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フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

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ベルギー国王レオポルド2世の死去(1909)

1909年12月17日(金)ベルギー国王レオポルド2世の死去(1909)_f0028703_169234.jpg

ベルギー国王レオポルド2世は12月17日午前2時に死去した。2日前に施した腸閉塞の手術が成功したかに見え、医師団の経過報告にも「国王の容体は良好、体温37度3分、脈拍72」と伝えられたのだが、容体が急変し、医師たちが呼ばれたが手の施しようがなかった。国王は数日前から体調を崩し、レーケン城のそばの「ヤシの館」(Le pavillon des Palmiers)内の居室で静養していた。74歳だった。

レオポルド2世は1835年4月9日ブリュッセルに生まれた。ベルギーが立憲君主国となって初めての王レオポルド1世とその妃としてオルレアン王家から嫁いだルイーズ=マリー・ドルレアンとの間に出来た最初の息子であった。彼は1853年にハンガリー王族の姫君マリー=ヘンリエッテを娶り、1865年12月の父王の死に伴い、王位を継いだ。彼には息子が1人、娘が3人あった。しかし王位を継ぐべき息子は10歳で病死したため、王位は王弟フランドル伯フィリップの息子で甥にあたるアルベールが継承することになっていた。

彼の治世における偉大な業績はアフリカ中部ベルギー領コンゴの創設と開発であり、その地からもたらされたゴムを主とした生産物の富はベルギーの国力を豊かに潤わせた。そかしその強引な植民地統治施策は、非人道的な残虐なものとして治世半ばからしばしば批判の的となった。
ベルギー国王レオポルド2世の死去(1909)_f0028703_1610142.jpg

レオポルド2世は遺言として、葬儀は質素であることを望む、と記していたが、その謙虚な願いにかかわらず12月22日、世界各国からの参列者を含め、ブリュッセルで厳かに執り行なわれた。(画像↑)

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60-61; Jan-Fév. 1910
出典Crédit:©Larousse - Chronique du 20e siècle, 1908.09 @MFJ
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059976 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.51; le 18 Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738467 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.1; le 1 Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
レオポルド2世(Léopold II de Belgique, 1835-1909)の時代にベルギーは小国ながら財政は富み、国内各地に壮大な建造物が建てられた。首都ブリュッセルを訪れてみると、王宮や裁判所、劇場、博物館など軒並みに規模の大きな建築物の立ち並ぶ中心部に意外な驚きを感じた。数多くのアール・ヌーヴォー様式の邸宅などもこの時代のベルギーの繁栄が背景にあったのだろうと思う。

**これまでの関連記事france100.exblog:ベルギーのアルベール王太子がコンゴから帰還 (1909.08.16)
# by utsushihara | 2009-12-17 16:07 | 各国事情1909-10

黒人ボクサー3度目の王者決戦

1909年12月11日(土)黒人ボクサー3度目の王者決戦_f0028703_14201520.jpg

12月11日、シルク・ド・パリの特設リングにおいて、サム・マクヴェーとジョー・ジーネットの対戦が行なわれた。2人の黒人ボクサーの王者対決は3度目となり、どちらが強いかを決定づける試合は大いに待ち望まれていた。カナダ出身のジョー・ジーネットはこれまで見たこともないほど敏捷で科学的な豪腕ボクサーとして知られ、またサム・マクヴェーはその強力なパンチで牛を撲殺できるという評判だった。
第1回目の対戦では20ラウンドの末、判定でサムが勝った。2回目では48ラウンドのあとサムがリングに戻らなかったため、ジーネットの勝利となっていた。
今回は、第26ラウンドで疲労し始めたサムが、ジョーのリズムを鈍らせようとして組みかかるようになり、30ラウンドのあと結局試合は無効と宣言された。満場の観客席ではそれを不服とする怒号と口笛が飛び交った。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.1; Jan. 1910
出典Crédit avec l’illustration:Larousse Chronique du 20e siècle / 1987.09 @MFJ

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ボクシングの大試合(サム・マクヴェー対ジョー・ジーネット)(1909.02.20)
(2)史上最長のヘビー級ボクシング・マラソン試合 (1909.04.17)
# by utsushihara | 2009-12-11 14:19 | スポーツ、乗物、探検1909-10

ノーベル文学賞にスウェーデンのセルマ・ラーゲルレーヴ女史

1909年12月10日(金)
ノーベル文学賞にスウェーデンのセルマ・ラーゲルレーヴ女史_f0028703_2247314.jpg

1909年のノーベル文学賞は、12月10日スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴ女史に与えられた。彼女は『ゲスタ・ベルリングの伝説』(La Saga de Gösta Berling, 1890-91)や『ニルス・ホルゲルソンの驚異の旅』(ニルスのふしぎな旅)(Le Merveilleux voyage de Nils Holgersson, 1906-07)が知られる。選考の過程で複数の受賞者となる可能性があったが、最終的に彼女だけとなり、20万クローネの賞金を受け取った。

上掲(↑)は彼女の有名な小説をもとに劇化し、ストックホルムで上演された『ゲスタ・ベルリングの伝説』の一場面である。

ノーベル文学賞にスウェーデンのセルマ・ラーゲルレーヴ女史_f0028703_22482074.jpg
出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
出典Crédit:©Larousse - Chronique du 20e siècle, 1908.09 @MFJ

[ Ψ 蛇足 ]
セルマ・ラーゲルレーヴ(Selma Lagerlöf, 1858-1940)はスウェーデン人としては最初のノーベル賞受賞者であり、また女流作家としての最初の文学賞となった。当時のフランスの新聞・雑誌でも彼女の受賞は画期的であったことが注目される。
# by utsushihara | 2009-12-10 22:45 | 文芸、評論1909-10

2人の文筆家シャルル・モーラス対ジャック・ランドーの決闘

1909年12月6日(月)
2人の文筆家シャルル・モーラス対ジャック・ランドーの決闘_f0028703_10101836.jpg


とにかく異例な決闘が12月6日午前11時、パルク・デ・プランスの敷地内でおこなわれた。シャルル・モーラス氏が書いた記事に関してジャック・ランドー氏が批判記事を寄せたことが、2人の間での剣による決闘に至った原因である。
シャルル・モーラス氏の介添人はフレデリック・ドレベックとリュシアン・モローの両氏であり、ヴィヴィエ医師も立会った。一方、ジャック・ランドー氏にはピエール・モルティエ、ユベール・ドレ=ド=カストニエの両氏とアラゴン医師がついた。
双方の合意のもと、介添人4名はルージエ=ドルシエール氏に決闘の進行役を依頼した。彼はモーラス氏に難聴の障害があるのを鑑みて、特別な条件で進行役を果たすことになった。
決闘する2人が対峙する前に、ドルシエール氏は型通りの決闘の再考を促す言葉を声高に読み上げた。慣例の「始め!」(Allez, Messieurs!)という合図の言葉がモーラス氏にはよく聞こえないため、ドルシエール氏は、両者を剣を合わせたままで待たせ、審判の手にするハンカチを勢いよく振り上げるのを合図に決闘が開始した。
戦いの間、このハンカチの合図は仕切り直しのために20回余り振られた。激しい撃ち合いになったのは5回ほどあり、一方の剣が壊れたため、また尖先が鍔に当って磨耗したため、取り替えを余儀なくされた。
結局、休憩の後の5回目の激しい撃ち合いのとき、モーラス氏が激しく攻め立て、それに応戦したランドー氏の剣がモーラス氏の右腕にかなり深く突き刺さったのである。血がほとばしり、モーラス氏は医師たちに傷を見せた。診断の結果、傷は明らかに戦いの続行には不利益と判断されたため、決闘は取りやめとなった。
両氏は和解の言葉なくそれぞれに立ち去った。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618830 « Le Petit journal » No.17147, le 7 Déc. 1909
画像Crédit:©BNF-Gallica #5526611 « Touche à tout » No.1; Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
20世紀に入っても決闘が頻繁におこなわれ続けている。文筆家同志の批判の応酬が「ペンから剣へ」と発展するのだが、かといって「腕で」片をつけることが本当の意味で決着と言えるのかどうか?どんなことをしても割り切れなさは残るのではないだろうか。ある意味では「戦争のむなしさ」にも通じる。

シャルル・モーラス(Charles Maurras, 1868-1952)は、思想的には君主制の復帰を望み、反ドレフュス派として盛んな論議を戦わせた。1899年以降、国粋的な政治団体「アクシォン・フランセーズ」(L'Action Française)を結成し、その中心人物として同名の機関紙を発行し、愛国運動を牽引した。介添人のリュシアン・モロー(Lucien Moreau, 18xx-1932)もその主要な一員で、出版人ラルースの親族にあたる。
対戦相手のジャック・ランドー(Jacques Landau)については詳細は今のところ見つからない。

**これまでの関連記事france100.exblog:批評家シュヴァッシュ対劇作家ベルンスタンの決闘(1909.10.27)
# by utsushihara | 2009-12-06 23:22 | 文芸、評論1909-10

ワルデマール公妃マリーの急死

1909年12月4日(水)ワルデマール公妃マリーの急死_f0028703_230742.jpg

旧オルレアン王族シャルトル公の長女マリー・ドルレアンは1885年、現デンマーク国王の弟君にあたるワルデマール公と結婚していたが、12月4日コペンハーゲンにおいて流行性感冒のため急死した。44歳の若さであった。彼女は4人の公子オージュ、アクセル、エリク、ヴィゴと1人の公女マルグリットの5人の子供を残し、とりわけ露仏同盟の下地をつくるなど政治的な仲介者の役割を果たした。デンマーク王室では不可欠な親しまれる存在であった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
ワルデマール公妃マリー・ドルレアン(Marie d’Orléans, Princesse Waldemar, 1865-1909)は気品の漂う顔立ちで人気があった。
# by utsushihara | 2009-12-04 22:58 | 各国事情1909-10