フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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W・ライト、歳末に飛行新記録

1908年12月31日(木)

ライト氏は今朝最初に42分間の飛行を行なった。建設相バルトゥ氏は正午にル・マン郊外のオーヴール基地に到着し、米国人飛行家は午後2時から周遊飛行の賞杯をめざして飛行を再開した。
正確には2時00分03秒に離陸し、定められた3角形の地点の周回を56回達成した。距離にして150kmを2時間19分03秒4で飛んだのであった。
それに続き5時20分にウィルバー・ライト氏はルイ・バルトゥ大臣を一緒に乗せて再び飛び立ち、3分58秒の飛行を行なった。

f0028703_1683827.jpg1908年のミシュラン航空杯(La Coupe Michelin pour 1908)はその目覚しい飛行によってライト氏の手に残り、同時に2万フランの賞金も獲得した。この賞杯は5年間にわたり新たな基準を設けて授与されることとなっている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618490 «Le Petit journal», le 1er Jan. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
上記では「建設相」と訳したが、直訳では「公共工事大臣」(Ministre des Travaux publics)である。大臣を飛行機に同乗させるなどとは思い切ったことをする人である。大臣のルイ・バルトゥ(Louis Barthou, 1862-1934)は閣僚を歴任し、大戦直前の1913年には首相となる。

**これまでの関連記事france100.exblog:ウィルバー・ライトの新たな高度飛行の勝利(1908.11.13)
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by utsushihara | 2008-12-31 16:06 | スポーツ、乗物、探検1907-08

[ 直近の更新状況 ] 21

ご来訪ありがとうございます。記事の掲載がかなり遅れており、ちょうど100年前の同月同日の暦の進行とはズレが出ています。当面10~11月の出来事が中心です。


12/31: ジャンヌ・ダルクの列福審査(1908.11.24)
12/30: フェミナ劇場でホフマンスタールの『エレクトラ』上演(1908.11.26)
12/29: ポール・タファネル死去(1908.11.22)
12/28: 悲惨極まりない話(ベルエポック事件簿)(1908.09)
12/27: ハロルド・バウアーのピアノ・リサイタル(1908.11.03)
12/26: 米国サヴァンナでの自動車大賞レース(1908.11.26)
12/25: ジョルジュ・マルティ追悼演奏会(サン=サーンスがピアノ独奏)(1908.11.15)
12/23: 視覚芸術=映画『ギーズ公の暗殺』の上映(1908.11.16)
12/22: アテネ座で3幕劇『アルセーヌ・ルパン』初演(1908.10.28)
12/21: ドイツの劇作家ウェーデキントの『春のめざめ』の総稽古(1908.10.28)
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by utsushihara | 2008-12-30 22:15

英人柔術家マツダも敗北

1908年12月31日(木)

レ・ニエの試合が行われた数日後の12月31日、タロー・マツダ(Tarro Matsuda)と称する柔術家が、無思慮にも有名かつ屈強の黒人ボクサーのサム・マクヴェーとマリニー劇場で対戦した。試合は、第8ラウンドで米国ボクサーが相手の顎に一発命中させて倒し、勝った。マツダはそこまで相手と組むことが全くできず、翌日の新聞にはリング・マットに伸びている彼の写真が掲載された。

f0028703_1595791.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
「ジュセトゥ」の記事には:「付け加える必要があるが、自称マツダは本当は英国人であり、日本の柔術を代弁できるほどの腕前を持っていなかった。」とやや連敗続きの柔術を庇う言い方をしている。
二重の蛇足になるが、先般負けた柔術家レニエの息子ルイは、父親の屈辱的な敗戦を深く受け止め、レニエという名前でなく、道場のあった8区の街路名ポンテューを採ってルイ・ド・ポンテュー(Louis de Ponthieu)としてボクサーの道を進み、フランスおよび欧州のチャンピオンとなり、米国巡業では「フレンチ・グラブ・アーティスト」(The French glove artiste)と賞賛されたという。
黒人ボクサーのサム・マクヴェー(Sam MacVea)はしばらく欧州で活動していたと思われ、上記の記事にあるように「有名かつ屈強の黒人ボクサー」(le célèbre et redouté boxeur noir)という定評があった。

*参考サイト:Google Book Preview:Les racines du judo français(Michel Brousse)
出版社: Presses Univ de Bordeaux, 2005
ISBN 2867813689, 9782867813689
http://books.google.fr/books?id=iu8WIAFFwTgC&pg=PA144&lpg=PA144&dq=Padoubny,+ivan,+1908&source=bl&ots=0o5FTaCrSq&sig=oTJAYx4-xxEB5vUodgRfoW8EBLU&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=6&ct=result#PPA144,M1

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)フランス柔術敗れたり(レニエ対パドゥニー)(1908.12.19)
(2)馬芸館でヘビー級ボクシング試合:サム・マクヴェー対ベン・テイラー(1908.04.15)
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by utsushihara | 2008-12-30 15:00 | スポーツ、乗物、探検1907-08

パリに大雪

1908年12月29日(火)

12月29日、雪は正午から午後5時にかけて降りしきり、パリの都市機能は積雪でほとんど身動きができなくなった。わずかに馬車によって踏み込まれた街路を自動車がのろのろと進む状態である。市当局から融雪のために塩が撒かれたのにもかかわらず、雪は5日間ほど残った。

f0028703_13523550.jpg
出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.48; Jan. 1908
画像 Crédit photographique:©Photo RMN (Musée d'Orsay) / Vizzavona François Antoine (1876-1961)/ Cote cliché : 98-016558 / Titre : Place de l'Hôtel de Ville, neige (exposé au Salon de la Société Nationale des Beaux-Arts de 1908) / Auteur : Frédéric-Anatole Houbron (1851-1908) / Localisation : Paris, agence photo RMN, fonds Druet-Vizzavona

[ Ψ 蛇足 ]
パリも東京よりは緯度が北であるが、積雪に見舞われる機会は東京同様に少ない。引用した画像は、フレデリック=アナトール・ウーブロン(Frédéric-Anatole Houbron, 1851-1908)作の『雪のパリ市役所前広場』(Place de l'Hôtel de Ville, neige, 1908)で、向かって左手に市庁舎、画面の奥にノートルダム寺院が見える。1908年のサロン出展作である。雪景色のパリを描いた作品は割合に少ない。
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by utsushihara | 2008-12-29 13:51 | フランス社会政経1909-10

イタリア南部カラブリア州で巨大地震

1908年12月28日(月)f0028703_186521.jpg

12月28日早朝、未曾有の巨大な地震がイタリア南部カラブリア州からシチリア島を襲い、甚大な被害が人々を打ちのめした。地震に続いて津波が発生し、被害をさらに拡大させた。メッシーナ(人口12万8千人)、レッジオ(4万5千人)、マルミ(1万人)を始めとする数多くの町村が破壊された。
死者の数は10万人から20万人に及ぶ模様であるが、人的被害の全貌はまだ把握できていない。物的な損害も算定不可能な状況である。

[ カラブリア発 ]
それは午前5時20分から25分の間に起きた。長い波打つような揺れが最初は7~8秒間、次に20~30秒間続いた。暴力的な震動に人々は寝床から飛び起き、大慌てで外に出ようとして大パニックを引き起こした。
直後の状況では、非常に多くの家屋があたり一面で倒壊し、悲鳴と号泣の声があがっていた。
レッジオ地方のバニャーラでは、村全体がもはやことごとく残骸となり、住民の大半が死亡したか負傷しているという情報である。
数え切れない家屋が倒壊してしまったか、残っても亀裂が入った状態である。軍の守備隊が町や道路の修復に着手している。すべての村落では恐怖に駆られた人々が野宿をしており、地震の後に付き物の冷たい雨が無情に降りしきっている。

f0028703_1863366.jpg[ シチリア発 ]
地震の大揺れに続いて発生した物凄い津波によって、メッシーナやカターネでは大多数の船舶が破損したり沈没してしまった。怪物的な波によって多くの人々がさらわれている。シチリア島とイタリア本土間の電信網は一部を除いてことごとく遮断されている。したがって被災を受けた町村からの救難通報も伝える術が無く、荒廃したままとなっている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288319 « Le Figaro » le 29 Déc. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #563105 «Le Petit Parisien» No.11749, le 29 Déc. 1908
画像 Crédit d’image : © BNF-Gallica #5525528 «Touche à tout», AnnéeII-1; Jan. 1909 Quelques images d’actualité

f0028703_1865650.jpg[ Ψ 蛇足 ]
クリスマスが過ぎて新年を迎えようとしていた矢先の大地震である。この地域では3年前の1905年9月にも大きな地震が起き、被害を受けている。今回の地震のほうが規模がはるかに大きく、人的・物的な被害は甚大なものとなった。上記の第1報だけでも惨憺たる状況だが、救援活動は欧州全体および米国からも鋭意手を差し伸べて続けられる。1909年の1月は毎日のように新聞で被害の増大と復旧の様子が伝えられることになる。画像は雑誌「トゥシュ・ア・トゥ」2月号に掲載されたシチリア島のメッシーナの惨状の写真である。

**これまでの関連記事france100.exblog:イタリアの地震 (1905.09.08)
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by utsushihara | 2008-12-28 18:04 | 各国事情1907-08

コクラン=カデの引退決定

f0028703_17125526.jpg1908年12月27日(日)

昨夜開催されたコメディ=フランセーズ座の運営委員会において、正座員のコクラン=カデ氏が病気を理由に休職して1年になることを協議した。その結果、あまりに長期間の欠演は座にとっても不利益であり、彼を引退させることに決定した。またこの決定は、疾病審判委員会で改めて審議されることとし、もし彼が健康を回復したときには、一座に復することができ、報酬もこれまでと同額とすることなどの条件が付加された。

この委員会に続き、座員総会が開催された。1909年の予算が承認された。総額は204万フランにのぼる。この数値をもとに総会では、来年度での経費節減が必須であり(des économies devaient être faites sur l’exercice prochain) 、1910年に向けて老齢年金への充当も決定した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618485 «Le Petit journal», le 27 Déc. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
コクラン=カデ(Coquelin cadet)は、正しくはエルネスト・コクラン(Ernest Coquelin, 1848-1909)といい、兄のコンスタン・コクランとともに演劇界で活躍した。兄弟で区別するためにエネ(aîné=兄)、カデ(cadet=弟)という名前をつけて通した。彼は特にモノローグ(独白)の演技で定評があった。
下記に挙げた『愛は眠らずに』(L’Amour veille)の公演以降、体調を崩してシュレーヌの療養院に入っていた。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Coquelin cadet
**これまでの関連記事france100.exblog:コメディ=フランセーズの「愛は眠らずに」の大成功 (1907.09.30)
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by utsushihara | 2008-12-27 17:09 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ボクシング・ヘビー級の覇者ジャック・ジョンソン

1908年12月26日(土)

12月26日、豪州シドニーで開催されたボクシング・ヘビー級世界タイトル戦において、米国出身の黒人ボクサー、ジャック・ジョンソンがトミー・バーンズを倒してチャンピオンの座を獲得した。
この世界が注目したバーンズ=ジョンソン戦については更に詳細な情報が入っている。タイトル保持者のカナダ人バーンズは、ジョンソンから強力なパンチを受けて顔が腫れ上がり、もはや立ち上がれない状態となったため、警察官が異例の介入をして試合を止め、手当に搬出せねばならなくなった。審判はそこで黒人ボクサーの勝利を宣告した。
またすでに報じられている通り、この試合の勝者はジェフリーズとサム・マクヴェーの挑戦を受けることになっている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #568924 « Le Matin » No.9071 ; le 28 Déc. 1908

f0028703_23375152.jpg
[ Ψ 蛇足 ]
このバーンズ対ジョンソンの試合はしばらく前から予定されていたが、体力差で不利と思ったらしく、トミー・バーンズ(Tommy Burns, 1881–1955)側がのらりくらりと日取りの引き伸ばしをしていたきらいがある。(↓下記フィガロ紙の記事参照)
左掲(←)はジャック・ジョンソン(Jack Johnson, 1878–1946)

(1908年9月9日付のフィガロの記事)
黒人ボクサーのジャック・ジョンソンとカナダ人ボクサー、トミー・バーンズとの対戦はしばしば告知されながらもバーンズ側からの法外な要求によって何度も延期されてきたが、ようやく決着をつける時が来たようだ。しかし欧州のスポーツファンは春から待ち望んでいたのにこの試合の機会に浴することができないだろう。バーンズは現在オーストラリアにおり、信頼できる興行主を得ていて、試合はメルボルンで行われる見込みで、開催されれば彼は勝っても負けても15万フランの報酬が保証されている。
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288208 « Le Figaro » le 9 Sep. 1908
(旧1フラン≒¥250でも4千万円近くになる)

*参考サイト:Wikipedia
(1)Tommy Burns (boxer)(英文)和文の頁では上記の試合の経過の説明が読める。
(2)Jack Johnson (boxer)(英文)
**これまでの関連記事france100.exblog:馬芸館でヘビー級ボクシング試合:サム・マクヴェー対ベン・テイラー (1908.04.15)
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by utsushihara | 2008-12-26 23:34 | スポーツ、乗物、探検1907-08

明治宮廷の醜聞

1908年12月26日(土)

日本の宮中と華族の社交界においては、東京のある新聞社が明るみに出した醜聞事件によってすっかり動揺している。
しばらく前になるが、若い藤堂伯爵は英国留学中に現地女性とロンドンで密かに結婚した。この結婚は内密にされ、帰国後彼が皇族の王女と婚礼を挙げようと準備するうちに事実が発覚したのである。天皇は激怒され、この婚約は破棄となった。彼はすべての資格と職位を失ない、無期限に在野に放逐とされた。これまで藤堂伯爵の婚儀の画策に携わっていた何人かの高官たちも解任となった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618517 «Le Petit journal» No.16834, le 28 Jan. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
珍しい日本での皇族の醜聞(Scandale à la cour du Japon)がフランスの新聞「プチ・ジュルナル」紙(実際は1ヵ月後の日付の記事)で報じられた。この記事にある藤堂伯爵とは、藤堂高紹(とうどう・たかつぐ、明治17年生~没年不詳)(1884-19xx)のことで、父親の藤堂高潔(とうどう・たかきよ、天保8年~明治22年、1837-1889)は、津藩の第12代(最後)の藩主だった。藤堂家は藤堂高虎から続いた大名家である。
明治23年に幼くして爵位を継ぎ、学習院を卒業後、英国に渡りケンブリッジ大学に3年間留学した。英人女性との結婚はこの時のことらしい。帰国後、宮中の式部官となっていた。皇族の北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさ・しんのう)の第3王女、武子(たけこ)との婚約勅書を拝受していたが、事実発覚の後それを返上したため、華族懲戒委員会が開かれ、藤堂家の華族礼遇停止が決定された。
その後、藤堂伯爵は別の結婚をし、五女が朝香宮妃として、また名門岩倉一族との姻戚関係も得た。彼は後年「伊和辞典」の編著者としても知られる。

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
実は北白川宮能久親王自身も過去に同様の婚約騒ぎを起こしている。
(Wikipedia からの一部転載:北白川宮能久親王)
ドイツに留学中だった明治9年、貴族の未亡人ベルタと婚約を行なったうえで、明治政府に対し結婚の許可を申し出た。しかし政府は難色を示し帰国を命じる。帰国の直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため大問題となった。しかし結局明治10年7月に帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄、京都で謹慎することになる。

*参考サイト:化石鉱物オンライン販売専門店磐座(いわくら)-りんどう会
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by utsushihara | 2008-12-25 18:00 | 日本・東洋事情1907-08

第1回航空サロン展の開催(1908)

1908年12月24日(木)

グラン・パレを会場とする第1回航空サロン展(Le 1er Salon de l’Aéronautique)が12月24日から30日まで開催された。初めてのことであるが、1基の飛行船と数多くの飛行機が公衆の目の当たりに展示され、多くの来場者たちは、ライト氏、ドラグランジュ氏、ブレリオ氏、エスノー=ペルトリ氏らの機体の周囲を巡り歩いている。
f0028703_14353743.jpg
(28日付の「マタン」紙の記事)
航空サロン展の成功に弾み。(Le succès du Salon s’accentue)これまでの毎日と同じように昨日の午後も群衆が大挙してグラン・パレに押し寄せた。一昨日予定されていたポール・パンルヴェ氏の飛行機に関する講演会は本日の午後4時に行われる。
アドルフ・クレマン氏は、現在グラン・パレで展示している彼の所有する飛行船よりも5倍の大きさとなる15,000立方米の新たな飛行船を建造する計画であることを発表した。800馬力のエンジンが1つか2つのプロペラを回転させて進むことになる。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #568924 « Le Matin » No.9071 ; le 28 Déc. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
当時の人々の最大の関心事が自動車と飛行機だったことがわかる。特に飛行機は数mから数百m、数kmへと一年のうちに飛行距離が飛躍的な進歩を遂げていた。
上記記事にあるアドルフ・クレマン(Adolphe Clément, 1855-1928)は大手自動車メーカー、クレマン=バヤール社(Clément-Bayard)の社主であり、大型飛行船建造への意欲を示し、産業界の活性化の先導をなした。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Clément-Bayard

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ドラグランジュの飛行記録更新 (1908.09.06) レオン・ドラグランジュ(Léon Delagrange, 1873-1910)
(2)ライト兄弟の新たな飛行記録 (1908.09.21)
(3)自動車ラリー選手の事故死(アルベール・クレマン)(1907.05.17) クレマン=バヤール社(Clément-Bayard)の社主アドルフ・クレマン(Adolphe Clément)の息子
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by utsushihara | 2008-12-24 14:31 | 科学、軍事、海事1907-08

ジィドとアレクサンドル・ナタンソン

1908年12月24日(木)
f0028703_15325994.jpg
*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1908年12月24日より引用:
アレクサンドル・ナタンソンが二時半頃に誘い出しに来る。ポーランドの若い彫刻家ナデルマンの所へ案内しようというのである。
彼はピオの製作した壁画には、敵意を含んでいないにしても、まるで上の空の一瞥しか与えない。彼が試運転する六十馬力の自動車に乗る。私達はボワソナード街に到着する。
彼の言葉をいくつか写してみよう。だが、必要なのは、彼の声の調子である。一つ一つの言葉に、声の抑揚が「僕って、こんな人間ですよ!」と付け加えているように思われる。(中略)
「例えば、私の鞄の中には、値打ちのない株券しか残っていません。もう売れもしないようなね・・・、化粧室の壁を張る位は十分ありますよ!いつか弟のタデが怒って言ったもんです。『なんだってまた、苦労の種になりそうなそんな碌でない株券を背負いこんでるんだ?』ってね。そこで私は答えてやりましたよ。『まあ、心配するな。決して苦労の種になんかなりはしないよ。至極簡単さ。僕はもう全然気にしてなどいないんだからね。』ってね」
ナデルマンのアトリエで、ナデルマンが語っている最中にも、ナタンソンは時々私の方にかがみこみ、低い声で、早口に言った
「なかなかいい男だ!ねえ、そうでしょう?」
それに、彼は私に対して非常に愛想がいい。もう一度ぜひ会ってくれという。で、向う半か月は非常に忙しくなるからと言うと、「では、そのあとすぐ、よござんすね!」とさようならも言わずに、私の手を固く握りしめた。(後略)

[ Ψ 蛇足 ]
アレクサンドル・ナタンソン(Alexandre Natanson, 1867-1936)は、弟のタデ・ナタンソン(Thadée Natanson, 1868-1951)とともに1890年代に大きな文学・芸術活動の中心となった雑誌『ルヴュ・ブランシュ』(La Revue blanche)の運営に携わった。彼らはポーランドのユダヤ系銀行家の家柄で富裕層における交流も活発で、多くの文化人・芸術家たちの活動の源泉となった。ドレフュス事件の際には「オーロール」紙でのゾラの弾劾記事を全面的に擁護し、再審での勝利に導いた。1902年にアレクサンドル自身が重病に陥ったため、やむなく『ルヴュ・ブランシュ』を譲渡し、その活動は翌年停止することとなった。
上記のジィドの描写は、アレクサンドルの洒脱で人なつこい人物像を見事に捉えている。

*参考サイト:Les Commérages de Tybalt(「ティバルトの無駄話」=仏語): Frères Natanson - Alexandre, Alfred et Thadée

エリー・ナデルマン(Elie Nadelman, 1882-1946)はポーランド出身の現代彫刻家で、第一次大戦までパリで活躍し、サロンでも注目された。その後米国に亡命した。
*参考サイト:Wikipedia(英文)Elie Nadelman

上掲(↑)はルネ・ピオ(René Piot, 1869-1934)作の壁画の一例。ドラクロワ派とナビ派との折衷的な表現の画風である。
画像 Crédit photographique:©Photo RMN (Musée d'Orsay) Droits réservés / Cote cliché : 86-001649 / Titre : Requiescent - Avant restauration / Auteur : René Piot(1869-1934) / Localisation : Paris, Musée d'Orsay
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by utsushihara | 2008-12-23 15:31 | 文芸、評論1907-08