フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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オランダ王室で待望の女児誕生

1909年4月30日(金)f0028703_1842449.jpg

オランダの若きウィルヘルミナ女王は、1901年にメクレンブルクのハインリッヒ公と結婚していたが、世継が出来ず、オランダの人々は心配し始めていた。王位継承権者は少なくとも40人を数え、そのほとんどがドイツ人である。
4月30日についに王女が産まれ、名前はユリアナ・ルイザ・エンマ・マリア・ウィルヘルミナとつけられた。ユリアナは、王家の始祖オラニエ公ウィレム1世(沈黙公)の母親ユリアナから、ルイザは沈黙公の妃ルイーズ・ド・コリニー(ユグノー戦争のコリニー提督の娘)から、エンマは女王の母后の名から、マリアは夫君の母親の名から、そして産みの母親のウィルヘルミナ女王の名も加えられた。
f0028703_18431345.jpg(←)オランダの人々は王女誕生の吉報を受けて喜びを顕わにし、王宮前の広場や公園に集まって祝った。あらゆる家々の窓は小旗で飾られ、夜は明かりが灯された。大きな揺り籠がアムステルダム市から贈られた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5526271 « Touche à tout » No.6; Juin, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ウィルヘルミナ(Wilhelmine des Pays-Bas d'Orange-Nassau, 1880-1962) は、父王ウィレム3世(Guillaume III des Pays-Bas, 1817-1890)が晩年になって生まれたため、王位を継いだときはまだ10歳足らずだった。母后エンマ(Emma de Waldeck-Pyrmont, 1858-1934)が18歳まで摂政をつとめた。オランダ王家(オラニエ=ナッサウ家Orange-Nassau)では女性にも王位継承権があり、この時生まれたユリアナ(Juliana Louise Emma Marie Wilhelmina van Oranje-Nassau, 1909-2004)が唯一成人した子供として王位を継ぐことになる。

*参考サイト: Wikipedia(和文)ウィルヘルミナ (オランダ女王)
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by utsushihara | 2009-04-30 18:40 | 各国事情1909-10

「陽気な未亡人」(メリー・ウィドウ)パリ公演

1909年4月28日(水)f0028703_1836827.jpg
有名なオペレッタ『陽気な未亡人』(メリー・ウィドウ)は、もともとアンリ・メイヤックの戯曲をヴィクトール・レオンとレオ・シュタインによって独語版オペレッタに脚色され、オーストリアの作曲家フランツ・レハールによって音楽がつけられたものである。
パリでは、テアトル・アポロで4月28日初演が行なわれ、最初客足はためらい気味だったが、やがて大勢の観客が押し寄せ、欧州での成功作はパリでも成功をおさめた。主な出演は、主役のコンスタンス・ドリヴァー嬢の脇をテレーズ・セルネー嬢、ブレスカ嬢らが固め、ガリポー、ドゥフレイ氏らが盛り立てている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
画像 Crédit photographique : ©Ministère de la Culture (France), Médiathèque de l'architecture et du patrimoine (archives photographiques) diffusion RMN

[ Ψ 蛇足 ]
人気オペレッタ『陽気な未亡人』(La Veuve Joyeuse: 独語原題は « Die lustige Witwe »)が日本ではなぜか英語タイトル「メリー・ウィドウ」(Merry Widow)として良く知られているが、英米圏から伝わったからかも知れない。元来は「カルメン」のオペラ台本作家でも知られるフランスの劇作家アンリ・メイヤック(Henri Meilhac, 1831-1897)が書いた3幕のボードヴィル喜劇『大使館随員』(L'Attaché d'ambassade, 1861)にもとづいている。
f0028703_18375886.jpgオペレッタの初演は1905年12月30日にウィーンのテアター・アン・デア・ヴィーンで行なわれ、またたく間に大成功を博し、欧州各地で取り上げられた。パリでの初演はフランス語版で、これまた人気劇作家のロベール・ド・フレーとガストン・ド・ガイヤヴェのコンビで用意された。
(←画像)作曲者のフランツ・レハール(Franz Lehár, 1870-1948)にとってはこのオペレッタが文字通りの出世作=代表作となったわけで、その後も次々と印象的で美しい旋律(俗受けと言われもするが)の作品を生み出していく。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)
(1) La Veuve Joyeuse
(2) Henri Meilhac
(3) Franz Lehár
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by utsushihara | 2009-04-28 18:34 | オペラ、音楽、演劇1909-10

ファリエール大統領のイタリア艦隊訪問と日本の梨本宮殿下夫妻

1909年4月27日(火)

ガンベッタ記念碑の式典の翌日26日(月)にファリエール大統領はイタリア国王の叔父にあたるジェノヴァ大公の表敬訪問を受けた。またその次の日27日(火)には、ジェノヴァ大公への答礼訪問とともにヴィルフランシュ沖合に停泊するイタリア艦隊の戦艦「ヴィットリオ=エマヌエーレ」号を視察した。これには日本から来欧し、ニースで静養中だった梨本宮殿下と妃殿下も同行した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5526271 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.18; 1er Mai, 1909
f0028703_12552686.jpg
[ Ψ 蛇足 ]
梨本宮(なしもとのみや)は1868年に伏見宮第9王子守脩親王が創設した宮家で、上記の記事にあるのはその3代目守正王(もりまさ・おう)とその妃、伊都子(いつこ)夫妻のことである。守正王はかつてフランスのサン=シールにある陸軍士官学校に在学しており、日露戦争のため一時帰国して従軍し、戦後再びフランスに滞在していた。(ひょっとすると士官学校へ再入学し、卒業した後、妃殿下を伴って欧州各地を歴訪した可能性が高い。)

日露戦争を境に、西欧世界における日本国家の存在感は格段に高まっていたことがわかる。掲載した写真はBNFの「週刊雑誌」(La revue hebdomadaire)のもので、当時のフランスの各新聞雑誌にこうして大きく取り上げられていたのに驚く。このとき守正殿下(1874-1951)は35歳、伊都子妃殿下(1882-1976)は27歳であった。彼女は皇族では随一の美貌という定評であった。

上記の行事に先立って、夫妻はパリで大統領官邸を訪問している。
(4月20日付の「ル・プチ・ジュルナル」紙の記事から)
日本のミカドの従弟にあたる梨本宮殿下と妃殿下は19日(月)の午後エリゼ宮を訪れ、大統領に迎えられた。大統領はその後すぐに答礼の訪問を行なった。
出典Crédit:©BNF-Gallica #618599 «Le Petit journal» No.16916, le 20 Avr. 1909

(4月25日付の週刊新聞「繁栄」の記事から)
19日月曜の午後3時半に大統領は、略式で日本の天皇の従弟の梨本宮殿下と妃殿下を官邸に迎えた。梨本宮夫妻は欧州を旅行中である。大統領夫妻は水曜日に歓迎昼食会を催す予定である。
出典Crédit:©BNF-Gallica #573825 « La Fraternité » No.26, le 25 Avr. 1909

*参考サイト:Wikipedia(英文)Prince Nashimoto Morimasa
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by utsushihara | 2009-04-27 12:54 | フランス社会政経1909-10

ドリュエ画廊でナデルマンの個展

1909年4月26日(月)

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年4月25日より引用:
4月25日(26?)(月)(※ジィドの原本では日付と曜日が実際の暦と合っていない)

f0028703_1694926.jpgドリュエで、ナデルマン展の開場前日の招待日。(エリ・ナデルマンは、この冬この日記に書いたように、アレクサンドル・ナタンソンに案内されてアトリエを訪ねたことのある、あのユダヤ系ポーランド人の若い彫刻家。 )
だが、あの時は、私はナデルマンについてはあまり語らなかった。ナタンソンの個性のかげに覆い隠されてしまっていたのである。だが、かなりしっかりした人物だ!ナタンソンは《彼を世に出す》まではと、その生活を見ていた。そして生活費の代償として、彼に立像をつくらせていた。彼が今度、多くの下図(デッサン)も添えて出品しているのはそれらの立像である。ナデルマンはコンパスを使って下図を描き、菱形を集めて刻んでいる。人体の一つ一つの曲線は、それと対をなしてそれに対応している交互的な曲線を伴っていることを彼は発見した。こうした均衡から来る調和は定理に似ている。(中略)

ナデルマンは六ヵ年の困窮生活を通ってきたのである。むさくるしい部屋に閉じこもったきりの彼は、まるで漆喰でも食って生きている人間のように思われた。バルザックでも考え出しそうな人物である。昨日は、青地の小さな背広を着込んでいた。きっと、こんなものを着たのは、はじめてにちがいない。彼は、ごく平凡な、そして非常に醜い一人の婦人と話をしていた。彼はその婦人を私に紹介した。それはX…夫人だった。夫人は、一つの立像の、長細い菱形の背中を指さしながら言った。
「これは、少くとも、生々としてますわね!それは、あの『ミロのヴェヌス』とはちがいますわ! 美しかろうと美しくなかろうと、私にとってそれがなんでしょう? これは、少くとも、ほんとの女ですわ! 生々としてますわ!」ところで、ナデルマンの芸術に、これほどそぐわない形容詞はない。・・・彼の芸術はまだ技術(テクニック)の域を出ていない。まだ初歩的なものである。恐らく、彼の芸術はスタインには気に入るにちがいない。というのは、努力なしに理解されるからである。・・・スタインはアメリカの蒐集家で、マティスの画を買い集めている人である。ナデルマン展が開かれるや、彼は既にデッサンの3分の2かあるいは4分の3を買い占めた。いくらで ? そんなことは私は知らない。(後略)

画像 Crédit photographique : © Przeglad Polski 23 lipca 2004: Elie Nadelman wraca do Warszawy
http://www.dziennik.com/www/dziennik/kult/archiwum/07-12-04/pp-07-23-04.html

[ Ψ 蛇足 ]
ドリュエ画廊(Galerie Druet)は20世紀初頭の著名な画廊の一つで、ウジェーヌ・ドリュエ(Eugène Druet, 1868-1916)によって1903年にパリのフォーブール・サン=トノレ街に開設され、次いでロワイヤル街に移転した。ロダンやナビ派のモーリス・ドニなどのほか、上記のマティス、ピカソ、ナデルマンなどの作品を取り扱った。現在でも店舗は一族が継承しているようだ。
アレクサンドル・ナタンソンについては、下記(↓)の関連記事を参照されたい。

エリー・ナデルマン(Elie Nadelman, 1882-1946)は、ポーランド出身の現代彫刻家で、第一次大戦までパリで活躍し、サロンでも注目された。その後米国に亡命した。米国での評価・知名度は高い。下記ウィキペディア英文サイトにある「裸婦立像」(Standing Nude, ca.1908)もこの頃の作品である。(メトロポリタン美術館収蔵)上記の会話の雰囲気にも通じるかもしれない。
*参考サイト:Wikipedia(英文)Elie Nadelman

ガートルード・スタイン(Gertrude Stein, 1874-1946)は、美術批評家の兄のレオと共にパリで若手芸術家・文人たちとの交流を深め、当時の現代美術収集家としてすでに有名であった。ただし上記文中では「彼」とあるので、レオのことを指す。
*参考サイト:Wikipedia(和文)ガートルード・スタイン


**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドとアレクサンドル・ナタンソン(1908.12.24)
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by utsushihara | 2009-04-26 16:01 | 美術、彫刻1909-10

ニースにガンベッタの記念碑落成

1909年4月25日(日)f0028703_18424990.jpg

4月25日、ファリエール大統領はクレマンソー首相、ピカール軍事相らを伴ってニースで行なわれた英雄ガンベッタの記念碑の除幕式に出席した。記念碑は高さ3m、重さ1.5tという巨大なもので、彫刻家ルイ・モーベール氏らの制作により、ニース市内の中心部となるベアトリクス広場に建てられた。
式典ではニース市長のソーヴァン氏、ガンベッタ協会を代表してエティエンヌ氏、そしてクレマンソー首相が演説をおこなった。ガンベッタの実妹レリス夫人と甥にあたるジュイノ=ガンベッタ少佐も参列し、ファリエール大統領の表敬を受けた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5526271 « Touche à tout » No.6; Juin, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5526271 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.18; 1er Mai, 1909

f0028703_18423180.jpg[ Ψ 蛇足 ]
レオン・ガンベッタ(Léon Gambetta, 1838-1882)は普仏戦争時のパリ攻囲戦での英雄的な行動をはじめ、政治家・ジャーナリストとして第3共和制の基盤づくりに活躍した。当時はフランスで最も偉大な人物の上位に挙げられていた。
この記念碑の主要部分を制作した彫刻家ルイ・モーベール(Louis Maubert, 1875-1949)は南仏トゥーロン出身で主にニースで活動した。ほかにヴィクトリア女王の記念碑なども手がけた。(画像↓)はBNFの「週刊雑誌」(La revue hebdomadaire)に掲載された写真であるが、当日の記念式典がいかに盛大なものであったかがわかる。これはアルプス山岳狙撃兵部隊の行進の模様である。この巨大な記念碑は1942年にドイツ軍によって金属調達のため取り壊されてしまう。f0028703_23212260.jpg

*参考サイト:
(1)Nissa La Bella; Les Places(仏語)ニースの広場の変遷
(2)NiceRendezVous©(仏語)Dictionnaire historique et biographique : Louis Maubert

**これまでの関連記事france100.exblog:軽気球飛行士たちの記念碑(1906.01.28)
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by utsushihara | 2009-04-25 18:39 | フランス社会政経1909-10

青年トルコ党の勝利

1909年4月24日(土)f0028703_18144071.jpg

4月13日の反革命の動きは長く持たなかった。サロニキ(テッサロニキ)から出発した青年トルコ党の軍隊は、和平交渉のあと4月24日にコンスタンチノープルに入った。不幸にもいくつかの駐屯部隊が抵抗し、砲撃と戦闘がおこなわれた。タクシム部隊の砲兵隊は、卑怯にも青年党の兵士たちを引きつけるため、白旗を掲げて騙し討ちをした。同じ民族間の戦闘は多くの死者を出した。
この日の戦死者と犠牲者は合わせて2千人にのぼった。さらに残念なことにその後数週間には、反対派やその協力者だった人々を街頭で絞首刑に処す動きが続いた。
皇帝の近衛隊長だったアリ・ベイが語るところによれば、アブドゥル・ハミド帝は、宮殿付近で最初の銃声が起こるや、流血の事態を回避するため武装放棄するように命令を出したという。少なくとも皇帝はこの24日の殺戮の責任者ではなかった。彼の治世は血潮の中に終焉を迎えた。

f0028703_23343588.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5526271 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.18; 1er Mai, 1909
画像 Crédit photographique:Wikimedia File:Abdul-Hamid villa Allatini.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abdul-Hamid_villa_Allatini.jpg

この3日後の4月27日に、狂気の皇帝と称され、忠誠な配下を失ったアブドゥル・ハミド2世は、譲位を宣言し、サロニキにあるアラティーニ離宮(Villa Allatini)に護送され、幽閉の身となった。(画像↑)
f0028703_23345821.jpg(←画像)前皇帝の弟にあたるレシャド・エフェンディがモハメッド5世(Mohamed V)として新たに皇帝となった。年齢は65歳。気取らない態度でとても信仰に篤く、大権を掌握するつもりはない。
街頭での絞首刑が続いてはいても市民生活は穏やかさを取り戻しつつある。人々は新皇帝の治世を好感をもって期待している。彼は欧州風の宮廷を作りたいと望んでいる。

[ Ψ 蛇足 ]
和文のWikipediaでは、従来使われてきた「青年トルコ党」という言い方は不適切だとして「青年トルコ人」という語句を使用している。政治的な党派ではなかったのはもっともだが、この革命はフランス語で « Les Jeunes-Turcs » という意思を結束した集合体が、恐怖政治とも言われたアブドゥル・ハミド2世による専制政治を倒壊に追い込んだ革命であるので、その集合体を「党」と名づけた意義は認めてもいいように思う。

*参考サイト:Wikipedia(和文)青年トルコ人革命

**これまでの関連記事france100.exblog:トルコで反革命の動き(1909.04.13)
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by utsushihara | 2009-04-24 18:13 | 独墺バルカン情勢1909-10

14歳の天才画家ラヴァラール

1909年4月f0028703_18392631.jpg

北仏ドゥエに住む14歳のマルセル・ラヴァラール君は、ルムーニエ氏の弟子として画業に励んでいるが、今年の春のサロンに『エチュードの時間』(L'Heure d'étude)で入選を果した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
画像 Crédit photographique : © RMN Droits réservés/ François Vizzavona/ Cote cliché : 97-008797/ Titre : L'Heure d'étude (exposé au Salon des Artistes Français de 1909) / Auteur : Marcel Lavallard (19e siècle-20e siècle) / Localisation : Paris, agence photo RMN, fonds Druet-Vizzavona

f0028703_1840170.jpg[ Ψ 蛇足 ]
(←)そばに立ってじっと見ている女の子は妹なのだろうか。神童画家マルセル・ラヴァラール(Marcel Lavallard, 1895-19xx) については、この時のトピックス記事しかない。没年が不明なのは、このあと20歳そこそこに第一次大戦で戦死したのかもしれない。RMNで検索してみたら、運良くこのときの入選作の写真だけが見つかった。なかなかしっかりした作品である。
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by utsushihara | 2009-04-23 18:38 | 美術、彫刻1909-10

アントワーヌ座の『競馬で稼いだボブ親父』

1909年4月22日(木)
f0028703_1804619.jpg
アンリ・ド・ブリゼーとマルセル・ローラス両氏の共作による4幕喜劇『競馬で稼いだボブ親父』は4月22日、アントワーヌ座で初演され、成功を博した。出演はレオンティーヌ・マサール、ラヴィーニュ、ジャンヌ・エヴァン、マルト・ムニエの女優陣に、フィルマン・ジェミエ、シャルリエ、コラス各氏などである。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
『競馬で稼いだボブ親父』(Master Bob, Gagnant du Derby)は題名が面白そうなので掲載したが、ここでは主演女優となったレオンティーヌ・マサール(Léontine Massart, 1885-1980)のほぼ初舞台での成功を記録する意図もある。彼女はそれまでベルギーで素人劇団で演じていたが、たまたまアントワーヌ座長のジェミエが才能を見出し、パリに連れ出して出演させたという経歴であった。この後、彼女は舞台での活躍のほか、無声映画の主演女優として多くの作品に出演する。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Léontine Massart
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by utsushihara | 2009-04-22 17:59 | オペラ、音楽、演劇1909-10

ギリシアのコルフ島でのドイツ皇帝ウィルヘルム

f0028703_18373479.jpg1909年4月17日(土)

4月17日、ドイツ皇帝の御用船ホーエンツォレルン号はコルフ島に到着し、ウィルヘルム2世はアキレイオン離宮に数日間滞在する。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ギリシアのコルフ島にあるアキレイオン離宮(Villa Achilléion)には、毎年のようにウィルヘルム皇帝は滞在している。この離宮には、かつて絶世の美女、墺皇妃エリザベートが住んでいた。

**これまでの関連記事france100.exblog:独皇帝のコルフ島到着(1908.04.10)

*参考サイト:医療法人和楽会 貝谷久宣理事長「オーストリア皇后エリザベートの摂食障害」考察
http://www.fuanclinic.com/sonota/vol_29a.htm
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by utsushihara | 2009-04-20 18:35 | 独墺バルカン情勢1909-10

最新鋭戦艦「ディドロ」と「コンドルセ」の進水式

1909年4月19日(月)

4月19日、サン=ナゼールにおいて最新型戦艦「ディドロ」(Diderot)の進水式が行なわれた。当地では午前中、この式典を祝うために昨日催された大レガッタ競技会の表彰式があった。また同型艦「コンドルセ」(Condorcet)の進水式は翌20日となる。この2隻の戦艦は1906年に策定された海軍の整備計画の一部で、計画全体では18500トンの大型戦艦6隻となっている。
f0028703_189138.jpg2隻の戦艦はいずれも全長146m、全幅25m800、乾舷喫水8m438、総排水量18355トンとなっている。速度は19ノット25、石炭消費量は1時間当たり18720kgと見込まれる。
装備は主砲305mm砲が2連砲塔2基で4門、240mm砲が2連砲塔で6基12門、そのほか75mm砲16門、47mm砲6門が配される。また450mmの魚雷発射装置が2基設けられている。

サン=ナゼールではこの2隻の戦艦の進水式の間に、大西洋航路会社の巨大客船「フランス」号の起工式が執り行われた。「フランス」号は全長220m、タービン式の最新型モーターで設計されている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618599 «Le Petit journal» No.16916, le 20 Avr. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
戦艦の名前に偉大な人物名を付けるのは、「真実」(ラ・ヴェリテ=La Vérité)などの抽象名詞をつけるのと同様に、旧日本海軍の習慣にはなかったようだ。

**これまでの関連記事france100.exblog:新戦艦「真実」の進水式(1907.05.28)
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by utsushihara | 2009-04-19 18:07 | 科学、軍事、海事1909-10