フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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英仏海峡横断初飛行への挑戦(7)ルイ・ブレリオのパリ凱旋

f0028703_17205835.jpg
1909年7月31日(土)

(↑)上掲の写真はパリに到着したブレリオを迎える熱狂したパリの群衆、と(↓)31日に行なわれたパリ航空クラブ(Aéro-Club de Paris)主催の晩餐会風景である。ブレリオは新法相ルイ・バルトゥとパリ防衛軍司令官ダルスタン将軍との間に着席し、彼に向かって述べられた数々の祝辞に対しごく簡単な答礼をした。

(7月28日付「マタン」紙の記事から)
f0028703_17212521.jpgルイ・ブレリオ(Louis Blériot)は今日(28)パリに到着するだろう。パリでは、ドーヴァーやロンドンで催された祝賀行事以上に、できる限り盛大で熱狂的で賞賛に満ちた歓迎式典が予定されている。
ブレリオ夫妻は昨日(27)の夜9時にロンドンを出発した。同道したのは彼を最初にドーヴァー着陸を迎えたアルフレッド・ルブラン(Alfred Leblanc)、フルニエ(Fournier)、シャルル・フォンテーヌ(Charles Fontaine)の各氏である。彼らはカレーで泊まったあと、午後1時15分の列車で発ち、パリの北駅に午後4時45分に到着する。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #569138 « Le Matin » No.9283 - le 28 Juil. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738243 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.32; 7 Août, 1909

f0028703_1722173.jpg[ Ψ 蛇足 ]
ルイ・ブレリオは1872年7月1日、カンブレー生まれ37歳。若くして中央美術工芸学校で学んだ。1900年以降、彼は《翼をはばたかせる鳥》(Oiseau à ailes battantes)を夢見ながら数多くの飛行機を試作した。さらに模索に模索を続けて単葉機を作りあげ、エタンプからオルレアンまでの長距離飛行、次いで英仏海峡の横断飛行に成功した。妻と5人の子供がいる。(←)

**これまでの関連記事france100.exblog:英仏海峡横断初飛行への挑戦(5)ルイ・ブレリオの成功(1909.07.25)
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by utsushihara | 2009-07-31 17:19 | スポーツ、乗物、探検1909-10

麦藁馬車への連続放火犯

1909年7月f0028703_2224788.jpg

7月のあいだ、パリおよびその近郊の町では麦わらを積んだ荷車が延べ30台も燃やされるという事件が多発した。偏執的な何者かによる放火であると考えられたが、だれもその現場を押さえることができなかった。この火災ではいくつかの重大事故を誘発している。犯人を見つけた人に対して報奨金が約束された。

彼らは通りがかりに麦藁を積んだ馬車にこっそりと火をつけることを繰り返すのだが、異常な快楽のためなのだろうか?それとも何かの復讐のためであろうか?
こうした犯行への傾注はかつては稀であった。今では集団化しており、彼らの行動は伝染しているようにも見える。1台の荷馬車が火事になる。人々はそれほど注意を向けない。藁束の過熱や密閉をとがめる。翌日は2台の馬車から火が出る。それからパリの至る所でこの種の火事が起こったのに気づく。今回は疑いもなく邪悪な意志のみが責められるべきである。悪意のなかでも最低の悪意である。復讐や憎悪による要因は除外される。単なる偶然で引き起こされる悪意、破壊のみが唯一の楽しみとなった悪意である。

(7月7日付の「フィガロ」紙の記事から)
ここ数日間、パリのあちらこちらで道路を通る麦わらを積んだ馬車が突然燃え上がる事件が続いている。最初は単なる偶然か、喫煙者の不注意ではないかと考えた。しかしあまりにも頻発するのでこれは悪意にもとづく犯罪行為であると見なすようになった。例えば昨日も、サン=ジェルマン大通りで一人の金髪の青年がタバコに火をつけるふりをしてそばに止まっていた麦藁馬車に火をつけて逃走するのが目撃された。目撃者は犯人を追跡せず、馬車の持ち主に火事を通報し、一緒に消火作業を手伝った。

(7月22日付の「フィガロ」紙の記事から)
昨日午後5時半ごろ、シャペル街50番地の筋向いで麦わらを積んだ馬車に火がつけられた。ここ数日間、シャンピオネ門付近で馬秣業者の荷車が放火されている。消防が消した後、残った麦藁を道端に積んでおいたところ、昨日またそれに放火した悪者もいた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618694 « Le Petit Journal» No.17011, le 24 Juil. 1909
f0028703_2231962.jpg画像 Crédit photographique : © RMN / Franck Raux / Cote cliché : 08-510127 / Fonds : Photographies / Titre : Le groupe folklorique de Lagny-sur-Marne, "La Brie", en costume traditionnel / Localisation : Paris, MuCEM, Musée des Civilisations de l'Europe et de la Méditerranée
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288512 « Le Figaro » le 7 Juil. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288527 « Le Figaro » le 22 Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この一連の偏執狂的な放火事件は《Brûleur de paille》(藁燃やし人)として小記事ながら報道が繰り返された。(しかし犯人が逮捕されたかどうかは不明=たぶん迷宮入りだったかも。)
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by utsushihara | 2009-07-30 22:00 | フランス社会政経1909-10

ノアンのサンドの館がアカデミーへ遺贈

1909年7月f0028703_1357521.jpg

ジョルジュ・サンドの孫娘の一人であるガブリエル・サンド夫人が6月27日急死したが、その遺言書によりノアンの城館と敷地がアカデミーに寄贈されることとなった。(彼女の妹で画家としても有名なロート=サンド女史は用益権を留保するつもりである。)この尊い決定はベリー地方の人々の共感もさることながら、こうしてノアンはジョルジュ・サンドのものとして留まることとなった。偉大な女流文学者は昨冬再び話題を呼んでいる。ルネ・ドゥミク氏による連続講義をまとめて『ジョルジュ・サンド』の評伝が最近発刊されたのに加え、アルフォンス・セシェ氏とジュール・ベロー氏の小冊子も評判となっている。

f0028703_18374075.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738617 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.34; 21 Août, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738591 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.7; 13 Fév. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
(←)左掲はこの連載に参考図版として掲載された「ジョルジュ・サンドの自画像」(クレヨン画)である。1831年、27歳のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)は夫の元を離れてパリに赴き、7歳年下の愛人ジュール・サンドー(Jules Sandeau, 1811-1883)とともに小説を書き、作家として自立しようとしていた。
ルネ・ドゥミク(René Doumic, 1860-1937)はアカデミー会員でもあった文芸評論家で、特に『両世界評論』誌(Revue des Deux Mondes)の主筆をつとめた。記事には連続講義(Les Conférences sur George Sand)とあるが、『週間評論』誌(La Revue hebdomadaire et son supplément illustré)にその講義録が10回にわたって連載されており、それが『ジョルジュ・サンド』(George Sand, 1909)として出版されたようだ。彼にはほかに19世紀後半の仏文学に関する『作家たちの肖像』(Portraits d’écrivains)や『今日の作家たち』(Écrivains d’aujourd’hui)などもある。
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by utsushihara | 2009-07-29 18:36 | 文芸、評論1909-10

ジュネーヴに宗教改革記念碑

1909年7月
f0028703_23465091.jpg

宗教改革の指導者ジャン・カルヴァンの生誕400年を記念して大規模な祝典がジュネーヴで開かれた。招待を受けた欧州各地の大学から多数の参加者があった。(↑)上掲の写真はフランスの彫刻家アンリ・ブシャールとポール・ランドフスキの制作による4大宗教改革者、左からギヨーム・ファレル、ジャン・カルヴァン、テオドール・ド・ベーズ、ジョン・ノックスの立像である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ギヨーム・ファレル(Guillaume Farel, 1489-1565)はジュネーヴで最初に宗教改革を唱えた人物。
ジャン・カルヴァン(Jean Calvin, 1509-1564)はジュネーヴを中心とした宗教改革運動の主導者。
テオドール・ド・ベーズ(Théodore de Bèze, 1513-1605)はカルヴァンの後継者としてその教義を広めた。
ジョン・ノックス(John Knox, 1513-1572)はスコットランドでカルヴァン派の流れを汲む長老派の基礎を築いた。

*参考サイト:
(1)Sacred Destinations(英文) Reformation Monument, Geneva
(2)Genève Tourisme - Découvrir Genève(仏語) Mur des Réformateurs
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by utsushihara | 2009-07-28 23:45 | 美術、彫刻1909-10

英仏海峡横断初飛行への挑戦(6)ユベール・ラタム2度目の失敗で涙

1909年7月27日(火)f0028703_17551620.jpg

ユベール・ラタムには不運がつきまとっていたとしか言いようがない。7月27日午後5時50分、彼は2度目の挑戦を決行した。雨の降るあいにくの天気だったが、次第に回復しつつあり、午後4時には駆逐艦「エスコペット」をはじめとする警備の艦船が出港し、待機した。アントワネット号は薄い霧の中を上空150mの高度でドーヴァーに向かって飛び続け、駆逐艦は後を追った。しかしながらドーヴァーの海岸を目前に見ながら、あと1マイルというところで雨による電気系統のショートでエンジンが停止し、機体は大きな放物線を描いて墜落した。水しぶきが上がった。「何という不運であろうか!」(Quel malheur !)
ラタムは救出されたが、幸いにも軽傷であった。

懸賞主の「デイリー・メイル」社では、ラタムの勇気を称えて2500フラン相当の銀杯を「残念賞」(Prix de Consolation)として授与する決定をした。

f0028703_17554126.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569138 « Le Matin » No.9283 - le 28 Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ブレリオの成功の2日後の挑戦であった。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)英仏海峡横断初飛行への挑戦(4)ユベール・ラタム最初の失敗(1909.07.19)
(2)英仏海峡横断初飛行への挑戦(5)ルイ・ブレリオの成功(1909.07.25)
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by utsushihara | 2009-07-27 17:54 | スポーツ、乗物、探検1909-10

バルセロナの市街戦

1909年7月26日(月)f0028703_23361880.jpg

スペインのモロッコにおける軍事作戦に抗議する目的で、バルセロナでは労働者団体が7月26日ゼネストの決行を呼びかけた。この動きはたちまち市街戦にまで発展し、カタロニアの大都市は5日間のあいだ騒乱の巷と化した。市内の各所では舗石を剥してバリケードが築かれ(画像→)、30数箇所の修道院と多くの教会が焼き討ちにあい、銃撃戦で死傷者が出た。政府はバルセロナを包囲する策を実行し、電信電話新聞等あらゆる通信手段は閉ざされた。
この流血の騒乱は7月30日まで続き、叛徒と軍隊との間で戦闘が繰り返された。軍の人的被害は死者3名、負傷者27名だった。民間人の被害は死者75名、負傷者126名に上った。
f0028703_23365013.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526293 « Touche à tout » No.9; Sep. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
バルセロナは国内有数の工業都市であった。資本家はもとより、労働者階級も多く、先進的な思想や行動が早くから育まれていたようだ。
(↑)上掲は叛徒らによって焼き討ちにあった精製所(Raffinerie=石油か小麦か砂糖かは不明)。信心深いスペイン人は執拗な抵抗を示したという。
f0028703_23371556.jpg(→)右掲は騒乱前のバルセロナの目抜き通り、ランブラ大通り(Boulevard de la Rambla)

**これまでの関連記事france100.exblog:スペインvsモロッコ間で戦闘(1909.07.23)
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by utsushihara | 2009-07-26 23:35 | 各国事情1909-10

英仏海峡横断初飛行への挑戦(5)ルイ・ブレリオの成功

1909年7月25日(日)f0028703_17392038.jpg

7月25日の早朝、ルイ・ブレリオはカレー近郊の小村バラク(Baraques)から自らの単葉機「ブレリオ11号」(Blériot XI)に乗って飛び立ち、一気に英仏海峡を越えてドーヴァーに着陸した。飛行時間は27分31秒であった。
着陸地点はドーヴァー城の近くにあるゴルフ場の芝地であった。そこには一人の記者と写真家が待機しており、勇気ある飛行家にフランスの三色旗を振って目印になったのである。
飛行の実際は強い風に煽られ、少し霧もかかっていて、ブレリオは最初、海上を少し西に寄り過ぎて飛んでいた。しかし巧みな操縦により彼はドーヴァーの断崖を避けて北上し、軍港の上を通過してノースペイル(Northpale)に着地したのである。静止した機体の周りには多くの人々が押しかけた。ロンドン航空クラブではこの地点に記念碑を建立することを決めた。
f0028703_17395850.jpgこの英仏海峡横断飛行には英紙デイリー・メイルから千ポンド(約25,000フラン)の懸賞金が掛けられていた。ロンドンに到着した英雄ブレリオを讃えて祝賀行事が催され、新聞社主催の晩餐会では社主のノースクリフ卿から賞金の小切手と、見事な彫琢の銀杯が手渡された。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #716864 « Le Petit journal; Supplément du dimanche» No.977, le 8 Août, 1909
f0028703_17381550.jpg画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738243 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.32; 7 Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
大きな話題を呼んだ《英仏海峡横断飛行》(La traversée de la Manche en aéroplane)は、いともあっけなく決着がついた。ルイ・ブレリオ(Louis Blériot, 1872-1936)の名前が歴史に刻まれることとなった。懸賞金は1 Fr≒\2000で換算すると5千万円になる。8月8日付「プチ・ジュルナル」紙日曜版の色刷り表紙(→)が感動的である。

*参考サイト:Wikipedia(和文)ルイ・ブレリオ
**これまでの関連記事france100.exblog:英仏海峡横断初飛行への挑戦(4)ユベール・ラタム最初の失敗(1909.07.19)
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by utsushihara | 2009-07-25 16:22 | スポーツ、乗物、探検1909-10

マドリッド公ドン・カルロスの死

1909年7月18日(日)

f0028703_1703179.jpgマドリッド公ドン・カルロス(Don Carlos, Duc de Madrid, 1848-1909)は1872年以来、父親から受け継いだスペイン王位継承請求者であり続けたが、7月18日イタリア北部の山麓保養地ヴァレーゼで亡くなった。61歳だった。今後は長子のドン・ハイメ・ド・ブルボン(Don Jaime de Bourbon)が王位請求権を受け継ぐこととなる。

王位継承者として彼はカルロス7世と称した。先々代のスペイン国王フェルディナンド7世の甥の子にあたる。フェルディナンド7世には2人の王女しか子がいなかったため、それまでの王位継承方を定めたサリカ法典では王弟のドン・カルロス(5世)が継承することとなっていた。しかしフェルディナンド7世はサリカ法典の適用を廃し、娘をイザベラ2世として王位につけたため、約80年にわたるスペイン・ブルボン王家の内部抗争の発端となった。
王弟ドン・カルロスはカルロス5世と称し、保守派勢力と結託して1834年から39年までスペイン北部を拠点に内戦を続けることになる。これが「カルリスタ戦争」(Guerres Carlistes)の始まりである。この戦争は内部分裂により終息し、カルロスはフランスに亡命後イタリアに隠棲した。
その孫にあたるマドリッド公カルロス(7世)は自分が継承権者となるや、不当に女系相続に陥った(*記事原文では « illégalement tombé en quenouille »=女の尻に敷かれた)王杖を奪回しようと試みた。この内戦は1872年から76年まで、血を血で洗う激しい戦闘が繰り返されたが、結果として敗退することとなった。
その後、カルリスタの勢力は弱体化し、カルロスはヴェネチアのロレダン宮に居住して、スペイン国内の残余勢力への選挙活動への支援を続けていた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
日本ではあまり知られていない「カルリスタ戦争」への言及記事である。かなり長期間にわたる抗争で関係人物も複雑に入り乱れるため、記事本文でも史実の誤りがあった。下記のWiki をもとに最小限の修正を施した。
王家の「男子直系継承」問題は歴史上どこでも起こりうる問題である。

*参考サイト:Wikipedia(和文)
(1)カルリスタ戦争Guerres Carlines
(2)カルロス・マリア・デ・ボルボーン (マドリード公)
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by utsushihara | 2009-07-24 16:57 | 各国事情1909-10

スペインvsモロッコ間で戦闘

1909年7月23日(金)
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北アフリカ大西洋沿岸で緊張が緩和されたばかりのところに、モロッコで戦闘が新たに勃発した。固有する土地にスペインによる鉄道建設が進められたことに部族の一つリフ族が不満を募らせ、7月7日輸送部隊に対する攻撃を行なった。9日から20日までの戦闘で死傷者が続出した。現地スペイン軍駐屯部隊への増援にもかかわらず、すぐに行き詰まってしまった。7月23日は特に激しい戦闘によってまさに殺戮であった。
f0028703_18343290.jpg前線のメリラ(Melilla)の(←)司令官マリナ将軍 (Général Marina)は一層の兵力増強を要請している。もはや一刻の猶予もない。この突然の戦争はスペイン国内では受け入れ難い問題となっており、バルセロナでは革命派たちが活動する恰好の機会となっている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738243 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.32; 7 Août, 1909
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by utsushihara | 2009-07-23 18:32 | モロッコ問題、アフリカ1909-10

『アルセーヌ・ルパン』全国巡演に出発

1909年7月

f0028703_1714158.jpgアテネ座における200回以上の『アルセーヌ・ルパン』公演を終えて、我らが同胞モーリス・ルブランとフランシス・ド・クロワッセ両氏は一座とともにフランス各地での公演に出発した。(←)左掲は本拠地アテネ座前からの出発風景である。血気盛んなルパン役ブリュレ氏は先頭車のハンドルを握り、そのボンネットのそばに支配人のアベル・ドゥヴァル氏とフランシス・ド・クロワッセ氏が見える。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
現代のミュージシャンであれば《全国ツアー》と言うべきものだろう。ちょうど恒例の自転車レース「ツール・ド・フランス」出発に掛けて、「自らのフランス・ツアー」(partir pour son tour de France)に出かけるとして派手な出発式をしたのだろう。
下記の記事で初演が8ヶ月前の前年10月だったことを思い出す。すごい人気である。

**これまでの関連記事france100.exblog:アテネ座で3幕劇『アルセーヌ・ルパン』初演(1908.10.28)
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by utsushihara | 2009-07-22 17:12 | オペラ、音楽、演劇1909-10