フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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ヴェルサイユでベルリオーズのオラトリオ『キリストの幼時』上演

1909年6月30日(水)
f0028703_18324360.jpg
6月30日、ヴェルサイユ宮殿附属礼拝堂にて社交界のお歴々の列席のもと、ベルリオーズ作曲のオラトリオ『キリストの幼時』が上演された。これはヴェルサイユ市の恵まれない子供たちのためにカリスティ・マーテル女史(Mme Caristie Martel)が中心となって催された慈善演奏会であった。管弦楽団の指揮はポール・ド・ソーニエール氏(Paul de Saunière)、独唱者はオペラ・コミック座からガルシェリ女史、オペラ座からプラモンドン、フルネ、ヴィアネンクの諸氏がつとめた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN
画像 Crédit photographique : © RMN / Hervé Lewandowski / Cote cliché : 97-023994 / Titre : La Fuite en Egypte / Auteur : Sébastien Bourdon (1616-1671) / Localisation : Paris, Musée du Louvre

[ Ψ 蛇足 ]
f0028703_1833492.jpg主催者のマダム・カリスティ・マーテル(Mme Caristie Martel)という名前がついたバラもあることから、ベル・エポック時代には有名だった人物だったと思われる。19世紀末に女優として活躍していた。(シャトレ座「居酒屋」公演→)詳細は調査中である。
エクトル・ベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)の作品の中で『キリストの幼時』(L’Enfance du Christ, trilogie sacrée)はあまり知られていない。下記(↓)倉田さんのサイトによると、大編成・大音響のベルリオーズが、その作風でしばしば顰蹙を買っていたのとはがらりと変えて、擬似バロック風に作って、しかも昔の作曲家の名前をかたって発表したところ好評であったという。あとで本名を明かしてもその評価は変わらなかったようだ。
f0028703_18333138.jpg(←)左掲はルーヴル美術館蔵のセバスティアン・ブールドン作『エジプトへの逃避』(La Fuite en Egypte)キリストの幼時の重要な出来事である。パステル調の柔らかな色調が美しい。

*参考サイト:《倉田わたるのミクロコスモス》新・ベルリオーズ入門講座:第8講「キリストの幼時」(1854)
ここには、ベルリオーズの有名な逸話:ある夜、素晴しい楽想が浮かんだが、貧困ゆえの生活に追われて作曲できないままにそれが永遠に消え失せてしまった…も紹介されている。
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by utsushihara | 2009-06-30 18:28 | オペラ、音楽、演劇1909-10

パリ横断セーヌ川競泳大会でビリントン3連覇

1909年6月27日(日)f0028703_1848826.jpg

6月27日開催されたパリ横断セーヌ川競泳大会では、昨年、一昨年の覇者で英国人のビリントン(Billington)が、競り合った仏人選手エストラード(Estrade)に50cmの差をつけて優勝した。2人は互いの健闘を称えて握手した。

この大会は「オート」誌の主催で今年で5回目になるが、ベルシーのナシォナル橋(Pont National)を起点に、下流のオートゥイユの夜明け橋(Pont du Point du jour)までの11km620mの長距離で争われた。悪天候で水温が19度しかない苛酷な状況で25人の参加者はランク別に時間を変えて次々に出発した。女性選手は結果的に1人だけのスイスのマルト・ロベール嬢が最初に泳ぎ出した。その後5分間ずつ間隔をあけてフランス、オランダ、ベルギーの選手が数人ずつ出発し、最初から45分後にチャンピオンのデヴィッド・ビリントンが追いかけたが、その力強い《オーバー・アーム・ストローク》による驚くべき速さであった。最初の30分で何人かの集団に追いつき、続けざまに追い抜いた。
セーヌ河岸や橋の上からは大勢の観客がレースを見守り声援を送った。
先頭を泳ぐマルト・ロベール嬢(Mlle Marthe Robert)は追いすがる競泳者たちに負けまいと猛然と泳ぎ続け、先頭に出たエストラードに追い抜かれたのはエッフェル塔付近であった。彼女の泳法は《スクリュー》といい、主として水中に潜って進むもので、川面の波の影響を最小限にとどめその速さを保っていた。
グルネル橋でゴールまであと200mのところで、激しい先頭争いが始まった。観客はゴールに向かって川沿いを走りながら声援を送った。結局1ストロークの差でビリントンが3連覇を達成した。
マルト・ロベール嬢は3着となり、大健闘の彼女にも惜しみない賞賛が浴びせられた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618668 « Le Petit journal » No.16985, le 28 Juin, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288500 « Le Figaro » le 25 Juin, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
パリ横断セーヌ川競泳大会(La Traversée de Paris à la nage)も古き良き時代のスポーツ大会の一つであったようだ。
ゴール地点の橋の名前「夜明け橋」(Pont du Point du jour)は、現在は「ガリグリアーノ橋」(Pont du Garigliano)と改名されている。「夜明け」(ポワン・デュ・ジュール)は、昔のパリの城門の一つで16区サン=クルー門の近くにその名前が残っている。

**これまでの関連記事france100.exblog:パリ横断競泳(アマチュア)レース(1907)(1907.07.28)
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by utsushihara | 2009-06-29 18:45 | スポーツ、乗物、探検1909-10

コロンブ競技場でのフランス陸上選手権大会(1909)

f0028703_1711193.jpg1909年6月27日(日)

左掲は(←)パリ郊外コロンブで開催された第22回フランス陸上選手権大会(XXIIe championnats de France)における100m競走のゴールの模様である。左から3着のペルドリー、4着のマルフェ、5着のディセー、そして右端が1着のファイヨ(Faillot)で記録は11秒8だった。
また1000m走は、ヴェルセル(Versel)が優勝した。記録は2分44秒6だった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
パリの西北にあるコロンブ(Colombes)は、陸上やサッカー、ラグビーなどの大会が開催される大きな施設があった。

**これまでの関連記事france100.exblog:パリ西北郊外コロンブで国際クロスカントリー大会(1908)(1908.03.26)
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by utsushihara | 2009-06-28 17:06 | スポーツ、乗物、探検1909-10

パリ大賞(グランプリ・ド・パリ)レースでヴェルダン号が優勝

f0028703_235845.jpg1909年6月27日(日)

6月27日に開催された競馬のパリ大賞(グランプリ・ド・パリ)レースでは、ロートシルト男爵所有のヴェルダン号(Verdun)が優勝した。騎手はモーリス・バラ(Maurice Barat)だったが、彼はこのGPレースに初の騎乗で勝つという快挙であった。ヴェルダン号の父馬はラブレー(Rabelais)、母馬はヴェレナ(Vellena)で、モンフォールにある厩舎で生まれ、オキュイゼン(Okhuysen)の調教を受けていた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738245 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.28; 10 Juil. 1909

f0028703_2323367.jpg[ Ψ 蛇足 ]
ヴェルダン号とバラ騎手はこの翌週の7月4日(日)メゾン=ラフィットでのフランス共和国大統領賞(Prix du Pr.sident de la République)のレースにおいても、最後のコーナーで先行するアンコニュ号(Inconnu)を追走し、抜き去るという華々しい優勝をとげた。

(→)右掲は、GPレース会場で例年上流階級の婦女子が装いを競うドレス(トワレット)を取材したもの。このドレスは「銃士風」(à la mousquetaire)と称して若々しい令嬢向きに仕上げている。

**これまでの関連記事france100.exblog:大賞典の前哨戦(プール・デ・プロデュイ)(1909.05.09)プール・デッセ賞レース(牡馬)でヴェルダン号(Verdun:オコナー騎乗、ロートシルト男爵所有)優勝
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by utsushihara | 2009-06-27 22:59 | スポーツ、乗物、探検1909-10

ブローニュの小型自動車レースでプジョーのリオン号優勝

1909年6月27日(日)

6月27日ブローニュ=シュル=メールで開催された小型自動車レース(La Coupe des Voiturettes)ではプジョーの「リオン」号(Lion)で出走したジョジュエ・ジュポーネが優勝した。彼は454.5kmのコースを5時間56分29秒6で走破した。
f0028703_1442175.jpgこのレースには英国、スペイン、ベルギーからも参戦したが、結果的にはフランス勢が外国勢を大きく圧倒した。コースの読みを修練でき、確固たる速さの走行を組み立てることができたためである。プジョーに乗ったのはイタリア人のジュポーネだが、難しいコースを平均時速77km近くで走り、小型車としては画期的な記録であった。同じプジョーのチームのジュール・グー(Jules Goux)は2位、バイヨは4位だった。3位はフランスの別のメーカー車に乗ったトマであり、外国勢では初参加のスペインの5位が最高だった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)上掲のジョジュエ・ジュポーネ(Giosué Giuppone, 18xx-1910)はプジョーのリオン号に乗ってこのコースで活躍しており、1906年には3位だった。しかしながら彼はこの翌年(1910)9月に練習走行中の事故で死去することになる。プジョー(Peugeot)社では競走用小型車の製造と改良に精力を注ぎ、数年前から「リオン」(Lion=ライオン)の商標名で参戦していた。

*参考サイト:eBay ; Catalogue Lion Peugeot 1911 Voiture ancienne

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)小型自動車レース(1909) (1909.01.18)
(2)タルガ・フロリオ杯自動車レース(1909)(1909.05.04) 小型車杯が競われ、プジョーに乗ったジュール・グー(Jules Goux)が優勝
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by utsushihara | 2009-06-26 14:41 | スポーツ、乗物、探検1909-10

仏人ボクサー、マルセル・モロー

1909年6月23日(水)f0028703_20235321.jpg

英国式ボクシングのフランス・チャンピオン、マルセル・モロー(画像→)は6月23日の夜、英国チャンピオンのピーター・ブラウンと対戦し、20ラウンドの末、これを破った。モローはピーターに2度ダウンを与え、カウントを取ったのが勝因であった。このあと彼は米国に向けて出発する。彼の地ではかなり前から試合が予定されており、勝利と栄光が見込まれている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288374 « Le Figaro » le 21 Fév. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
仏人ボクサーのマルセル・モロー(Marcel Moreau)については、あまり詳しい情報がない。英国式ボクシング(Boxe anglaise)とは、単なる格闘技の手段だった拳闘をスポーツ競技とするため、英国でルールが定められ定着したものである。

上の記事に続いて6月26日(土)にはシルク・ド・パリでサム・マクヴェー(Sam MacVea)対ジム・バリー(Jim Barry)の試合が行なわれ、第16ラウンドでジムが失格とされ、サムが勝った。

*参考サイト:Googleブックス;図解スポーツ大百科:ボクシング
**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ボクシングの勝者ゴーシェ(1908.01.15)vsマルセル・モロー
(2)カリフォルニアから来たボクサー(1908.03.08) ウォルター・スタントン(Walter Stanton)が有名な英国人ボクサー、ピーター・ブラウン(Peter Brown)と対戦
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by utsushihara | 2009-06-25 20:22 | スポーツ、乗物、探検1909-10

ソルフェリーノの戦勝50周年(1909)

1909年6月24日(木)f0028703_2323236.jpg

50年前の1869年6月24日、北伊ソルフェリーノにおいてイタリア・フランス連合軍がオーストリア軍に勝利した戦闘を記念して、イタリアとフランス双方で式典が催された。
この戦いにおいては、ナポレオン3世率いるフランス軍はカンロベール(Canrobert)、ニール(Niel)、マクマオン(Mac-Mahon)、バラゲー=ディリエ(Baraguay d’Hilliers)ら諸将がそれぞれの軍団を指揮した。戦死者は仏伊軍17000人、墺軍22000人という大きな犠牲を払ったが、この勝利が和平を導き、イタリア統一への足がかりとなった。イタリアのヴィットーリオ=エマヌエーレ3世国王夫妻は、この式典のためフランスから赴いた代表団に最大級の敬意を示した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569103 « Le Matin » No.9250 - le 25 Juin, 1909
f0028703_23543367.jpg画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738245 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.28; 10 Juil. 1909
画像 Crédit photographique : © RMN/ Michel Urtado / Cote cliché : 07-514683 / Titre : Bataille de Solférino, 24 juin 1859 / Auteur : Adolphe Yvon (1817-1893)/ Localisation : Compiègne, château

[ Ψ 蛇足 ]
20世紀初頭においては、ナポレオン1世の甥にあたる皇帝ナポレオン3世が全軍を率いて戦場を駆けていたのがわずか50年前だったということになる。フランス人は当然のように知っていることだが、第2帝政時代にフランスが戦争に勝ったという印象は薄い、むしろその後、富国強兵のプロシアに対して無謀な戦争を仕掛けて散々な敗戦を負ったことのほうが大きい。歴史的に国家間の抗争が続く欧州の地では、それぞれの国が国威の維持と発揚が常に必要であったのではなかろうか?(今でもなお?)
現にパリの街路にも過去の戦争名や軍人名がつけられるのが伝統で、戦勝の記憶を人心に刻みとめる結果となっている。「ソルフェリーノ街」(rue de Solférino)もオルセー美術館に近い場所にあり、地下鉄の駅名にもなっている。

上掲の歴史絵画は祝賀行事を報じる6月25日付のマタン紙にも掲載された「ソルフェリーノの戦いにおけるナポレオン3世」(Napoléon III à la bataille de Solférino)で、アドルフ・イヴォン(Adolphe Yvon, 1817-1893)の作品である。背景中央奥の小高い丘の上に有名な物見櫓《スピア・ディタリア》(Spia d’Italia = イタリアの間諜(スパイ))が見える。皇帝は自らの軍にあの塔が攻略目標だと指し示している。ナポレオン1世の雄姿を髣髴とさせる、ある意味ではノスタルジックな場面である。
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by utsushihara | 2009-06-24 23:21 | 科学、軍事、海事1909-10

英国ケンブリッジ大学でダーウィン生誕100年祭(1909)

1909年6月23日(水)
f0028703_16294934.jpg6月23日、英国のケンブリッジ大学で『種の起源』(L’origine des Espèces)の著作で有名な生物学者チャールズ・ダーウィンの生誕100年を祝う式典がおこなわれ、欧州や米国から学術界の権威が一堂に会した。その最前列には偉人の3人の息子が並んだ。(↑)左から次男のジョージ卿(Sir George)、五男のホレース(Horace)、三男のフランシス(Francis)で、いずれも高名な学者である。わがフランスの科学界を代表して、自然博物館長エドモン・ペリエ氏とパスツール研究所副所長のメチニコフ博士が出席した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
f0028703_16323222.jpg画像 Crédit photographique : Wikimedia commons; File:Darwin panel.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Darwin_panel.jpg
Italian panel depicting Charles Darwin, created ca. 1890, on display at the Turin Museum of Human Anatomy.(イタリアのトリノ人体解剖博物館に飾られたダーウィンの装飾壁画↑)

[ Ψ 蛇足 ]
チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809-1882)は『種の起源』等の著作を通して《進化論》を展開した自然科学者である。19世紀後半から20世紀初頭にかけて《進化論》をめぐる科学上、宗教上の議論に彼の思想は多大な影響を残した。彼は1809年2月12日生まれなので、正確には2月に生誕百周年の行事があってもおかしくなかったが、なぜか6月(学期末に合わせた?)に催された。本格的な科学理論として定着したのは1930年代頃と言われるが、早くもすでにこうした大きな記念行事を行なうほどの重要性が認められていた。
ダーウィンは10人の子供(6男4女)を得たが、そのうち3人は早世し、7人が成人した。次男のジョージは優れた天文学者として知られた。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(和文)チャールズ・ダーウィン(※詳細にわたる非常に充実した記述がなされている)
(2)Wikipedia(英文)Darwin's children
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by utsushihara | 2009-06-23 16:28 | 科学、軍事、海事1909-10

消えゆくパリの名物建築

1909年6月
f0028703_16414872.jpg

消えゆくのはパリの古い町並みだけではない。我々が誠意をもって作りあげた鉄鋼を使った大規模な施設も少しずつ消え去っていく。今解体が進められているのは《機械展覧館》(La Galerie des Machines; ギャルリ・デ・マシヌ)である。この巨大な傑作建築は1889年万博の目玉の一つだった。全長420m、全幅115m、高さは45mを誇った。右手上(↑)の写真では、奥に同じ年に竣工したエッフェル塔(La Tour Eiffel)が見える。このほうは無線電信の発明による塔の有用性が認められたため、解体を免れている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738591 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.7; 13 Fév. 1909

f0028703_16433492.jpg[ Ψ 蛇足 ]
この時期には19世紀末に盛んだった鉄骨様式の建築が古臭くなったという理由で次々と解体されていった。大都市における万博開催の意味が薄れたこともあるようだ。(→)右掲の写真は同年2月の「ルヴュ・エプドマデール」誌に掲載されたもう一つの有名施設《クール=ラ=レーヌ大温室》(Les Serres du Cours-la-Reine)の解体風景である。「長い間、数多くの展覧会の会場として使われてきたが、その役割を終えたとして取壊しが進められている。」という説明が添えてある。
いずれも恨み節のように遠景に「生き残るエッフェル塔」が象徴的に写されている。現在この場所はセーヌ川沿いの緑道公園になっており、その地下には市内を横断する幹線道路が走っている。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)機械展覧館(ギャルリ・デ・マシヌ)の取壊し(1909.03)
(2)パリの菊花展開幕(1906.11.02)
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by utsushihara | 2009-06-22 16:40 | フランス社会政経1909-10

ナンシーの国際博覧会

1909年6月20日(日)f0028703_224954.jpg

6月20日、建設相バルトゥ氏はナンシー市で開催された《フランス東部国際博覧会》(L’Exposition internationale de l’Est de la France)の開会式に出席した。大臣はこの博覧会の運営委員長をつとめるナンシー市長のボーシェ氏をはじめ、この地方の代議士、文官武官の要職者、地方の著名人ら多数に迎えられ、東部地方の人々が芸術、産業、通商などさまざまな分野で傑出した業績を作り出していることを賞賛する演説をおこなった。とくに今回の博覧会は非常に充実した内容となっている。
f0028703_2251933.jpg博覧会の展示で一番の《呼び物》とされているのは、絵のように美しく再現された古いアルザスの村である。特にブクスヴィレー(Bouxviller)の近郊にあるズッツェンドルフ(Zützendorf)村から石1個、瓦1枚に至るまでそのまま移築した田舎家は見事であり、そこに立派なアルザス博物館を設けている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569099 « Le Matin » No.9246 - le 21 Juin, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ベル・エポック時代は単に華麗な風俗文化の時代だけでなく、世界が様々な摩擦を生じながら第一次世界大戦に向かって動いていった時代でもある。この時代のフランス人にとって特に「東部」(L’Est)という言葉は、1871年普仏戦争によって喪失したアルザス・ロレーヌの国土を奪回したいという切実な希求の意味合いがあった。

**これまでの関連記事france100.exblog:併合ロレーヌの1870年戦没者記念碑(1908.10.04)
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by utsushihara | 2009-06-21 22:03 | フランス社会政経1909-10