フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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「ロンサン小路事件」のスタンネル夫人の裁判

1909年11月13日(土)f0028703_23163724.jpg

11月3日から10日間の公判の期間中、大衆の注目はスタンネル裁判の弁論の推移に引きつけられた。夫の画家スタンネルとその義母ジャピィ夫人が殺害された事件で、同じ家でなぜかベッドに縛りつけられただけで無事に発見された妻マルグリットの関与もしくは共謀があったのか否か?
裁判長のヴァレス氏は峻厳な尋問を展開した。検事のトルアール=リオル氏は、彼女を尊属殺人で起訴するのを断念し、共謀罪を立証しようとした。スタンネル夫人の弁護人をつとめたアントニー・オーバン氏は非常に弁舌巧みに議論を進め、結果的に依頼人の無罪放免を勝ち取ることができた。

f0028703_23192425.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618798 « Le Petit journal » No.17115, le 5 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
「スタンネル裁判」(L’Affaire Steinheil)はその事件が起きた屋敷のあったパリ15区の「ロンサン小路」(Impasse Ronsin)の事件とも呼ばれたが、翌日1908年5月31日以来、新聞紙上で最も頻繁に記事が書かれた事件であった。非常に謎の多い事件で捜査が難航したのも事実である。上掲の裁判は、若く政財界人とも交友が広かった夫人が事件に関与したのかどうかを問うものであり、公判が始まった11月3日から10日間の新聞各紙は、すべて一面で連日裁判の経過を詳細に報じる記事で文字通りあふれかえった。
f0028703_23194731.jpgこうした資料を集めるだけで分厚い本が何分冊もできてしまうだろう。現に、敬服する松本氏のサイト↓(2)で何年も前に言及していた書物(3)はその一例である。

文豪アンドレ・ジィドもこの事件に大いに興味を引かれたようで、公判の傍聴に行ったことを日記に書き記している。(新庄先生の訳語は固有名詞が「ステイネイ」となっていたが、「スタンネル」のほうが普通の発音に近いと思われるので表記を変えて引用した。)
*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年11月7日付から
11月7日、日曜日
リュイテル、フィリップ、リヴィエール、コポー、ドルワン、クローデル来訪。
月曜日。-コボー、ボワレーヴと一緒にスタンネル事件*の公判を聴きに行く。
火曜日。-フィリップ、フリゾー夫妻とともにクローデルのもとで晩餐。(語りたいことは沢山ある。-だがその暇がない。)

*訳注(新庄): 大統領フェリクス・フォールの腹心の友であった美貌のマルグリット・ジャピィ=スタンネルが、母親のジャピィ夫人と夫の画家アドルフ・スタンネルを殺害したという嫌疑で捕えられ、一年間未決のまま牢獄生活を続けていたが、数次にわたるセンセイショナル裁判ののち、11月14日無罪を宣告された。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(仏語)Marguerite Steinheil
(2)Le Parti pris des lettres 文字の味方 文学の味方:ピエール・ダルモン『スタンネル事件』ベル・エポックの犯罪(2004.05.22)
(3)Pierre Darmon: "Marguerite Steinheil, ingénue criminelle ? ” (Perrin , 1996)

**これまでの関連記事france100.exblog:画家スタンネル殺人事件(1908.05.30)
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by utsushihara | 2009-11-13 21:31 | ★ベルエポック事件簿1909

ジィドの新作『狭き門』への評価(4)

1909年11月7日(日)f0028703_22333199.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
11月7日、日曜日

 この作品は、こうやってみると、中にはいっている巴旦杏(はたんきょう)がおいしいヌガーのように思える。(即ち、巴旦杏は『アリサの手紙と日記』である。)だが、飴の部分はねばねばしている。うまく書かれていない。然し、立役者が、ジェロームのような、無気力な散文を持った無気力な性格の人間では、こうなるよりほか仕方がなかったのだ。で、結局のところ、この作品は成功していると思う。だが、早くほかのものが書きたくてたまらない! 再び、愛(アムール)とか心(クール)とか魂(アーム)とかいう文字を使うことが出来るまでには十年かかるだろう……

画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN / Portrait d'André Gide assis lisant à son bureau / Auteur de la photo : Marc Allégret /

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(3) (1909.10)
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by utsushihara | 2009-11-09 22:30 | 文芸、評論1909-10

[ 直近の更新状況 ] 2009-l (「狭き門」百年祭)

たまには直近のフランスの話題をお伝えしたい。
先だっての日曜日、10月18日に文豪アンドレ・ジィドの永眠するノルマンディの小村キュヴェルヴィルで彼の代表作の一つ『狭き門』(La porte étroite)の発表100年祭が催されたことを今知ったところ。「お見逃しなく」(Ne ratez pas)という案内記事の忠告も、日本にいてはどうということにもならない。
ここには彼の別荘(Château de Cuverville-en-Caux)が今でも残っており、ジィドはパリの住まいと頻繁に往復し、多くの作品を執筆した場所だった。『狭き門』は完成まで3年以上費やした自信作だったようで、刊行されると評論家たちは賞賛を惜しまず、彼の真の文学的成功となった。
「ジィドの日記」には1909年7月以降、当時の反響について何度か記述があるのでいずれ紹介したい。

*参考サイト:
(1)Paris-Normandie.com(仏語)Cuverville: Hommage à André Gide le mois prochain
(2)Vivre-en-Normandie.com(仏語)André Gide centenaire de La Porte étroite à Cuverville-en-Caux

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10/30: 軍用馬による馬術選手権大会(1909)(1909.04.07-11)
10/28: 不実な妻に対する処罰(ベルエポック事件簿)(1909.03.31)
10/28: 重労働下の音楽家たち(1909.03.27-28)
10/27: セルビアの譲歩とジョルジュ王太子の廃嫡(1909.03.26)
10/23: 英国人芸人クリス・リチャーズの人気(1909.03.27)
10/21: ドビュッシー邸を訪問(1909)(1909.07.05)
10/21: ブルガリアの軍備増強(1909.04.15)
10/20: 青年トルコ党の政乱(1909.02.14)
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by utsushihara | 2009-10-30 15:11

ジィドの新作『狭き門』への評価(3)

1909年10月

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
キュヴェルヴィル、10月

リュシアン・ロルメルに手紙を書く。(馬鹿げた論文について。)――彼は『狭き門』を犠牲にして『背徳者』を賞めたのである。
「たしかに、水晶に比較されたことは大きな悦びであります!……ですが、あなたは画家とモデルをなんと奇妙に混同なさっていることでしょう。『美しい魂の告白』を書いたからといって、ゲーテがあなたに、より狭小な人間に見えるでしょうか?――もし私が『背徳者』――あなたがあんなにも賞めて下さる――のみの作者であったら、必ずや私は自分が小さくなるように感ずることでしょう。」

あるものをよく描くためには、その上にあまり鼻をくっつけてはならぬ。

[ Ψ 蛇足 ]
作家というものは、自分の書いた作品のみに自分自身が限定されるのを嫌う。逆に一般人は「あの作家は『○○』を書いた人だ。」というふうに仕分けたがる傾向にあるのは確かである。上記の日記では、自分の作風の多様性を巨匠ゲーテに例えているのが興味深い。
リュシアン・ロルメル(Lucien Lormel)は当時の文芸評論家の一人と思われるが不詳。

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(2)(1909.09)
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by utsushihara | 2009-10-09 10:43 | 文芸、評論1909-10

ジィドの新作『狭き門』への評価(2)

1909年9月f0028703_9502583.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
キュヴェルヴィル 9月 

『狭き門』に関する批評。――彼等にとって、あれらの色々傾向のちがった作品が私の精神の中に共存したこと、また今もまだ共存していることを認めるのは困難なのだ。あれらの作品は、紙の上に書かれるからこそ、また、とても同時になど書けないからこそ、ああやって相次いで現われたのである。私は、どんな作品を書く場合でも、自分を全部そこに与えてしまうということは決してない。そして、この上もなく切実に私を求めていた主題も、忽ち、私の他の一端の方に展開して行くのである。

私の精神(エスプリ)の弾道を描くことは容易ではあるまい。その曲線は私の文体の中にしか現われないであろうし、多くの人はこれを見のがすであろう。もしも誰かが、私が最後に書いたものの中に、やっと私の似顔を見つけだしたと思ったとすれば、そうした迷いは覚まさねばならぬ。私は常に、末子には一番似ていないのだ。

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(1) (1909.07.11)
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by utsushihara | 2009-09-27 22:39 | 文芸、評論1909-10

ジィドの新作『狭き門』への評価(1)

1909年7月11日(日)

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年7月11日より引用:
 ジョルジュは『狭き門』を好きでない。彼はこれよりも他の作品の方を採っている。それは彼の勝手だ。だが、彼が、他の若干の作品の魅力をなしている特徴をこの作品がもはや持っていないと言って非難する時には、彼は誤謬をおかしはじめているのである。重要かつ困難だったことは、実は、この小説にはそぐわないそれらの特徴をこれに入れまいとした点にあったことを、彼に理解させようと努力する。

「万事において、卓越するということは、稀有かつ困難なことである。」(スピノーザ『エティカ』の最後の言葉)

[ Ψ 蛇足 ]
アンドレ・ジィド(André Gide, 1869-1951)の代表作『狭き門』(La Porte étroite)はこの時期にメルキュール・ド・フランス社から出版されたと思われる。最初に出てくる他人の目からの評価である。上記の「ジョルジュ」という人物が誰であるかは、原注も訳注もないので不明である。文学仲間であるのは確かなようだが…
これまでのジィドの日記を読んでいても、あまり信仰心や宗教心について考えこんだり悩んだりする記述が意外と少ないのが、逆にこうした『狭き門』や『田園交響楽』で登場人物が生死に関わる信仰心を掘り下げる姿と比べてギャップを感じる。日常の日記からは、彼は趣味人であり、鋭い感性を具えた観察者だとしか思えない。

*参考サイト:(和文)書評:HUREC AFTERHOURS 人事コンサルタントの読書備忘録「ヒューレック・アフタアワーズ」
【658】 ○ アンドレ・ジッド (山内義雄:訳) 『狭き門』 (1954/07 新潮文庫) ★★★★
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by utsushihara | 2009-07-12 23:27 | 文芸、評論1909-10

画家ドガの老境

1909年7月4日(日)f0028703_18491769.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年7月4日より引用:
7月4日
『狭き門』のことでパリに出たので、ヴァレリー家に立ち寄る。手術するとかいうジャニィ・ヴァレリーを見舞おうと思って。ドガが夫人のそばにいる。そして、もう一時間近く夫人を疲らせている。何分、彼は耳が速いし、夫人は弱々しい声で話すときているので。ドガは年取った。だが、相変らずだ。ただ、ほんの少し、頑固になり、自分の意見を固執し、不機嫌を誇張し、頭の中の同じ所をいつも引っ掻く。そしてその痒い所は益々狭まって行くのだ。
彼はこんなことを言った。「ああ!自然を見て描いてる連中かね!厚かましいペテシ師だ。風景画家(パントル・ペイザジスト)か!田舎で奴(やっこ)さんたちに逢うと、わしはいつも、パン!パン!と射ちたくなるよ。 (彼はステッキを銃のように構え、片眼をつぶって、客聞の家具を狙った。) こいつをやる警官隊が必要だよ。」等々と。
また、こんなことも言った。「美術批評だって!愚の骨頂さ!いつも言うことだが、(実際、三、四年前に彼が次の文句を一言一句ちがわず言ったのを聞いた記憶がある。)女神のミューズは決してお互いには喋らない。それぞれ自分の領分で働いている。そして、働かない時には、踊るんだ。」そして二回もそれを繰り返した。「働かない時には踊るんだ。」と。それからまた、こんなことも言った。
「人がアンテリジャンス(Intelligence=理解力)と I を大文字で書き出してから、からきし駄目になってしまった。L’Intelligenceなんてものはありっこない。人はただ、甲に対する理解力、あるいは乙に対する理解力を持っているにすぎない。自分のするものに対してしか理解力は持ってはならないのだ。」

(※日本語表記の固有名詞は一般にわかるように書き換えた。「ヴァレリイ」→「ヴェレリー」、「ドゥガ」→「ドガ」)

画像 Crédit photographique : © RMN(Musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / Cote cliché : 06-521405 / Fonds : Photographies / Titre : Autoportrait dans sa bibliothèque / Auteur : Edgar Degas(dit), Edgar de Gas Hilaire-Germain (1834-1917) / Date : 1895 / Localisation : Paris, Musée d'Orsay
画像 Crédit photographique : © RMN(Musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / Cote cliché : 05-531363 / Fonds : Dessins / Titre : Maisons au bord de la mer / Auteur : Edgar Degas(dit), Edgar de Gas Hilaire-Germain (1834-1917) / Matière : pastel / Localisation : Paris, Musée du Louvre, D.A.G. (fonds Orsay)

[ Ψ 蛇足 ]
アンドレ・ジィド(André Gide, 1869-1951)の代表作『狭き門』(La Porte etroite)は1909年夏にメルキュール・ド・フランス社(Société du Mercure de France)から出版された。この日記はその直前の打合せだったと思われる。
f0028703_2212210.jpg友人ポール・ヴァレリーの家にすでに老大家となっていた画家エドガー・ドガ(Edgar Degas, 1834-1917)が来ていたのでこの貴重な記録が残った。当時ドガは75歳だった。晩年は視力が衰えたので彫刻の制作に転じたというが、絵画に対する思いはかくしゃくとして持ち続けたのがわかる。いかにも老人らしい偏狭で短気な言動が興味深い。
RMNでは「踊り子」や「水浴の女」の画題のほかに《風景画》も少なからず見ることができ、その一例を(←)左に参考掲載してみた。彼の言う風景画家(peintre paysagiste)のどこがいけないのか、を考えてもよくわからなかった。しかしながら、ドガは「風景」よりも「踊り」をはじめとした人間の身体の動きそのものをいかに表現するかに圧倒的な精力を注ぎこんだことは明らかである。(↑)写真は1895年頃のドガ自身の撮影によるものである。
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by utsushihara | 2009-07-07 18:47 | 美術、彫刻1909-10

ドリュエ画廊でナデルマンの個展

1909年4月26日(月)

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年4月25日より引用:
4月25日(26?)(月)(※ジィドの原本では日付と曜日が実際の暦と合っていない)

f0028703_1694926.jpgドリュエで、ナデルマン展の開場前日の招待日。(エリ・ナデルマンは、この冬この日記に書いたように、アレクサンドル・ナタンソンに案内されてアトリエを訪ねたことのある、あのユダヤ系ポーランド人の若い彫刻家。 )
だが、あの時は、私はナデルマンについてはあまり語らなかった。ナタンソンの個性のかげに覆い隠されてしまっていたのである。だが、かなりしっかりした人物だ!ナタンソンは《彼を世に出す》まではと、その生活を見ていた。そして生活費の代償として、彼に立像をつくらせていた。彼が今度、多くの下図(デッサン)も添えて出品しているのはそれらの立像である。ナデルマンはコンパスを使って下図を描き、菱形を集めて刻んでいる。人体の一つ一つの曲線は、それと対をなしてそれに対応している交互的な曲線を伴っていることを彼は発見した。こうした均衡から来る調和は定理に似ている。(中略)

ナデルマンは六ヵ年の困窮生活を通ってきたのである。むさくるしい部屋に閉じこもったきりの彼は、まるで漆喰でも食って生きている人間のように思われた。バルザックでも考え出しそうな人物である。昨日は、青地の小さな背広を着込んでいた。きっと、こんなものを着たのは、はじめてにちがいない。彼は、ごく平凡な、そして非常に醜い一人の婦人と話をしていた。彼はその婦人を私に紹介した。それはX…夫人だった。夫人は、一つの立像の、長細い菱形の背中を指さしながら言った。
「これは、少くとも、生々としてますわね!それは、あの『ミロのヴェヌス』とはちがいますわ! 美しかろうと美しくなかろうと、私にとってそれがなんでしょう? これは、少くとも、ほんとの女ですわ! 生々としてますわ!」ところで、ナデルマンの芸術に、これほどそぐわない形容詞はない。・・・彼の芸術はまだ技術(テクニック)の域を出ていない。まだ初歩的なものである。恐らく、彼の芸術はスタインには気に入るにちがいない。というのは、努力なしに理解されるからである。・・・スタインはアメリカの蒐集家で、マティスの画を買い集めている人である。ナデルマン展が開かれるや、彼は既にデッサンの3分の2かあるいは4分の3を買い占めた。いくらで ? そんなことは私は知らない。(後略)

画像 Crédit photographique : © Przeglad Polski 23 lipca 2004: Elie Nadelman wraca do Warszawy
http://www.dziennik.com/www/dziennik/kult/archiwum/07-12-04/pp-07-23-04.html

[ Ψ 蛇足 ]
ドリュエ画廊(Galerie Druet)は20世紀初頭の著名な画廊の一つで、ウジェーヌ・ドリュエ(Eugène Druet, 1868-1916)によって1903年にパリのフォーブール・サン=トノレ街に開設され、次いでロワイヤル街に移転した。ロダンやナビ派のモーリス・ドニなどのほか、上記のマティス、ピカソ、ナデルマンなどの作品を取り扱った。現在でも店舗は一族が継承しているようだ。
アレクサンドル・ナタンソンについては、下記(↓)の関連記事を参照されたい。

エリー・ナデルマン(Elie Nadelman, 1882-1946)は、ポーランド出身の現代彫刻家で、第一次大戦までパリで活躍し、サロンでも注目された。その後米国に亡命した。米国での評価・知名度は高い。下記ウィキペディア英文サイトにある「裸婦立像」(Standing Nude, ca.1908)もこの頃の作品である。(メトロポリタン美術館収蔵)上記の会話の雰囲気にも通じるかもしれない。
*参考サイト:Wikipedia(英文)Elie Nadelman

ガートルード・スタイン(Gertrude Stein, 1874-1946)は、美術批評家の兄のレオと共にパリで若手芸術家・文人たちとの交流を深め、当時の現代美術収集家としてすでに有名であった。ただし上記文中では「彼」とあるので、レオのことを指す。
*参考サイト:Wikipedia(和文)ガートルード・スタイン


**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドとアレクサンドル・ナタンソン(1908.12.24)
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by utsushihara | 2009-04-26 16:01 | 美術、彫刻1909-10

聖女ジャンヌ・ダルクへの願掛け(ジィドの日記から)

1909年1月

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年1月より引用:
キュヴェルヴィルの司祭が、寝てから12週目になる気の毒なミューの見舞いに来た。チブスはそれからそれと彼の器官をおかしたのだった。ミューは、この地方で言う《低い身分の者》(ビヤン=マナン)だった。もう病気も治ったと思いこみ既に起き上れるようになった瞬間に、静脈炎が急に出てきた。…(略)
「そうじゃ!」と司祭は言った。「いいことを思いついたよ。ジャンヌ・ダルクさまが丁度聖列にお加わりになったばかりのところじゃ。この聖女さまには、まだみんなはあまりお願いをしていないし、あまりご厄介をかけていない。ひとつ、この聖女さまに九日間の願掛をしてみよう・・・」
これを聞いて、気の毒なミューは大悦びだった。九日の願掛がすんで、司祭が彼に会いに来た。

治ることになっていた丁度その日に、今度はもう一方の脚がやられたのだった!「ああ!司祭さまはおだまされになりました!」とこの正直者は私達に書いてよこした。
「お分りじゃろうが、」と司祭は説明した。「聖者さまは大勢ござる。そしてそれぞれ、独特の御利益を持ってござらっしゃる。ジャンヌ・ダルクさまの御利益はまだ誰も知らなんだ。そこで、ためしてみなくちゃならなかったのじゃ。わし達は、見当ちがいをしたよ、 ・・・それじゃ、ほかの方を探してみよう。」

f0028703_17343328.jpgそれから数日のちのこと、ミューの妻ジュリエットが、市で同郷の老婆に偶然出会った。
「もう少し早く話してくれたらなあ!お役に立ったになあ。腫物に御利益のある聖人さまはたった一人っきりしかござらっしゃらねえ。わしは前に、うちの爺さんのためにお祈りしたことがあるだ。」
「なんておっしゃる聖人さまだね?」
「聖イドロピックさまだよ。」(註:イドロピックは水腫患者という意味)

「お前さん、それはあんたの間違いじゃ。」と司祭はジュリエットに言った。「お前さんはきっとお友達の言ったことを聞き違えたんじゃろう。聖イドロピックさまなんて方はござらっしゃらぬ。お前さんが言うのは、たしか、聖ウーテルプさまじやろう。実はわしもこの聖人さまを考えていたところじゃ。それに丁度、この聖人さまはキュヴェルヴィルの守り神さまじゃ。きっと、特別にお前さんの願いをお聴き入れ下さるじゃろう。」

画像 Crédit d’image : Gérard Dou, La femme hydropique (1663) ジェラール・ドゥ画「水腫患者の女」(部分)©[louvre.edu]1999 photo Erich Lessing

[ Ψ 蛇足 ]
この頃ちょうどヴァチカン法王庁でジャンヌ・ダルクの列福審査が行なわれており、田舎の信心深い人々の間では新しい聖人に願掛けをすれば成就しやすいのでは、と考えたようだ。上記文中の《低い身分の者》(ビヤン=マナン)とは « Bien-manant »「土百姓」という蔑んだ言い回しであった。
「聖イドロピックさま」« St.Hydropique » も無知な農民をからかった冗談がそのまままともに広まった一例で、真面目なジィドの日記にしては、アルフォンス・アレ風の人を食った悪ふざけに出会ったみたいで可笑しい。

**これまでの関連記事france100.exblog:ジャンヌ・ダルクの列福審査
(1908.11.24)
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by utsushihara | 2009-01-20 17:33 | フランス社会政経1909-10

ジィドとアレクサンドル・ナタンソン

1908年12月24日(木)
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*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1908年12月24日より引用:
アレクサンドル・ナタンソンが二時半頃に誘い出しに来る。ポーランドの若い彫刻家ナデルマンの所へ案内しようというのである。
彼はピオの製作した壁画には、敵意を含んでいないにしても、まるで上の空の一瞥しか与えない。彼が試運転する六十馬力の自動車に乗る。私達はボワソナード街に到着する。
彼の言葉をいくつか写してみよう。だが、必要なのは、彼の声の調子である。一つ一つの言葉に、声の抑揚が「僕って、こんな人間ですよ!」と付け加えているように思われる。(中略)
「例えば、私の鞄の中には、値打ちのない株券しか残っていません。もう売れもしないようなね・・・、化粧室の壁を張る位は十分ありますよ!いつか弟のタデが怒って言ったもんです。『なんだってまた、苦労の種になりそうなそんな碌でない株券を背負いこんでるんだ?』ってね。そこで私は答えてやりましたよ。『まあ、心配するな。決して苦労の種になんかなりはしないよ。至極簡単さ。僕はもう全然気にしてなどいないんだからね。』ってね」
ナデルマンのアトリエで、ナデルマンが語っている最中にも、ナタンソンは時々私の方にかがみこみ、低い声で、早口に言った
「なかなかいい男だ!ねえ、そうでしょう?」
それに、彼は私に対して非常に愛想がいい。もう一度ぜひ会ってくれという。で、向う半か月は非常に忙しくなるからと言うと、「では、そのあとすぐ、よござんすね!」とさようならも言わずに、私の手を固く握りしめた。(後略)

[ Ψ 蛇足 ]
アレクサンドル・ナタンソン(Alexandre Natanson, 1867-1936)は、弟のタデ・ナタンソン(Thadée Natanson, 1868-1951)とともに1890年代に大きな文学・芸術活動の中心となった雑誌『ルヴュ・ブランシュ』(La Revue blanche)の運営に携わった。彼らはポーランドのユダヤ系銀行家の家柄で富裕層における交流も活発で、多くの文化人・芸術家たちの活動の源泉となった。ドレフュス事件の際には「オーロール」紙でのゾラの弾劾記事を全面的に擁護し、再審での勝利に導いた。1902年にアレクサンドル自身が重病に陥ったため、やむなく『ルヴュ・ブランシュ』を譲渡し、その活動は翌年停止することとなった。
上記のジィドの描写は、アレクサンドルの洒脱で人なつこい人物像を見事に捉えている。

*参考サイト:Les Commérages de Tybalt(「ティバルトの無駄話」=仏語): Frères Natanson - Alexandre, Alfred et Thadée

エリー・ナデルマン(Elie Nadelman, 1882-1946)はポーランド出身の現代彫刻家で、第一次大戦までパリで活躍し、サロンでも注目された。その後米国に亡命した。
*参考サイト:Wikipedia(英文)Elie Nadelman

上掲(↑)はルネ・ピオ(René Piot, 1869-1934)作の壁画の一例。ドラクロワ派とナビ派との折衷的な表現の画風である。
画像 Crédit photographique:©Photo RMN (Musée d'Orsay) Droits réservés / Cote cliché : 86-001649 / Titre : Requiescent - Avant restauration / Auteur : René Piot(1869-1934) / Localisation : Paris, Musée d'Orsay
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by utsushihara | 2008-12-23 15:31 | 文芸、評論1907-08