フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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[ 往古広告 ] ココア会社のオランダ旅行無料招待キャンペーン

1909年11月
f0028703_22544918.jpg

ココア・ベンスドルプ社は、10日間の素晴らしいオランダ観光旅行に20名様を無料招待します。
行程: パリ~ドルドレヒト~ロッテルダム~デルフト~ハーグ~シェヴナング~アムステルダム~バッサム~マルケン島~エダム~フォレンダム~ユトレヒト~アルンヘム~ニメーグ~アントワープ~ブリュッセル~パリ
出発日: 1910年夏
日数:  丸々10日間
旅行条件: 列車は一等車、一流ホテルに滞在と宿泊、三食付、自動車代、心付け、30kgまでの荷物運搬代などすべて無料。

応募条件:「ココア・ベンスドルプ」を買うたびに外箱を包んでいる黄色か透明の商標片を大切に保管してください。1910年4月の最後の週にそれを全部束ねて下記の宛先へ郵送してください。
 パリ、グラモン街16番地 ココア・ベンスドルプ社 キャンペーン係

その際、10サンチームの返信用切手を同封してください。折り返し受領した商標片の数を記入した受付証を返送します。125gの箱の商標片を1とカウントし、500gの箱のは4とし、1kgは8といたします。
また商標片の郵送は、4月15日から4月30日までの間に行なってください。それ以前でもそれ以降でも無効といたします。
4月30日の時点で最も多くの数量を送ってくれた20名の方が上記の無料招待旅行の当選者となります。旅行出発日は多数決で決まります。出発日当日は午前8時20分、オペラ座広場1番地のクック旅行社の前に集合します。全行程のあいだ一人の案内人が同行してお世話します。

このキャンペーンは、ココア・ベンスドルプを購入される個人のお客様に限定するものであり、大口の取引関係者は除外されます。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288653 « Le Figaro » le 22 Nov. 1909f0028703_22551183.jpg

[ Ψ 蛇足 ]
「国際列車時刻表」でも有名な旅行会社トーマス・クック社(Thomas Cook)のパリ支店はこんな大昔からオペラ座の前に店を持っていたのかと驚く。
オランダ観光の魅力を満喫する10日間の旅は多くの人々の興味をかき立てたに違いない。このために必死にベンスドルプ社(Bensdorp)のココアを買い続け、飲み続けた人々の姿は想像するだけで悲喜交々に思える。
ところで、なぜオランダがココアとダイヤ研磨で有名なのだろうか?

**これまでの関連記事france100.exblog:日刊紙「プチ・ジュルナル」が募集した保養地「オステンド」旅行(1909.08)
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# by utsushihara | 2009-11-22 22:53 | ※百年前の広告

(余談) 「22」は危険な番号

同期の親友が病気で亡くなったのですっかり気落ちしています。
しばらく前に辞書で見つけていた話題は、今日を過ぎたら古臭くなるので一応これだけでもUPします。

今日11月22日は数年前には盛んに「いい夫婦」の日と喧伝されていましたが、今年の新聞やTVではそれほど盛り上がっていない気がします。
たまたま仏語辞典で見かけた「22」(Vingt-deux!)という言葉は、差し迫った危険の到来を仲間に知らせるのに使われる、ということです。つまり、例えば盗みの仕事中に、不意に誰か(特に警察が)やって来たことを示す俗語です。
用例は、
- Vingt-deux ! 「気をつけろ!」、「ヤバイぞ!」
それに続けて
- V'là les flics ! 「サツが来た!」
とも言います。
なぜ「22」なのか?で、語源を調べてみましたが、すんなりと理解できる説明はありませんでした。

Wikipedia(仏語) 22, v'là les flics !
http://fr.wikipedia.org/wiki/22,_v%27l%C3%A0_les_flics_!

上記サイトで、数字にまつわる「ヤバイぞ!」は、イタリア語で「16」、ドイツ語で「18」、英語で「23」が使われているそうです。謎はますます深まります。
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# by utsushihara | 2009-11-22 22:39

トロカデロ劇場で全国酒販飲食業連合会の年次総会

1909年11月17日(水)f0028703_2302858.jpg

11月17日、パリのトロカデロ劇場において全国酒販飲食業連合会の集会が開かれた。酒屋、カフェ、ホテル、レストランの加盟者たちが多数出席し、財務省から提示された新たな増税案に徹底して反対する議案を可決した。

会議の終了後、参加者たちによる議会まで抗議のデモ行進をおこなおうとしたのに対し、警官隊が阻止しようとし、あちこちで暴力的な小競り合いが起きた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
出典Crédit:©BNF-Gallica #618811 « Le Petit journal » No.17028, le 18 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
全国酒販飲食業連合会(Fédération nationale des débitants de boissons, hôteliers, restaurateurs et professions similaires) の年次総会は2日間にわたって開催された。収容人員の大きさで一二を争うトロカデロ劇場(Trocadéro)が写真のように満場となった迫力が感じられる。参加者数は1000人前後ではなかろうか、記事文中には見つからなかった。
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# by utsushihara | 2009-11-18 22:59 | フランス社会政経1909-10

コンセール・コロンヌの正指揮者の交代

1909年11月14日(水)f0028703_9445730.jpg

シャトレ座を拠点として毎週日曜日に続けられてきたコロンヌ管弦楽団の演奏会《コンセール・コロンヌ》(Concerts-Colonne)の主宰者エドゥアール・コロンヌ氏は病気のため、正指揮者の座をガブリエル・ピエルネ氏に譲ることになった。ピエルネ氏はこれまでもしばらく代役としてこのオーケストラを指揮しており、パリの音楽演奏会の伝統を担うコロンヌ管弦楽団の名声を今後も保ち続けるだろう。

11月14日午後2時半からシャトレ座で行なわれる今季4回目のコンセール・コロンヌ定期演奏会では、優れたピアニストであるラウール・プーニョ氏が独奏者として出演し、ダンディとフランクの曲を演奏する。指揮はガブリエル・ピエルネ氏、曲目は以下の通りである。
1.ラロ:歌劇「イスの王」序曲 « Le Roi d'Ys » ouverture (Ed. Lalo).
2.ベートーヴェン:交響曲第2番Deuxième Symphonie, (Beethoven)
3.フランク:交響的変奏曲Variations symphoniques (C. Franck) プーニョ独奏 Raoul Pugno(pf)
4.フォーレ:劇音楽「シャイロック」より6曲 « Shylock » (G. Fauré), musique de scène pour la comédie de Shakespeare (シャイロックの歌、間奏曲、マドリガル、祝婚歌、夜想曲、終曲)
5.ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲Symphonie sur un chant montagnard (V. d'Indy) プーニョ独奏Raoul Pugno(pf)
6.ワーグナー:歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲 « Lohengrin » prélude de troisième acte (R. Wagner).

f0028703_945145.jpg出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526308 « Touche à tout » No.12; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288638 « Le Figaro » le 09 Nov. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288640 « Le Figaro » le 11 Nov. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica - Gabriel Pierné (1863-1937) : [portraits et documents] 1901
Cliché d’Henri Manuel; Source gallica bnf.fr / Bibliothèque nationale de France
画像 Crédit photographique : © RMN / François Vizzavona / Cote cliché : 97-013223 / Titre : Portrait de Raoul Pugno, pianiste et compositeur (1852-1914), exposé au Salon de la Société Nationale des Beaux-Arts de 1912 / Auteur : François Henri E. Morisset (1870-19xx) / Localisation : Paris, agence photo RMN, fonds Druet-Vizzavona

[ Ψ 蛇足 ]
ガブリエル・ピエルネ(Gabriel Pierné, 1863-1937)はパリ音楽院でマスネやフランクに学んだ。作曲家としては広範なジャンルにわたる作品を作り続けたが、印象派的色彩の軽妙なものが多い。指揮者としてはコロンヌ管弦楽団の演奏会で振る機会が多く。特に1909年2月、練習中にコロンヌが倒れてからはほとんど彼が常任の代役を勤めてきた。70歳を越えたコロンヌが復帰を断念してピエルネに後事を託したのは順当な判断であった。
この1909年秋冬のシーズンには、コロンヌ管とラムルー管の双方でベートーヴェンの全交響曲を年代順に演奏する企画がぶつかり、毎週日曜日に競ってプログラムに上げられた。ただしラムルーのほうが3週先行したためこの日(11/14)はコロンヌが第2番、ラムルーが第5番(運命)を演奏した。もともとかけもちが出来ない時間帯なのだが、同日の同曲激突はあまり感心しないので良かった。
(↑)上掲はピアノ独奏者で登場した巨匠ラウール・プーニョの肖像である。

**これまでの関連記事france100.exblog:指揮者コロンヌ練習中に昏倒
http://france100.exblog.jp/11909392
(1909.02.12)
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# by utsushihara | 2009-11-14 09:44 | オペラ、音楽、演劇1909-10

「ロンサン小路事件」のスタンネル夫人の裁判

1909年11月13日(土)f0028703_23163724.jpg

11月3日から10日間の公判の期間中、大衆の注目はスタンネル裁判の弁論の推移に引きつけられた。夫の画家スタンネルとその義母ジャピィ夫人が殺害された事件で、同じ家でなぜかベッドに縛りつけられただけで無事に発見された妻マルグリットの関与もしくは共謀があったのか否か?
裁判長のヴァレス氏は峻厳な尋問を展開した。検事のトルアール=リオル氏は、彼女を尊属殺人で起訴するのを断念し、共謀罪を立証しようとした。スタンネル夫人の弁護人をつとめたアントニー・オーバン氏は非常に弁舌巧みに議論を進め、結果的に依頼人の無罪放免を勝ち取ることができた。

f0028703_23192425.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618798 « Le Petit journal » No.17115, le 5 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
「スタンネル裁判」(L’Affaire Steinheil)はその事件が起きた屋敷のあったパリ15区の「ロンサン小路」(Impasse Ronsin)の事件とも呼ばれたが、翌日1908年5月31日以来、新聞紙上で最も頻繁に記事が書かれた事件であった。非常に謎の多い事件で捜査が難航したのも事実である。上掲の裁判は、若く政財界人とも交友が広かった夫人が事件に関与したのかどうかを問うものであり、公判が始まった11月3日から10日間の新聞各紙は、すべて一面で連日裁判の経過を詳細に報じる記事で文字通りあふれかえった。
f0028703_23194731.jpgこうした資料を集めるだけで分厚い本が何分冊もできてしまうだろう。現に、敬服する松本氏のサイト↓(2)で何年も前に言及していた書物(3)はその一例である。

文豪アンドレ・ジィドもこの事件に大いに興味を引かれたようで、公判の傍聴に行ったことを日記に書き記している。(新庄先生の訳語は固有名詞が「ステイネイ」となっていたが、「スタンネル」のほうが普通の発音に近いと思われるので表記を変えて引用した。)
*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年11月7日付から
11月7日、日曜日
リュイテル、フィリップ、リヴィエール、コポー、ドルワン、クローデル来訪。
月曜日。-コボー、ボワレーヴと一緒にスタンネル事件*の公判を聴きに行く。
火曜日。-フィリップ、フリゾー夫妻とともにクローデルのもとで晩餐。(語りたいことは沢山ある。-だがその暇がない。)

*訳注(新庄): 大統領フェリクス・フォールの腹心の友であった美貌のマルグリット・ジャピィ=スタンネルが、母親のジャピィ夫人と夫の画家アドルフ・スタンネルを殺害したという嫌疑で捕えられ、一年間未決のまま牢獄生活を続けていたが、数次にわたるセンセイショナル裁判ののち、11月14日無罪を宣告された。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(仏語)Marguerite Steinheil
(2)Le Parti pris des lettres 文字の味方 文学の味方:ピエール・ダルモン『スタンネル事件』ベル・エポックの犯罪(2004.05.22)
(3)Pierre Darmon: "Marguerite Steinheil, ingénue criminelle ? ” (Perrin , 1996)

**これまでの関連記事france100.exblog:画家スタンネル殺人事件(1908.05.30)
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# by utsushihara | 2009-11-13 21:31 | ★ベルエポック事件簿1909

カフェ・コンセールの踊り子の部屋で起きた悲劇

1909年11月10日(水)

マンス夫妻はベルギーの出で、しばらく派手な事業をしたあと、3年半ほど前からバティニョル大通りの角で家具屋の店を構えていた。夫妻には3人の息子がいたが、32歳の長男は病弱で、16歳の三男には障害があった。二男のアンリは来年から兵役に就くことが決まっており、両親にとっては大きな安堵であった。

数週間前、アンリは遊び仲間と知り合いになり、一緒にモンマルトルの盛り場に出入りするようになった。そこで彼は若い踊り子マルグリット・ギユモ嬢と出会ったのだ。彼女は19歳で、毎晩ピガール広場のカフェ・コンセールで踊っていた。f0028703_22392249.jpg

先月の28日からギユモ嬢は、従妹で同じ踊り子のアンドレ・デュピュイ嬢と一緒にフォンテーヌ街29番地の家具付きアパートに住むようになった。アンリ・マンスは2~3度この部屋を訪れた。
今月7日の日曜日になって、彼は友人一人を伴ってやって来て家主にこう語った。
「この二人のお嬢さんの引っ越しをしにきたんです。」
そしてすみやかに二人の青年と二人の娘は荷物ケースや旅行鞄や帽子の箱などを運び出し、ナヴァラン街17番地の別の家具付きアパートに移った。この引っ越しの次の日からアンリは親許の家には戻らなかった。酒浸りになり、酔っ払いながら彼は何度も死にたいと言い張った。
「僕は兵隊なんかなりたくないんだ。(Je ne veux pas être soldat) それに商売だって厄介だ。」
そう言いながらも彼は毎朝店の前を熱心に掃除し、できる限り両親の商売の手助けをしていたのだった。

一昨日の夜、ギユモ嬢は体調を崩したため、契約しているカフェへの出演を休んだ。彼女は夜9時半ごろ就寝し、深い眠りにおちた。11時ごろ、完全に酔っ払ったアンリ・マンスが友人を連れて2階の彼女の部屋に入ってきた。青年は何も言わずにベッドにころがり、乱暴に彼女を起こして言った。
「いいかい、これでいいんだ!今度こそ決めたぞ!君を殺してから僕も死ぬんだ!」

いきなり眠りから覚まさせられて彼女は恐ろしくなった。それでも冷静さを失わず、青年がいつも上着のポケットに入れている拳銃を何とか取り上げたいと思った。しかし青年が酔いにまかせて窓のほうにゆっくりと身体を動かす間に、若い娘は部屋を飛び出した、
階段を数段も下りないうちに2発の銃声が響いた。ちょうどその時近くに住む紳士が帰ってきた。彼女は叫んだ。
「お願いです。大家さんに知らせてください。部屋にいる友だちが2発銃を撃ったんです。誰かを殺したんじゃないかと思ってます。」
家主のプリュドム氏がすぐさま2階に駆け上がった。アンリの友人の姿は消えていた。絶望した男のほうは扉の背後に倒れていた。額に銃弾の穴が開いていた。心臓はまだ動いていた。
通報を受けたデュポノワ警視がモニゾン医師とともにやってきた。医師は青年が死んだことを確認した。
遺体は今日の午後、家族のもとに返還される。

f0028703_224454100.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #618805 « Le Petit journal » No.17122, le 12 Nov. 1909
画像 Crédit photographique : ©Musée d'Orsay, Dist. RMN / Patrice Schmidt / Cote cliché : 00-030993 / Fonds : Dessins / Titre : Groupe de danseuses / Auteur : Edgar Degas (1834-1917) / Localisation : Paris, musée du Louvre, D.A.G. (fonds Orsay)

[ Ψ 蛇足 ]
この時代、カフェ・コンセールの踊り子も若さと美しさと技量があれば、娘たちが(薄給ながらも)活躍できる職業だった。マルグリット・ギユモ(Marguerite Guilmot)もこの新聞記事にならなければ他の多くの踊り子たち(Danseuses)同様、完全に過去に埋没していたはずである。
(↑)参考画像はドガの「踊り子の群像」(Groupe de danseuses)オルセー美術館蔵。
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# by utsushihara | 2009-11-11 22:37 | ★ベルエポック事件簿1909

ジィドの新作『狭き門』への評価(4)

1909年11月7日(日)f0028703_22333199.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
11月7日、日曜日

 この作品は、こうやってみると、中にはいっている巴旦杏(はたんきょう)がおいしいヌガーのように思える。(即ち、巴旦杏は『アリサの手紙と日記』である。)だが、飴の部分はねばねばしている。うまく書かれていない。然し、立役者が、ジェロームのような、無気力な散文を持った無気力な性格の人間では、こうなるよりほか仕方がなかったのだ。で、結局のところ、この作品は成功していると思う。だが、早くほかのものが書きたくてたまらない! 再び、愛(アムール)とか心(クール)とか魂(アーム)とかいう文字を使うことが出来るまでには十年かかるだろう……

画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN / Portrait d'André Gide assis lisant à son bureau / Auteur de la photo : Marc Allégret /

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(3) (1909.10)
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# by utsushihara | 2009-11-09 22:30 | 文芸、評論1909-10

若きポルトガル国王の初めての外遊

1909年11月7日(日)f0028703_21481635.jpg

マヌエル2世は11月に即位後初めてとなる公式の各国訪問の旅に出発した。国王は11月7日リスボンを発ち、まずマドリッドを訪れ、5日間アルフォンソ13世の歓待を受けた。警察機関の厳戒態勢がとられた。王は続いてフランスに渡り、ボルドーの訪問後、シェルブールから英国へ向かった。ウィンザー城には14日に到着し、国王エドワード7世のもてなしを受けた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.47; 20 Nov. 1909

*参考サイト:Wikipedia(和文)マヌエル2世 (ポルトガル王)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ポルトガル国王の葬儀と新国王マヌエル2世の即位 (1908.02.08)
(2)ポルトにおけるマヌエル国王(1908.11.27)
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# by utsushihara | 2009-11-07 21:43 | 各国事情1909-10

レイモンド・ド・ラロシュ夫人、女性による史上初の飛行機操縦

1909年11月f0028703_21425146.jpg

若い大勢の人々が毎日のようにシャロンやイッシー=レ=ムリノーの飛行場から飛行機の操縦に挑戦する中で、一人の若い女性、レイモンド・ド・ラロシュ夫人がシャロンの飛行場でヴォワザン型複葉機に乗り込み、自分で操縦桿を握って飛び立つことができたのである。これはフェミニスムの新たな勝利として飛行史に記録されるべき出来事であった。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526308 « Touche à tout » No.12; Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #45738467 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.3; le 15 Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
レイモンド・ド・ラロッシュ(Raymonde de Laroche, 1884-1919)は、その美貌(↑)からしてわかるように最初は舞台女優として活躍していた。当時第一線の飛行家として知られたレオン・ドラグランジュ(Léon Delagrange, 1873-1910)との深い交友関係から飛行機に乗ることを体験し(女性を同乗させて飛ぶことはしばしば行なわれた)たまたま独りで操縦桿を握って、禁じられていたのにもかかわらず、飛行機を発進させ、飛んでしまったというのが最初の出来事であったようだ。10月22日であったという説もあるが、その翌日の新聞で大々的に報じられた記事は見つからなかった。上記の記事は、月刊誌『トゥシュ・ア・トゥ』(Touche à Tout)の12月号に書かれたものを引用した。
彼女はフランス飛行クラブ(Aéro-Club de France)から飛行免許(brevet)の第36号を女性として初めて与えられた。彼女はしばしば《レイモンド・ド・ラロシュ男爵夫人》(Baronne Raymonde de Laroche)と書かれることもあったが、元々貴族ではなく、芸名としてその称号付きの名前を用いたようだ。

*参考サイト:Musée de l'Air et de l'Espace(仏語)Collections Aviateurs, Raymonde de Laroche
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# by utsushihara | 2009-11-05 21:40 | スポーツ、乗物、探検1909-10

アンビギュ座で「名探偵ニック・カーター」の初演

1909年11月4日(水)

f0028703_2325915.jpg英国の小説で人気を博した「怪盗ラッフルズ」が劇化されたのに続き、「シャーロック・ホームズ」や「アルセーヌ・ルパン」の戯曲がパリの演劇界でも人々の評判を呼んだ。そして今、米国の名探偵ニック・カーターがアンビギュ座の舞台に登場した。台本はアレクサンドル・ビッソンとギヨーム・リヴェの共作による5幕8景劇である。背景はニューヨーク、探偵の王者(le roi des détectives)ニック・カーターは強盗団のメルヴィル一味を捕まえようと追い詰める。劇中では本物の警察犬を使う場面があり、その練習・本番とも極めて驚嘆すべき結果であった。(↑)
出演は主役のアンリ・モントゥ氏のほか、ポール・フジェール、エチェヴァン各氏、カルメン・ドレージー嬢、ベラジェール女史などで、昨今の推理文学が我々を活気づける最良のあるいは最悪の本能を呼び覚ますとまでは言い難いが、古臭いメロドラマの手法や装飾を一新する心地よさを感じるのは確かである。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288620 « Le Figaro » le 23 Oct. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288633-634 « Le Figaro » No.246-247; le 4-5 Nov. 1909
出典 Crédit:©L’Encyclopédie du Cinéma; Roger Boussinot; Editions Bordas, 1967
画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN

[ Ψ 蛇足 ]
「ニック・カーター」は1886年9月に米国の小説家ジョン・ラッセル・コライエル(John Russel Coryelle, 1848-1924)が「ニューヨーク・ウィークリー」誌に発表した三文小説(ダイム・ノヴェルDime-novel)の主人公の探偵である。この人物は米国内でたちまち大人気となって、続編ばかりでなく、複数の作家による大量の類似作が出回るほどとなった。この人気が欧州にも飛び、フランスでは1908年に無声映画のエクレア社(Éclair)が製作者ヴィクトリアン・ジャセ(Victorien Jasset, 1862-1913)と契約し、6本の作品を上映したがなかなかの評判であったという。そのタイトルは、「策謀」(Le Guet-apens)、「宝石事件」(L’affaire des bijoux)、「贋金つくり」(Les Faux-monnayeurs)、「銀行破り」(Dévaliseurs de banques)、「痕跡」(Les empreintes)、「黒衣の強盗団」(Les bandits en habit noir)でいかにも興味がそそられる。それ以後もシリーズ映画としての製作が続けられており、上記の舞台化もそうした人気を読んでのことと思われる。
f0028703_2333287.jpg(←)ヒロインのカルメン・ドレージー(Carmen Deraisy, 18xx-19xx)はアンビギュ座の看板の美人女優だった。

*参考サイト:The Thrilling Detective WEB Site(英文)Nick Carter

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)「義賊ラッフルズ」の上演(1907.06)
(2)仏版新作劇「シャーロック・ホームズ」の初演(1907.12.10)
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# by utsushihara | 2009-11-04 23:01 | オペラ、音楽、演劇1909-10