フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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ロダンの手による作家バルベー=ドールヴィイの胸像落成

1909年11月28日(日)f0028703_22512670.jpg

11月28日、マンシュ県のサン=ソヴール=ル=ヴィコントの町で、大彫刻家ロダンの作による作家バルベー=ドールヴィイの胸像の落成式がおこなわれた。この作家はこの地で1808年に生まれ、1889年にパリで没した。式典にはアカデミー会員の歴史家フレデリック・マッソン氏をはじめ、文筆協会長のジョルジュ・ルコント氏、「演劇評論」誌を代表してカミーユ・ル=センヌ氏が、かつて《文筆の元帥》(Connétable des Lettres)と称されたこの作家の業績を讃えて代わる代わる賛辞を述べた。彼は代表作として『憑かれた女』(Ensorcelée)、『騎士デ・トゥシュ』(Le Chevalier Des Touches), 短篇集『魔性の女たち』(Diaboliques)、評論集『作品と人間像』(les Oeuvres et les Hommes)などが知られている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059976 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.49-50; le 4 et 11 Déc. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
f0028703_22513836.jpgジュール・バルベー=ドールヴィイ(Jules Barbey d’Aurevilly, 1808-1889)は、19世紀の作家たちの中でも特異な存在であった。ノルマンディの貴族の家系に生まれ、カーンで法律を学んだあとパリに出て文筆活動に入った。思想的には極端かつ強硬なカトリック信者であり、市民階級の自由な思考を軽蔑し、ダンディスムに徹した生活を送った。この胸像の建立は彼の生誕100年を記念して発起された。

邦訳された彼の作品はごくわずかだが、信仰心の希薄な一般人の人生に現われる悪徳の諸相、特に男女関係の情愛にからんだ局面を強烈に描きだす筆力は、読む者の心を深く魅了する。
以前は「バルベー=ドールヴィリ」という表記がほとんどだったが、より原語発音に近い「ヴィイ」が仏文学会でも採用されているようだ。
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by utsushihara | 2009-11-28 22:50 | 文芸、評論1909-10

ポルトガル国王のパリ訪問

1909年11月27日(土)

若きポルトガル国王マヌエル2世は、11月27日ダンケルク港に到着した。今回の訪問は「半ばお忍び」(en demi incognito)ということで、パリではブリストル・ホテルに投宿し、市内での移動や散策は従って儀典長や衛兵隊なしの自動車でおこなわれた。マヌエル王は20歳、フランスのオルレアン家出身の母親の前王妃アメリーによく似ており、競馬場や劇場などの出先では、群衆は高貴でかつ好感の持てる若き王を歓迎し、王母アメリー妃の名前を交えながらの歓呼に快く応えた。ポルトガルの外相ボカージュ氏は、26日に外相ピション氏と会談を実施した。f0028703_144091.jpg

マヌエル国王は3度観劇に赴いた。オペラ座の歌劇「ファウスト」(Faust)、コメディ・フランセーズ座の「愛は眠らずに」(L’Amour veille)そしてオペラ・コミック座の歌劇「マノン」(Manon)である。いずれにおいても熱烈な歓迎を受け、拍手喝采を浴びた。王はまた、ヴェルサイユ宮殿、カルナヴァレ博物館、ルーヴル美術館、ゴブラン織美術館、労働者団地などを訪ねた。ファリエール大統領は夕食会を催し、ランブイエでは狩猟に招き、若い王は機転の利いた巧みな狩の腕前を披露した。(→)右掲の写真はオートゥイユ競馬場にて。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #563440 « Le Petit Parisien » No.12084, le 29 Nov. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059976 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.50; le 11 Déc. 1909

f0028703_14402986.jpg[ Ψ 蛇足 ]
はじめての外遊でポルトガルのマヌエル2世は、スペイン、英国、フランスを歴訪した。最後にパリを「半ばお忍び」(en demi incognito)という形で訪問したのは、公式行事で身動きがとれずに行きたいところや見たいところが制約されるのをきらってのことと思われる。(←)左掲はパリのルーヴルに隣接する「装飾美術館」(Musée des Arts décoratifs)の見学を終えて車に乗るマヌエル国王の姿である。
英国王エドワード7世もオペラや演劇を楽しむために「お忍び」でパリを何度も訪れていた。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)若きポルトガル国王の初めての外遊(1909.11.07)
(2)コメディ=フランセーズの「愛は眠らずに」の大成功(1907.09.30)
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by utsushihara | 2009-11-27 14:37 | 各国事情1909-10

歌劇『クオ・ヴァディス』のパリ初演

1909年11月26日(金)
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シェンキェヴィッチの小説にもとづいた5幕7景の歌劇『クオ・ヴァディス』(Quo Vadis)は11月26日、ゲテ座においてパリでの最初の公演がおこなわれ、大成功をおさめた。この歌劇の台本はアンリ・ケーン氏、作曲はジャン・ヌーゲス氏であり、今年2月10日にニース歌劇場(Opéra Municipal de Nice)で初演されたものである。出演は、マリー・ラファルグ女史、テヴネ女史、ジャン・ペリエ氏、セヴェイヤック氏などで、中間部のバレエのディヴェルティスマンをトルーアノヴァ嬢が踊り、注目された。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288658 « Le Figaro » le 27 Nov. 1909
画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN
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[ Ψ 蛇足 ]
1905年にノーベル文学賞を得たポーランドの作家シェンキェヴィッチ(Henryk Sienkiewicz, 1846-1916)は、皇帝ネロ治世下のローマを舞台とした歴史小説『クオ・ヴァディス』(Quo Vadis, 1895)で世界的な評価を得た。(画像→)
フランスでは数年前にエミール・モローによって戯曲化され、ポルト・サン=マルタン座で上演された。オペラ化は台本作家としても有名なアンリ・ケーン(Henri Cain, 1857-1937)と若手作曲家のジャン・ヌーゲス(Jean Nouguès, 1875-1932)によって進められた。
パリでの公演は、2大歌劇場を補完する市立歌劇場ゲテ座(Théâtre lyrique de la Gaîté)の支配人イゾラ兄弟によって取り上げられたが、歌手たちが二番手クラスで賄われたのは致し方なかった。それにもかかわらず著名な歴史小説が原作であったせいか、オペラ作品としては人気があり、第1次大戦後の頃まで、欧州各地や米国で繰り返して取り上げられた。
f0028703_18514924.jpgディヴェルティスマンを踊ったナターシャ・トルーアノヴァ(Natacha Trouhanowa, 1885-19xx)はロシア出身のバレリーナで、踊りとともに美貌で注目され、この年の月刊誌「ル・テアトル」No.253の表紙写真に掲載された。(←画像)彼女はこの数年後、デュカのバレエ曲「ペリ」で艶めかしい姿で主役を踊ることになる。

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
「クオ・ヴァディス」とは、ラテン語で「あなたはどこに行くのですか?」とペテロが(キリストに)問いかけたという言葉だが、この百年前当時にも好んで使われたようで、競走用気球や競走馬の名前としてつけられていた。現代でも欧州を中心とした(日本でも)ビジネス・ダイアリーや手帳の文具ブランド名となっている。下記(↓)の文具メーカーのサイトに(英文)「そもそもの由来」が絵入りで掲載されている。

*参考サイト:
(1)Quo Vadis Blog, Tools for Creative Minds (ラテン語の意味:英文解説)
(2)Wikipedia(英文)Jean Nouguès 作曲家ジャン・ヌーゲス

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)コレットのパントマイム「欲望と愛情と妄想」ジャン・ヌーゲス作曲(1906.02)
(2)オペラ・コミック座の新シーズン(1909~1910)(1909.10)
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by utsushihara | 2009-11-26 18:49 | オペラ、音楽、演劇1909-10

[ 往古広告 ] ココア会社のオランダ旅行無料招待キャンペーン

1909年11月
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ココア・ベンスドルプ社は、10日間の素晴らしいオランダ観光旅行に20名様を無料招待します。
行程: パリ~ドルドレヒト~ロッテルダム~デルフト~ハーグ~シェヴナング~アムステルダム~バッサム~マルケン島~エダム~フォレンダム~ユトレヒト~アルンヘム~ニメーグ~アントワープ~ブリュッセル~パリ
出発日: 1910年夏
日数:  丸々10日間
旅行条件: 列車は一等車、一流ホテルに滞在と宿泊、三食付、自動車代、心付け、30kgまでの荷物運搬代などすべて無料。

応募条件:「ココア・ベンスドルプ」を買うたびに外箱を包んでいる黄色か透明の商標片を大切に保管してください。1910年4月の最後の週にそれを全部束ねて下記の宛先へ郵送してください。
 パリ、グラモン街16番地 ココア・ベンスドルプ社 キャンペーン係

その際、10サンチームの返信用切手を同封してください。折り返し受領した商標片の数を記入した受付証を返送します。125gの箱の商標片を1とカウントし、500gの箱のは4とし、1kgは8といたします。
また商標片の郵送は、4月15日から4月30日までの間に行なってください。それ以前でもそれ以降でも無効といたします。
4月30日の時点で最も多くの数量を送ってくれた20名の方が上記の無料招待旅行の当選者となります。旅行出発日は多数決で決まります。出発日当日は午前8時20分、オペラ座広場1番地のクック旅行社の前に集合します。全行程のあいだ一人の案内人が同行してお世話します。

このキャンペーンは、ココア・ベンスドルプを購入される個人のお客様に限定するものであり、大口の取引関係者は除外されます。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288653 « Le Figaro » le 22 Nov. 1909f0028703_22551183.jpg

[ Ψ 蛇足 ]
「国際列車時刻表」でも有名な旅行会社トーマス・クック社(Thomas Cook)のパリ支店はこんな大昔からオペラ座の前に店を持っていたのかと驚く。
オランダ観光の魅力を満喫する10日間の旅は多くの人々の興味をかき立てたに違いない。このために必死にベンスドルプ社(Bensdorp)のココアを買い続け、飲み続けた人々の姿は想像するだけで悲喜交々に思える。
ところで、なぜオランダがココアとダイヤ研磨で有名なのだろうか?

**これまでの関連記事france100.exblog:日刊紙「プチ・ジュルナル」が募集した保養地「オステンド」旅行(1909.08)
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by utsushihara | 2009-11-22 22:53 | ※百年前の広告

(余談) 「22」は危険な番号

同期の親友が病気で亡くなったのですっかり気落ちしています。
しばらく前に辞書で見つけていた話題は、今日を過ぎたら古臭くなるので一応これだけでもUPします。

今日11月22日は数年前には盛んに「いい夫婦」の日と喧伝されていましたが、今年の新聞やTVではそれほど盛り上がっていない気がします。
たまたま仏語辞典で見かけた「22」(Vingt-deux!)という言葉は、差し迫った危険の到来を仲間に知らせるのに使われる、ということです。つまり、例えば盗みの仕事中に、不意に誰か(特に警察が)やって来たことを示す俗語です。
用例は、
- Vingt-deux ! 「気をつけろ!」、「ヤバイぞ!」
それに続けて
- V'là les flics ! 「サツが来た!」
とも言います。
なぜ「22」なのか?で、語源を調べてみましたが、すんなりと理解できる説明はありませんでした。

Wikipedia(仏語) 22, v'là les flics !
http://fr.wikipedia.org/wiki/22,_v%27l%C3%A0_les_flics_!

上記サイトで、数字にまつわる「ヤバイぞ!」は、イタリア語で「16」、ドイツ語で「18」、英語で「23」が使われているそうです。謎はますます深まります。
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by utsushihara | 2009-11-22 22:39

トロカデロ劇場で全国酒販飲食業連合会の年次総会

1909年11月17日(水)f0028703_2302858.jpg

11月17日、パリのトロカデロ劇場において全国酒販飲食業連合会の集会が開かれた。酒屋、カフェ、ホテル、レストランの加盟者たちが多数出席し、財務省から提示された新たな増税案に徹底して反対する議案を可決した。

会議の終了後、参加者たちによる議会まで抗議のデモ行進をおこなおうとしたのに対し、警官隊が阻止しようとし、あちこちで暴力的な小競り合いが起きた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
出典Crédit:©BNF-Gallica #618811 « Le Petit journal » No.17028, le 18 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
全国酒販飲食業連合会(Fédération nationale des débitants de boissons, hôteliers, restaurateurs et professions similaires) の年次総会は2日間にわたって開催された。収容人員の大きさで一二を争うトロカデロ劇場(Trocadéro)が写真のように満場となった迫力が感じられる。参加者数は1000人前後ではなかろうか、記事文中には見つからなかった。
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by utsushihara | 2009-11-18 22:59 | フランス社会政経1909-10

コンセール・コロンヌの正指揮者の交代

1909年11月14日(水)f0028703_9445730.jpg

シャトレ座を拠点として毎週日曜日に続けられてきたコロンヌ管弦楽団の演奏会《コンセール・コロンヌ》(Concerts-Colonne)の主宰者エドゥアール・コロンヌ氏は病気のため、正指揮者の座をガブリエル・ピエルネ氏に譲ることになった。ピエルネ氏はこれまでもしばらく代役としてこのオーケストラを指揮しており、パリの音楽演奏会の伝統を担うコロンヌ管弦楽団の名声を今後も保ち続けるだろう。

11月14日午後2時半からシャトレ座で行なわれる今季4回目のコンセール・コロンヌ定期演奏会では、優れたピアニストであるラウール・プーニョ氏が独奏者として出演し、ダンディとフランクの曲を演奏する。指揮はガブリエル・ピエルネ氏、曲目は以下の通りである。
1.ラロ:歌劇「イスの王」序曲 « Le Roi d'Ys » ouverture (Ed. Lalo).
2.ベートーヴェン:交響曲第2番Deuxième Symphonie, (Beethoven)
3.フランク:交響的変奏曲Variations symphoniques (C. Franck) プーニョ独奏 Raoul Pugno(pf)
4.フォーレ:劇音楽「シャイロック」より6曲 « Shylock » (G. Fauré), musique de scène pour la comédie de Shakespeare (シャイロックの歌、間奏曲、マドリガル、祝婚歌、夜想曲、終曲)
5.ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲Symphonie sur un chant montagnard (V. d'Indy) プーニョ独奏Raoul Pugno(pf)
6.ワーグナー:歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲 « Lohengrin » prélude de troisième acte (R. Wagner).

f0028703_945145.jpg出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526308 « Touche à tout » No.12; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288638 « Le Figaro » le 09 Nov. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288640 « Le Figaro » le 11 Nov. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica - Gabriel Pierné (1863-1937) : [portraits et documents] 1901
Cliché d’Henri Manuel; Source gallica bnf.fr / Bibliothèque nationale de France
画像 Crédit photographique : © RMN / François Vizzavona / Cote cliché : 97-013223 / Titre : Portrait de Raoul Pugno, pianiste et compositeur (1852-1914), exposé au Salon de la Société Nationale des Beaux-Arts de 1912 / Auteur : François Henri E. Morisset (1870-19xx) / Localisation : Paris, agence photo RMN, fonds Druet-Vizzavona

[ Ψ 蛇足 ]
ガブリエル・ピエルネ(Gabriel Pierné, 1863-1937)はパリ音楽院でマスネやフランクに学んだ。作曲家としては広範なジャンルにわたる作品を作り続けたが、印象派的色彩の軽妙なものが多い。指揮者としてはコロンヌ管弦楽団の演奏会で振る機会が多く。特に1909年2月、練習中にコロンヌが倒れてからはほとんど彼が常任の代役を勤めてきた。70歳を越えたコロンヌが復帰を断念してピエルネに後事を託したのは順当な判断であった。
この1909年秋冬のシーズンには、コロンヌ管とラムルー管の双方でベートーヴェンの全交響曲を年代順に演奏する企画がぶつかり、毎週日曜日に競ってプログラムに上げられた。ただしラムルーのほうが3週先行したためこの日(11/14)はコロンヌが第2番、ラムルーが第5番(運命)を演奏した。もともとかけもちが出来ない時間帯なのだが、同日の同曲激突はあまり感心しないので良かった。
(↑)上掲はピアノ独奏者で登場した巨匠ラウール・プーニョの肖像である。

**これまでの関連記事france100.exblog:指揮者コロンヌ練習中に昏倒
http://france100.exblog.jp/11909392
(1909.02.12)
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by utsushihara | 2009-11-14 09:44 | オペラ、音楽、演劇1909-10

「ロンサン小路事件」のスタンネル夫人の裁判

1909年11月13日(土)f0028703_23163724.jpg

11月3日から10日間の公判の期間中、大衆の注目はスタンネル裁判の弁論の推移に引きつけられた。夫の画家スタンネルとその義母ジャピィ夫人が殺害された事件で、同じ家でなぜかベッドに縛りつけられただけで無事に発見された妻マルグリットの関与もしくは共謀があったのか否か?
裁判長のヴァレス氏は峻厳な尋問を展開した。検事のトルアール=リオル氏は、彼女を尊属殺人で起訴するのを断念し、共謀罪を立証しようとした。スタンネル夫人の弁護人をつとめたアントニー・オーバン氏は非常に弁舌巧みに議論を進め、結果的に依頼人の無罪放免を勝ち取ることができた。

f0028703_23192425.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618798 « Le Petit journal » No.17115, le 5 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
「スタンネル裁判」(L’Affaire Steinheil)はその事件が起きた屋敷のあったパリ15区の「ロンサン小路」(Impasse Ronsin)の事件とも呼ばれたが、翌日1908年5月31日以来、新聞紙上で最も頻繁に記事が書かれた事件であった。非常に謎の多い事件で捜査が難航したのも事実である。上掲の裁判は、若く政財界人とも交友が広かった夫人が事件に関与したのかどうかを問うものであり、公判が始まった11月3日から10日間の新聞各紙は、すべて一面で連日裁判の経過を詳細に報じる記事で文字通りあふれかえった。
f0028703_23194731.jpgこうした資料を集めるだけで分厚い本が何分冊もできてしまうだろう。現に、敬服する松本氏のサイト↓(2)で何年も前に言及していた書物(3)はその一例である。

文豪アンドレ・ジィドもこの事件に大いに興味を引かれたようで、公判の傍聴に行ったことを日記に書き記している。(新庄先生の訳語は固有名詞が「ステイネイ」となっていたが、「スタンネル」のほうが普通の発音に近いと思われるので表記を変えて引用した。)
*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年11月7日付から
11月7日、日曜日
リュイテル、フィリップ、リヴィエール、コポー、ドルワン、クローデル来訪。
月曜日。-コボー、ボワレーヴと一緒にスタンネル事件*の公判を聴きに行く。
火曜日。-フィリップ、フリゾー夫妻とともにクローデルのもとで晩餐。(語りたいことは沢山ある。-だがその暇がない。)

*訳注(新庄): 大統領フェリクス・フォールの腹心の友であった美貌のマルグリット・ジャピィ=スタンネルが、母親のジャピィ夫人と夫の画家アドルフ・スタンネルを殺害したという嫌疑で捕えられ、一年間未決のまま牢獄生活を続けていたが、数次にわたるセンセイショナル裁判ののち、11月14日無罪を宣告された。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(仏語)Marguerite Steinheil
(2)Le Parti pris des lettres 文字の味方 文学の味方:ピエール・ダルモン『スタンネル事件』ベル・エポックの犯罪(2004.05.22)
(3)Pierre Darmon: "Marguerite Steinheil, ingénue criminelle ? ” (Perrin , 1996)

**これまでの関連記事france100.exblog:画家スタンネル殺人事件(1908.05.30)
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by utsushihara | 2009-11-13 21:31 | ★ベルエポック事件簿1909

カフェ・コンセールの踊り子の部屋で起きた悲劇

1909年11月10日(水)

マンス夫妻はベルギーの出で、しばらく派手な事業をしたあと、3年半ほど前からバティニョル大通りの角で家具屋の店を構えていた。夫妻には3人の息子がいたが、32歳の長男は病弱で、16歳の三男には障害があった。二男のアンリは来年から兵役に就くことが決まっており、両親にとっては大きな安堵であった。

数週間前、アンリは遊び仲間と知り合いになり、一緒にモンマルトルの盛り場に出入りするようになった。そこで彼は若い踊り子マルグリット・ギユモ嬢と出会ったのだ。彼女は19歳で、毎晩ピガール広場のカフェ・コンセールで踊っていた。f0028703_22392249.jpg

先月の28日からギユモ嬢は、従妹で同じ踊り子のアンドレ・デュピュイ嬢と一緒にフォンテーヌ街29番地の家具付きアパートに住むようになった。アンリ・マンスは2~3度この部屋を訪れた。
今月7日の日曜日になって、彼は友人一人を伴ってやって来て家主にこう語った。
「この二人のお嬢さんの引っ越しをしにきたんです。」
そしてすみやかに二人の青年と二人の娘は荷物ケースや旅行鞄や帽子の箱などを運び出し、ナヴァラン街17番地の別の家具付きアパートに移った。この引っ越しの次の日からアンリは親許の家には戻らなかった。酒浸りになり、酔っ払いながら彼は何度も死にたいと言い張った。
「僕は兵隊なんかなりたくないんだ。(Je ne veux pas être soldat) それに商売だって厄介だ。」
そう言いながらも彼は毎朝店の前を熱心に掃除し、できる限り両親の商売の手助けをしていたのだった。

一昨日の夜、ギユモ嬢は体調を崩したため、契約しているカフェへの出演を休んだ。彼女は夜9時半ごろ就寝し、深い眠りにおちた。11時ごろ、完全に酔っ払ったアンリ・マンスが友人を連れて2階の彼女の部屋に入ってきた。青年は何も言わずにベッドにころがり、乱暴に彼女を起こして言った。
「いいかい、これでいいんだ!今度こそ決めたぞ!君を殺してから僕も死ぬんだ!」

いきなり眠りから覚まさせられて彼女は恐ろしくなった。それでも冷静さを失わず、青年がいつも上着のポケットに入れている拳銃を何とか取り上げたいと思った。しかし青年が酔いにまかせて窓のほうにゆっくりと身体を動かす間に、若い娘は部屋を飛び出した、
階段を数段も下りないうちに2発の銃声が響いた。ちょうどその時近くに住む紳士が帰ってきた。彼女は叫んだ。
「お願いです。大家さんに知らせてください。部屋にいる友だちが2発銃を撃ったんです。誰かを殺したんじゃないかと思ってます。」
家主のプリュドム氏がすぐさま2階に駆け上がった。アンリの友人の姿は消えていた。絶望した男のほうは扉の背後に倒れていた。額に銃弾の穴が開いていた。心臓はまだ動いていた。
通報を受けたデュポノワ警視がモニゾン医師とともにやってきた。医師は青年が死んだことを確認した。
遺体は今日の午後、家族のもとに返還される。

f0028703_224454100.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #618805 « Le Petit journal » No.17122, le 12 Nov. 1909
画像 Crédit photographique : ©Musée d'Orsay, Dist. RMN / Patrice Schmidt / Cote cliché : 00-030993 / Fonds : Dessins / Titre : Groupe de danseuses / Auteur : Edgar Degas (1834-1917) / Localisation : Paris, musée du Louvre, D.A.G. (fonds Orsay)

[ Ψ 蛇足 ]
この時代、カフェ・コンセールの踊り子も若さと美しさと技量があれば、娘たちが(薄給ながらも)活躍できる職業だった。マルグリット・ギユモ(Marguerite Guilmot)もこの新聞記事にならなければ他の多くの踊り子たち(Danseuses)同様、完全に過去に埋没していたはずである。
(↑)参考画像はドガの「踊り子の群像」(Groupe de danseuses)オルセー美術館蔵。
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by utsushihara | 2009-11-11 22:37 | ★ベルエポック事件簿1909

ジィドの新作『狭き門』への評価(4)

1909年11月7日(日)f0028703_22333199.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
11月7日、日曜日

 この作品は、こうやってみると、中にはいっている巴旦杏(はたんきょう)がおいしいヌガーのように思える。(即ち、巴旦杏は『アリサの手紙と日記』である。)だが、飴の部分はねばねばしている。うまく書かれていない。然し、立役者が、ジェロームのような、無気力な散文を持った無気力な性格の人間では、こうなるよりほか仕方がなかったのだ。で、結局のところ、この作品は成功していると思う。だが、早くほかのものが書きたくてたまらない! 再び、愛(アムール)とか心(クール)とか魂(アーム)とかいう文字を使うことが出来るまでには十年かかるだろう……

画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN / Portrait d'André Gide assis lisant à son bureau / Auteur de la photo : Marc Allégret /

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by utsushihara | 2009-11-09 22:30 | 文芸、評論1909-10