フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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タグ:アルフォンソ13世 ( 12 ) タグの人気記事

若きポルトガル国王の初めての外遊

1909年11月7日(日)f0028703_21481635.jpg

マヌエル2世は11月に即位後初めてとなる公式の各国訪問の旅に出発した。国王は11月7日リスボンを発ち、まずマドリッドを訪れ、5日間アルフォンソ13世の歓待を受けた。警察機関の厳戒態勢がとられた。王は続いてフランスに渡り、ボルドーの訪問後、シェルブールから英国へ向かった。ウィンザー城には14日に到着し、国王エドワード7世のもてなしを受けた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.47; 20 Nov. 1909

*参考サイト:Wikipedia(和文)マヌエル2世 (ポルトガル王)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ポルトガル国王の葬儀と新国王マヌエル2世の即位 (1908.02.08)
(2)ポルトにおけるマヌエル国王(1908.11.27)
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by utsushihara | 2009-11-07 21:43 | 各国事情1909-10

パリでフェレーの銃殺に抗議する大規模なデモ行進

1909年10月17日(日)
f0028703_20552071.jpg
フェレーの銃殺に対する新たな抗議の意思表示のため、社会主義的な新聞社等が呼びかけ、17日午後に行なわれた大規模なデモ行進は約3万人まで膨れ上がったが、4日前(13日)の大混乱とはうって変わって、幸いにも流血や乱闘の騒ぎはなく、革命歌を歌うなど平穏な中での行動が目立った。
(↑)写真はスペイン大使館への襲撃に備えて17区のヴィリエ通りに幾重にも増強して設営された軍の部隊と警官隊の非常線である。

スペイン政府の社会主義的活動への弾圧に抗すべくパリで新聞活動を続けるシャルル・マラト、アルベールの両氏はモンヒックでのフェレーの処刑に抗議するため、デモ行進を組織した。これには60台の自動車も加わり、バスティーユを出発し、リュクサンブール公園やコンコルド広場の主要なパリの道路を通ってスペイン大使館前で再結集するというものであった。しかしながら最後の地点で警察の介入を受け、散会となった。

f0028703_20555471.jpg社会主義派の代議士、マルセル・サンバ、ウィルム、ヴァイヤンらは議員の式綬を掛けて行進に加わり、仲間たちへ節度ある行動をうながした。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618780 « Le Petit journal » No.17097, le 18 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.43; 23 Oct. 1909

f0028703_20562058.jpg[ Ψ 蛇足 ]
(←)シャルル・マラト(Charles Malato, 1857-1938)は1905年にパリを訪問したアルフォンソ13世に対する爆弾テロの容疑者として逮捕されたことがある。

f0028703_20564591.jpgマルセル・サンバ(Marcel Sembat, 1862-1922)はパリ選出の代議士で、後年レオン・ブルム戦時内閣で閣僚となる。(→)

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Charles Malato

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺(1909.10.13)
(2)スペイン国王に対する爆弾テロ(1905.05.31)無政府主義者で文筆家のシャルル・マラト(Charles Malato)を逮捕
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by utsushihara | 2009-10-16 20:54 | フランス社会政経1909-10

バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺

1909年10月13日(水)
f0028703_2136565.jpg
先般7月、バルセロナにおいて流血の事態に陥った反政府的な暴動の首謀者として、現代学校の校長フランシスコ・フェレー(Francisco Ferrer, 1859-1909)(写真→)が逮捕されたが、バルセロナのみならずマドリッドやバレンシアでの革命運動の扇動者だとして軍事法廷に訴追されていた。彼を死刑とする判決が下されたニュースに対し、人々は国王によって刑罰が減免されるだろうと思っていた。しかしながら憲法改正の後では国王には恩赦の権限はなくなっていた。f0028703_21375063.jpg
首相のマウラはその責任を取り、フェレーは10月13日モンヒックの城砦の空堀で銃殺されたのである。その数日後、アルフォンソ国王はマウラ内閣の総辞職を認め、自由主義的なモレに新内閣を組織するよう命じた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569215 « Le Matin »No.9361; le 14 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.43; 23 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この日の夜のパリでは、夕刊の特別号でフェレーの銃殺を伝えるニュースが報じられるや街頭のあちこちでスペイン国王と政府・軍部に抗議する人々が集まり、約1万人規模のデモ行進や集会が行なわれた。まるでパリに革命的暴動が起きたかのような勢いであった。レーピン総監は暴徒の中にはならず者の集団が混じっていると見ていたが、警官が一人深い傷を負ったあと死亡するという事態となった。負傷者は55名。その後応援の警官隊が駆けつけ、暴徒は逃亡し、街は静けさを取り戻した。(↓)下掲は、暴徒が押し寄せた在仏スペイン大使館付近(当時)のクールセル大通りの狼藉の跡である。
f0028703_2139985.jpg

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Francisco Ferrer
**これまでの関連記事france100.exblog:バルセロナの市街戦(1909.07.26)
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by utsushihara | 2009-10-13 21:35 | 各国事情1909-10

英国王エドワード7世が試験飛行中のライト兄弟を訪問

1909年3月17日(水)

f0028703_16483637.jpgエドワード7世は17日(水)の午後、南西部ポー市郊外のポン=ロン飛行場にライト兄弟を訪ねた。ウィルバー・ライトは王の目の前で最初に一人乗りの飛行を披露した。続いて2回目の飛行には彼の妹のケイト(Kate Wright)を同乗させて飛んだ。これらの飛行に国王はいたく興味が引かれ、彼を祝福した。
ライト兄弟はフランスでの試験飛行を終了させ、ローマに向かう予定であるが、彼らに指導を受けたポール・ティサンディエ(円内左)とランベール伯爵(円内右)は契約を結び、飛行学校を設立することにしている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.52; Mai, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618567 «Le Petit journal» No.16884, le 19 Mars, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288374 « Le Figaro » le 21 Fév. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この約1ヶ月前の2月20日には、スペイン国王アルフォンソ13世もこのポン=ロン(Pont-Long)飛行場を訪れた。このときはこの青年王は駐機中の飛行機の操縦席に乗り込み、飛行の仕組みについて15分間の説明を聞いた。王は弟のオルヴィルにも米国での事故がなぜ起きたかの質問を投げかけ、また機体を見回って先般損傷した後尾部分を確かめたりした。
実際彼の直弟子とされたのは3人である。上記のポール・ティサンディエ(Paul Tissandier, 1881-1945)、シャルル・ド・ランベール伯爵(Comte Charles de Lambert, 1865-1944)に加え、リュカ・ジェラーヴィル大尉(Capitaine Lucas Gérardville)がいたが、詳しい情報はまだ入手できない。

*参考サイト: L'aviation à Pau des Frères Wright(仏語)(ボルドーのある小学校の授業用サイトらしい:「飛行」aviation)
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by utsushihara | 2009-03-21 16:45 | スポーツ、乗物、探検1909-10

スペイン国王のバルセロナ訪問

f0028703_17161784.jpg1908年3月10日(火)

スペイン国王アルフォンソ13世は、万が一のことを心配する人々の忠告にもかかわらず、革命運動の温床とされるバルセロナを訪れた。産業大学の建設起工式に参加するためであった。王は首相のマウラ氏と海相のフェランディス提督の同伴のもと港湾政庁でレセプションに臨んだが、公式行事の間は何事もなく、大いに歓待を受けた。

国王アルフォンソ13世の列車は朝9時にバルセロナの駅に到着した。駅舎を出て王室御用車に乗り込むとき、すでに民衆の熱烈な歓迎の声であたりは満たされた。国王の身辺の懸念は打ち消された。儀杖兵に守られ港湾政庁の宮殿に向かう間、沿道には国旗が掲げられ、黒山の人だかりで歓呼の連続であった。人々は帽子やハンカチを振って王を迎えた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.38; Mars, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288024 « Le Figaro » le 11 Mars, 1908
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by utsushihara | 2008-03-10 17:14 | 各国事情1907-08

スペイン国王一行のパリ訪問

f0028703_18776.jpg1907年10月28日(月)

スペインの国王アルフォンソ13世夫妻が幼い皇太子(アストゥリアス公)を連れて「非公式に」パリを訪れた。同行したのは外務大臣のサラザール閣下、宮廷女官長のサン=カルロス公爵夫人、大貴族のサント=マウロ公爵、侍従長のトレシーラ侯爵、参謀副官のグロス伯爵である。一行は11月17日に英国で行なわれる予定の両シチリア公国のカセルタ伯爵家のカルロとフランス・オルレアン家のルイーズ公女との婚礼に参列するための旅行であり、その途上でパリに立寄ったものである。夜にはエリゼ宮で夕食会が開かれ、芸術的な夕べが催された。その後、エリゼ宮を後にした一行はまっすぐアンヴァリッド鉄道駅に赴き、シェルブールに向けて出発した。シェルブールでは国王の栄誉を称える駆逐艦の演習が行なわれる。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
写真(↑)は、ファリエール大統領に生後5ヶ月の皇太子を会わせるヴィクトリア妃。同妃にとっては今回の英国旅行が里帰りの機会でもあり、赤児を連れてきた理由が納得できる。
f0028703_1873118.jpgまた今回のフランス立寄りには、外務大臣のサラザール(Allen de Salazar)や参謀副官のグロス(Grosse)が同行しており、モロッコで展開中の軍事作戦で仏西が協力して行動している点も見逃せない。
右(→)画像は、射撃を愛好し、自信もあるアルフォンソ国王が滞在のわずかな時間をさいてその腕前を披露している。
スペインの皇太子は伝統的にイベリア半島北部のアストゥリアス公爵領(Principado de Asturias)を受け、その名を称している。英国のウェールズ公(Prince of Wales)と同様である。

**これまでの関連記事france100.exblog: スペイン王室で長子誕生(1907.05.10)
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by utsushihara | 2007-10-28 18:04 | フランス政治社会1907-08

スペイン王室で長子誕生

f0028703_1155276.jpg1907年5月10日(金)

5月10日の正午ごろ、スペインの若きヴィクトリア王妃が国王アルフォンソ13世の世継となる男子を産んだ。グティエレス医師がお産に立ち会った。1時間後、父となったアルフォンソ国王が息子を宮中に披露した。
洗礼は5月18日に行なわれ、小さな王子は次のような名前をつけられた。
アルフォンソ・ピオ・クリスティーノ・エドゥアルド・フランシスコ・グィンネロ・カルロス・エンリク・エンガイロ・フェルナンド・アントニオ・ヴェナンシオ・エゥジェニオ
その由来は下記の通りとなる。
f0028703_1164753.jpgアルフォンソ Alphonso(父親、祖父)
ピオ Pio(洗礼式の代父にもなったローマ法王にちなんで、ただし式には代理人の枢機卿が出席)
クリスティーノ Christino(洗礼式の代母から)
エドゥアルド Eduardo(英国王)
フランシスコ Francisco(曽祖父)
グィンネロ Guinnero(母方の祖父)
カルロス Carlos(親の結婚式の立会人ブルボン公)
エンリク Enrique(ヘンリー・オブ・バッテンベルグ公から)
エンガイロ Engairo(王室の守護聖人)
フェルナンド Fernando(同上)
アントニオ Antonio(同上)
ヴェナンシオ Venancio(同上)
エゥジェニオ Eugenio(ウジェニー元后妃)

右掲(→)はスペインの「王のゆりかご」(Le berceau royal)である。アルフォンソ12世とアルフォンソ13世が代々乳呑み児の時を過ごし、何日か前から将来恐らくアルフォンソ14世となる赤児に与えられている。
f0028703_119753.jpgまた左掲(←)はマドリッド王宮内にある王の居室の一つである。若きヴィクトリア王妃は息子のアルフォンシートを養育するためにこの育児室に入れ、サンタンデール出身の乳母の見守る中で眠らせている。英国風の控え目で明るく魅力的な室内で、大きな電灯、丸テーブル、そして子供向けの模様をあしらった布地が壁に張られている。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.29; JUIN, 1907

[ Ψ 蛇足 ]
予言的な言い方になるが、スペイン王家はアルフォンソ13世で終焉を迎える。(1931年スペイン革命)この子は両親とともに国外に亡命するだろう。

長い名前というと、すぐに落語の「寿限無」を思い出すが、欧州各国の王室の伝統ではこのぐらい長い名前をつけるのはごく一般的であった。本人ならば物心つくまでには自分の名前は全部マスターしただろうと思う。昨今の日本一長い駅名競争も、やる気なら何とでもなるだろうにということか。
*参考サイト:「にほんごであそぼ」ファンサイト、寿限無
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by utsushihara | 2007-05-09 11:02 | 各国事情1907-08

爆弾テロの犯人見つかる

f0028703_21401293.jpg1906年6月3日(日)

アルフォンソ国王に対する爆弾テロ事件の捜査の結果、実行犯は5月21日バルセロナからやってきたマテオ・モラルという無政府主義者、27歳と判明した。
実際この男は6月3日マドリッドから20km離れたトーレホネの駅の近くで警察官から挙動不審で見止められ、分署までついて来るように命じられた。男は最初つき従うようなそぶりを見せたが、やにわに銃を発砲してその警官を殺し、次いで自殺した。
警察当局は、同じ3日、バルセロナの現代学校の校長フェレー氏を無政府主義者に同調した容疑で逮捕した。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は6日にマドリッドの死体保管所の職員たちによってカメラの前に引き起こされた無政府主義者モラルの遺骸である。
また捜査の続きを述べれば、「エル・モリン」という共和派の新聞社主ナケンス氏が逮捕された。彼は、テロの当日、モラルから身を隠す場所の提供を頼まれ、彼自身も逃亡を手助けすることが栄誉ある行為であると考えたことを公表したことによる。
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by utsushihara | 2006-06-03 03:38 | 各国事情1905-06

スペイン国王とエナ公女のご婚約

f0028703_1815134.jpg1906年3月10日(土)

3月10日に開かれたスペイン内閣の会議で、スペイン国王アルフォンソ13世の名において、国王自身とヴィクトリア=ウージェニー・バッテンベルグ公女(親族中ではエナと呼ばれる)の婚約を発表した。公女は英国王エドワード7世の姪にあたる。未来の王妃のスペイン王室費予算は25万フランと決定した。
これに先立つ3月7日にはサン=セバスチャンにあるミラマー宮殿の礼拝堂で、公女のプロテスタントからカトリックへの改宗のミサが行なわれた。
アルフォンソ国王は、ビアリッツに滞在中の英国王エドワード7世と何度も訪問を交わされている。結婚式は6月3日の予定である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906
画像Crédit : Le Petit Journal illustré du 11 Février 1906

[ Ψ 蛇足 ]
すでに05年12月に書いた「アルフォンソ13世ご結婚のお相手」の続報である。まるでゴシップ記事のようなご婚約に至るまでの二人のあいだに起きた出来事については上記画像とともに書かれている記事Le Petit Journal illustréが詳しい。
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by utsushihara | 2006-03-10 20:11 | 各国事情1905-06

アルフォンソ13世ご結婚のお相手

f0028703_1235029.jpg1905年12月

今やスペイン王アルフォンソ13世と英国のバッテンベルグ公女ヴィクトリア=ウジェニーの婚約は既定の事実と考えることができる。
未来のスペイン王妃は、エドワード7世の妹ベアトリス王女と故バッテンベルグ公爵ヘンリーとの間に生まれた。名付け親は元フランス皇妃のウジェニーである。
この元皇妃は、消息筋によると、アルフォンソ13世に宛てて名付け娘の写真に手紙を添えて送ったという。その中で彼女は、いかなる写真技術をもっても公女の美しさは表わしえないし、いかなる文筆の才をもっても彼女の心と知性の本質を描きだせません、と語ったという。
すべての手はずが公女には内緒のうちに進められた。アルフォンソ13世がロンドンを訪問した際に公女と会見したところ、彼女が19歳の青年王に及ぼした印象は大きく、婚礼の準備のためにあやうくベルリンとウィーンへの旅行を取り止めるところであった。
マドリッドの王室内ではアルフォンソ王の恋愛結婚を容認するにいくつかの困難を生じたのは確かである。何度かの説明・説得が繰り返されたあと、若い君主の熱意によりその意志は容認された。
こうしてドイツは婚姻戦略には敗れ去った。そして女性たちは、我々が知る通り、各国王室の運命を左右する役割を演じているのである。

出典:BNF-Gallica #102977 « Je sais tout » No.12; Jan.1906

[ Ψ 蛇足 ]
アルフォンソ13世 Alphonso XIII (英文)は父親の死後生まれたので、誕生と同時に王位に就いた。(1886-1941)英語のページから「日本語版」のページへ飛べます。
画像はバッテンベルグ公女ヴィクトリア=ウジェニー Victoria Eugenie of Battenberg(英文)(1887-1969) 当時18歳。
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by utsushihara | 2005-12-13 11:40 | 各国事情1905-06