすでに死亡が確認され、そのまま救急車でピュトーの両親のもとへ移送された。

パリ市当局はブローニュの森の池でのスケートをごく限られた場所で、しかも氷の厚さが9cmでなければ許可していなかった。ある場所では鴨や白鳥の動き回る水場となっていた。
「ロン・ロワイヤル」一帯では氷の上に《危険》と書いた立て札があった。一方で中ノ島の飲食店業者が有料のスケート場を設けており、その周辺でも一般に開放されていた。この人たちはふざけて楽しむことが多く、少年少女たちも滑ったり転んだりしていた。午後4時45分頃、そのうちの1人が危険な立て札を越えて滑った。そして運悪く氷の薄くなっている所で転んだのである。30人ほどの人がその事故を見ており、叫び声をあげて彼を救おうとかけ寄った。そして氷が割れた。
落ちた人々は氷片が浮く水面を泳ぐのが困難で、島と陸地の両側から救援に駆けつけた。水深が平均1m50から2mだったこともあり、こうした勇敢な救助のおかげで約25名の人が水から引き上げられ、すぐに救急車で運ばれ、手当を受け、あるいは車で自宅に送り届けられた。最初の死者が引き上げられたのは6時20分、もう1人の死者が見つかったのは7時10分だった。午後8時に捜索は打ち切られた。

今後ブローニュの森の池ではスケートは禁止となるだろう。多くの警官たちの語るところでは、先だっての日曜日にも非常に多くの人々が彼らの警告を聞かずに池全体を滑り回っており、規則を守らせるには軍隊の出動が必要だ、という。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.37; Fév. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #287968 « Le Figaro » le 15 Jan. 1908
*参考画像:©Centans.free.fr; Le Petit Journal, supplément illustré, Dimanche 26 janvier, 1908
Terrible accident au Bois de Boulogne

[ Ψ 蛇足 ]
現在では暖冬ならばなおさら危険がいっぱいなスケートは厳禁になっているだろう。「池」と訳したが、原文でも今でもブローニュやヴァンセンヌの池は《Lac》(湖)と呼ばれている。実際行ってみれば「これは池だ」と言うしかない。
下記に引用したジィドの日記では、この事件の2日後なのに相変わらず多くの人が滑っている。有料の場所か、もしくはブローニュではない別の所かも知れない。

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1908年1月16日より引用:
スケート場でマックスに遇う。大勢の滑る人の間に、どんよりとした眼つきをして、陰鬱そうに突っ立っている。敏捷に飛び翔ける燕の中に、陰気な沼の脚長鳥がまぎれこんできたという恰好。白い手袋、金の腕輪、獺(かわうそ)の上着、山高帽・・・
「ひどく憂鬱そうだね?」
「しょっちゅうこんな恰好さ。」と彼は答えた。
数人非常に上手に滑る人がいる。だが皆、どこか従僕のような顔つきをしている。

**これまでの関連記事france100.exblog:ブローニュの森の池でスケート(1907)(1907.02.09)ジィドとヴァレリー

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by utsushihara | 2008-01-14 15:21 | フランス社会政経1909-10

パリ国際警察犬コンクール

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1908年1月6日(月)~7日(火)

ヴァンセンヌの森の競馬場は雪に覆われ、周りの木々は凍てついていた。その片隅の馬券売場が立ち並ぶ辺りにおいて、昨日(6日)からパリ国際警察犬コンクールの第1部が開催された。主催者は、フランス番犬・警備犬・警察犬クラブである。
競技は午前9時から始まったが、とても面白い内容であった。種目は次々に実施された。
歩き回る、呼んだ人のところに行く、おすわり、動くな、伏せ、出されたものを食べない、
物を守る、物を持ってくる、生垣と1m80の間仕切りを飛び越す、
自発的に、あるいは命令により囚人を監守し、脱走を妨げる
命令により攻撃する、命令により攻撃を止める、命令で主人のところに戻る等々。

昼には警備犬クラブの好意により招待客と参加した犬の持ち主たちに食事がふるまわれた。演説と乾杯が続き、特に北仏ルーベ市からわざわざやってきた警備犬クラブ会長のルーセル氏が「当クラブは設立してまだ2ヶ月たらず、つまり1907年11月24日設立でありますが、すでに素晴らしい成果を得ており、今や警察犬の問題は時の話題となっております」と弁舌さわやかな口調で挨拶した。

f0028703_13303652.jpg午後には競技が再開され、より厳しく、より難しく、より競争の激しいものとなった。レーピン警視総監は観戦者の中にまじり、ドイツ警備犬クラブ会長のフォン・シュテファニッツ大尉に向かって、「ライン川の向こうのわが隣人が牧羊犬を買い求め、鼻利きの警察犬に仕上げているのは喜ばしい」と語りかけた。

記事を終える前に、苦悶の一幕を紹介する。レキュイエ警察官は目立つ鉄の仮面をかぶり、キルティングをしっかり詰めた外套を着て、怪しいならず者の役を演じたが、見かけはおとなしそうなピカルディ産の牧羊犬ギャルソン号に脚と手を思いっきり噛まれてしまった。あぁ!これこそ自分の役目を心底知っている警察犬なのだ。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287960 « Le Figaro » le 7 Jan. 1908

**これまでの関連記事france100.exblog:ヌィイで国際警察犬コンクール(1907.08.18)
[再掲]: 警察犬の代表格ドイツのシェパード(Shepherd)にしてもその単語の語源には牧羊の意味が含まれているのがわかる。フランスではジャーマン・シェパードのことも「ドイツの牧羊犬」(Chien de berger allemand)と言っている。
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by utsushihara | 2008-01-07 22:20 | フランス社会政経1909-10

歳末の露店小屋(Les petites baraques)

1907年12月20日(金)

クリスマスと新年が近づいてきた。当然のことながら小さな掘立て小屋もまた新たに建てられようとしている。警視総監はパリの各地区の警察署長に対し、今年は12月20日の夜から1月2日の夜半まで歳末の玩具や贈り物の品々を売るための路上の仮設商店を容認するようにという通達を出した。
レーピン総監の道理にかなった配慮により、この小屋の設置は手作り職人や自分の工場で作った製品を売る職人で困窮している人々にのみ許可されることになっている。また最近パリで玩具や商品の展示を行なった出展者や小店主たちの申請にもできるだけ応えるようにしている。
しかしながら小屋の設置は、大通り、並木道、河岸や広場などの歩道で通行の邪魔にならない十分な広さをもったところだけに許されており、それ以外は法的に罰せられることになる。さらに結局のところ自動車や乗合バスにぶつけられる恐れを思えば生易しいことではない。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287931 « Le Figaro » le 9 Déc. 1907
出典Crédit:©BNF-Gallica #287960 « Le Figaro » le 7 Jan. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
このパリの歳末の仮設商店(Les petites baraques)のイラストを探してみたが、なかなか見出せなかった。どなたかご存知の方はお教えいただきたい。日本の歳末風景ならば、同じように街角のあちこちに正月飾りを売る小屋を見かけるのを連想する。年明けのフィガロの論説記事では「こうした店にきいてみてもあまり商売にならないし、交通の邪魔になるだけならばいっそ廃止したら?」という意見を述べていた。しかし習慣や風物詩はそう合理的に変えられるものではなさそうだが・・・

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by utsushihara | 2007-12-19 18:36 | フランス政治社会1907-08

国際列車窃盗団の男(ベルエポック事件簿)

1907年12月18日(水)

パリのリヨン駅の改札口の係員は昨日到着した若い男が変造した切符を出したので、捕まえて特命警視のボルデール氏のところに連行した。するとこの男はがらりと態度を変えて、自分はイタリアのヴェローナ生まれの学生で名前はセナトーレ・カルペンターニといい、警視総監のレーピン氏とは懇意であるとつけ加えた。そして不当な取調べを受ける自分のほうが被害者であり、あとでどうなるかをよく考えてみろと声高に主張した。
ボルデール警視はその脅し文句にひるむことなく、この男の持っていたトランクを開いてみると、中には女性の衣類とディジョンに住む仕入業者モーリス・クレルジェ氏名義の高価な身の回りの品が入っていた。そこでディジョンに電報を打ち照会すると、そのトランクはサン=テチェンヌ駅で盗まれたことがわかった。《レーピン氏の友人》とほざいた男は国際列車窃盗団の一人であると判明し、拘置所に送られた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287941 « Le Figaro » le 19 Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
原題:Les voleurs internationaux
*[慣用句] 横柄な態度をとる( le prendre de haut )
*[慣用句] あとで思い知らせてやる( il ferait payer cher )

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by utsushihara | 2007-12-18 21:21 | ★ベルエポック事件簿1908

ある殉職警察官の葬儀

f0028703_21492956.jpg1907年3月

治安の維持という警察官の職業には危険が伴わずには済まない。最近も何人かの警察官が追跡していた強盗たちから瀕死の重傷を負わされた。モニエ巡査については殺人犯を捕らえようとして殺害された。彼の葬儀はノートルダム寺院で執り行なわれ、クレマンソー首相とレーピン警視総監を始めとする政府と市の要人たちが葬列に加わった。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.27; AVR. 1907

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by utsushihara | 2007-03-17 21:49 | フランス政治社会1907-08