フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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タグ:エドワード7世 ( 11 ) タグの人気記事

若きポルトガル国王の初めての外遊

1909年11月7日(日)f0028703_21481635.jpg

マヌエル2世は11月に即位後初めてとなる公式の各国訪問の旅に出発した。国王は11月7日リスボンを発ち、まずマドリッドを訪れ、5日間アルフォンソ13世の歓待を受けた。警察機関の厳戒態勢がとられた。王は続いてフランスに渡り、ボルドーの訪問後、シェルブールから英国へ向かった。ウィンザー城には14日に到着し、国王エドワード7世のもてなしを受けた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.47; 20 Nov. 1909

*参考サイト:Wikipedia(和文)マヌエル2世 (ポルトガル王)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ポルトガル国王の葬儀と新国王マヌエル2世の即位 (1908.02.08)
(2)ポルトにおけるマヌエル国王(1908.11.27)
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by utsushihara | 2009-11-07 21:43 | 各国事情1909-10

英国競馬エプソム・ダービーで国王の持ち馬ミノル号優勝

1909年5月26日(水)f0028703_18441652.jpg

英国のエプソム・ダービーは5月26日開催された。国王所有のミノル号(Minoru)が鼻の差でルーヴィエ号(Louviers)を押さえて優勝した。円内の写真は国王エドワード7世御みずから馬を計量に連れていく姿である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.54; Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
馬の名前が「ミノル」(Minoru)というので、これはきっと何か日本語と由来があるに違いないと思った。下記の英文ウィキでは立派な血統のサラブレッドとしか書いていない。それに唯一リンクのある和文ウィキで見てやっとそれらしい情報があった。それは当時100m走で世界最速記録を出した藤井実(みのる)から採ったらしいという。瞬間的であっても世界陸上史上、日本人が最速記録を出していたとは驚きである。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(英文)Minoru (horse)
(2)コトバンク Kotobank(藤井実)
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by utsushihara | 2009-05-26 18:38 | スポーツ、乗物、探検1909-10

英国王エドワード7世が試験飛行中のライト兄弟を訪問

1909年3月17日(水)

f0028703_16483637.jpgエドワード7世は17日(水)の午後、南西部ポー市郊外のポン=ロン飛行場にライト兄弟を訪ねた。ウィルバー・ライトは王の目の前で最初に一人乗りの飛行を披露した。続いて2回目の飛行には彼の妹のケイト(Kate Wright)を同乗させて飛んだ。これらの飛行に国王はいたく興味が引かれ、彼を祝福した。
ライト兄弟はフランスでの試験飛行を終了させ、ローマに向かう予定であるが、彼らに指導を受けたポール・ティサンディエ(円内左)とランベール伯爵(円内右)は契約を結び、飛行学校を設立することにしている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.52; Mai, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618567 «Le Petit journal» No.16884, le 19 Mars, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288374 « Le Figaro » le 21 Fév. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この約1ヶ月前の2月20日には、スペイン国王アルフォンソ13世もこのポン=ロン(Pont-Long)飛行場を訪れた。このときはこの青年王は駐機中の飛行機の操縦席に乗り込み、飛行の仕組みについて15分間の説明を聞いた。王は弟のオルヴィルにも米国での事故がなぜ起きたかの質問を投げかけ、また機体を見回って先般損傷した後尾部分を確かめたりした。
実際彼の直弟子とされたのは3人である。上記のポール・ティサンディエ(Paul Tissandier, 1881-1945)、シャルル・ド・ランベール伯爵(Comte Charles de Lambert, 1865-1944)に加え、リュカ・ジェラーヴィル大尉(Capitaine Lucas Gérardville)がいたが、詳しい情報はまだ入手できない。

*参考サイト: L'aviation à Pau des Frères Wright(仏語)(ボルドーのある小学校の授業用サイトらしい:「飛行」aviation)
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by utsushihara | 2009-03-21 16:45 | スポーツ、乗物、探検1909-10

フラマン作の英国王妃の肖像画公開

f0028703_23583675.jpg1908年6月23日(火)

英国王エドワード7世はフランス芸術院会員で画家のフランソワ・フラマン氏にアレクサンドラ王妃の肖像画の制作を依頼していたが、このほど完成したその絵にいたく満足し、ウィンザー城に飾る前にロンドン市内で公開することを許諾した。
明日(23日)展示される王妃の肖像画は夜会服(ソワレ)を身にまとった姿で、その優美なシルエットが室内の装飾の中に浮かび上がっており、遠景にウィンザー城がうかがえるものである。
フラマン氏がこの作品に着手したのは昨冬からであり、アレクサンドラ妃は何度かのポーズにすすんで同意してくれた。姉妹であるロシアのマリー皇太后もこの際に付き添っており、二人並んだ別の肖像画も画家に注文していた。こちらの絵も完成したところで、毎年数週間姉妹で一緒に過ごすデンマークのフヴィドール邸に飾られることになっている。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288129 « Le Figaro » le 22 Juin, 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.42; Juillet, 1908
画像 Crédit photographique:©Photo RMN : Cote cliché : 05-520821- © RMN (Musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski
Titre : Madame Flameng, femme de l'artiste / Auteur : François Flameng (1856-1923)
Localisation : Paris, Musée d'Orsay / Acquisition : don de l'artiste à l'Etat pour le Luxembourg 1899

f0028703_235968.jpg[ Ψ 蛇足 ]
フランソワ・フラマン(François Flameng, 1856-1923)は確かな腕を持った正統的な肖像画家、歴史画家として知られる。
雑誌『ジュセトゥ』にこの栄誉ある英国王室御用達画家のフラマンを紹介する特集記事が組まれている。(↑)上掲が記事にある『アレクサンドラ王妃』の絵だが、カラー画像は残念ながら見出せなかった。彼の腕前の確かさは(←)左掲のオルセー美術館蔵の『画家の妻フラマン夫人』(Madame Flameng, femme de l'artiste)の端整な美しさでも納得させられる。

絶世の美貌の姉妹だと賞賛の眼差しが送られたデンマーク王クリスチャン9世の2人の王女アレクサンドラ(アリックスAlix)とマリー(ダグマール Dagmar)は、それぞれ英国王エドワード7世妃アレクサンドラとロシア皇帝アレクサンドル3世妃マリア・フョードロヴナとなったあとでも仲が良く一緒に過ごすことが多かったようだ。アレクサンドル3世は1894年に49歳で死去していたため、マリーは皇太后となっていた。ロシア皇帝は息子のニコライ2世である。

*参考サイト
(1)Wikimedia : Image:Dagmar and alexandra.jpg (若い頃のアリックスとダグマールの写真)
(2)Wikipedia(和文)アレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alix) Alexandra of Denmark
アレクサンドラ・カロリナ・マリー・シャルロット・ルイーズ・ジュリア(Alexandra Carolina Marie Charlotte Louise Julia, 1844-1925)
(3)Wikipedia(和文)マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)
マリー・ソフィー・フレデリケ・ダグマール(Marie Sophie Frederikke Dagmar, 1847-1928)
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by utsushihara | 2008-06-23 23:56 | 美術、彫刻1907-08

ファリエール大統領の英仏博覧会訪問

f0028703_1642583.jpg1908年5月25日(月)

ファリエール大統領は5月25日朝、ロンドンに向けて出発した。同行者はピション、ラヌス、ヴァレンヌ、デュラスタ各氏とラッソン大佐、ケロードラン司令官などである。ロンドン到着時には国王エドワード7世の歓迎を受けた。そのあとバッキンガム宮殿で王室や閣僚、著名人との夕食会がおこなわれた。
翌26日には、フランス大使館において大統領主催による在英居住者の祝宴が開かれ、勲章の授与もおこなわれた。午後には英仏博覧会の会場を訪れ、英国国王夫妻、皇太子夫妻とともに博覧会実行委員代表のダービー卿、ダルジル公爵の案内を受けた。夜はマールボロー館において皇太子主催の夕食会があった。
27日昼には、ギルドホールにおいてロンドン市長夫妻主催の午餐会が催され、大統領と王室一行が招かれた。夜は英国外務省のエドワード・グレイ卿による夕食会であった。

f0028703_1634535.jpg(←)画像は、ロンドンの英仏博とフランス大統領の訪英を記念して蝋人形博物館で君主の姿を複製した人形を展示した。ここでは国王エドワード7世、ファリエール大統領、アレクサンドラ王妃、皇太子のとてもそっくりの蝋人形と、宮廷の女官の姿が見える。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.42; Juillet, 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.43; Aoû0t, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
博覧会実行委員長だったダービー伯爵(Frederick Stanley, Earl of Darby, 1841-1908)は6月14日にケント州ホルウッド城で死去した。67歳だった。彼は第16代当主で、保守党の閣僚を歴任し、カナダ総督をつとめ、当地でアイスホッケーのスタンレー杯を創設したほどのスポーツマンでもあった。

*参考サイト:Wikipedia(英文)Frederick Stanley, 16th Earl of Derby

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)通産大臣クルッピの訪英(1908.05.07)
(2)ロンドンで英仏博覧会開幕(1908.05.14)
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by utsushihara | 2008-05-25 16:12 | 各国事情1907-08

英国王エドワード7世のパリ滞在

1908年3月6日(金)

(3月3日付フィガロの記事)
エドワード7世陛下はロシアの皇太后のロンドン到着を迎えるため、フランスへの旅行を延期していたが、明後日5日(木)夜にパリに到着する。英国王はブリストル・ホテルに宿泊されるが、パリ滞在は非常に短いため極力「お忍び」にしたいと考えている。
国王は週末にはビアリッツに向かい、1ヵ月ほど別荘に滞在する予定である。

(「ジュセトゥ」の記事)
f0028703_17582294.jpgエドワード7世陛下は皇太子ウェールズ公を伴い、ロンドンを後にした。この旅行の機会に旅先で新しい御用車メルセデス45馬力を試す予定である。(画像→)3月中にカンボ(Cambo)に住む王の敬愛する詩人で劇作家のエドモン・ロスタンのもとをこの自動車で訪ねる。国王はそのあとビアリッツを来訪するシラノの作者にこの車を供用するつもりである。

(3月7日付フィガロの記事)
エドワード7世陛下は6日朝、強く吹く風と降りしきる雨の中、秘書官のジョン・ウォード氏とともに御用車でムードンのブリヤン荘に住む彫刻家ロダンのもとを訪ね、小一時間アトリエを見学した。昨年ロダンがロンドンを訪れたときも、国王はこの巨匠の芸術と才能にことのほか厚情を示しており、今回の訪問で目にした最新の作品に大いに満悦した。
国王は午後1時にブリストル・ホテルに戻り、昼食の席にクレマンソー首相、ピション外相などを迎えた。午後3時にはエリゼ宮を訪れ、第102連隊の軍楽隊による外国君主を迎える栄誉礼を受けた。英国国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」が演奏された。建物の石段で国王を迎えたファリエール大統領は親しげに握手を交わし、半円形の大広間に導いた。会談は40分間たらずで終わり、到着時と同様の軍楽隊の礼奏が行なわれた。
英国王はその足で英国大使館へ入り、午後8時に招待客たち10余名と夕食をとった。

エドワード7世は7日朝10時36分発の特別列車でオルセー駅からビアリッツに向かう。保養地での滞在中には政府はパオリ氏をお世話役として付き添わせている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.38; Mars, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288016 « Le Figaro » le 3 Mars, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288020 « Le Figaro » le 7 Mars, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
ホテル・ブリストル(Hôtel Bristol)は、エリゼ宮とは目と鼻の先のフォーブール・サン=トノレ街にある。歩いても数分の距離であるが、国家元首が歩いてエリゼ宮に入ることは勿論ありえない。このホテルは伝統的に英国の王室や政府要人のパリでの定宿になっている。昔、サッチャー首相時代に「ご滞在中」で周辺の警備がものものしい時に遭遇したことがある。
ホテルの入口は狭い感じだが、意外と奥行きがあり、中庭も美しい。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ビアリッツの春(1907.03.04)
(2)エドモン・ロスタンの別荘のための装飾壁画(1906.11)

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by utsushihara | 2008-03-06 17:56 | フランス社会政経1909-10

独皇帝ウィルヘルム2世の英国訪問

f0028703_16373625.jpg1907年11月11日(月)

ドイツ皇帝は皇室御用船「ホーエンツォレルン」号に乗り込んでフレシング港を発ち、11月11日英国のポーツマス港に到着した。ベレスフォード提督(Beresford)が出迎えたが、濃い霧のため上陸が遅れた。ウィルヘルム2世とその妃はウィンザー城で国王エドワード7世の歓迎を受けた。簡単なロンドン市内視察の後、一行はクライストチャーチ近郊のハイ・クリフ城に赴いた。その城はアルフレッド・クーパー卿から皇帝の滞在先として提供されたもので、海を望める南向きの丘の上に位置し、周囲は森林に囲まれ、快適な滞在先である。皇帝はおそらくこの城に2週間ほど滞在し、その後まっすぐドイツに戻る予定である。

出典Crédit:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

f0028703_163758100.jpg*「フィガロ」11月1日付の記事から:
皇帝は軽い風邪をひかれたが、寝込むほどにはなっていない。戦艦「シャルンホルスト」(Scharnhorst)、「ケーニヒスベルク」(Königsberg)、「スライプナー」(Sleipner)の3隻が御用船「ホーエンツォレルン」(Hohenzollern)とともに回航して8日にフレシング港に入り、皇帝自身は特別列車でそこに9日に到着し、すぐに御用船に乗り込まれる。11月10日の朝に英国に向けて出港される。
出典Crédit:BNF-Gallica #287893 « Le Figaro » le 1er Nov. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
この独皇帝の英国訪問の目的は、先般掲載のスペインの王族の一人、両シチリア公国のドン=カルロス公爵とフランス・オルレアン家のルイーズ公女との結婚式に参列のためと思われる。欧州各国の王室では相変わらず政略結婚が続いており、どの国の王族も親戚関係でないのは皆無というのが当然だった。
画像はいずれもポーツマスでの独皇帝の上陸歓迎の様子。
クライストチャーチはポーツマスの西の海岸沿いにある地方都市である。

*参考サイト:Highcliffe Castle, Rothesay Drive, Christchurch(英文)ハイクリフ城
**これまでの関連記事france100.exblog:スペイン国王一行のパリ訪問(1907.10.28)
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by utsushihara | 2007-11-11 16:33 | 独墺バルカン情勢1907-08

英国王エドワード7世、マリエンバートから戻る

f0028703_1419430.jpg1906年9月7日(金)

湯治を終えた英国王エドワード7世は、9月7日マリエンバードを離れ、スタンリー・クラーク将軍とともにロンドン入りした。掲載の写真は国王と、同行するクラーク将軍である。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
同姓同名のスタンリー・クラーク(Stanley Clarke)という人は多い。
検索で最も多いのはジャズのベース奏者であるようだ。
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by utsushihara | 2006-09-07 14:19 | 各国事情1905-06

スペイン国王とエナ公女のご婚約

f0028703_1815134.jpg1906年3月10日(土)

3月10日に開かれたスペイン内閣の会議で、スペイン国王アルフォンソ13世の名において、国王自身とヴィクトリア=ウージェニー・バッテンベルグ公女(親族中ではエナと呼ばれる)の婚約を発表した。公女は英国王エドワード7世の姪にあたる。未来の王妃のスペイン王室費予算は25万フランと決定した。
これに先立つ3月7日にはサン=セバスチャンにあるミラマー宮殿の礼拝堂で、公女のプロテスタントからカトリックへの改宗のミサが行なわれた。
アルフォンソ国王は、ビアリッツに滞在中の英国王エドワード7世と何度も訪問を交わされている。結婚式は6月3日の予定である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906
画像Crédit : Le Petit Journal illustré du 11 Février 1906

[ Ψ 蛇足 ]
すでに05年12月に書いた「アルフォンソ13世ご結婚のお相手」の続報である。まるでゴシップ記事のようなご婚約に至るまでの二人のあいだに起きた出来事については上記画像とともに書かれている記事Le Petit Journal illustréが詳しい。
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by utsushihara | 2006-03-10 20:11 | 各国事情1905-06

アルフォンソ13世ご結婚のお相手

f0028703_1235029.jpg1905年12月

今やスペイン王アルフォンソ13世と英国のバッテンベルグ公女ヴィクトリア=ウジェニーの婚約は既定の事実と考えることができる。
未来のスペイン王妃は、エドワード7世の妹ベアトリス王女と故バッテンベルグ公爵ヘンリーとの間に生まれた。名付け親は元フランス皇妃のウジェニーである。
この元皇妃は、消息筋によると、アルフォンソ13世に宛てて名付け娘の写真に手紙を添えて送ったという。その中で彼女は、いかなる写真技術をもっても公女の美しさは表わしえないし、いかなる文筆の才をもっても彼女の心と知性の本質を描きだせません、と語ったという。
すべての手はずが公女には内緒のうちに進められた。アルフォンソ13世がロンドンを訪問した際に公女と会見したところ、彼女が19歳の青年王に及ぼした印象は大きく、婚礼の準備のためにあやうくベルリンとウィーンへの旅行を取り止めるところであった。
マドリッドの王室内ではアルフォンソ王の恋愛結婚を容認するにいくつかの困難を生じたのは確かである。何度かの説明・説得が繰り返されたあと、若い君主の熱意によりその意志は容認された。
こうしてドイツは婚姻戦略には敗れ去った。そして女性たちは、我々が知る通り、各国王室の運命を左右する役割を演じているのである。

出典:BNF-Gallica #102977 « Je sais tout » No.12; Jan.1906

[ Ψ 蛇足 ]
アルフォンソ13世 Alphonso XIII (英文)は父親の死後生まれたので、誕生と同時に王位に就いた。(1886-1941)英語のページから「日本語版」のページへ飛べます。
画像はバッテンベルグ公女ヴィクトリア=ウジェニー Victoria Eugenie of Battenberg(英文)(1887-1969) 当時18歳。
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by utsushihara | 2005-12-13 11:40 | 各国事情1905-06