フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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タグ:サン=サーンス ( 19 ) タグの人気記事

老大家サン=サーンスの多忙な夏(1909)

1909年8月~9月f0028703_227099.jpg

(8月23日付「フィガロ」紙の記事から)
サン=サーンス氏の今年の夏の動静をお伝えする。
数日前の朝、サン=サーンス氏はエクス=レ=バンからの列車でパリのリヨン駅に到着した。軽快かつ忙しそうに、生き生きとした目を方々に配り、いつも若々しい身のこなしで旅行鞄を手に下げ、肩掛けカバンを斜めにかけていた。
その翌朝には朝早くからディエップ行きの列車に乗り込んだ。そこからロンドンに向かい、9月に予定されているブリューの戯曲『信仰』(La Foi)の稽古に立ち会うことになっている。この古代エジプトを舞台とする5幕劇は、サン=サーンス氏が付帯音楽を作曲したものである。
同じく9月の初めには今度は、エクサン・プロヴァンスに彼は現われるだろう。そこで合唱曲『リラとハープ』(La Lyre et La Harpe)の公演を見守らなければならないのだ。そのあとすぐに彼はパリに取って返し、オペラ・コミック座での歌劇『プリネ』(Phryné)の再演をめぐって支配人のアルベール・カレ氏と打合せが必要となっている。
それからやっと毎年秋と同じようにサン=サーンス氏は太陽がいっぱいの遠い国に向けて出発する。エジプトかカナリア諸島かは彼の気まぐれによってぎりぎりに決まることになるのである。
それまでの間、彼は《退役軍人会》(Maison du soldat)のためにトロカデロで催される慈善演奏会で演奏されるための愛国的なカンタータを1曲仕上げねばならないし、ヴァイオリン奏者イザイ(Ysaye)とチェロ奏者オルマン(Hollmann)に約束した「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」も書かなければならない。また、ゲテ座で公演を予定しているラモーの歌劇『カストールとポリュックス』の校訂も支配人のイゾラ兄弟からたっての願いと言われている。
この74歳の大作曲家は見ての通り、典型的とも言える目覚しい活動を続けている。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288559 « Le Figaro » No.235; le 23 Août, 1909
画像 Crédit photographique : © RMN (Musée d'Orsay) / Gérard Blot / Cote cliché : 00-010801 / Fonds : Photographies / Titre : Camille Saint-Saëns (1835-1921), compositeur français / Description : Album de 500 célébrités contemporaines - collection Félix Potin / Localisation : Paris, Musée d'Orsay
出典 Crédit:IMSLP - Camille Saint-Saëns: La Foi, Op.130 (Piano score)
http://imslp.org/wiki/La_Foi,_Op.130_(Saint-Sa%C3%ABns,_Camille)

f0028703_2283545.jpg

[ Ψ 蛇足1 ]
(↑)上掲はブリューの戯曲『信仰』(La Foi)への付帯音楽の一部である。IMSLP所収のピアノ・スコアを見てみると、劇の進行に合わせて音楽が奏されるように前後の台詞が細かく併記されている。楽曲の性格上、曲のまとまりとしては断片的なのは仕方がないが、美しい曲想が所々に出てくる。引用したのは第1幕第4場のヒロインの独白の場面で、独奏チェロが憂いに満ちた美しく艶やかな旋律を奏でる個所である。(これは別の小品でチェロとオルガンのための「祈り」(La Prière, Op.158)の神妙な響きに通じる。)

ウジェーヌ・ブリュー作の戯曲『信仰』(La Foi)はこの年の4月10日にモナコのモンテカルロ劇場で初演された。ちょうどブリューがアカデミー会員に選出された直後で、大家のサン=サーンスが曲を付ける仕事に応じるのはちょっと意外だという一般の反応があった。これはあくまでも想像だが、『サムソンとデリラ』や『ノアの洪水』などサン=サーンスが得意としていた聖書的古代世界と、彼の好んだエジプトやアルジェリアなどの異邦的な音楽の響きが、この戯曲のために作曲する場合にも当てはまったからではなかろうか。
この曲を小組曲風に編みなおした演奏が《誓い》という邦題でCDが出ていた。(ミシェル・プラッソン指揮、トゥールーズ・カピトル管弦楽団)

上の記事に言及されたヴァイオリン奏者イザイ(Ysaye)とチェロ奏者オルマン(Hollmann)に約束した「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」については、ヴァイオリンとチェロの独奏付管弦楽曲『ミューズと詩人』(La Muse et le Poète)ホ短調、作品132として翌1910年に完成する。

f0028703_2315526.jpg[ Ψ 蛇足2 ]
ウジェーヌ・ブリュー(Eugène Brieux, 1858-1932)の5幕劇『信仰』(La Foi)のロンドン公演は9月20日(月)王立劇場(His Majesty’s Theatre)でおこなわれ、作者自身も立会った。彼の旧作『赤いドレス』(La Robe rouge)はバカンス後のシーズン幕開けにテアトル・フランセ座で演目に取り上げられ、また新作の『シュゼット』(Suzette)はヴォードヴィル座に乗り、確かな成功を博した。
不思議なのは『信仰』のパリ初演は1912年5月22日、オデオン座までしばらく間があくことである。この戯曲については、日本では早くも1919年9月に小山内薫の自由劇場の一座が帝国劇場で9回公演したという記録が見つかった。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526296 « Touche à tout » No.10; Oct. 1909

*参考サイト:サン=サーンスの墓 《フランス音楽の散歩道》11. 異邦人"シャルル・サノワ氏"

**これまでの関連記事france100.exblog:アカデミー新会員にレイモン・ポワンカレとウジェーヌ・ブリュー選出(1909.03.18)
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by utsushihara | 2009-09-12 22:05 | オペラ、音楽、演劇1909-10

オランジュ野外劇場でソフォクレスの『アンティゴネ』再演(付帯音楽:サン=サーンス)

1909年8月8日(日)f0028703_18533116.jpg

オランジュ野外劇場でのソフォクレスの古代悲劇『アンティゴネ』(Antigone)の再演は、8月8日に大壁を前にして、巨匠サン=サーンスの作曲による音楽と合唱隊とともに行なわれた。コメディ・フランセーズ座のジュリア・バルテ女史が主役を見事に演じ、前回同様の満場の賞賛を博した。
この公演には偉大な共演者たち、ムネ=シュリー、ポール・ムネ、ドリヴァルなどの各氏とウェバー女史、マドレーヌ・ロック嬢が加わり、最上級の公演であったと言わねばならない。

この作品はオランジュの大壁の前で再演されるのは久しぶりで、人々はその感動の記憶を大事にしていた。劇評家のフランシスク・サルセーは、この広大な空間で、バルテ女史の演技、とりわけ第3幕で一言一句もらさずに演じきったことが8千人の観客の感動の高まりを引き起こしたとき、「バルテ!これぞまさに朗誦の勝利だ。」と絶叫したという。(Bartet ! C’est le triomphe de la diction.)
f0028703_18535741.jpg


出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526293 « Touche à tout » No.9; Sep. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288535-536 « Le Figaro » le 30-31 Juil. 1909
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by utsushihara | 2009-08-08 18:52 | オペラ、音楽、演劇1909-10

アカデミー新会員にレイモン・ポワンカレとウジェーヌ・ブリュー選出

1909年3月18日(木)

3月18日に実施されたアカデミー会員選挙で、レイモン・ポワンカレ氏とウジェーヌ・ブリュー氏が選出された。これはエミール・ゲバールとリュドヴィック・アレヴィの死去に伴う会員補充のためである。今回は2名分の選挙で、フランス学士院の建物の廊下や階段には結果を待ちきれずに詰めかけた非常に多くの関係者や立候補者たちの友人知人で埋め尽くされた。選挙は午後2時からで、会員のピエール・ロティ、アンリ・ラヴダン、モーリス・ドネー、ポール・ブールジェ、フレデリック・マッソン、モーリス・バレス、ジュール・ルメール、エドモン・ロスタン、ジュール・クラルティ、アンリ・ポワンカレ、ジャン・リシュパンなどが単独で、あるいは連れ立って会場に入った。アナトール・フランスは前もって棄権を表明して欠席した。有効投票数は31票で、ポール・エルヴュー氏が議長となって、まず評論家エミール・ゲバールの補欠の投票が始まった。結果は、レイモン・ポワンカレ氏20票、ギュスターヴ・シュランベルジェ氏11票でレイモン・ポワンカレ氏の入会が決まった。結果はすぐに報道陣と公衆に伝えられた。
f0028703_14474286.jpg続いて劇作家リュドヴィック・アレヴィの補欠の投票が行なわれた。これには4人の立候補者があった。ブリュー、カピュ、ポルト=リシュ、ドラフォスである。これは票が割れて過半数を得る候補者が出ず、8回目の投票でようやくブリュー氏が18票を獲得して選出された。

(↑)レイモン・ポワンカレ氏は1860年バール・ル・デュク生まれの高名な弁護士で、ムーズ県選出の上院議員、閣僚としては財務大臣に2回、文部大臣に2回就いている。主な著書として『政治と人物論』(Etudes et Figures politiques)、『文学・芸術論』(Causes littéraires et artistiques)などがある。

f0028703_14481472.jpgウジェーヌ・ブリュー氏は1858年パリ生まれ、劇作家として知られる。主な作品として『ブランシェット』(Blanchette)、『赤い衣裳』(Robe rouge)、『こがね虫たち』(Les Hannetons)、『シモーヌ』(Simone)、『信仰』(La Foi)などがある。(画像→)

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288400 « Le Figaro » le 19 Mars, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.52; Mai, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #55256244 « Touche à tout » No.5; Avr. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
アカデミー会員選挙は原則として死去した前任者の活躍した分野から後任者が選出される。
レイモン・ポワンカレ(Raymond Poincaré, 1860-1934)は、数学者アンリ・ポワンカレの従弟にあたる。このあと第一次世界大戦に直面し、ファリエールの後継者としてフランス大統領となる。
ウジェーヌ・ブリュー(Eugène Brieux, 1858-1932)は当時人気の高い劇作家の一人である。上記の主要作の最後に『信仰』(La Foi)とあるが、恐らくこのとき出来上がったばかりの新作で、サン=サーンスが付帯音楽を作曲している。(La Foi, 3 tableaux symphoniques, op. 130)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)劇作家リュドヴィック・アレヴィ死去(1908.05.08)
(2)「こがね虫たち」の初演
(1906.02.02)
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by utsushihara | 2009-03-17 14:46 | 文芸、評論1909-10

オペラ座でサン=サーンスのバレエ『ジャヴォット』公演

1909年2月5日(金)

f0028703_14584212.jpg(←画像)左掲はサン=サーンスのバレエ『ジャヴォット』の舞台装飾の一つである。ジャン=ルイ・クローズの台本による1幕3場のこの作品は、2月5日オペラ座で『サムソンとデリラ』の公演に併せて演じられた。出演はザンベリ嬢、セレード嬢、デルソー嬢ほかで好評を得た。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618521 «Le Petit journal» No.16838, le 1er Fév. 1909
画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN

f0028703_14511445.jpg[ Ψ 蛇足 ]
カルロッタ・ザンベリ(Carlotta Zambelli, 1875-1968)はイタリア出身のバレリーナである。最初ミラノのスカラ座で踊っていたが、1894年に当時パリ・オペラ座の支配人だったペドロ・ゲラールに見出され、プリマとして迎え入れられた。20世紀当初のオペラ座でのバレエ公演、その中には歌劇中に盛り込まれたバレエの場面も含まれるが、ほとんど常にプリマとして出演し、その声価には不動のものがあった。(画像→)

サン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)のバレエ『ジャヴォット』(Javotte)は、1幕3場の構成で村の祭を背景とした美しい娘ジャヴォットをめぐる他愛のない奇想譚で、台本はジャン=ルイ・クローズ(Jean-Louis Croze)、振付はマリキータ(Mariquita)が行ない、10年以上前の1896年12月にリヨンで初演された。パリでの初演はやっとここで到来したが、すでに古臭い作品と思われた可能性がある。このサン=サーンスのバレエ音楽もなかなか聴く機会がないが、IMSLPの楽譜をながめると第2場の「パ・ド・ドウ」(Pas de deux)に4つのチェロが独奏的に歌う部分もあり、聴いてみたい気持がしている。(↓)下記のCDの解説には「異国風の(日本的な)旋律も…」と記されている。

*参考サイト:(英文)Musicweb International ; Camille Saint-Saëns(1835-1921): "Javotte" Ballet(1896), "Parysatis" Ballet(1902)
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by utsushihara | 2009-02-05 14:49 | オペラ、音楽、演劇1909-10

視覚芸術=映画『ギーズ公の暗殺』の上映

f0028703_1455744.jpg1908年11月15日(日)

芸術的な映画劇場であるシャラス会堂(Salle Charras)では、視覚芸術(ヴィジョン・ダール, vision d’art)と称して11月15日から映像化された演劇作品を上映している。まず有名な歴史的事件を描いた『ギーズ公の暗殺』(l’Assassinat du duc de Guise)は、
アンリ・ラヴダン氏(Henri Lavedan)の台本、
カミーユ・サン=サーンス氏(Camille Saint-Saëns)の音楽、
アンドレ・カルメット氏(André Calmettes)の演出で、
アンリ3世役にシャルル・ル=バルジー氏(Charles Le Bargy)、
ギーズ公役にアルベール・ランベール氏(Albert Lambert)、
ギーズ公の愛人ノワルムーティエ侯爵夫人役にガブリエル・ロビンヌ嬢(Gabrielle Robinne)などの有名俳優が出演している。
同時に上映するのはジュール・ルメートルの短篇『ユリシーズの帰郷』(Le Retour d’Ulysse)とウジェーヌ・ロスタンの『聖なる森』(Le Bois sacré)である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.48; Jan. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288275 « Le Figaro » le 15 Nov. 1908
画像 Crédit photographique:©Photo RMN / Harry Bréjat / Cote cliché : 00-000109 / Fonds : Peintures / Titre : Assassinat du duc de Guise au château de Blois en 1588 / Auteur : Paul Delaroche (1797-1856) / Localisation : Chantilly, Musée Condé

[ Ψ 蛇足 ]
映画が単なる風景・風俗の活写だけでなく、演劇・芝居の映像化という段階に入ったことを示す記事である。映画という娯楽産業が急速に発展してきた時代であった。『ギーズ公の暗殺』は1588年にブロワ城で起きた事件で、その史実にもとづく物語を映画化したということが画期的な出来事であった。(↑)上掲が「闘争」(la lutte)の場面と紹介されているが、何しろ不鮮明なのが残念である。
下掲(↓)は同じ事件を描いたポール・ドラロッシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)の作品であり、シャンティイのコンデ美術館に収められている。

f0028703_1456298.jpgロレーヌ家のアンリ・ド・ギーズ(Henri de Guise, 1549-1588)は、16世紀フランスを吹き荒れた宗教戦争で旧教同盟の主導的な役割を発揮していた。「刀傷」(le balafré)という仇名を持つ闘士でもあり、悲惨な《聖バルテルミーの虐殺事件》でも反ユグノーの先鋭的な行動の目立つ人物であった。当時のフランス国王アンリ3世(Henri III, 1551-1589)は彼の勢力が拡大するのを恐れ、ブロワの城に呼んで暗殺したのだった、

*参考サイト:filmsdefrance.com(英文): L'Assassinat du duc de Guise (1908)
**これまでの関連記事france100.exblog:無声映画+名曲コンサート(シネマ=アーティスティク・コンセール)(1908.02.28)

昔CDダビングしていたサン=サーンスの映画音楽『ギーズ公の暗殺』を久々に聞いてみた。5つの部分からなり、演奏時間は約20分である。映画の作品DBによればこの映画の上映時間は約15分という。木管とホルン各1と弦楽、ピアノ、ハルモニウムという小規模編成の演奏で、舞台の袖で奏くといった軽い響きがしてレトロを感じた。この時代は記録媒体としてやっとフィルムが出来上がったばかりで、しかも無声映画である。映像が流れる間ずっと音楽が鳴り続ける必要があった。音楽はナマ演奏しか存在しない時代である。従って毎晩楽士たちがそのための曲を奏いていたのである。
既に70歳を超えていた老巨匠がこうした時代の最先端の技術=映画に積極的に関わったことは驚異である。
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by utsushihara | 2008-11-16 14:54 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ジョルジュ・マルティ追悼演奏会(サン=サーンスがピアノ独奏)

1908年11月15日(日)

先月死去した指揮者ジョルジュ・マルティを追悼し、その未亡人への義捐金のための演奏会が11月15日午後2時からパリ音楽院の奏楽堂で開かれた。会場は実行委員会に参加を申し込んだ数多くの芸術家、文化人、社交界のお歴々で満たされた。曲目は:
①『バルタザール』序曲(Ouverture de « Balthazar ») ジョルジュ・マルティ(Georges Marty)作曲
②管弦楽組曲『シャイロック』(« Shylock » suite d’orchestre)ガブリエル・フォーレ(Gabriel Fauré)作曲
③歌劇『アルセスト』第1幕から(Fragments du 1er acte d’ « Alceste »)グルック(Gluck)作曲:オペラ座のアット嬢とデルマ氏の独唱
④ピアノ協奏曲第24番ハ短調 K.491(Concerto pour piano en ut mineur)モーツァルト(Mozart)作曲、サン=サーンスの独奏ピアノ
⑤合唱付き交響曲(Symphonie avec choeurs)ベートーヴェン(Beethoven)作曲、オペラ座のガル嬢、ラペィレット嬢、カズヌーヴ氏、フレーリック氏の独唱
となっている。管弦楽と合唱はパリ音楽院コンサート協会、指揮はアンドレ・メサジェ氏である。

f0028703_8371272.jpg出典 Crédit:©BNF-Gallica #288273 « Le Figaro » le 13 Nov. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288275 « Le Figaro » le 15 Nov. 1908
画像 Crédit photographique:© BNF-Gallica; http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b6927729g
5-11-13, salle Gaveau, audition Saint Saëns [pianiste sur scène entouré de l'orchestre] : [photographie de presse] / [Agence Rol]

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)上掲は実際は1913年頃と思われるサル・ガヴォーでの演奏会の写真で、ピアノの名手でもあったサン=サーンスが協奏曲で独奏しているところである。(パリ音楽院の演奏会のものは見つからなかった。)当時70歳を超えていたのにもかかわらず、親しい仲間の死を悼んでピアノ独奏を買って出るのも老巨匠らしい。
この催しはマルティ夫人のための慈善演奏会でもあり、上記記事中にある実行委員会にはサン=サーンスをはじめ、フォーレ、メサジェ、ブリュノー、ピエルネ、デュボワ、ヴィダルなどが名を連ねていた。

**これまでの関連記事france100.exblog:指揮者ジョルジュ・マルティの死(1908.10.11)

***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1908年10月26日(月):(←これは原著者ビュッセルの記憶違いで正しくは11月15日(日)のことである)
メサジェがソシエテ・デ・コンセールのオーケストラ指揮者に任命され、最初のプログラムとして、前任者故ジョルジュ・マルティの「バルタザール」の美しい序曲を指揮する。カミーユ・サン=サーンスが、正確で柔軟で極めて音楽的な奏法で、モーツァルトのピアノの「二調のコンチェルト」を弾く。これは、公開演奏の彼を聴く極めて稀な機会である!・・・
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by utsushihara | 2008-11-15 08:35 | オペラ、音楽、演劇1907-08

悲劇の歌姫マルジルの記念墓碑

f0028703_181063.jpg1908年11月2日(月)

昨年8月12日に悲劇的な急死をとげた魅力的なオペラ座専属歌手ジャーヌ・マルジルの短い生涯の思い出に、彫刻家フランソワ・シカール氏による記念墓碑がバティニョル墓地に建てられた。
虫垂炎の急激な悪化のため、彼女にはノルマンディのカブール街道上で自動車の照明のもとに必要な緊急手術が施されたが、3時間後に死亡したのであった。彼女の遺体は三重の紅サテンの柩に納められ、列車でパリ17区の聖フェルディナン・デ・テルヌ教会まで移送され、30歳で終油の秘蹟を受け、バティニョル墓地に埋葬されていた。
シカールが刻んだ墓碑像には、オペラのデリラ役の衣裳をまとって息絶えるジャーヌ・マルジルの姿が表わされ、『サムソンとデリラ』の楽譜を手にしており、その脇に音楽の女神が壊れた竪琴を持って涙に暮れて立っている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.47;Déc. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #287815 « Le Figaro » le 16 Août. 1907
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288246 « Le Figaro » le 17 Oct. 1908
画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN
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[ Ψ 蛇足 ]
これでやっと1年3ヶ月前に急死した美人歌手マルジルの謎が解けた。ジャーヌ・マルジル(Jane Margyl, 1878-1907)の生没年共に、以前調べた墓地の検索サイトの記載では間違いであったのが検証されたと思う。彼女は本当に30歳の若さで、ドーヴィルで恐らく腹膜炎で死亡したのだ。
(←)左掲は、彼女のデビュを飾った『カヴァレリア・ルスティカーナ』(Cavaleria rusticana)のサントゥッツァ役の姿である。(Jane Margyl dans "Cavalleria Rusticana")
奇しくも彼女の一族(本名はジャーヌ・フロリエ、Jane Floriet)の墓を訪ねたブログがごく最近UPされたばかりなので下記に紹介する。

*参考サイト:Carnet Web de Généalogie de Gilles Dubois; Jane Margyl et Georgette Sandry de la famille Floriet(03 août, 2009)
**これまでの関連記事france100.exblog:オペラ座美人歌手マルジル嬢の急死(の謎)(1907.08.13)
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by utsushihara | 2008-11-02 17:59 | オペラ、音楽、演劇1907-08

アンドレジーの城館ドゥヌーヴァルのお披露目

1908年6月21日(日)

ハーシー・エディ夫人は竣工したばかりのドゥヌーヴァルの館に知人友人たちを招き、興味深い音楽のつどいを催した。この機会に高名なオルガン奏者のアレクサンドル・ギルマン氏が、この館のゆったりとした大広間に据え付けられたカヴァイエ=コル=マルタンのパイプオルガンを初めて演奏した。そのオルガン装置は建築家によって特別にデザインされ、広間の全体的な装飾と完全な調和を保っていた。
曲目はバッハのトッカータや演奏者自作のオルガン・ソナタからなり、手馴れた技の冴えによる見事なもので、その後は、愛想たっぷりの女主人が大勢の招待客をもてなした。比類なく美しい屋敷と庭園の配置は、政府の優れた建築家であるピエール・サルドゥ氏によるもので、ただ賞賛するほかない。氏は最近パリ17区エネー街にフランス劇作家協会の建物も完成させている。
f0028703_1772014.jpgこの屋敷の造りはかなり独創的なものがある。大きな屋根の上に風変わりな鐘楼のような塔が立ち、近くを流れるセーヌ川からは40mの高さゆえに最高の印象を与えてくれる。大きなアメリカ風のヴェランダ、眺望の良いテラスがある庭園、館の四方にあしらわれたパーゴラ(蔓棚)などに人々は見とれた。また同様に注目を集めたのはマルセル・マーニュ氏制作による美しい窓ガラス装飾である。
ドゥヌーヴァルの屋敷は、快適さと美しさの点も含め、今後、パリ近郊で最も個性的で、最も研究され、最も楽しい居館の一つとなるであろう。
当日の招待客の中には:作曲家サン=サーンス氏、劇作家ヴィクトリアン・サルドゥ夫妻、女優マドレーヌ&シュザンヌ・ルメール姉妹、彫刻家ルネ・ド・サン=マルソー夫妻、建築家ピエール・サルドゥ氏、劇作家ロベール・ド・フレー侯爵夫妻、ラ=シャトル公爵、シュヴェーラン侯爵夫人、医師ジェヌヴォワ夫妻、医師レオン・ベルナール氏、等々・・・

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288129 « Le Figaro » le 22 Juin, 1908
画像 Crédit d’image : ©Site du Club Historique d’Andrésy : Le Manoir de Denouval
http://membres.lycos.fr/andresy/manoir.htm

[ Ψ 蛇足 ]
幸いにもこの城館ドゥヌーヴァルの屋敷(Manoir de Denouval)の写真を見つけ出せたので簡略化した画像で引用掲載する。パリからかなり西北郊外となるセーヌ川沿いの町アンドレジー(Andrésy)の一角にある。
ハーシー・エディ夫人(Mme Sarah Hershey Eddy)は裕福なアメリカ人女性で、かつてオルガニストと結婚していた。チョコレート会社のハーシーと関係があるかも知れない。

*参考サイト
(1)Site du Club Historique d’Andrésy (仏語:アンドレジーの歴史クラブ)
(2)オルガン奏者アレクサンドル・ギルマン(Alexandre Guilmant, 1837-1911)
(3)カヴァイエ=コル=マルタン(Cavaillé-Coll-Martin)のパイプオルガンは現存しているかどうか不明。
(4-1)建築家ピエール・サルドゥ(Pierre Sardou, 1873-1952)は有名な劇作家ヴィクトリアン・サルドゥの長男。後年(1929)パリ国際大学都市日本館の建築設計に関わった。
(4-2)『わが半生の夢』 薩摩次郎八(1)

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
アンドレジー(Andrésy)と聞いて思わず「ムムッ。。。」となった方はかなり熱烈なルパン党の方です。ルパンの変名の一つ、ラウール・ダンドレジー(Raoul d’ Andrésy)は母親の姓を名乗ったものだといいます。ルパンにはパリからルーアン、ル・アーヴルまでのセーヌ川下流域が舞台となる作品がどうしても多いのは、作者のモーリス・ルブランの生い立ちにも関係するのですが、ルパンの生い立ちもそうだったのか、と思いを馳せるのも悪くありません。上記の城館も映画に使えそうな雰囲気があります。現在は児童福祉施設になっているようです。折あらば探訪していただければ(見学はできないかも)セーヌ河畔の風光明媚さを感じられるでしょう。
日本でも輸入食品で売っているアンドレジー・ジャム(Andrésy – Confitures)もやや有名ですね。
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by utsushihara | 2008-06-22 17:01 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ローマ大賞をめざす女性たち(ナディア・ブーランジェ)

f0028703_17314955.jpg1908年5月12日(火)

少し前に彫刻部門でのローマ大賞の選考試験において、女性彫刻家のウーヴェルマン嬢が最終選考枠の中に選ばれたことをお伝えしたが、それに続いてもう一人の女性が作曲部門で最終選考に残り、コンピエーニュの合宿所に入ることとなった。それはナディア・ブーランジェ嬢で、パリ音楽院のウィドール氏の生徒であり、彼女はすでに数多くの栄誉を受けている。
芸術アカデミーは、数週間後にウーヴェルマン嬢とブーランジェ嬢をローマのメディチ荘に送ることを決定するかもしれない。

ローマ大賞音楽部門のための予備試験はフーガ(遁走曲)の作曲であり、その選考は終了した。最終選考の合宿所に入るのは得票順に次の6人である:ゲラール氏、マズリエ氏、マルク・デルマ氏、フラマン氏、ナディア・ブーランジェ嬢、マルセル・トゥルニエ氏。
アンドレ・ゲラール(André Gailhard)氏は、すでに1906年に2等賞を得ており、オペラ座の元支配人ゲラール氏の息子に他ならない。
ジュール・マズリエ(Jules Mazellier)氏は、1907年に2等賞を得ている。今回の予選でも2位である。
エドゥアール・フラマン(Edouard Flament)氏は、オペラ座のオーケストラのファゴット奏者である。
マルセル・トゥルニエ(Marcel Tournier)氏は、同じくオペラ座のオーケストラのハープ奏者である。
ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger)嬢は、元パリ音楽院教授のエルネスト・ブーランジェ(Ernest Boulanger, 1815-1900)の娘である。父親もローマ賞を獲得しており、作曲したオペラ・コミック『侯爵夫人の木靴』(Les Sabots de la marquise)などは人気作であった。
ブーランジェ嬢は現在20歳。当フィガロ紙の寄稿者でもあるガブルエル・フォーレ氏とウィドール氏の生徒である。彼女はすでに芸術家としての気質が備わっており、ひょっとしたらローマ大賞を獲得する最初の女性となるかも知れない。
予選においてちょっとした事件があった。試験の規則は受験者が作曲するのは《声楽の》フーガでなければならなかったのである。ところがブーランジェ嬢は「弦楽のためのフーガ」を作曲した。
サン=サーンス氏は規則の条項を楯に取ってこの曲の審査に反対した。しかし他の選考委員たちやその同僚、マスネ、テオドール・デュボワ、ルヌヴー、パラディユ、レイエの各氏は試奏を望み、ブーランジェ嬢は予選を通過することとなった。
彼女は来る16日(土)にコンピエーニュ城内の合宿所に入る。1ヵ月後の6月15日に競争者たちにとって音楽の牢獄の扉が開かれ、同26日か27日に選考委員が音楽院に集まり、結果が明らかにされるだろう。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288088 « Le Figaro » le 13 Mai, 1908
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by utsushihara | 2008-05-12 17:30 | オペラ、音楽、演劇1907-08

聖金曜日のコンサート(1908)クロワザ、ブゾーニ

1908年4月17日(金)

(1)ラムルー管弦楽団による聖金曜日の宗教音楽演奏会(コンセール・スピリチュエル)ではヴァンサン・ダンディ氏の指揮によるバッハとワーグナーの作品が演奏される。とりわけパリでの初演となるのは、楽劇「パルシファル」の第3幕第1場であり、オペラ座のデルマ氏とブリュッセルのモネ劇場所属のクロワザ嬢、リュベ=モンクラ氏らによって歌われる。バッハの曲は「復活祭オラトリオ」のシンフォニアである。
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(2)聖金曜日の4月17日午後8時30分からのパリ音楽院のコンサートには著名なピアノ奏者のブゾーニ氏(→)が独奏者として登場する。曲目は下記の通り。管弦楽と合唱の指揮はジョルジュ・マルティ氏である。
①モーツァルト(Mozert):交響曲変ホ長調(Symphonie en mi bémol)
②ベートーヴェン(Beethoven):ピアノ協奏曲第3番ハ短調(Concerto en ut mineur, pour piano):ブゾーニ独奏(Busoni, Pf)
③パレストリーナ(Palestrina):グロリア・パトリ(Gloria Patri)無伴奏の二部合唱
④モーツァルト(Mozart):アヴェ・ヴェルム(Ave Verum)四声の合唱
⑤サン=サーンス(Saint-Saëns):交響詩「ヘラクレスの青年時代」(La Jeunesse d‘Hercule, poème symphonique)パリ音楽院での初演
⑥リスト(Liszt):ピアノ協奏曲第1番変ホ長調(Concerto en mi bémol, pour piano):ブゾーニ独奏(Busoni, Pf) パリ音楽院での初演
⑦メンデルスゾーン(Mendelssohn):「汝はペテロなり」(Tu es Pétrus) 五声の合唱、初演

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288059 « Le Figaro » le 14 Avril, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288060 « Le Figaro » le 15 Avril, 1908
出典 Crédit d’image:©BNF Fonds de portraits des musiciens
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b77205159/f15.item
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b7720336s/f2.item

[ Ψ 蛇足 ]
コンセール・スピリチュエル(Concert spirituel)は宗教的祝祭行事に関連して開かれた演奏会のことを言うようだ。聖金曜日(Vendredi saint)はキリスト受難の日と考えられ、復活祭の2日前の金曜日(特に13日に当たると恐ろしいと言われた)である。
f0028703_15282269.jpgフランス歌曲随一の歌い手と言われたクレール・クロワザ(Claire Croiza, 1882-1947)は当時まだ25歳の新鋭メゾ・ソプラノ歌手で、ブリュッセルのモネ劇場で歌っていた。彼女はこの年のうちにパリのオペラ座で「サムソンとデリラ」の主役に抜擢される。また後年、作曲家のアルトゥール・オネゲルと恋愛関係に陥り、44歳で一子を産むことになる。
バッハの作品等の編曲でも知られるフェルッチョ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866-1924)は幼少期から神童として演奏活動を始め、リストに勝るとも劣らない超絶技巧の持ち主でもあった。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(仏語)Claire Croiza クレール・クロワザ
(2)Wikipedia(和文)フェルッチョ・ブゾーニ (Ferruccio Busoni, 1866-1924)

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by utsushihara | 2008-04-17 15:26 | オペラ、音楽、演劇1907-08