フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

プロフィールを見る
画像一覧

検索

カテゴリ

フランス社会政経1909-10
フランス政治社会1907-08
オペラ、音楽、演劇1909-10
オペラ、音楽、演劇1907-08
美術、彫刻1909-10
美術、彫刻1907-08
文芸、評論1909-10
文芸、評論1907-08
科学、軍事、海事1909-10
科学、軍事、海事1907-08
★ベルエポック事件簿1909
★ベルエポック事件簿1908
スポーツ、乗物、探検1909-10
スポーツ、乗物、探検1907-08
※百年前の広告
独墺バルカン情勢1909-10
独墺バルカン情勢1907-08
モロッコ問題、アフリカ1909-10
モロッコ問題、アフリカ1907-08
日本・東洋事情1909-10
日本・東洋事情1907-08
ロシア帝政末期1907-10
各国事情1909-10
各国事情1907-08
フランス政治社会1905-06
オペラ、音楽、演劇1905-06
★ベルエポック事件簿1910
美術、彫刻1905-06
文芸、評論1905-06
科学、軍事、海事1905-06
スポーツ、乗物、探検1905-06
モロッコ問題、アフリカ1905-06
ドイツ情勢1905-06
ロシア帝政末期1905-06
日露戦争、東洋事情1905-06
各国事情1905-06

タグ

(24)
(24)
(22)
(19)
(14)
(13)
(13)
(12)
(12)
(12)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(10)
(10)
(10)
(10)

最新のトラックバック

一枚の絵 シャバ「九月の朝」
from 壺中山紫庵
オペラ「フォルテュニオ」
from のんのつれづれなるままに
四月の魚
from ブラッケン・ダーキンの肖像
大統領の恥ずかしいような..
from パリノルール blog
ルルー『黄色い部屋の謎』
from Proust+ プルースト・..
11. 異邦人"シャルル..
from サン=サーンスの墓
フロラン・シュミット
from サン=サーンスの墓
ポール・デュカス
from サン=サーンスの墓
鼻の整形術 美しいスマー..
from 鼻の整形術 美しいスマートな華に
タロー兄弟と、コクトーの..
from 発見記録

以前の記事

2011年 03月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
語学

画像一覧

<   2007年 10月 ( 29 )   > この月の画像一覧

ディエップでサン=サーンスの彫像の落成式

f0028703_15294596.jpg1907年10月31日(木)

巨匠サン=サーンス氏はまたディエップ市にとっては篤志家の一人となっている。10年前に彼は博物館にかなりの家財を寄付したが、市は彼のために彫像を作り、10月31日、本人の前で落成式を行なった。彫像は彼によく似ており、彫刻家マルケストの署名が入っている。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907
出典Crédit:BNF-Gallica #287894 « Le Figaro » le 2 Nov. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
当時72歳、フランス音楽界の長老となっていたカミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)とっては、父の故郷ディエップで生前に自分自身の記念碑の落成式に臨むという非常に珍しい体験となった。
このとき記念演奏されたのは彼の「ピアノ三重奏曲第1番ヘ長調作品18」で発表当時から評判が良く、カザルス・トリオなどからも好んで演奏されたという。(なぜか多くの作曲家の作品番号18がついた曲には初期の傑作が散見される。歌舞伎の十八番とはちょっと違うが…)
彫像の作者ローラン=トノレ・マルケスト(Laurent-Honoré Marqueste, 1848-1920)は大家ファルギエールの弟子で装飾的商業的な作品が多い。この記事で作られた彫像は21世紀の現在では確認できなかった。第2次大戦中に鋳潰されたかもしれない。広場の片隅に薄汚れた姿ででも残っていればありがたいが・・・(もし可能であれば画像の提供をお願いしたい。)

*参考サイト:
(1)サン=サーンスの墓(Le Tombeau de Saint Saëns)サイト(和文)
(2)Le Château-Musée de Dieppe; Visite virtuelle du musée = Le Salon Camille Saint Saëns(仏語)
(3)Access my library(2000.01) The Saint-Saëns enigma by R.J. Stove ©2000 Foundation for Cultural Review「サン=サーンスの謎」(英文書評)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)音楽雑誌「ムジカ」サン=サーンス特集号(1907.05.25)
(2)彫刻家ファルギエールの記念墓碑(1906.03.04) 彫刻家マルケストの作品

[ 追記 ]「フィガロ」1907年11月2日付の新聞記事から
ロシアのサン=ペテルスブール(サント=ペテルブルク)では、近々予定されるサン=サーンス氏の来訪について、待ちこがれた人々のもっぱらの話題となっている。この大作曲家は、指揮者アルトゥール・ニキシュ氏(Arthur Nikisch)との共演で10回ほどの演奏会を行なう。おそらく熱烈な歓迎となるのは間違いない。
出典Crédit: BNF-Gallica #287893 « Le Figaro » le 2 Nov. 1907

[ 追記2 ]「フィガロ」1907年11月8日付の新聞記事から:
アンジェ市で開かれたマックス・ドローヌ氏(Max d’Ollone)主宰による「サン=サーンス音楽祭」(Festival Saint-Saëns)は素晴らしい成功であった。この大作曲家とともに大ピアニストのルイ・ディーメ氏(Louis Diemer, 1843-1919)が美しい音楽の祭典に協賛してくれたのである。「2台のピアノのためのスケルツォ」では作曲家のサン=サーンス氏とともに演奏し、また「ピアノ協奏曲第4番ハ短調」と「アラブ奇想曲」(Caprice Arabe)を独奏し、ディーメ氏はいつものようにその比肩なき名人芸と表現力と魅力の質の高さで聴衆の喝采を博した。彼は友人サン=サーンスと並んで立ち、長い歓呼の声に応えていた。
出典Crédit:BNF-Gallica #287900 « Le Figaro » le 8 Nov. 1907

*参考サイト:PTNA(ピティナ)甦る系譜 ルイ・ディエメ(Louis Diemer, 1843-1919)(和文)
Diemer の読み方は「ディーメ」か「ディエメ」が判断が微妙。フィガロではアクサンéがついていないので、普通に読めば「ディーメ」ではなかろうか。

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-10-31 15:29 | オペラ、音楽、演劇1907-08

スペイン国王一行のパリ訪問

f0028703_18776.jpg1907年10月28日(月)

スペインの国王アルフォンソ13世夫妻が幼い皇太子(アストゥリアス公)を連れて「非公式に」パリを訪れた。同行したのは外務大臣のサラザール閣下、宮廷女官長のサン=カルロス公爵夫人、大貴族のサント=マウロ公爵、侍従長のトレシーラ侯爵、参謀副官のグロス伯爵である。一行は11月17日に英国で行なわれる予定の両シチリア公国のカセルタ伯爵家のカルロとフランス・オルレアン家のルイーズ公女との婚礼に参列するための旅行であり、その途上でパリに立寄ったものである。夜にはエリゼ宮で夕食会が開かれ、芸術的な夕べが催された。その後、エリゼ宮を後にした一行はまっすぐアンヴァリッド鉄道駅に赴き、シェルブールに向けて出発した。シェルブールでは国王の栄誉を称える駆逐艦の演習が行なわれる。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
写真(↑)は、ファリエール大統領に生後5ヶ月の皇太子を会わせるヴィクトリア妃。同妃にとっては今回の英国旅行が里帰りの機会でもあり、赤児を連れてきた理由が納得できる。
f0028703_1873118.jpgまた今回のフランス立寄りには、外務大臣のサラザール(Allen de Salazar)や参謀副官のグロス(Grosse)が同行しており、モロッコで展開中の軍事作戦で仏西が協力して行動している点も見逃せない。
右(→)画像は、射撃を愛好し、自信もあるアルフォンソ国王が滞在のわずかな時間をさいてその腕前を披露している。
スペインの皇太子は伝統的にイベリア半島北部のアストゥリアス公爵領(Principado de Asturias)を受け、その名を称している。英国のウェールズ公(Prince of Wales)と同様である。

**これまでの関連記事france100.exblog: スペイン王室で長子誕生(1907.05.10)
[PR]
by utsushihara | 2007-10-28 18:04 | フランス政治社会1907-08

ヴァリエテ座のイヴェット・ギルベール「預けた恋」

f0028703_1452291.jpg1907年10月24日(木)

ヴァリエテ座ではルイ・アルチュス氏作の3幕劇「預けた恋」(L’Amour en banque)が大評判となっている。往年のカフェ・コンセールの大スター、イヴェット・ギルベール女史とマックス・デアリー氏の2人が共演し、とりわけ愉快ですぐれた舞台となっている。出演者は他にブラッスール氏、プランス氏、ディエテルル嬢、ルベルジー嬢などである。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907
出典Crédit:BNF-Gallica #287894 « Le Figaro » le 2 Nov. 1907
画像 Crédit d’image : ©BNF-Gallica : Yvette Guilbert – Strand Enoc. D’après une photo Cautin-Berger

f0028703_17502610.jpg[ Ψ 蛇足 ]
イヴェット・ギルベール(Yvette Guilbert, 1865-1944)は伝説的な女流シャンソン歌手で、ムーラン・ルージュやディヴァン・ジャポネなどのカフェ・コンセールで独特の黒い長手袋とV字の胸開きのドレスで歌い、人気を集めた。彼女の絶頂期は1890年代の10年余りで、画家ロートレックが彼女の絵やデッサンを何枚も残している。1900年以降は病気がちになりながらも歌唱活動を続け、この前年には米国公演も行なっている。上記の記事ではすでに「往年のスター」(ancienne étoile du café-concert)という表現になっている。しかし第2次大戦前までは歌の作曲や教育も含め、多方面で活躍し続けている。
この「病気」についてはどういうものかは書かれていないが、2006年にロン=ポワン劇場に架けられたエレーヌ・ドゥラヴォー(Hélène Delavault)作の新作劇「イヴェットとジークムント~精神分析の黒手袋」(Yvette et Sigmund, ou les gants noirs de la psychanalyse)で、彼女とウィーンの精神分析学者フロイトとの親しい交友と対立とを描いているという点で、精神的なものだったかもしれない。

もう一人のマックス・デアリー(Max Dearly, 1874-1943)については、カフェ・コンセールで活躍した歌手、俳優だったという他にまとまった情報が未入手である。
また作者のルイ・アルチュス(Louis Artus, 1870-1960)については別途コメントしたい。

*参考サイト:
(1)Du Temps des cerises aux Feuilles mortes(「桜の花の時」から「枯れ葉」まで)Un site consacré à la chanson française :Yvette Guilbert (仏語)イヴェット・ギルベール
(2)Ruedetheatre; Yvette et Sigmund ou les gants noirs de la psychanalyse新作劇評(仏語)「イヴェットとジークムント」

**これまでの関連記事france100.exblog:フェミナ劇場の豪華コンサート(1907.05.07)

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-10-27 17:47 | オペラ、音楽、演劇1907-08

汽船「シューヴィック」号の半分ずつの進水式

f0028703_1843625.jpg1907年10月26日(土)

今年3月に英国南部リザード岬で嵐に遭って難破したホワイト・スター汽船の「シューヴィック」の事故のことは記憶に新しいが、船体を2つに分断して港に曳航されたあと、短期間で修復され、このほど進水式が2度に分けて行なわれた。まず新しく造られた船首部分が、次いで修復後の船尾部分が行なわれ、互いに接合されることになる。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
シューヴィック(Suevic)はゲルマン民族の一部族の名前で、ライン川流域に居住していた。
ホワイト・スター(白星)汽船(White Star Line)は英国の大手汽船会社で(2年後タイタニック号を発注)この船は1901年に英豪航路の定期船として就航していた。当時最大級の12500tの船であった。
1907年3月17日午後10時半頃、英国プリマス港を目前に航行中のシューヴィック号は強い南西風による時化に遭い、リザード岬(Lizard)の沖合2kmの岩礁に衝突してしまった。乗客乗員あわせて524名は遭難するところであったが、船の救難を告げる汽笛を聞いて沿岸の村々から救援ボートが出され、夜の闇と濃霧にもかかわらず16時間にわたる村民男女の献身的な懸命の救援活動により、奇跡的に一人の犠牲者もなく救出することができたのである。
f0028703_18424047.jpg
座礁した船体はこれまで例のない方法が取られた。損傷のほとんどない船尾を存続させることに決め、ダイナマイトで爆破して半分に切断し、損傷の激しい船首部分は海上に放棄され、船尾部分はサザンプトン港に曳航され修復を受けた。(←)写真は切断直後の船尾部分である。
上記の進水式後の接合から1908年1月の再就航までも工事の進行は信じられないほどの速さであった。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(英文)SS Suevic
(2)The Independent; SS « Suevic » - The greatest sea rescue(英文)シューヴィック救難100周年
[PR]
by utsushihara | 2007-10-26 18:44 | 科学、軍事、海事1907-08

ファルマンが飛行機で滑空飛行新記録達成(771m)

f0028703_17364029.jpg1907年10月26日(土)

10月26日、アンリとモーリスのファルマン兄弟はパリ南西イッシー・レ・ムリノー市にある軍事教練場の草地で滑空飛行の世界新記録771mを達成した。この記録は1年近く前にサントス=デュモン氏によって作られた220mをはるかに上回り、パリ航空クラブのドゥッシュとアルシュデック両氏によって提供された5万フランの賞金がかかった飛行大賞(Grand Prix de l’Aviation)をほぼ手中に収めたと見なされている。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
1年前のサントス=デュモンの新記録樹立のあと、彫刻家のレオン・ドラグランジュ(Léon Delagrange, 1873-1910)はヴォワザン兄弟(Les Frères Voisin)に新しい飛行機製造を依頼し、当年2月に飛行を試みたが失敗に終った。またサントス=デュモンも記録の更新を狙ったが、こちらも失敗していた。
自転車競技のエースとして名をはせたアンリ・ファルマン(Henri Farman, 1874-1958)と弟のモーリス・ファルマン(Maurice Farman, 1877-1964)は、ちょうど改良型を完成したばかりのヴォワザン兄弟から飛行機を購入して9月末から試験飛行を重ねており、このあとも次の目標である周回飛行の実現に向けて試験を続けた。
アンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルト(Henri Deutsch de la Meurthe, 1846–1919)とエルネスト・アルシュデック(Ernest Archdeacon, 1863-1950)はパリ航空クラブの設立メンバーである。

*参考サイト:
(1)Hargrave – The Pioneers Aviation & Areromodelling : Henry, Maurice and Richard Farman(英文)
(2)Wikipedia(仏語)Ernest Archdeacon(わざわざ仏語では「アルシュデック」と発音する、と注記がある)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ドラグランジュとサントス=デュモンの飛行機(1907.02.27)
(2)サントス=デュモンの飛行新記録(1906.11.12)
(3)飛行船「パリ市」の初飛行(1906.10.17) アンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルトについて
[PR]
by utsushihara | 2007-10-25 17:38 | スポーツ、乗物、探検1907-08

第2回ゴードン・ベネット杯飛行船レース

f0028703_232618100.jpg1907年10月21日(月)

今年のゴードン・ベネット杯は会場を米国中部のセント・ルイスに移して10月21日開催された。優勝したのはドイツの飛行家オスカー・エベルレー(Oskar Eberlöh)氏で、米国大西洋岸の着地まで1403.55km、所要時間は41時間であった。
フランスから参加したアルフレッド・ルブラン(Alfred Leblanc)氏は、優勝者から数キロ手前の2位であったが、滞空記録の41時間2分は世界記録となった。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

f0028703_23281177.jpg[ Ψ 蛇足 ]
米国の新聞社主ゴードン・ベネット(Gordon Bennett, 1841-1918)の優勝杯の提供によって1906年9月にパリで開催された第1回のレースについては下記の記事リンクを参考されたい。
このレースの規約では優勝者の国が次回の開催地となる。前回優勝者の米国のフランク・ラームは健康上の理由で不参加となった。このときも観客数は30万人を超え、混乱を避けるため軍隊の派遣が要請されたという。
画像(↑)が優勝したドイツのエベルレーと2位フランスのルブランである。(→)

*参考サイト:
(1)The Second Gordon Bennett Race, 1907Start: St.Louis, "Forest Park", October 21.
(2)Wikipedia(仏語)La coupe aéronautique Gordon Bennett

**これまでの関連記事france100.exblog: 第1回ゴードン・ベネット杯飛行船レース(1906.09.30)
[PR]
by utsushihara | 2007-10-24 23:28 | スポーツ、乗物、探検1907-08

売国奴ウルモ中尉の逮捕

f0028703_16105995.jpg1907年10月23日(水)

国家にそむき、軍事防衛に関する機密書類を外国に売ろうとしていたウルモ海軍中尉は、10月23日トゥーロン郊外のオリウル峡谷で逮捕された。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907
画像 Crédit d’image : ©Collection Vanhoucke; Cartes Postales Anciennes ; Les Gorges Ollioules et la roche taillée

[ Ψ 蛇足 ]
逮捕されたシャルル=バンジャマン・ウルモ(Charles-Benjamin Ullmo, 1882-1957)はリヨンのユダヤ系工場経営者の息子として生まれた。家業を継いでほしいという親の意向に反して海軍に入り、20歳で士官になった。駆逐艦「キャラビン」(Carabine)に乗り込んで、遠くインドシナまで航海した。そこで阿片に溺れ、帰国後トゥーロンで勤務しても麻薬を断ち切ることが出来ず、せっかく親から相続した莫大な遺産も麻薬と賭博ですり減らすこととなった。
さらにリゾン(Lison)という愛称で呼んだ若い娘マリー=ルイーズ・ウェルシュ(Marie Louise Welsch)の美貌にすっかりまいって同棲し、気ままな彼女の派手な金遣いのせいで生計が困窮する事態に至った。
この事件を起こしたときは彼もまだ25歳であった。上官の留守中に金庫を開け、中に入っていたフランス地中海艦隊の機密文書を写真に撮り、休暇を願い出てベルギーに赴き、ドイツ軍の情報機関に売りつけようとした。しかし要求した金額が法外であったため、ドイツ側からはその情報がすでに入手済みだとして断られる結果となった。
f0028703_16115593.jpg困惑した彼は、今度はフランスの海事省に話を持ちかけた。しかじかの書類が手元にあるが、国外流出させたくなければ取引したいという内容であった。政府は最初悪ふざけと思ったが、慎重に判断し、指定された南仏の地方紙の広告欄を介して連絡をとった。犯人の方はピエール、政府の方はポールという名前を使うことになっていた。
交渉が成立し、引渡しの日は10月23日の昼下がり、場所はオリウル峡谷と決まった。その日無用心にも街道をノコノコとやってきたウルモは、待ち伏せしていた国家警察に逮捕されたのである。
(→)画像右のオリウル峡谷(Les Gorges d’Ollioules)は軍港トゥーロンからマルセイユに通じる裏街道の山道にあたる。

*参考サイト:
(1)Le Petit Journal, supplément illustré le 10 Novembre, 1907 「プチ・ジュルナル第886号」
※表紙の見出しには「売国奴はくたばれ!ウルモの行為はフランス全体の憤激を引き起こした」とある。
(2)L’Affaire Benjamin Ullmo(仏語)ウルモ事件

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-10-23 16:09 | 科学、軍事、海事1907-08

ニューヨークで金融パニック発生(1907)

f0028703_23234590.jpg1907年10月22日(火)

ニッカボッカー信託銀行の破綻によって米国の金融市場には動揺が走っている。10月22日には貯蓄銀行の預金者たちの間でパニックが発生し、すべての金融機関に不安に駆られた群衆が押しかけた。たとえ金(きん)が足りなくなったとしても、米国の銀行は英国やドイツから取り寄せるだろう。この大混乱の続報については次号を待たれたい。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ちょうど100年後の同月同日にも米国のサブ・プライム・ローン問題で混乱が生じている。経済新聞では「ブラック・マンデーから20年」の特集記事も出ているが、(経済の)歴史は周回するのだろうか?
画像は、 シャルル・ユアール(Charles Huard, 1875-1965)の「ニューヨーク見たまま」(New-York tel que je l’ai vu, 1906)中の挿画。(1906.10)
http://france100.exblog.jp/3582581/

*参考サイト:Wikipedia(英文)Knickerbocker Trust Company(ニッカボッカー信託銀行)
[PR]
by utsushihara | 2007-10-22 23:24 | 各国事情1907-08

詩劇「王様のマント」

f0028703_1553196.jpg1907年10月22日(火)

ポルト・サン=マルタン劇場の今シーズンの幕開けは、ジャン・エカール作の詩劇「王様のマント」である。付帯音楽はジュール・マスネが作曲した。残虐好みの王子クリスチァンが悪夢のような出来事のあとで善良な王様になるという話である。左記(←)はフィガロ紙のド・ロスク氏による舞台のイラストで、手前がクリスチァン役のエドゥアール・ド・マックス、中央奥が道化役のジャン・コクラン、右手がドリヴァルである。出演は他にマルト・メロ女史、ペリコー氏などで、各紙は一応好意的な批評となっている。
f0028703_15533480.jpg
画像右(→)は7年間にわたりこの劇場の支配人を続けているアンリ・エルツ氏である。氏はまたコクラン=エネの海外公演も手がけている。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ジャン・エカール(Jean Aicard, 1848-1921)は南仏トゥーロン出身の劇作家、小説家。19世紀末にはそれなりの地位を確立していたようで、先般のアカデミー会員補充選挙の立候補者の中にも名前が挙げられている。
作曲家のジュール・マスネ(Jules Massenet, 1842-1912)は名実ともにフランス音楽界の第一人者となっていた頃である。この「王様のマント」(Le manteau du Roi)4幕5景の付帯音楽は今ではほとんど演奏されていない。
エドゥアール・ド・マックス(Edouard de Max, 1869-1924)はこれまでジィドの日記にも頻出する俳優である。ポルト・サン=マルタン劇場を中心に活躍した。支配人のアンリ・エルツ(Henry Hertz)についての詳細は不明。

*参考サイト:Les Amis de Jean Aicard ジャン・エカール友の会(仏語)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)マスネの新作「テレーズ」の初演(1907.02.16)
(2)マスネの歌劇「アリアーヌ」の初演(1906.10.31)
(3)ポルト・サン=マルタン劇場で「ノートル・ダム・ド・パリ」の再演
(1907.01.28)
[PR]
by utsushihara | 2007-10-21 15:51 | オペラ、音楽、演劇1907-08

植物園にベルナルダン・ド・サン=ピエールの彫像完成

f0028703_2235157.jpg1907年10月21日(月)

10月21日、パリの国立植物園に作家のベルナルダン・ド・サン=ピエールの彫像が完成した。制作者はルイ・オルベックである。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907
画像 Crédit d’image : ©Christophe Moustier, 2006 – Wikimedia commons; Statue of J.H. Bernardin de Saint-Pierre

f0028703_22352414.jpg[ Ψ 蛇足 ]
ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエール(Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre, 1737-1814)は18世紀の作家、博物学者である。最初、軍事技師として働いたが軍紀違反により失職し、求職のため欧州各地を転々し、ついには技師としてインド洋の小島モーリシャスへ赴いた。3年後パリに戻ったが、方々からの借金暮らしであった。友人のジャン=ジャック・ルソーの勧めで主著「自然の研究」(Études de la nature)を書き、著作家としての成功をかち得た。有名な小説「ポールとヴィルジニー」(Paul et Virginie)はその一部の挿話であるが、遠く文明から離れた絶海の孤島で育った少年少女の純愛物語は、当時もてはやされたルソーの自然回帰思想の影響もあって大いに読み広まった。彼は、1791年に博物学者ビュッフォンの後任として植物園(Jardin des plantes)の監督官となった。

彫像の制作者ルイ・オルベック(Louis Holweck, 1861-1935)についてはほとんど情報がない。植物園のこの記念像は丁寧な造作で、台座の上に物思いにふけるベルナルダンが椅子にすわり、基盤には語り合うポールとヴィルジニーの姿が見える。

*参考サイト:
(1)ARIKAH:Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre ベルナルダン・ド・サン=ピエール小伝(仏語)
(2)Alpha Villa; Guide ile Maurice, Paul et Virginie モーリシャス島の観光案内サイト「ポールとヴィルジニー」のあらすじ(仏語)

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-10-20 22:37 | 美術、彫刻1907-08