フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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名テノール歌手エンリコ・カルーソ夫妻の破局

1909年1月29日(金)

(ニューヨーク発)
ニューヨークのホテル・ニッカボッカー(Knickerbocker)で最も暴力的な場面が有名なテノール歌手エンリコ・カルーソとその妻でソプラノ歌手のアダ・ジアケッティとの間で繰り広げられた。
妻のアダはしばらく前から3人の子供と一緒に、夫とは別居して暮らしていたが、突然ニューヨークの彼の滞在先のホテルに現われ、いくつかの勘定の精算を要求した。二人の間に激しいやり取りが何度も繰り返されたが、その激しさは使用人たちが仲裁に入らなければ大変な事態に至るであろうと思われたほどであった。カルーソは妻からの度重なる金銭の要求につきまとわれていると語っている。

f0028703_17111430.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #618519 «Le Petit journal» No.16836, le 30 Jan. 1909
画像 Crédit d’image : Wikimedia Commons, Enrico Caruso, chanteur
Source Commons : Image:Enrico Caruso II.png
Author recadrage de Gilbertus d'après photo originale prise dans Commons

[ Ψ 蛇足 ]
名テノール歌手エンリコ・カルーソ(Enrico Caruso, 1873–1921)の歴史的な夫婦喧嘩の記事である。三面記事的ではあるが、この夫婦には少なくとも2人の子供があった。(もう1人はアダの前夫と?)このあと正式な離婚手続が始まったようで、後年カルーソは再婚している。
アダ・ジアケッティ(Ada Giachetti)とは、1898年頃プッチーニの「ラ・ボエーム」でミミとロドルフォを歌って結ばれたようだが、彼女のほうの詳しいデータはまだ入手できていない。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Enrico Caruso (1873–1921)
**これまでの関連記事france100.exblog:三大歌手による『リゴレット』公演(1908.06.11)
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by utsushihara | 2009-01-31 17:06 | オペラ、音楽、演劇1909-10

フェミナ劇場で指揮者コロンヌの講演会

1909年1月29日(金)

本日午後3時からフェミナ劇場においてエドゥアール・コロンヌ氏の講演会が行なわれる。題目は「管弦楽の芸術」である。内容は通常の講演とは異なり、数多くの事例演奏が添えられており、ピアノの巨匠ラウル・プーニョ氏をはじめ、オリヴィエ女史、レナンジェ=ドヴリエ女史、メアリー・メイランド女史などの歌手たちが協演を買って出ており、世間の注目をひく今回のコロンヌ氏の登壇の成功を確固としたものとしている。料金は3フランとなっている。

f0028703_235250100.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288351 « Le Figaro » le 29 Jan. 1909
画像 Crédit d’image :©BNF-Gallica; Edouard Colonne (1838-1910) : [portraits et documents] - - images
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b7720476n

[ Ψ 蛇足 ]
ちょうどこの半月前の1月10日(日)のコンセール・コロンヌの定期演奏会でソリストとして協演した名手ラウル・プーニョ(Raoul Pugno, 1852-1914)をはじめ、ベートーヴェンの第九の独唱者たちも協力して出演している。指揮棒でなく口で音楽を講義する機会は少なかったようだが、コロンヌはこのときすでに70歳を超えていた。

*参考サイト:Wikipedia(和文)エドゥアール・コロンヌ(Édouard Colonne, 1838-1910)

**これまでの関連記事france100.exblog:日曜日の管弦楽コンサート
(1909.01.10)
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by utsushihara | 2009-01-30 23:49 | オペラ、音楽、演劇1909-10

ロマン・クーリュスの新作「4×7=28」(ししちにじゅうはち)初演

1909年1月29日(金)

f0028703_18181341.jpg(←画像)左掲は1月29日午後8時半からブッフ=パリジァン座で初演となったロマン・クーリュス氏の3幕喜劇「4×7=28」の一場面である。主演女優のオーギュスティヌ・ルリシュ女史を中心に、右手のコケ氏、左手のカザリス氏などの好演で評判を得ている。またここで注目されるのは、ジュリエット・クラランスという芸名でこの劇で成功の初舞台を踏んだジュリエット・ディエツ=モナン嬢である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
f0028703_1818381.jpg画像 Crédit photographique:Journaux-anciens.chapitre.com
FEMINA numéro 194 paru le 15/02/1909 : Mlle Juliette Dietz-Monnin
http://journaux-anciens.chapitre.com/FEMINA/1909.html

[ Ψ 蛇足 ]
ジュリエット・クラランス(Juliette Clarens, 1887-1978)は、裕福なディエツ=モナン(Dietz-Monnin)家の令嬢であったためか、話題が大きかったようで、同年2月の婦人向け雑誌「フェミナ」の表紙を飾った。(画像→)彼女の父親シャルル(Charles Dietz-Monninn, 1826-1896)は、パリの実業家であり上院議員であった。1878年にはパリ万博の実行委員長に指名されたこともある。またパリ商工会議所会頭も務めた。母親も芸術に造詣が深く、画家のエドガー・ドガによって肖像が描かれている。(美人に描かなかったという問題があった)
16区の住宅街にその名を冠した路地がある。ジュリエットは1910年代には女優として数多くの無声映画に出演した。その後、ジャーナリストに転進し、演劇評などを書いた。

ロマン・クーリュス(Romain Coolus, 1868-1952)は、ナタンソン主宰の文芸雑誌「ルヴュ・ブランシュ」(La Revue blanche)の寄稿者でもあり、ロートレックなどが肖像画を描いている。上記の新作「4×7=28」(ししちにじゅうはち)は仏語表記だと «4 fois 7, 28 »(キャトル・フォワ・セット、ヴァントウィト)となる。若くして結婚した未熟な若夫婦が互いを本当に愛していないと自覚して、別な相手を捜し求めるが、義母に憧れの念を抱いた夫は「女は7年ごとに成熟するのだから、あと7年の28歳になれば私のような魅力を兼ね備えるようになるでしょう。」と諭されるお話である。

**これまでの関連記事france100.exblog:「愛らしい女」の上演 (1906.03.26)
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by utsushihara | 2009-01-29 18:17 | オペラ、音楽、演劇1909-10

数学者アンリ・ポワンカレのアカデミー入会式

1909年1月28日(木)

高名な数学者アンリ・ポワンカレ氏は1月28日アカデミー・フランセーズに迎えられた。最も難解な数学者の1人として論叢を次々に著しており、この日の会場は流行作家や人気劇作家の場合もこれほどとは考えられない上品で数多くの観客で埋め尽くされた。
演説は二重のパラドクスとも言える内容であった。数学者が詩人の業績について語り、また歴史学者が数学者の歓迎演説を行なったのである。ポワンカレ氏は高踏派の詩作品について特に学んだことはなく、フレデリック・マッソン氏は高等数学に関する素晴しい無知と無関心を語ったが、それぞれの語り口には興味深いものがあった。

f0028703_1820945.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288351 « Le Figaro » le 29 Jan. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
(1907年10月の蛇足記事から再掲載)
実際の選挙は1908年3月に行なわれたが、3つの椅子に対して上記のような個々の椅子ごとの選挙ではなかったようだ。結果としては上記記事に掲載された最初の3人、つまりポワンカレ、シャルム、リシュパンが選ばれた。本来アカデミー会員の椅子はそれぞれの分野に合った後任会員が選ばれることになっていたが、このときは3席が空いたための選挙だった。

まず、1907年3月18日に亡くなった化学者マルスラン・ベルトロ(Marcelin Berthelot, 1827-1907)の椅子(No.40)には、著名な数学者のアンリ・ポワンカレ(Henri Poincaré, 1854-1912)と総合誌「両世界評論」(Revue des Deux Mondes)の編集長フランシス・シャルム(Francis Charmes, 1848-1916)が争った結果、後者のシャルムが選ばれた。
しかしポワンカレの業績と価値を知っていたアカデミーでは、最後の椅子(No.24)つまり1907年9月17日に世を去ったばかりの高踏派の詩人シュリ=プリュドム(Sully-Prudhomme, 1839-1907)の椅子を彼に与える結果を選んだのである。
(2番目の椅子(No.2)つまり4月23日に亡くなったアンドレ・トゥリエ(André Theuriet, 1833-1907)の椅子には、ジャン・リシュパン(Jean Richepin, 1849-1926)が当選した。)

入会式には、新入会員はまず自分の椅子の前任者(故人)の遺徳を称える演説を行ない、続いて既存会員が歓迎演説を行なうことになっている。当然畑違いの組合せは今回に限らず起こったことと思われる。しかし、ポワンカレはこのとき既に別格の天才と認められていたということだろうか。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)アカデミー会員補充選挙の候補者たち(1907.10)
(2)モーリス・バレス氏のアカデミー入会演説(1907.01.17)
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by utsushihara | 2009-01-28 18:17 | 文芸、評論1909-10

名優コクラン=エネ急死

1909年1月27日(水)

f0028703_1693263.jpgコクラン=エネは27日朝、数日前から休養のため滞在していたポントーダームの「俳優の家」で死去した。午前8時20分頃のことで、少し前に起床し、近く公演が予定されていたエドモン・ロスタンの戯曲『シャントクレ』の練習をするところだった。心筋梗塞の発作らしく、突然床に倒れ、秘書のシャベール氏が駈け寄ったがすでに事切れていた。

風邪がだいぶ治ったので彼は金曜日の夜にはポントーダームを訪れた。しかし万全ではないので医師のユシャール氏とロバン氏の治療を受け、昨日には外に出て歩き、近所のモロー医師と長い時間話し込んだ。
訃報を知って次々と人々が駆けつけてきた。まず午前中に息子のジャン・コクラン氏とエドモン・ロスタン氏が、午後には多くの友人たちが訪れた。コクラン=エネの遺体は「俳優の家」の城館の2階に安置され、29日(金)にクイィで告別式と埋葬が行なわれる。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288350 « Le Figaro » le 28 Jan. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288351 « Le Figaro » le 29 Jan. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618499 «Le Petit journal» No.16816, le 10 Jan. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618517 «Le Petit journal» No.16834, le 28 Jan. 1909

f0028703_161014.jpg[ Ψ 蛇足 ]
コクラン=エネ(Coquelin aîné)、本名コンスタン・コクラン(Constant Coquelin, 1841-1909)は数多くの名演で知られる偉大な俳優であるとともに、引退した俳優たちのための養老施設を建設するなど、演劇界の重鎮として大きな足跡を残した。1月23日にちょうど68歳の誕生日を迎えたばかりであった。
(画像→)右は葬儀の模様でエドモン・ロスタンが弔辞を読んだ。彼は近く公演をコクランの主演で予定していた自作の戯曲『シャントクレ』(Chantecler)の舞台稽古に立ち会うために田舎から出てきたところだった。

(直前:1月10日付ル・プチ・ジュルナル紙No.16816の記事より)
昨日コクラン=エネの健康状態に関するかなり悲観的なニュースがパリを駆け抜けたが、名優の自宅で得られた情報はむしろもっと安堵できるものだった。コクラン=エネは数日前に悪寒がしてから大変な風邪になり、寝込まなければならなくなった。しかし2晩ほど十分な休養と睡眠のお陰で昨日はかなり症状に改善が見られ、心配するほどのことではなくなっている。

(葬儀:1月29日付フィガロ紙の記事より)#288351
本日29日に行なわれるコクラン=エネの葬儀のため、コメディ=フランセーズ座では舞台稽古を取り止めることになった。一座のほとんど全員が一致して偉大な俳優との告別式に参列する意思を表明している。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Coquelin aîné

**これまでの関連記事france100.exblog:コクラン=エネによる最後の「シラノ」公演(1908.12.13)
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by utsushihara | 2009-01-27 16:08 | オペラ、音楽、演劇1909-10

R.シュトラウスの『エレクトラ』初演

f0028703_23295119.jpg1909年1月26日(火)

1月26日、ドレスデンにおいてリヒャルト・シュトラウス氏の楽劇『エレクトラ』(Elektra)の初演が大成功を収めた。この作品はこれまでになく斬新で、極限なまでに多声的な響きに満たされている。主演はクルル女史とシーマン=ハインク女史で見事な歌唱を示した。ホフマンスタール氏の台本は可能な限りギリシア悲劇的でないものに仕上げている。フィガロ紙でロベール・ブルッサン氏は「恐ろしさの中でも並外れたものだ!」と評している。オペラ座ではリヒャルト・シュトラウス氏の歌劇『火災』(Fauersnot)を近く上演する予定である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909

**これまでの関連記事france100.exblog:R.シュトラウス、次作『エレクトラ』の完成近し(1908.08)
[ Ψ 蛇足 ](再掲載)
『サロメ』(Salomé)の成功でR.シュトラウス(Richard Strauss, 1864-1949)は楽劇の分野への取組みを強めだした。『エレクトラ』(Elektra)はギリシア悲劇のソフォクレスの作品をホフマンスタールが改作したものを台本としている。トロイ戦争から帰還した王アガメムノンは妃クリュテムネストラとその愛人エギストによって暗殺される。王女エレクトラは勘当されていた弟オレストとともにその復讐として2人の殺害に成功するが、狂喜した踊りの中で悶絶死する。
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by utsushihara | 2009-01-26 23:27 | オペラ、音楽、演劇1909-10

[ 直近の更新状況 ] 2009-b

ご来訪ありがとうございます。記事の掲載がかなり遅れており、ちょうど100年前の同月同日の暦の進行とはズレが出ています。当面、前年(1908)12月の出来事が中心です。

01/26: デパートのお歳暮広告(1908) (1908.12.07)
01/21: 第15回自動車工業サロン展(1908)(1908.12)
01/21: ポルトにおけるマヌエル国王(1908.11.27)
01/21: 『ヴァリエテ事件』の初演 (1908.11.28)
01/20: オーストリアとセルビア間の暗雲(1908.12.02)
01/20: 新しい劇場ミシェル座の開設(1908.12.03)
01/20: ウィルバー・ライトの新たな高度飛行の勝利(1908.11.13)
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by utsushihara | 2009-01-26 17:17

もう一つの歌劇『エルナニ』のパリ初演

1909年1月25日(月)

パリ市立歌劇場ゲテ座では1月25日、文豪ヴィクトル・ユゴー原作の戯曲「エルナニ」を5幕のオペラに改作した作品が初演された。台本はギュスターヴ・リヴェ氏によってオペラの歌唱用に注意深く手を加えたものであり、作曲はアンリ・イルシュマン氏である。
この作品はすでにベルギーで成功裡に初演されており、このたびゲテ座での初演でもかなり好意的にむかえられている。原作はロマン派時代の傑作戯曲の一つであり、オペラのためには簡略化せざるを得なかったが、最も美しい詩句は残されており、この劇をよく知った観客は、割愛された部分なしでも十分楽しむことができた。
音楽は現代風の音調で作られているが、マイヤベーアの叙情的な熱情を受け継ぎ、最新のイタリア・ヴェリスモ歌劇の展開手法を用いている。
今回の公演の成功はとりわけ出演者たちの優れた歌唱によるところも多い。エルナニ役のテノール歌手ブローニュ氏のたくましく柔らかな声、カルロス役のテノール、オーギュスタレーロ・アフル氏の確かな歌の技量、そしてドナ・ソル役のイヴォンヌ・デュベル嬢の魅力あふれる美声と情感たっぷりの演技とが観客を魅了している。舞台装飾はコメディ=フランセーズ座から借用したものである。アマルー氏の気配りの効いた完璧な指揮によるオーケストラも賞賛される。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618515 «Le Petit journal» No.16832, le 26 Jan. 1909

f0028703_16554344.jpg[ Ψ 蛇足 ]
21世紀の現在ならば歌劇『エルナニ』(Hernani)はヴェルディのものと決まっている。当時は同一の原作に様々な作曲家によるオペラは盛んに作られたようだ。アンリ・イルシュマン(Henri Hirschmann, 1872-1961)は既に忘却された作曲家である。ユダヤ系の家柄からか、上記の記事にも「マイヤベーアの遺伝子」を感じる曲作りをしたと書いている。劇場音楽を主として作曲したようだ。(画像→)右掲は稽古場での作曲者イルシュマン(中央)とイヴォンヌ・デュベル(Yvonne Dubel, 1879-19xx)(右)、オーギュスタレーロ・アフル(Augustarello Affre, 1858-1921)(左)である。

*参考サイト:(仏語)Théâtre musical Opérette; Henri Hirschmann
**これまでの関連記事france100.exblog:3日連続で3つのオペラを歌う新記録、イヴォンヌ・デュベル(1908.08.05)
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by utsushihara | 2009-01-25 16:45 | オペラ、音楽、演劇1909-10

冬の大スキー週間開催

1909年1月24日(日)
f0028703_15264666.jpg
今年もアルプス地方でフランス・ツーリング・クラブ主催による冬の大スキー週間(La Grande semaine d’hiver)が1月23日~31日の日程で開催される。スキーのフランス大ジャンプ選手権(Le championnat de France de saut en skis)ではシャモニーのクーテ選手が優勝した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
出典Crédit avec l’illustration:©BNF-Gallica #39751 « Larousse mensuel illustré, revue encyclopédique » / No.27 Mai, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
(↑画像)上掲は百年前の月刊誌『挿絵入りラルース百科』第27号にある「スキー」(ski)の項目の図版である。1.がスキー・ジャンプの練習(sauts en ski)、2.はフランスのアルプス部隊の下士官と兵士のいでたち。本文によれば「近年フランスにおいても冬のスポーツとして最も人気が高まって全国的な広がりを見せているとともに軍隊にも導入されている。」とある。スキーの板の製造もこの年(1909.01)からフランス国産のものを対象にツーリング・クラブ(Touring club de France)によってコンテストが始められた。

**これまでの関連記事france100.exblog:シャモニーで初の冬季スポーツ大会(1908.01.03)
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by utsushihara | 2009-01-24 23:50 | スポーツ、乗物、探検1909-10

豪華客船「リパブリック」号の沈没

f0028703_1756949.jpg1909年1月23日(土)

1月23日の早朝、濃霧の中、地中海を目指して乗客乗員700名を乗せて米国東海岸を航行中だった豪華客船「リパブリック」号は、イタリアの客船「フロリダ」号と衝突した。通信員として乗り込んでいたジョン・ビンズは衝突によって事務室が大破したのにも関わらず、果敢に無線で救難電報を送り続けた。それによって「リパブリック」号遭難の報が4つの港と5隻の汽船にもたらされた。最初に現場に急行したのが「バトル」号で、救急措置が必要だった乗客たちが助けられた。数時間後に「リパブリック」号は沈没した。700人の乗客乗員はそのほとんどが無事に救出された。船長のウィリアム・シールビーと通信員のジョン・ビンズはニューヨークに帰還し、大勢の市民に賞賛を受けた。(↑)上掲は「リパブリック」号の甲板と通信員のジョン・ビンズ(John Binns)である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.50; Mar. 1909
画像 Crédit photographique:©SS Republic
http://home.att.net/~rstinchcomb/newreck/republic.html

f0028703_17511670.jpg[ Ψ 蛇足 ]
まだ無線通信(la télégraphe sans fils)は実用化されたばかりで、この海難事故に無線通信が初めて使用された事例となった。しかも犠牲者がほとんど出なかったことが普及への弾みとなった。いわゆる「SOS」信号が制定されるのはこの後のことである。


*参考サイト:
(1)NTT Digital Museum(和文): 無線が海難事故を救出
(2)Treasure of the R.M.S. Republic(英文)
**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)通信手段の進歩(三題)(1907.05)
(2)マルコーニの無線通信の新実験(1906.12)
(3)無線通信のしのぎを削る研究競争(1907.02)
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by utsushihara | 2009-01-23 17:48 | 科学、軍事、海事1909-10