フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

プロフィールを見る
画像一覧

検索

カテゴリ

フランス社会政経1909-10
フランス政治社会1907-08
オペラ、音楽、演劇1909-10
オペラ、音楽、演劇1907-08
美術、彫刻1909-10
美術、彫刻1907-08
文芸、評論1909-10
文芸、評論1907-08
科学、軍事、海事1909-10
科学、軍事、海事1907-08
★ベルエポック事件簿1909
★ベルエポック事件簿1908
スポーツ、乗物、探検1909-10
スポーツ、乗物、探検1907-08
※百年前の広告
独墺バルカン情勢1909-10
独墺バルカン情勢1907-08
モロッコ問題、アフリカ1909-10
モロッコ問題、アフリカ1907-08
日本・東洋事情1909-10
日本・東洋事情1907-08
ロシア帝政末期1907-10
各国事情1909-10
各国事情1907-08
フランス政治社会1905-06
オペラ、音楽、演劇1905-06
★ベルエポック事件簿1910
美術、彫刻1905-06
文芸、評論1905-06
科学、軍事、海事1905-06
スポーツ、乗物、探検1905-06
モロッコ問題、アフリカ1905-06
ドイツ情勢1905-06
ロシア帝政末期1905-06
日露戦争、東洋事情1905-06
各国事情1905-06

タグ

(24)
(24)
(22)
(19)
(14)
(13)
(13)
(12)
(12)
(12)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(10)
(10)
(10)
(10)

最新のトラックバック

一枚の絵 シャバ「九月の朝」
from 壺中山紫庵
オペラ「フォルテュニオ」
from のんのつれづれなるままに
四月の魚
from ブラッケン・ダーキンの肖像
大統領の恥ずかしいような..
from パリノルール blog
ルルー『黄色い部屋の謎』
from Proust+ プルースト・..
11. 異邦人"シャルル..
from サン=サーンスの墓
フロラン・シュミット
from サン=サーンスの墓
ポール・デュカス
from サン=サーンスの墓
鼻の整形術 美しいスマー..
from 鼻の整形術 美しいスマートな華に
タロー兄弟と、コクトーの..
from 発見記録

以前の記事

2011年 03月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
語学

画像一覧

<   2009年 10月 ( 31 )   > この月の画像一覧

オーストリアの大公詐称の男女を逮捕

1909年10月30日(土)

予審判事シェヌブノワ氏の令状に従い、司法警察のルグラン副部長は30日朝、パリ16区クレベール通り11番地乙に住む自称グバッタ伯爵夫妻のもとに赴いた。ルグラン氏は家宅捜索を指示し、上々の成果をあげた。
f0028703_2249542.jpgまず身分詐称が明らかとなり、さらに高価な宝石類が見つかった。指輪は30万フラン相当のものでフォンタナ宝石店から納められたものだった。ほかには2個の指輪と豪華な髪留め、千フラン札、櫛形の髪飾りがあった。さらに男の出生証明書、これには1889年12月18日オーストリアのリンツ生まれ、氏名はカール・グバッタとあった。

ルグラン副部長は一連のオーストリアの礼装した高官や著名人の写真を押収した。これには見事な額縁に納められた皇帝の肖像も含まれた。そして大公の家紋入りの刻印、封蝋、さまざまな勲章や装飾品の数々、たくさんの往復書簡が入った文箱、そして質屋への宝石類の預け証があった。
この偽大公に雇われていた7人の使用人たちは捜査の間じゅう副部長につきまとい、給料は払ってほしいと請願し続けた。

この男の身元に関する情報提供を依頼したオーストリア警察からは、夕方次のような返事を受け取った。
「パリで逮捕されたグバッタ伯爵と称する男は、ウィーンでは元料理人のオットマン・グバッタであると確認された。母親は元公務員の妻で、文無しの寡婦である。」

f0028703_22492466.jpg警察ではさらに、妻と称するフォン・ベック夫人は、米国かまたは大西洋航路の汽船の上で、当時まだ料理人として働いていたグバッタと知り合ったと見ている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618793 « Le Petit journal » No.17110, le 31 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この偽大公(Le faux archiduc)が住んでいたクレベール通り(Avenue Kléber)は凱旋門広場から発する12本の大通りの1つで、トロカデロ広場へ抜ける瀟洒なアパルトマンが並び立っている。
凱旋門からすぐの17番地には、古くから「ホテル・ラファエル」(Hôtel Raphael)がある。派手ではないが品格の良さを感じさせる名ホテルの一つである。
[PR]
by utsushihara | 2009-10-31 22:47 | ★ベルエポック事件簿1909

ロックフェラー氏、医学のために百万ドルの寄付

1909年10月30日(土)f0028703_20383361.jpg

米国の大富豪ロックフェラー氏は、10月30日米国のある医学団体に百万ドルを寄付すると発表した。この団体は鉤頭虫によって引き起こされる病気の研究をしており、この病気の症状は「眠り病」に類似したものと見なされている。この寄付を受けることになった医学団体によれば、すでに2百万人がこの病気に罹っていることがわかっているという。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:Wikipedia(英文)John D. Rockefeller
http://en.wikipedia.org/wiki/John_D._Rockefeller

[ Ψ 蛇足 ]
ジョン・ロックフェラー(John D. Rockefeller, 1839-1937)は石油事業で巨万の富を築いた。20世紀に入ってからは慈善事業に積極的に取り組み、特に医学分野への振興策や支援を怠らなかった。1909年の10月26日に《ロックフェラー衛生委員会》を設立した。彼の寄付はこの委員会に対して行なわれたものである。この時には米国南部で「鉤頭虫」(hookworm)による伝染病の発症が問題とされており、その病気の絶滅を目的として資金を提供したものである。ロックフェラー財団の前身である。

(上記Wikipediaの英文記事の抜粋):Rockefeller(…)became one of the first great benefactors of medical science.(…)He founded the Rockefeller Sanitary Commission in 1909, an organization that eventually eradicated the hookworm disease that had long plagued the American South. The Rockefeller Foundation was created in 1913 to continue and expand the scope of the work of the Sanitary Commission, which was closed in 1915. He gave nearly $250 million to the foundation, which focused on public health, medical training, and the arts.(…)

*参考サイト:
(1)メルクマニュアル医学百科: 鉤虫症 (こうちゅうしょう)(和文)
(2)The Rockefeller Archive Center; Rockefeller Sanitary Commission for the Eradication of Hookworm disease(英文)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)大富豪ロックフェラー氏のヴァカンス(1906.06)
(2)アフリカで「眠り病」の流行(1907.04)
[PR]
by utsushihara | 2009-10-30 20:36 | 科学、軍事、海事1909-10

[ 直近の更新状況 ] 2009-l (「狭き門」百年祭)

たまには直近のフランスの話題をお伝えしたい。
先だっての日曜日、10月18日に文豪アンドレ・ジィドの永眠するノルマンディの小村キュヴェルヴィルで彼の代表作の一つ『狭き門』(La porte étroite)の発表100年祭が催されたことを今知ったところ。「お見逃しなく」(Ne ratez pas)という案内記事の忠告も、日本にいてはどうということにもならない。
ここには彼の別荘(Château de Cuverville-en-Caux)が今でも残っており、ジィドはパリの住まいと頻繁に往復し、多くの作品を執筆した場所だった。『狭き門』は完成まで3年以上費やした自信作だったようで、刊行されると評論家たちは賞賛を惜しまず、彼の真の文学的成功となった。
「ジィドの日記」には1909年7月以降、当時の反響について何度か記述があるのでいずれ紹介したい。

*参考サイト:
(1)Paris-Normandie.com(仏語)Cuverville: Hommage à André Gide le mois prochain
(2)Vivre-en-Normandie.com(仏語)André Gide centenaire de La Porte étroite à Cuverville-en-Caux

======================================================

10/30: 軍用馬による馬術選手権大会(1909)(1909.04.07-11)
10/28: 不実な妻に対する処罰(ベルエポック事件簿)(1909.03.31)
10/28: 重労働下の音楽家たち(1909.03.27-28)
10/27: セルビアの譲歩とジョルジュ王太子の廃嫡(1909.03.26)
10/23: 英国人芸人クリス・リチャーズの人気(1909.03.27)
10/21: ドビュッシー邸を訪問(1909)(1909.07.05)
10/21: ブルガリアの軍備増強(1909.04.15)
10/20: 青年トルコ党の政乱(1909.02.14)
[PR]
by utsushihara | 2009-10-30 15:11

シェル町で中年男の少女略取事件

1909年10月27日(水)

シェルの町でよく知られた実業家のJ氏は、駅前のカフェ・レストランに足繁く出入りしていた。この店は実直なG夫妻が切り盛りしていた。J氏を引きつけていたのは、店の看板に出ている旨いビールでもなく、店で顔を合わせる客たちでもなかった。それは店主の娘のかわいいジェルメーヌだったのだ。この11月にやっと15歳になるミニ・スカートのこの娘っ子と、ほとんど40過ぎの中年男との間に純愛小説のような恋物語が生まれるとは誰も信じなかった。しかも男は事業で立派に身を立て、結婚して11年になるというのに?
しかしながらこれは事実だった。ジェルメーヌはJ氏に連れ去られたのであり、それを知った店主夫妻は晴天の霹靂の予期せぬ不幸に陥った。しかし店の常連にも娘にもそうしたそぶりが少しもなかったのである。G夫妻はまず騒ぎが大きくなるのを避けたいと思い、少女が自分の足で家に戻ってくることを期待した。しかし今日になって彼らは仕方なく警察の力に頼ることにした。

事件はこの前の日曜日(24日)にさかのぼる。その日の夕方、J氏はジェルメーヌに6時半に会う約束をした。彼ら2人は駅前大通りにある会社の作業場に向かって一緒に歩いているのを目撃された。2人は建物の2階の一室に入ってまもなく出てきたまではわかったが、それ以後の彼らの姿を見た人はいなかった。

一般的にシェルの町では、J氏が若い娘と駆け落ちしたことは、一時的な精神錯乱ではないかと考えられた。とりわけ彼の妻はひどい苦しみの中に沈み込んだ。娘の両親の気持も慰めようがなかった。J氏はやや移り気な夫として通っていたが、幼い娘っ子を連れて出奔することとは遠くかけ離れていた。

f0028703_18573439.jpgこの日の夜、いなくなった娘からいきなり親のところに電話があった。この2人はブローニュ=シュル=メールから客船に乗ってポルトガルに向けて出航したのだという。警察では彼らを最初の寄港地で見つけようと手配中である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618790 « Le Petit journal » No.17107, le 28 Oct. 1909
画像 Crédit photographique : © RMN / François Vizzavona / Cote cliché : 97-027561 / Titre : Jeune fille lisant (exposé au Salon de la Société Nationale des Beaux-Arts de 1908) / Auteur : Victor Scharf (1872-19xx) / Localisation : Paris, agence photo RMN, fonds Druet-Vizzavona

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)直接の関係はないが参考画像として:ヴィクトル・シャルフ作『読書する少女』1908年サロン出典作。
シェル(Chelles)は、パリの東方マルヌ川沿いの衛星都市。現在の人口は約4万5千人。
[PR]
by utsushihara | 2009-10-29 18:56 | ★ベルエポック事件簿1909

ディエップの断崖で老婦人の謎の死

1909年10月26日(火)

昨日(26日)の午後、5時少し前にディエップの古城断崖(Falaise du Vieux-Château)と呼ばれる崖の上で一人の婦人が散歩しているのを釣り人たちが見かけた。すると突然3発の銃声が鳴ったと思うと婦人が崖から宙に身をひるがえし、海岸の岩の上に墜落死したのである。
捜査の結果、この婦人は71歳の未亡人のオルトルー夫人で、パリ9区のアムステルダム街に住んでいたことがわかった。この不幸な女性は高価な宝石類と100フラン以上のお金を身に着けていた。彼女は警察署長に宛てた手紙で家政婦を包括相続者に指名していると書き記していた。

f0028703_23242785.jpg
[ パリでの当紙の取材 ]
71歳のカミーユ=ポーリーヌ・オルトルー夫人は年金を受けて、パリ9区のアムステルダム街x番地の小さなアパルトマンに2年来住んでいた。家賃は年580フラン(月平均48フラン≒12万円)だった。
とても愛想がよく、いつも朗らかでオルトルー夫人は家政婦のバイエ夫人と毎日を穏やかに暮らしていた。家政婦は60歳でバティニョルのジョフロワ=ディドロ歩廊に住んでいた。
夫人には甥が一人いたが、長い間会っていなかった。彼女にはほとんど付き合いする人はなく、外出もごくたまにしかしなかった。季節のいい夏の間には、田舎に住む友人の若夫婦のもとで数週間過ごすことがあった。先週の金曜日の午後2時半頃、夫人は両手に旅行鞄を下げて部屋から下りてきた。そして管理人に辻馬車を呼んでくれるように頼み、とても陽気に「数日間留守にしますので」と挨拶して出かけた。
当紙が調査を進める上で知ったことだが、オルトルー夫人は7千フランの債務を払ってもらうために出かけたのだという。また先般10月7日には彼女は遺言書を作り、それを家政婦に手渡し、包括相続者にしたことを伝えたのだった。
「これが遺言書よ。この歳になればこの先何が起きるかわかりませんからね。」

オルトルー夫人を知っている人で、我々が尋ねまわった人はすべて、彼女が実年齢よりも20歳は若く見え、しかも自殺したことにとても驚いていた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618789 « Le Petit journal » No.17106, le 27 Oct. 1909
画像 Crédit photographique : © RMN / Agence Bulloz / Cote cliché : 03-002587 / Titre : Vue de la plage de Dieppe, prise du château / Auteur : Eva Gonzalès (1849-1883) / Localisation : Dieppe, château-musée

[ Ψ 蛇足 ]
ディエップ(Dieppe)の海岸を描いた絵は少なくないが、RMNのサイトにディエップ博物館所蔵の珍しいエヴァ・ゴンザレス(Eva Gonzalès, 1849-1883)の風景画「ディエップの浜辺のお城からの眺め」があったので、参考掲載した。エヴァはエドゥアール・マネの弟子兼モデルとなった女流画家の一人である。
[PR]
by utsushihara | 2009-10-28 23:22 | ★ベルエポック事件簿1909

批評家シュヴァッシュ対劇作家ベルンスタンの決闘

1909年10月27日(水)

フィガロ紙の劇評家フランシス・シュヴァッシュ氏はアンリ・ベルンスタン氏の戯曲『鉤爪』(Griffe)の再演に関して評論記事を書いたが、その中のいくつか辛辣な評価で作者を傷つけることになった。
ベルンスタン氏は「コメディア」誌にシュヴァッシュ氏対する公開書簡として同様な口調で反論を述べ、それが火薬に火を点ける結果となった。シュヴァッシュ氏はベルンスタン氏の暴力的な回答によって侮辱されたと判断し、2人の友人を介して先方の発言の撤回もしくは決闘のいずれかを申し入れた。その友人とはアカデミー会員のモーリス・ドネー氏と文筆家のジョルジュ・リヴォレ氏である。
(↓)ベルンスタン氏の方も2人の友人、劇作家アベル・エルマン氏とジャン=ジョゼフ・ルノー氏を代理人として公開討論を依頼した。長時間の折衝でも双方が和解に至ることはできなかった。こうして侮辱を受けた側として批評家シュヴァッシュ氏と劇作家ベルンスタン氏は、それまで紙面上に限られていた争点を武器によって決着をはかるべく、決闘場に赴くこととなった。

f0028703_21535265.jpg日時は27日午前11時半、場所はパルク・デ・プランス競輪場、武器は拳銃を使用することと決まった。天候は最悪だった。滝のような雨がこの決闘に立ち会いたいと望む限られた人々に降り注いだ。
まず1台の自動車からベルンスタン氏が降りた。「鉤爪」の作者は、伝統的な決闘のいでたち、つまり山高帽や硬いフロックコートの着用を前から気にしていて、結局チロル帽とチョッキを付けた軽装服だった。彼のそばには口髭を反り返らせたアベル・エルマン氏と拳銃の箱を持ったルノー氏がいた。それからポッジ教授が医師として立ち会った。
数歩離れた別の自動車からは、黒服の上下のフランシス・シュヴァッシュ氏が降り立った。モーリス・ドネー氏は風雨の中、麦藁色の革手袋をした両手で傘を差し、光沢のあるシルクハットと礼服という完璧ないでたちだった。その後にリヴォレ氏が同じように拳銃の箱を持ち、カザン医師が扉を閉めた。競輪場の芝生の上では伸び放題の草が靴のかかとまで踏み込ませた。立会人たちは急いで距離を測った。これはあまり例がないが、慣例の25歩の距離ではなく、30mの距離と決めていた。拳銃に弾が込められ、決闘者たちはそれぞれの場所から面と向かった。

進行役となったルノー氏は、雨の中で退きながら当人たちに最終的な注意事項をしつこく説明した。そして「用意はいいか?」(Etes-vous prêts, messieurs?) という決まり文句のあとに、「撃て!」(Feu!)と叫んだ。
シュヴァッシュ氏は静かに拳銃を持ち上げ、ベルンスタン氏に狙いを定め、引き金をひいた。弾丸は音を立てて劇作家の右側を飛び、観客席の下の砂利道に食いこんだ。
ベルンスタン氏のほうは「撃て!」の合図で同じく冷静に、拳銃を背中にまわし、銃口を地面に向けたまま、発砲しなかった。

「どうして撃たなかったんだ?」とルノー氏がきいた。ベルンスタン氏は何も答えず、進行役に武器を返した。ルノー氏は競技場の手すりの横の木材が積んである所に弾を放った。

決闘は終わった。一言もなく、身振りもお辞儀もなしに当事者たちはその場を離れ、車に乗り込んだ。この間、パルク・デ・プランス競輪場の囲いの陰から映画の撮影技師が熱心にその大きな機械を回していた。彼はがっかりした様子を露わにした。ベルンスタン氏は微笑み、シュヴァッシュ氏は会釈し、モーリス・ドネー氏は傘の陰に顔を隠した。雨はこれまでになく強く降りしきった。侮辱の応酬も洗い流すことだろう。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618790 « Le Petit journal » No.17107, le 28 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
決闘は表面上は禁じられていたのにもかかわらず、軍人や文筆家などの間では結構頻繁に行なわれた。
映画産業は急速に拡大発展し、人々に話題性の強い出来事をニュース映画のように見せることが次第に多くなったことがわかる。
f0028703_21541457.jpgアンリ・ベルンスタン(Henri Bernstein, 1876-1953)はこれまでも「突風」や「鈎爪」など刺激的な劇作で注目を集めていた。
フランシス・シュヴァッシュ(Francis Chevassu, 1861-1918)は評論家としての著作が多いが、反ドレフュス派の保守的な人脈とのつながりが深く、1904年の『顔』(Visages)というルポルタージュ本には、フランソワ・コペ、ジュール・ルメートル、デルーレード、アンリ・ロシュフォールなどの人物を取り上げている。(BNF-Gallica #619734 で電子図書として読める)(→)

**これまでの関連記事france100.exblog:「鈎爪」の上演(1906.04)
[PR]
by utsushihara | 2009-10-27 21:52 | 文芸、評論1909-10

伊藤博文公ハルビンで暗殺される(1909)

1909年10月26日(火)
f0028703_1881050.jpg
10月26日、日本で最も優れた政治家の一人、伊藤博文公が満州のハルビン(哈爾浜)で暗殺された。犯人は朝鮮人の青年で、自分の国が日本によって蹂躙された復讐だと語っている。伊藤公は長州藩武士の出身で、71歳、《黄色のビスマルク》(Bismarck jaune)は4年間にわたって朝鮮における日本の初代統監として保護国制を定着させたが、流血沙汰なしという訳ではなかった。

(フラf0028703_1882625.jpgンスの主要各紙でもいち早くこの事件は一面トップで掲載された。右は「プチジュルナル」紙の一面→)
日本の元外務大臣(*ママ下注)で、前朝鮮統監の伊藤博文公(Prince Ito)は26日朝、哈爾浜で朝鮮人によって暗殺された。伊藤公は9時半ごろ列車から降り、ロシアの財務大臣ココツォフ氏一行とともに儀仗兵の前を通り、諸外国の領事団のところに近寄ったとき、背後から数発の銃弾が発射され、致命傷を受けて倒れた。
それと同時に南満州鉄道総裁の田中氏は足に軽い傷を負い、また満州総領事の川上氏はかなり重傷を負ったが生命は取り留めた。伊藤公は銃弾を3発受けていた。
すぐさま犯人は取り押さえられた。彼は朝鮮人であると言い、わざわざ伊藤公の暗殺のために哈爾浜までやってきたという。その意図は主権が蹂躙された国の恨みを晴らすことと、公の統治期間中に彼の親族が殺害されたことへの復讐であった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618789 « Le Petit journal » No.17106, le 27 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.45; 6 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
伊藤博文(Hirobumi Ito, 1841-1909)は華族の称号では侯爵(marquis)だったが「伊藤公」(Prince Ito)で通っていた。前日25日(月)にロシアの財務大臣と交渉事のために哈爾浜に赴いていた。ロシア側は北京駐在の特命全権公使も会議に出席していたが、満州鉄道の買収に関するものと思われた。
世界史での「日韓併合」はこの翌年の1910年となるが、それまでに保護国制を敷き、着々と日本側への権限の拡大を浸透させてきた頃である。日本国内における衝撃は計り知れないほど大きなものだったようだ。
(この辺は日本史研究のサイトにお任せしたい。)
(*)記事原文には « Le prince Ito, ancien ministre des Affaires étrangères du Japon »(外相)とあり、私たちの常識であるはずの「初代総理大臣」という記述は残念ながら皆無であった。
f0028703_1884377.jpg(←)左掲は伊藤公夫妻と孫たちの写真である。明治時代は、家庭ではまだ和服が普通であった。

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
数年前に偶然、東京都品川区の伊藤小学校の近くを仕事で訪れる機会があった。西大井駅のすぐそばに立派な構えの神社かお寺のような境内があって、人が容易に中には入れないようになっていた。そこが「伊藤公墓所」だった。昔は大井伊藤町という町名だったようで、あまり区の観光案内には出ていなかったので、意外な発見をしたような気がした。
[PR]
by utsushihara | 2009-10-26 18:06 | 日本・東洋事情1909-10

クロスカントリーのルーズヴェルト賞

1909年10月24日(日)

f0028703_15451772.jpg悪天候にもかかわらず、24日午後ブローニュの森のクロワ・カトラン(Croix Catelan)の運動場には多くの観衆が押しかけた。フランス・レーシング・クラブ(RCF)主催の今年のルーズヴェルト賞(Le Prix Roosevelt)のためである。
コースの全長は4827mと短いもので、パリのアマチュア走者の強豪10数人が参加した。足場の悪いコースで優勝したのはケイゼー(Keyser)で11分15秒、2位はフルーラック(Fleurac)、3位はボヌル(Bonhoure)だった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #563405 « Le Petit Parisien » No.12049, le 25 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica; Keyser [portrait du coureur] : [photographie de presse] / [Agence Rol] http://gallica2.bnf.fr/ark:/12148/btv1b6922589h

[ Ψ 蛇足 ]
ジャック・ケイゼー(Jaques Keyser, 1885-1953)はこの時代のクロスカントリーでフランスを代表する有名選手だった。(Webで検索できる昔の情報が昨年よりは今年、というふうに追加、充実してきている。)

**これまでの関連記事france100.exblog:クロスカントリー国内選手権大会(1909)(1909.03.07)
[PR]
by utsushihara | 2009-10-25 15:39 | スポーツ、乗物、探検1909-10

ラッコニージの露伊両君主会談

1909年10月24日(日)f0028703_22482872.jpg

ロシア皇帝ニコライ2世のイタリア訪問における両君主の会談は有名なラッコニージの夏の離宮で催されたが、晩餐会で交された何度かの乾杯の発声には月並み以上に変わったことはないものの、欧州の均衡に影響を及ぼしかねない出来事ゆえに、各国から大いに注目を浴びる結果となった。
これはイタリア外交における恐らく重要な変更のきざしと思われた。両国の外相イスヴォルスキー(Isvolsky)氏とティットーニ(Tittoni)氏とは、この機会に先年のオーストリア帝国によるボスニア併合以来途切れていた折衝を、中東の現状維持の意向ともども会談の項目に取り上げた。彼らはまた、独墺伊の「三国同盟」(Triplice)条約の次の更新についても意見を交し、イタリアが依然として忠実にその枠組に留まっていることを踏まえながらも、新たな平和の手段を模索した。総体的に両国間の会談は平和の保証であり、他の諸国に対し好意的に受けとめられた。
わがフランスの外相ピション(Pichon)氏も帰途につくロシア皇帝の列車に乗り込み、同行のフランス外交官との打合せの時間を持った。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.45; 6 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]f0028703_22485239.jpg
ラッコニージ(Racconigi)はトリノの南約40kmにある町で、中世から城館(Castello Reale di Racconigi)があり、ヴィットリオ=エマヌエーレ3世も夏の離宮として使っていた。(町の全景→)

三国同盟(Triplice)は、ビスマルクの時代の1882年に独墺伊で締結された軍事同盟である。この時各国の君主も宰相もほとんど代替わりして、まもなく30年を経過しようとしていたので「次の更新」(prochain renouvellement)という言葉も出てきていたのだろう。

*参考サイト:Wikipedia(和文)ラッコニージ(Racconigi)
**これまでの関連記事france100.exblog:欧州バカンス外交(1907)(1907.08)
[PR]
by utsushihara | 2009-10-24 22:47 | 各国事情1909-10

ロートシルト男爵の劇作『脚光』の初演

1909年10月19日(火)

大劇場での上演は初めてとなるアンリ・ド・ロートシルト氏作による4幕劇『脚光』(La Rampe)は10月19日ジムナズ座にて初演され、成功をかち得た。

f0028703_23221338.jpgアンリ・ド・ロートシルト男爵は単に百万長者であるばかりでなく、小説家であり、劇作家でもある。彼の名前が劇場のポスターに載ったことがパリ中の大きな好奇心を引き起こした。彼はそれを予期しており、さらに妬み深い何人かは劇の上演に厳しい評価を出すことも考えられた。彼は金持ちであることを平気で自嘲する機智を示し、かえって脚光を浴びる呼び水となった。

『脚光』(La Rampe)は感じのいい、生き生きとした劇的な要素に満ちた作品である。非常に好感を与える劇として好評を博した。劇は題名が示す通り、演劇の世界でくり広げられる。社交界に出入りする若い夫人マドレーヌが演劇に魅せられ、自分の夫と立場なげうって舞台に立とうとする。彼女はある有名な喜劇役者ブルグィユの助言を聞き入れ、ついには彼を愛するようになる。
しかしながら彼女の資質は浅薄ではなかった。彼女には才能があった。彼女は成功し、それに応じて評価は確かなものとなった。性根の悪いブルグィユは彼女を妬むようになった。彼は侮辱でもなく、凶暴でもなく、自分の夢を砕くこの女に我慢できなくなり、ついには非常に劇的な場面で服毒させてしまう。
観衆は『脚光』を好意的に受け止め、その幸運な作者を称賛した。

f0028703_23224261.jpgマルト・ブランデス嬢はマドレーヌの役で久々に優れた演技を見せ、この上演が彼女の最高の栄えあるすぐれた役作りであると喝采された。憎まれ役のブルグィユの人格はデュメニー氏が感動的で完璧な技量を示した。
またカルメット氏は、その職業にうんざりしている劇作家の役で好演している。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288617 « Le Figaro » le 20 Oct. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909


[ Ψ 蛇足 ]
アンリ・ド・ロートシルト男爵(Henri de Rothschild, 1872-1947)は学術、特に文芸の分野で活躍した。

競走馬の馬主で有名なロートシルトは、同族で別人のモーリス・ド・ロートシルト(Maurice de Rothschild, 1881-1957)である。

マルト・ブランデス(Marthe Brandès, 1862-1930)はかつてコメディ・フランセーズ座の人気女優だった。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)文芸消息(1907年8月)アンリ・ド・ロートシルト男爵、短篇集「人生の反映」(Les Reflets de la vie)を出版
(2)コメディ・フランセーズ座、ブランデス嬢を訴える(1905.06.08)
[PR]
by utsushihara | 2009-10-21 23:21 | オペラ、音楽、演劇1909-10