フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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[ 直近の更新状況 ] 2009-j

今年は本格的な秋の到来がここ数年間のうちでは早いような気がします。秋の夜長とは申しますが1日24時間は四季のいずれの場合でも変わりません。集中力と能率の問題かも知れません。

09/30: グノーの歌劇『ファウスト』公演50周年(1909.03.19)
09/29: オデオン座で劇作『ベートーヴェン』初演(1909.03.09)
09/29: [ 往古広告 ] ナポレオンかく語りき(1909.02)
09/26: アンドレ・メサジェの喜歌劇『ヴェロニク』の再演(1909.03.11)
09/25: リシュパンの劇作『エメラルドの道』初演(1909.03.05)
09/24: ジョルジュ・オーネの『製鋼技師』の再演(1909.03.08)
09/23: 機械展覧館(ギャルリ・デ・マシヌ)の取壊し(1909.03)
09/21: 巨大なアルゼンチン独立記念碑の制作(1909.03)
09/21: 四旬節の女王のパレード(1909.03.18)
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by utsushihara | 2009-09-30 22:28

ロダンによるヴィクトル・ユゴーの記念碑の除幕式

1909年9月30日(木)f0028703_2225572.jpg

文豪ユゴーの代表作『諸世紀の伝説』(La Légende des siècles)が発表されてから50年経ったのを記念し、彫刻家オーギュスト・ロダンが制作したヴィクトル・ユゴー像の除幕式が9月30日パレ・ロワイヤルの庭園で行なわれた。文豪は岩の上に座し、横の岩に右腕の肘をつき、右手は顔に当てた深い瞑想の姿勢で表現されている。また左手は平静さをもたらすように水平に伸ばしている。
式典は文部大臣のガストン・ドゥメルグの主宰のもと、記念碑の前に文化次官のデュジャルダン=ボーメツ、彫刻家のオーギュスト・ロダン、エミール・ブレモン、警視総監レーピン、アルフレッド・ブリュノー、ロベール・ド・モンテスキュー伯爵、等々が参列した。
コメディ・フランセーズ座のマドレーヌ・ロック嬢が白い大きな外套をまとって現われ、美しく鮮やかな声でユゴーを讃える頌詩を詠じた。そのときまで彫刻家のロダンは夢見るような様子だったが、この若い悲劇女優の朗誦に大きな満足の気持を示した。
最後にドウメルグによるユゴーを讃える演説が行なわれ、共和国近衛音楽隊によるグノーの「行列行進曲」(Marche du cortège)が演奏され式典は終わった。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288598 « Le Figaro » No.274; le 1er Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405973 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo, 1802-1885)
オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin, 1840-1917)
アンリ・デュジャルダン=ボーメツ(Henri Dujardin-Beaumetz, 1852-1913)
マドレーヌ・ロック(Madeleine Roch, 1883-1930)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)パンテオン広場に「考える人」像(1906.04.21)
(2)ベジエの野外劇場で『太陽の娘』初演(1909.08.30) マドレーヌ・ロック
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by utsushihara | 2009-09-30 22:25 | 美術、彫刻1909-10

飛行船《共和国》号の犠牲者たちの国葬

1909年9月28日(火)
f0028703_18455046.jpg


痛ましい墜落事故の起きたムーランでの厳粛な葬儀の後、4人の犠牲者を悼む国葬(Obsèques nationales)が9月28日ヴェルサイユで執り行なわれた。4つの棺は工兵部隊の兵舎に安置され、出棺の儀式は大聖堂でジビエ枢機卿による悲しみに満ちた追悼で行なわれた。政府関係者と各国の代表が参列した。墓地の入口では、軍事相のブリュン将軍をはじめ、セーヌ・エ・オワズ県知事などが弔辞を述べた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618761 « Le Petit journal » No.17078, le 29 Sep. 1909f0028703_1954237.jpg
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405973 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ローギエ司令官の先導で葬儀会場のヴェルサイユ大聖堂に向かう閣僚たち、軍事相ブリュン将軍、ブリアン首相、ミルラン建設相それに各国武官たちが続く。(↑)

フランス陸軍の誇る第一線の飛行船《共和国》(レピュブリク)号の逸失事故である。7月からの新聞記事にも頻繁に取り上げられ、フランスの飛行船の中でも最も優美な勇姿と讃えられた。飛行船という存在感の大きな建造物は、後世の巨大戦艦と同じように国家の威信と国民の期待が込められていた。しかしその反面、その運行上の不安定性と脆弱性がこれほどまでにと考え直させる悲惨な事件が世界中で続出した。このとき、人間が空を飛べるようになってからまだ100年余りしか経っていない。

**これまでの関連記事france100.exblog:飛行船《共和国》号の惨事(1909.09.25)
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by utsushihara | 2009-09-28 18:40 | フランス社会政経1909-10

ジィドの新作『狭き門』への評価(2)

1909年9月f0028703_9502583.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
キュヴェルヴィル 9月 

『狭き門』に関する批評。――彼等にとって、あれらの色々傾向のちがった作品が私の精神の中に共存したこと、また今もまだ共存していることを認めるのは困難なのだ。あれらの作品は、紙の上に書かれるからこそ、また、とても同時になど書けないからこそ、ああやって相次いで現われたのである。私は、どんな作品を書く場合でも、自分を全部そこに与えてしまうということは決してない。そして、この上もなく切実に私を求めていた主題も、忽ち、私の他の一端の方に展開して行くのである。

私の精神(エスプリ)の弾道を描くことは容易ではあるまい。その曲線は私の文体の中にしか現われないであろうし、多くの人はこれを見のがすであろう。もしも誰かが、私が最後に書いたものの中に、やっと私の似顔を見つけだしたと思ったとすれば、そうした迷いは覚まさねばならぬ。私は常に、末子には一番似ていないのだ。

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(1) (1909.07.11)
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by utsushihara | 2009-09-27 22:39 | 文芸、評論1909-10

航空輸送サロンの開幕

1909年9月25日(土)
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航空輸送サロン(Salon de Locomotion aérienne)は9月25日グラン・パレを会場として開幕した。主催者のロベール・エスノー=ペルトリ氏の尽力により、昨今大いに脚光を浴びる航空スポーツ(Sport aérien)の若手飛行家たちの栄誉の数々が3週間のあいだ展示された。
この航空サロンは、人々の中で急速に増長してきた空中飛行への思いをさらに拡大させる意義深い催しとして期待されていた。空間を飛び進む、あるいは浮揚する意味での飛行全般に関する初めての大規模な展示となり、会場に設けられた多くのブースに大勢の観客が押し寄せた。何度も改良が加えられた数多くの型式の飛行機が展示されており、人々の驚嘆と満足には大きなものがあった。会場では、ブレリオが英仏海峡を横断飛行したときの飛行機をはじめ、有名なファルマン、ラタム、ポーラン等の機体がサントス=デュモンの「お嬢様」号や数多くの気球、普仏戦争時の攻囲戦の気球、モンゴルフィエの色彩豊かな気球、2基の飛行船などとともにこれまでにない展示手法を駆使して飾られた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618756 « Le Petit journal » No.17073, le 24 Sep. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405973 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909
f0028703_2120538.jpg画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica; Esnault-Pelterie [aviation] Vreus [photographie de presse] / [Agence Rol]

[ Ψ 蛇足 ]
(←)ロベール・エスノー=ペルトリ(Robert Esnault-Pelterie, 1881-1957)はこの直近まで飛行家として活動していたが、次第にこうした協会団体の啓蒙的活動に傾注していく。

*参考サイト:Wikipedia(和文)ロベール・エスノー=ペルトリ

**これまでの関連記事france100.exblog:第1回航空サロン展の開催(1908)(1908.12.24)
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by utsushihara | 2009-09-26 21:21 | スポーツ、乗物、探検1909-10

飛行船《共和国》号の惨事

1909年9月25日(土)f0028703_23142590.jpg

サントル地方で実施された軍事大演習に参加するという壮挙をあげた飛行船《共和国》号は、数日間の待機の後、9月25日に本拠地であるシャレー=ムードン緑地に帰るため装備を整え、朝6時50分にロジエール繋留地を出発した。マルシャル大尉、ショーレ中尉、そして機関士のレオーとヴァンスノの計4人が乗り込んでいた。約千人の兵士と民衆が見送った。機体はすぐさま約150mの高さまで上昇し、国道7号線に沿って時速40kmの速さでパリに向かった。部品や装備品を積んだ軍用自動車が2台、国道を追走した。
8時30分頃、飛行船は50kmほど安定した飛行を続け、ムーラン市の上空を通過した。しかし、それから8km過ぎたところで突然プロペラが破損して飛び散り、その羽根の1つが飛行船の気球に大穴をあけたのだ。見る見るうちに飛行船は墜落し、地表に激突した。乗組員の4人全員とも即死であった。併走していた軍用自動車が不幸にもその最期の目撃者となった。すぐに現場に駆けつけたが、帆布は引き裂かれ、装備が飛び散り、操縦台の中に4人の死体が横たわっていた。
この悲報はすぐに軍と政府に伝えられ、フランス全土が衝撃と悲しみに覆われた。

f0028703_23151018.jpg画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405973 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #716873 « Le Petit journal; Supplément du dimanche» No.986, le 10 Oct. 1909

**これまでの関連記事france100.exblog:陸軍大演習と飛行船《共和国(レピュブリック)》号の修復(1909.09.14)
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by utsushihara | 2009-09-25 23:13 | 科学、軍事、海事1909-10

対飛行船用クルップ砲の登場

1909年9月f0028703_1650408.jpg

飛行船に続いて飛行機の目ざましい発展は、戦場に部隊を展開する各国軍事省の懸念を増大させている。
飛行船について見れば、これまでフランスは《祖国》(Patrie)、《パリ市》(Ville-de-Paris)、《共和国》(République)、《自由》(Liberté)、《ルナール大佐》(Colonel-Renard)、《ナンシー市》(Ville-de-Nancy)を建造しており、ドイツも何基かの《ツェッペリン》(Zeppelin)と、《グロス准尉》(Major-Gross)、《パーセヴァル》(Parseval)を保有し、イタリアも《イタリア》(Italia)を、そしてロシアは最近《バヤール=クレマン》(Bayard-Clément)を購入した。さらにライト兄弟、ファルマン、ブレリオ、ラタムらによる飛行機の性能の向上は、各国の戦術に空からの偵察に重きが置かれるように変わっている。
f0028703_1651378.jpgここで、ドイツのクルップ社(Krupp)ではすでに新機種の大砲を作り上げた。これは野戦用の大砲であるとともに、真上の標的にも十分に狙いを定め、発射することができるものである。口径65mm、射程は6300mとなって垂直にも発射できる。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.57; Oct. 1909
出典Crédit avec l’illustration:©BNF-Gallica #39751 « Larousse mensuel illustré, revue encyclopédique » No.34 Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #716875 «Le Petit Journal, supplément illustré» No.988, Dimanche, le 24 Oct. 1909
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by utsushihara | 2009-09-24 16:48 | 科学、軍事、海事1909-10

ベル・エポックの三美神の一人《オテロ嬢》危うく焼死という事故を免れる

1909年9月23日(月)f0028703_18523639.jpg

アントワーヌ劇場の女優が手袋のしみ抜きから大火傷を負うという事件からまだ3日と経たぬうちに同じくらい大惨事になりかねない事故が、かの有名なカロリーヌ・オテロ嬢自身の身の上に起きた。それは彼女のお化粧中の出来事である。
彼女が住むパリ17区フォルチュニー街の邸館の部屋にそのときたまたま一緒だった女友達が事件の詳細を語ってくれた。
「オテロ嬢はお昼ごろ化粧室で髪を洗っていました。彼女は近くの容器に手を伸ばして、中身を巻き上げた髪に振りかけました。その何滴かが隣のガス温水器の炎に飛び散ったと見るや、引火して彼女の髪に炎が広がったんです。」彼女は続けた。
「幸いにも私がそばにいたので、とっさにロシアのナプキンをつかんで、彼女の頭に投げたので炎が消せました。もし彼女が髪をマッサージする前に、注意深く滴が飛び散らないようにしていなければ、すべての容器に火が点いて彼女は火だるまになったかもしれませんよ。」
最小限だったとしても、首筋、のど元、胸、左のわき腹、左腕が火傷した。幸いにも表皮だけで済んだという。ルグラン医師がすぐに駆けつけ、包帯を施し、点眼薬も役にたった。この事故によるオテロ嬢の美貌への影響はほとんどないと思われる。結局、彼女は数日間の休養となった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618756 « Le Petit journal » No.17073, le 24 Sep. 1909
画像 Crédit photographique : © RMN(Musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / Cote cliché : 02-007918 / Fonds : Photographies / Titre : La Belle Otero (1868-1965), artiste de variétés, courtisane / Auteur : Reutlinger Charles (1816-après 1880) (atelier de)/ Localisation : Paris, Musée d'Orsay

[ Ψ 蛇足 ]
ベル・エポックの三美神とは、1890年代にその美貌の頂点で花開いた3人の女性のことを指す。
エミリエンヌ・ダランソン(Émilienne d’Alençon, 1869-1946)
リアーヌ・ド・プージィ(Liane de Pougy, 1869-1950)
カロリーヌ・オテロ(Caroline Otero, 1868-1965)
3人ともほとんど同じ歳であり、1910年近くなれば四十路を越え、名声の勢いでまだ輝いていた頃であろう。(絶世の美女は次々に出現する)

この時代には、身の回りで危険な物質、ベンジンのような揮発性の汚れ落とし、硫酸や塩酸といった化合物、ストリキニーネのような毒物などが頻繁に使用されていたことに驚かされる。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Caroline Otero
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by utsushihara | 2009-09-23 18:51 | フランス社会政経1909-10

飛行家フェルベ大尉の事故死

1909年9月22日(水)f0028703_22571953.jpg

フェルベ大尉は飛行家たちの先達の一人として知られるが、9月22日ブローニュ=シュル=メールにおける北部鉄道会社提供の最速飛行記録大会に出場中、機体の事故により死亡した。47歳だった。
フェルベ大尉は前夜大勢の聴衆を前に飛行術に関する講演を行い、熱心でわかりやすい語り口で魅了した。

事故は午前10時7分、彼の複葉機が格納庫から出て、点検後、序走車台に乗り、北東からの強い向かい風に向かって離陸しようとしたときに起こった。助走を始めた車台が地面のぬかるみにはまって傾き、離陸しようとした飛行機はバランスを失って左翼が地面に接触し、前方から大きく転倒したのである。助け出された直後、フェルベ大尉は「くだらん事故だ!馬鹿みたいだ!」と叫んでいた。彼は胸部をモーターにぶつけたため骨折して陥没していた。担架に乗せて飛行場の観覧席まで運び、医師の応急措置を受けたが、10時半ごろ昏睡状態に陥り、そのまま息を引き取った。
f0028703_2342650.jpgフェルベ大尉の死はフランス飛行クラブにとっても、またフランス軍部にとっても大きな損失であり、関係者は悲嘆の念に包まれた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526296 « Touche à tout » No.10; Oct. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618751 « Le Petit journal » No.17068, le 19 Sep. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
フェルディナン・フェルベ大尉(Capitaine Ferdinand Ferber, 1862-1909)はリヨン出身で、理工科学校で学び、卒業後軍の将校として各地を回ったが、1900年にシャレー=ムードンの飛行船部隊に配属され、飛行技術に興味を深めた。彼はこれまで多くの大会に参加したが、時には「ドリュー」(De Rue)という変名でも競争に加わった。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ランス郊外ベテニーでの大航空祭の盛上がり(1909.08.24) フェルベ大尉の試験飛行
(2)ルイ・ポーランによる長時間飛行記録の更新(1909.08.25) フェルベはドリュー(De Rue)の変名でレースに出場している
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by utsushihara | 2009-09-22 22:54 | スポーツ、乗物、探検1909-10

バロン=ダルザスの頂上にジャンヌ・ダルク像

1909年9月19日(日)

9月19日午後2時、バロン=ダルザスの頂上、標高1214mのジュマントリー(Jumentrie)展望台にジャンヌ・ダルク像の落成式が行なわれる。ジャンヌ・ダルクの騎馬像は麓から頂上まで、頑健で献身的な人々の腕と牛たちの力強い牽引という長く骨の折れる努力によって運び上げられたばかりである。
f0028703_21245974.jpg像が置かれる台座は切り立った岩石を積み上げて固められたもので、聖女は足下に麗しいロレーヌの平原が波うって広がるのを見下ろしている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618751 « Le Petit journal » No.17068, le 19 Sep. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405977 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この地点は現在でもフランシュ=コンテとアルザス、ロレーヌの境界が接するところで、上記の記事では「独仏国境から250歩のところに」と述べている。普仏戦争以後、第一次大戦が終わるまではアルザスとロレーヌがドイツ領だったことから、こうした《失われた国土の回復》を願う国民感情は強かった。

「バロン=ダルザス」(Ballon d’Alsace)の地名はドイツ語では「エルゼッサー・ベルヒェン」(Elsässer Belchen)と呼ばれる。バロン(Ballon)はヴォージュ山脈(Vosges)の峯の名称としていくつか使われているが、もともとは「ベルヒェン」からBelchen → Bel → Ball → Ballon「バロン」に変容したという説がある。

*参考サイト:(仏語)Wikimedia commons; Category: Ballon d'Alsace
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by utsushihara | 2009-09-21 21:25 | フランス社会政経1909-10