フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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サンフォニア(フランス音楽)演奏会

1910年2月27日(日)

***アンリ・ビュッセル著(Henri Busser, 1872-1973)「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用 [第10章] 1910年2月27日:

《サンフォニア》(Symphonia)で、フランス音楽の演奏会。これが私たちの言わば『白鳥の歌』となる。友人フェルナン・アルファンの「ハ短調のシンフォニー」が本当の成功を博する。彼はガブリエル・フォーレの熱心な門弟で、極めて強くその影響を受けている。
エルネスト・ショーソンのヴァイオリンとオーケストラのための「詩曲」(Poème)も成功。ヴァイオリン・ソロ奏者のフォレストが、巧みに演奏する。ミシュリーヌ・カーンが、自由自在な名人芸を惜しみなく発揮して、私の「ハープのための演奏会用作品」(Pièce de concert pour harpe et petit orchestre, op.32)を奏する。彼女はシャルル=マリ・ウィドールの「主題と変奏」も弾く。私はウィドールに指揮をゆずっていた。彼は自作の「スペイン序曲」と「4月の物語」の組曲も指揮する。シャルル・マックス夫人が、ジョルジュ・ユーとウィドールの歌曲をすばらしく歌う。

[ Ψ 蛇足 ]
《サンフォニア》(Symphonia)とは、この1910年初めに企画された自国フランスの作曲家による管弦楽作品を網羅する定期演奏会の名称である。日曜日の管弦楽コンサートは伝統的に、パリ音楽院管弦楽団やコロンヌ管弦楽団、ラムルー管弦楽団などで続けられてきたが、独墺伊ではなく、自国の作曲家の作品に限って演目に取り上げようという新たな企画であった。これには普仏戦争の敗戦後40年が経過し、フランスにおける産業・文化・経済の発展に伴って、《失地回復》を望む愛国的な機運の高まりも背景にあったように思う。

上述でちょっと気になる《これが私たちの言わば『白鳥の歌』…》というくだりがある。1914年の大戦勃発まであと4年のことであるが、あとから著者のビュッセルが回想して述べたもので、事実、彼の友人の作曲家アルファンはこのときの成功が最後の花となった。この時代の音楽家で戦争の犠牲となった人々は少なくない。

f0028703_2384574.jpg(←画像)フェルナン・アルファン(Fernand Halphen, 1872-1917)は裕福な銀行家の家系に生まれ、10歳のときからフォーレの指導による音楽活動を始めた。パリ音楽院ではエルネスト・ギローおよびマスネに作曲を学び、同僚としてフロラン・シュミット、レイナルド・アーンなどがいる。上記の著者アンリ・ビュッセルとも親しかった。
作曲家として知られ、唯一の「交響曲ハ短調」はパリとモンテカルロで演奏され、好評を得た。その他に管弦楽のための「シチリア組曲」(Suite sicilienne)、パントマイム「アゴゼイダ」(Hagoseida)、バレエ「牧羊神の目覚め」(Le Réveil du faune)、一幕物歌劇「花飾りの角笛」(Le Cor Fleuri, 1904)がある。
しかし彼はこのあと第一次大戦に陸軍大尉として出征し、1917年に45歳で戦死する。彼はパリ北郊シャンティイ付近に広壮な城館を建てて住まいとしたが、現在は「シャトー・モン=ロワイヤル」ホテル(Château Mont-Royal)として使用されている。
今のところ彼の作品で聴けるCDは歌曲・室内楽集のみである。楽譜はIMSLPで「ヴァイオリン・ソナタ嬰ハ短調」(Sonate pour piano et violon en ut# mineur)を見ることができる。フォーレの直弟子と言われるからには、曲想はフォーレやショーソンに通じるものがあるように想像する。

*画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica
*参考サイト:
(1)Wikipedia(英文)Fernand Halphen
(2)IMSLP: Violin Sonata (Halphen, Fernand)
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by utsushihara | 2010-02-27 23:07 | オペラ、音楽、演劇1909-10

オペラ座でレイナルド・アーンのバレエ「テレーズ公妃の祝宴」初演

1910年2月16日(水)

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1910年2月20日:
オペラ座で、レイナルド・アーンのバレエ「テレーズ公妃の祝宴」(La Fête chez Thérèse)の総試演。ヴィクトル・ユゴーの詩にカチュル・マンデスが脚本を書いたもの。優雅なオーケストラが流す快活な音楽。レイナルドはその中に巧みにピアノを挿入している。カルロッタ・ザンベリとアイーダ・ボニの2人が、このソワレの魅力ある主役であって、熱烈な歓迎を受けた。

f0028703_2375488.jpg[ Ψ 蛇足 ]
レイナルド・アーンのバレエ「テレーズ公妃の祝宴」(La Fête chez Thérèse)は、ルイ=フィリップ時代の華やかな貴婦人たちの集いを題材にしたもので、もともとユゴーが書いた詩に基づいていたという。第2幕の題名が《 La Fête galante chez la Duchesse Thérèse 》となっており、本来の意味が理解できた。

レイナルド・アーン(Reynaldo Hahn, 1874-1947)はやや擬古典的な和声と甘美な旋律で注目され、若くしてすでに人気を確立していた。ビュッセルの記述では総試演が2月20日となっているが、初演の記録は16日となっている。従って、総稽古は一週間前の13日の記憶違いと思われる。

カルロッタ・ザンベリ(Carlotta Zambelli, 1875-1968)とアイーダ・ボニ(Aïda Boni, 1880-1974)は、当時のオペラ座バレエ団のエトワールの双璧であった。《エトワール》(Danseuse étoile)という呼称はトップ・バレリーナの意味かと思っていたが、ダンサーの中でも最高級の技芸を備えた人だけに与えられる特別な呼称であることがわかった。

*参考サイト:
(1)Reynaldo Hahn(仏語)
(2)Wikipedia(仏語)Carlotta Zambelli
(3)Wikipedia(仏語)Aïda Boni
(4)Wikipedia(仏語)Étoile (ballet)
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by utsushihara | 2010-02-20 23:03 | オペラ、音楽、演劇1909-10

ポール・デュカがパリ音楽院の管弦楽科教授に

1910年1月5日(水)
***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1910年1月5日:f0028703_22385366.jpg

音楽院で、ポール・デュカがオーケストラ科教授に任命される。ガブリエル・フォーレが、私たちを院長室に集めて、生徒の練習に充てる曲目の計画をたてさせる。デュカが「ベートーヴェンはあまり多くせずに、むしろ、不当に忘れられているハイドンを尊重しよう。」と言う。彼は私に「四季」を練習させることを提案する。私はポール・デュカと協力することがうれしい。私たちは、音楽院を出ながら、親愛なる我らが師エルネスト・ギローのクラスにおける昔の思い出を語りあう。私たちは1890年に顔を合わせたのであった。当時、私は単なる聴講生にすぎなかった。

(池内友次郎の注釈)ビュッセルのポール・デュカへの友情は美しいものであった。私が学生のころ、デュカは作曲のクラスの教授であって、そのクラスは、私たちの和声のクラスの隣の室であった。週に一回だけ、彼のクラスと私たちのクラスが同時間であったのであるが、ときには、彼のクラスからピアノの音が壁越しに漏れてくる。そのたびに、私たちの先生のフォーシェが、眉をしかめ、音楽院でこのような音を耳にするとは、と歎いていたことなどがあった。……そのほか、当時はまだエレヴェーターがなかった頃で、廊下でクラスの開かれるのを待っているとき、小太りで小柄なデュカが、とぼとぼと階段を上ってくるのをみかけたりしたこともあった。…(以下略)

[ Ψ 蛇足 ]
ポール・デュカ(Paul Dukas, 1865-1935)に音楽院の「教授」という肩書がこの時から与えられたのかどうかははっきりしない。下記の関連記事では、1907年3月に病気で引退するタファネルの後任として、院長のフォーレがデュカを選んだという。この間約3年近くは「准教授」のような立場だったかもしれない。
デュカが「小太りで小柄な」という様子だった、というのを読むと親近感がわいてくる。

恩師エルネスト・ギロー(Ernest Guiraud, 1837-1892)の名前は、ビゼーの「アルルの女」第2組曲を編んだ人として記憶されているが、彼自身の作品はあまり演奏されることはない。

f0028703_2232408.jpg上記の記述で「ハイドンを尊重しよう」とデュカが語ったことには、ある理由がある。ちょうど1909年には「ハイドンの没後100年記念」(ハイドンは1809年5月31日没)として楽譜出版社のデュラン(Durand)の企画によって、ポール・デュカは『ハイドンの名による悲歌的前奏曲』(Prélude élégiaque sur le thème proposé : H-A-Y-D-N)というピアノ小品を作曲していた。IMSLP所収の楽譜の冒頭と与えられた音型を参考に掲載する。ご存知の通り、H A D はシ、ラ、レの音にあたるが、Y N は音楽的になるように適当に割り当てたようだ。
f0028703_2232490.jpg

この曲はYoutube でデュシャーブル(F.-R. Duchable)やジャン・ユボー(Jean Hubeau)の演奏が聴ける。

このデュラン社の企画の依頼を受けた作曲家は、他にはドビュッシーとラヴェルがいた。
ドビュッシーは『ハイドン讃』(Hommage à Joseph Haydn)
ラヴェルは『ハイドンの名によるメヌエット』(Menuet sur le nom d’Haydn)
いずれも1909年の作曲である。これら3つの曲を同時に比べて聴いてみるのも一興だろう。優劣でなくあくまでも好みの問題だが、両巨匠の間でもデュカは独自の存在感は示しているように思う。

*参考サイト:
(1)IMSLP: Prélude élégiaque (Dukas, Paul)
(2)Youtube : Paul Dukas - Prélude élégiaque

**これまでの関連記事france100.exblog:ポール・デュカの「アリアーヌと青髭」初演(1907.05.10)
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by utsushihara | 2010-01-05 22:27 | オペラ、音楽、演劇1909-10

ドビュッシー邸を訪問(1909)

1909年7月5日(月)f0028703_1832453.jpg

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1909年7月5日:
ボワ街の邸にいるドビュッシーを長時間訪問。彼はこの邸に退屈しているらしい!…彼は「ペレアス」を書いたカルディネ街のちいさなアパートのことをしばしば思い出しているに違いない。彼の最初のローマ滞在作品「春」をオーケストラ編曲するように求められる。しかし、自筆原稿がなくなっている!…彼は正確な指示を書きこんだ連弾用のピアノ譜を私に託する。
オーケストラ総譜を書きながら、第2楽章に加えるべき若干の改変をドビュッシーに申し出ると、彼は私が指摘したとおりに修正する。彼のそばで仕事をするのは、私にとって喜びである。彼は極めて純粋で謙虚である。ときどき彼は、彼の言葉によると、デュラン社への急ぎの「お勤め」のために自分の時間が失われてしまう、と歎く。

画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN
Titre série: Compositeur / Légende: Claude Debussy, compositeur / Auteur de la photo : Nadar (atelier)/ Date prise vue : 1909.02.02 / N°phototype NA 237 02075 G

[ Ψ 蛇足 ]
『パリ楽壇70年』に掲載された1909年の出来事の記述はこの日の1件しかない。
上記の「ボワ街の邸」とは、凱旋門の西側、パリ16区の瀟洒な邸宅街にあるボワ・ド・ブローニュ街(Rue du Bois de Boulogne)で再婚したばかりの妻エンマと娘のクロード=エンマとともに仲睦まじい幸福な時代を過ごした家である。(↑)掲載した写真は撮影日が1909年2月2日とされ、ちょうどこの頃のドビュッシーの姿を映している。娘のクロード=エンマ(愛称:シュウシュウ Chouchou)のために有名な『子供の領分』(Children’s corner)を完成させたのもこの頃になる。
「ペレアス」を書いたカルディネ街(rue Cardinet)とは17区のサン=ラザール鉄道沿線にある新興住宅街にある。パリ音楽院に近く、フォーレやマラルメが住んでいた一帯である。
ビュッセルに編曲を依頼された「春」(Le printemps)は、ローマ大賞を得て留学していた時の作曲であるが、留学の成果として提出したものの、アカデミーからは却下されたという。上述のままであれば、現在の交響組曲(Suite symphonique)の形になったのはビュッセルの編曲作業が完了する3年後の1912年3月のことになる。

*参考サイト:(和文)クロード・ドビュッシー
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by utsushihara | 2009-07-05 18:31 | オペラ、音楽、演劇1909-10

アンリ・ビュッセルと若きデルヴァンクール

1908年12月7日(月)

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1908年12月7日:
音楽院でガブリエル・フォーレがオーケストラ科の代理教授を私に任せる。何回かの授業では、作曲科の生徒たちの作品に充てて、オーケストラで彼ら自身の作品を聴かせるようにする。ウィドールのクラスに入っている私の生徒のクロード・デルヴァンクールの作品を使ったが、この作品の試奏はオーケストラの器楽学生たちの興味を大いに惹きつける。彼らは同時に、シャルル・ルヌヴーの若い弟子であるボルシャールとバズレールの作品も大いに喜んで練習する。

f0028703_1393532.jpg画像 Crédit d’image : ©BNF-Gallica – Image Claude Delvincourt
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b7720613t

[ Ψ 蛇足 ]
クロード・デルヴァンクール(Claude Delvincourt, 1888-1954)についてはそれほど知名度がないが、このあと1913年のローマ大賞をリリ・ブーランジェ(Lili Boulanger, 1893-1918)と一緒に獲得した。彼にとって不運だったのはローマ留学の最中に第一次大戦が勃発し、彼も従軍し重傷を負ったことである。その後、作曲、ピアノ演奏、音楽教授として活躍し、1940年からはパリ音楽院長を務めた。この時すでにフランスはナチス・ドイツに敗れており、独軍占領下での窮屈な活動を強いられた。この世代のすべての人々はこうした苦難の人生を送らざるを得なかったことに改めて気づかされる。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Claude Delvincourt
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by utsushihara | 2008-12-09 13:07 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ポール・タファネル死去

1908年11月22日(日)

優れたフルート奏者であり、パリ音楽院の教授であり、オペラ座の指揮者であったポール・タファネル氏は11月22日パリで死去した。彼は1844年ボルドー生まれ、パリ音楽院でフルートを学び、16歳で首席で卒業した。その後和声法、対位法を優秀な成績で修了したが作曲には進まず、フルートの名手としての地位を確立した。2年ほど前に病気のため引退し、長患いをしていた。享年64歳だった。
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出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.47;Déc. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288283 « Le Figaro » le 23 Nov. 1908
出典Crédit ©BNF-Gallica #039751:Larousse mensuel illustré, revue encyclopédique / No.23 Jan. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ポール・タファネル(Paul Taffanel, 1844-1908)は現代フランスのフルート演奏の伝統の基礎を作った人物とされている。彼に関する日本語のサイトも少なくない。下記に引用したのは、タファネルが病気引退する直前の1906年頃で、彼がオペラ座で優れた指揮者の一人として脚光を浴びていたのを垣間見ることができる。彼の後任としてアンリ・ビュッセルがオペラ座の指揮者となった。

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第9章] 1905年11月28日:
(…)この指揮台をその後半世紀ちかくにわたって占めたのである。オーケストラの幾人かの奏者は私の旧友であったが、それにもかかわらず、私の感動は大きかった。それはラムルーやコロンヌやタファネルのような大家たちによって指揮されてきた著名なオペラ座のオーケストラなのであった。(…)
[第9章] 1906年4月18日:
(…)劇場内では、近く辞任するタファネルのあとを狙ってオーケストラ指揮者(歌唱指揮者や合唱指揮者)たちが、私に「黄禍」という渾名をつけていた。それは、私の日本人のような顔色のせいでもあったが、主として、自作の舞踊曲上演のために私が指揮台に立ったことが羨まれる機会をつくったからである。そしてやがて結果が出た。4月18日、タファネルの依頼により、ゲラールは(…)私に「アルミード」を指揮させた。(…)私は弱冠三十歳を超えたばかりであった。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Paul Taffanel

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ポール・デュカの「アリアーヌと青髭」初演(1907.05.10)音楽院の管弦楽科教授だったタファネルの後任はデュカ
(2)新演出による歌劇「ファウスト」上演(1908.01.27)作曲者グノーのテンポをポール・タファネルがメトロノームで記録
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by utsushihara | 2008-11-22 23:39 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ジョルジュ・マルティ追悼演奏会(サン=サーンスがピアノ独奏)

1908年11月15日(日)

先月死去した指揮者ジョルジュ・マルティを追悼し、その未亡人への義捐金のための演奏会が11月15日午後2時からパリ音楽院の奏楽堂で開かれた。会場は実行委員会に参加を申し込んだ数多くの芸術家、文化人、社交界のお歴々で満たされた。曲目は:
①『バルタザール』序曲(Ouverture de « Balthazar ») ジョルジュ・マルティ(Georges Marty)作曲
②管弦楽組曲『シャイロック』(« Shylock » suite d’orchestre)ガブリエル・フォーレ(Gabriel Fauré)作曲
③歌劇『アルセスト』第1幕から(Fragments du 1er acte d’ « Alceste »)グルック(Gluck)作曲:オペラ座のアット嬢とデルマ氏の独唱
④ピアノ協奏曲第24番ハ短調 K.491(Concerto pour piano en ut mineur)モーツァルト(Mozart)作曲、サン=サーンスの独奏ピアノ
⑤合唱付き交響曲(Symphonie avec choeurs)ベートーヴェン(Beethoven)作曲、オペラ座のガル嬢、ラペィレット嬢、カズヌーヴ氏、フレーリック氏の独唱
となっている。管弦楽と合唱はパリ音楽院コンサート協会、指揮はアンドレ・メサジェ氏である。

f0028703_8371272.jpg出典 Crédit:©BNF-Gallica #288273 « Le Figaro » le 13 Nov. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288275 « Le Figaro » le 15 Nov. 1908
画像 Crédit photographique:© BNF-Gallica; http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b6927729g
5-11-13, salle Gaveau, audition Saint Saëns [pianiste sur scène entouré de l'orchestre] : [photographie de presse] / [Agence Rol]

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)上掲は実際は1913年頃と思われるサル・ガヴォーでの演奏会の写真で、ピアノの名手でもあったサン=サーンスが協奏曲で独奏しているところである。(パリ音楽院の演奏会のものは見つからなかった。)当時70歳を超えていたのにもかかわらず、親しい仲間の死を悼んでピアノ独奏を買って出るのも老巨匠らしい。
この催しはマルティ夫人のための慈善演奏会でもあり、上記記事中にある実行委員会にはサン=サーンスをはじめ、フォーレ、メサジェ、ブリュノー、ピエルネ、デュボワ、ヴィダルなどが名を連ねていた。

**これまでの関連記事france100.exblog:指揮者ジョルジュ・マルティの死(1908.10.11)

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1908年10月26日(月):(←これは原著者ビュッセルの記憶違いで正しくは11月15日(日)のことである)
メサジェがソシエテ・デ・コンセールのオーケストラ指揮者に任命され、最初のプログラムとして、前任者故ジョルジュ・マルティの「バルタザール」の美しい序曲を指揮する。カミーユ・サン=サーンスが、正確で柔軟で極めて音楽的な奏法で、モーツァルトのピアノの「二調のコンチェルト」を弾く。これは、公開演奏の彼を聴く極めて稀な機会である!・・・
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by utsushihara | 2008-11-15 08:35 | オペラ、音楽、演劇1907-08

オペラ座で『神々の黄昏』の総稽古(ゲネプロ)

1908年10月28日(水)
f0028703_18391227.jpg(←)左掲はワーグナーの楽劇『神々の黄昏』の総稽古の宵におけるオペラ座のロビー(フォワィエ)での会食風景である。今回オペラ座が取り上げるこの作品はワーグナーの中でも最も重要なものの一つとされている。出演は、ルイーズ・グランジャン(ブリュンヒルデ役)、フェアール、ラペィレットなどの諸嬢、ヴァン=ダイク、デルマ、デュクロなどの諸氏であり、非常に大きな印象を残し、各紙の批評は熱のこもったものとなった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.47; Déc. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288258 « Le Figaro » le 29 Oct. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
上掲は招待された有名人たちの様子を描いた「フィガロ」掲載のイラストで、手前左からコメディ・フランセーズ座のジュール・クラルティとジュリア・バルテ、酒瓶を持つカミーユ・ペルタン、後列の左からオペラ座支配人で指揮者のアンドレ・メサジェと評論家のガブリエル・アストリュック、一人置いて、尖った頭のアンリ・ロシュフォール(国粋主義者)、女優のレジャーヌ、ピエール・ラガルド、デュジャルダン=ボーメツが並ぶ。この総稽古(Répétition générale = 公開前のお披露目公演)は2度おこなわれたようだ。

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***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1908年10月20日(火):(←この日付は筆者の記憶違いと思われる)
『神々の黄昏』の総試演。客席はワーグナー派と反ワーグナー派とで満員となり、ロビーでは彼らが言い争う・・・・・・すばらしい部分があり、メサジェは極めて清澄なオーケストラ演奏を得たが、熱烈なワーグナー派のカミーユ・シュヴィヤールは、狂喜しながらも、「しかし、飛翔力に欠けている。」と言う。ドビュッシーは、ふざけて四部作を「音楽興信録」と呼ぶ。
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(「フィガロ」9月6日付の記事から)
オペラ座の舞台総監督ポール・スチュアール氏(Paul Stuart)はミュンヘンからパリに帰着した。氏はかねてより『指輪』四部作をパリで上演するにあたってワーグナー流の伝統に従って舞台装置や機械操作、照明美術などを研究するようにメサジェ氏とブルッサン氏から要請されていたのである。ミュンヘン歌劇場の総支配人フォン・シュパイデル氏(M. von Speidel)からは懇切丁寧な応対を受け、スチュアール氏は特別な計らいにより、『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』の舞台稽古を見学し、その場で摂政殿下から直々に貴重な指図を教えてもらうという光栄に浴した。ポール・スチュアール氏は膨大な資料を携えてパリに戻った。熱狂的なワーグナー崇拝者たちはまもなくオペラ座の舞台総監督がいかに習得したかを興味をもって観ることになるだろう。
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288205 « Le Figaro » le 6 Sep. 1908
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***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1908年8月11日(火):
『神々の黄昏』の練習。サン=サーンスが客席に来ていて、この作品を「最高度の不消化」と決めつける。メサジェはひどく気がたっていて、ヴァン・ダイクをはじめとして歌手全員をどなりつける!…
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by utsushihara | 2008-10-28 18:37 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ロシア歌劇団の『ボリス・ゴドノフ』のパリ初演

f0028703_15523685.jpg1908年5月19日(火)

ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドノフ』はオペラ座において計7回上演され、華々しい成功を博した。主役のシャリアピンをはじめ、出演者はすべてロシア人で占められた。テノールにスミルノフ、アルチェフスキー、またソプラノにエルモレンコ、ペトレンコなどが来演している。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.42; Juillet, 1908
画像 Crédit d’Image: アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より: 主役ボリス・ゴドノフを演じるシャリアピン。

(「フィガロ」5月10日付の記事から)
オペラ座における歌劇『ボリス・ゴドノフ』公演の準備は大忙しで進められている。昨日(9日)モスクワの帝国劇場の合唱団一行が指揮者のアヴラネク氏とともにパリに到着した。舞台装置は本日、ベルティエ大通りの工房から搬出され、衣裳をつけての練習が始められる。ボリスの役を演じる高名なシャリアピン氏は明日パリに着く予定である。
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288085 « Le Figaro » le 10 Mai, 1908

(「フィガロ」5月16日付の記事から)
『ボリス・ゴドノフ』の初日は5月19日(火)と決定した。アレクサンドル・ゴロヴィン氏はこの歌劇の7つの場面を磨き上げ、その正確さと絵のような見事さで素晴しい舞台だと賞賛されてしかるべき出来となっている。
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288091 « Le Figaro » le 16 Mai, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
『ボリス・ゴドノフ』(Boris Godounov)の上演については、すでにオペラ座のメサジェ&ブルッサン体制が発足して間もない1月15日の新聞に発表された。ちょうどこの頃パリでロシア音楽特集のコンサートを主催していたセルジュ・ディアギレフ(Serge de Diaghilev, 1872-1929)が次の企画として進めていた内容を「フィガロ」紙とのインタビューで明らかにしたのである。
f0028703_1555091.jpgこのときは、主演のシャリアピン(Fyodor Chaliapine, 1873-1938)、テノール歌手のディミトリ・スミルノフ(Dmitri Smirnov, 1882-1944)とともに、オペラ座でも人気があったフェリア・リトヴィンヌ(Félia Litvinne)も加わる計画だったが本番では別の女声歌手となったようだ。

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用:
[第10章] 1908年5月17日(日):ロシア人の一団が『ボリス・ゴドノフ』をオペラ座で上演する。リムスキー=コルサコフのオーケストラ編曲によるが、ムソルグスキーのこのすばらしい作品がパリで最初に啓示されたのである。ムソルグスキーの音楽は、その簡素と壮大によって人々を感動させる。この芸術の影響がドビュッシーにいかに作用したか、十分に理解されるところである・・・シャリアピンが、簒奪者の皇帝の異常で悲壮な人格をみごとに表現する。すべての人が熱狂した。
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by utsushihara | 2008-05-19 15:50 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ラモーの歌劇「イポリットとアリシー」の再演

1908年5月13日(水)

ラモーの歌劇のうちでも傑作とされる「イポリットとアリシー」がオペラ座で5月13日再演された。初演は1733年10月1日で、実に175年の歳月が経過している。出演は、リュシエンヌ・ブレヴァル、ジャンヌ・アット、イヴォンヌ・ガルの女声陣とプラモンドン、デルマ、グレスの各氏である。舞台美術はロシェット氏が担当している。

(「フィガロ」3月21日付の記事から)
この「ナムーナ」の再演準備にもかかわらず、ラモーの歌劇「イポリットとアリシー」の研究もかなり逼迫しており、器楽伴奏部の復元にようやくめどが立ち、ラロの「ナムーナ」の再演の翌日には「イポリットとアリシー」の舞台稽古が始められるだろう。このラモーの初日は4月24日(金)になる予定である。

f0028703_18332.jpg出典 Crédit:©BNF-Gallica #288034 « Le Figaro » le 21 Mars, 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.41; Juin, 1908
画像 Crédit photographique : ©RMN / Gérard Blot / Hervé Lewandowski / Cote cliché : 91-002011 / Fonds : Peintures / Titre : Phèdre et Hippolyte / Auteur : Pierre-Narcisse Guérin (baron) (1774-1833) / Localisation : Paris, Musée du Louvre

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用:
[第10章] 4月26日(日): ラモーの「イポリットとアリシー」の総練習。メサジェはクラヴサンとその通奏低音を批判する。彼はポール・ヴィダルに、主旋律を絃楽器で奏させるように要求する・・・この問題について、総練習に出席しているヴァンサン・ダンディとシャルル・ボルドとともに長い議論。フォーレは、この作品が極めて単調でほとんど演劇的でないと認める!

5月13日(水): 「イポリット」の総練習。ポール・ヴィダルは、主旋律のいくつかを絃楽器に充てたが、クラヴサンをあえて削除しないで、それと交互に奏するようにした。その音量は、オペラ座のなかでは完全に消えてしまっている。リュシエンヌ・ブレヴァルが感動的なフェードル、ジャンヌ・アットが極めて美しいディアーヌ、プラモンドンとイヴォンヌ・ガルがイポリットとアリシーの困難な役。廊下では幾人かが「これは図書館入りの作品だ」と言う。しかしながら、その連中もジャン=フィリップ・ラモーのバレエと音楽を高く評価している。

[ Ψ 蛇足 ]
ジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683-1764)は18世紀フランスの代表的な作曲家である。
この歌劇の台本は、ラシーヌの代表的な悲劇「フェードル」(Phèdre)にもとづいている。もともとはギリシア英雄伝説の物語である。アテネの王テゼー(テセウス)とアマゾネスの間に生まれたのがイポリット(Hippolyte)で、テゼーによって滅ぼされた王族の娘アリシー(Aricie)との悲恋と、テゼーの妻フェードル(パイドラ)が継母の身ながらイポリットに恋慕してしまうという苦悩が織り交じった悲劇である。
(↑)画像は19世紀初頭の画家ピエール=ナルシス・ゲラン作の「フェードルとイポリット」

*参考サイト:
(1)YAMAHA おんがく日めくり: 9月12日フランスの作曲家、ジャン・フィリップ・ラモー没(1683~1764)
(2)Wikipedia(和文)フェードル
(3)UT Repository東京大学: 『フェードル』における毒の役割 永井典克・著「東京大学仏語仏文学研究」(22),3~51,2000(ISSN 09190473)
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by utsushihara | 2008-05-13 18:01 | オペラ、音楽、演劇1907-08