フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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フランスの義務教育制度25周年

f0028703_22112877.jpg1907年6月30日(日)

義務教育法施行の25周年を記念するさまざまな行事が6月30日各地で催されたが、とりわけこの法律成立の推進者であったジュール・フェリーの記念碑の起工式がチュイルリー公園で行なわれた。一口1スウの全国的な募金は150万人の生徒の署名を集め、その名簿を持って400人の児童が行列の先頭を将来彫像が設置される予定のパリ市役所前まで行進した。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907
画像 Crédit d’image : © Photo RMN - ©François Vizzavona/Maryse El Garby
Gustave-Frédéric Michel : Monument à Jules Ferry (1832-1893), destiné à être érigé à Paris; aujourd'hui exposé dans le Jardin des Tuileries

[ Ψ 蛇足 ]
ジュール・フェリー(Jules Ferry, 1832-1893)は1879年2月から1882年7月まで文部教育相としてあるいは首相として数多くの教育関連法を成立させた。その中でも義務教育に直接関係するものは「初等教育の無償化」(Gratuité de l'enseignement primaire, 1881.06.16)と「教育の無宗教性と義務教育に関する法律」(Loi relative à l'obligation et à la laïcité de l'enseignement, 1882.03.28)が挙げられる。上記の記念行事としては後者の法律の施行から数えるとちょうど25年になる。
画像は、彫刻家キュスターヴ=フレデリク・ミシェル(Gustave-Frédéric Michel, 1851-1924)の手になるジュール・フェリーの記念碑。完成した1910年のサロンに展示したときのものと思われる。現在はチュイルリー公園の一角に置かれている。

**これまでの関連記事france100.exblog: 政治家ジュール・フェリーの記念碑(1906.12)

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by utsushihara | 2007-06-30 22:09 | フランス政治社会1907-08

「野外生活」杯パリ漕艇レース

f0028703_17331896.jpg1907年6月30日(日)

6月30日ヌィイで行なわれた「野外生活」杯漕艇レースにおいて、4人漕ぎ自由装備の部門で、下セーヌ水上スポーツ協会(Société nautique de la Basse-Seine)のチームが優勝した。(←画像)
同日の一人漕ぎパリ大賞は、ベルギー人のエルマン(Hermans)が獲得した。

f0028703_17334494.jpg
7月6日の英国ヘンレー(Henley)で開催されたチャレンジ・カップにおいては、ベルギーのゲント漕艇チームが一艇身差でオクスフォードのクライスト・チャーチ・チームを破って2度目の優勝に輝いた。(画像→)フランス人漕手のチームはヘンレーへの出場権をまだ得ていない。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907

[ Ψ 蛇足 ]
スポーツ雑誌「野外生活」(La Vie au Grand Air)はボート競技にも冠杯を出している。ヌィイ(Neuilly-sur-Seine)はセーヌ川がパリを出て蛇行して郊外ムードンからブローニュの森沿いに北上する直線コースあたりと思われる。アルジャントゥイユ(Argenteuil)のヨットレースの場所はここからさらに下流に当たる。
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by utsushihara | 2007-06-29 17:31 | スポーツ、乗物、探検1907-08

「タンホイザー」についての講演会

f0028703_13445296.jpg1907年6月

フィツジャム伯爵(画像←)は熱烈なワーグナー礼賛者であるが、真剣な聴衆を前にした講演において、ワーグナーの劇作品の中で最も意味深いのはおそらく「タンホイザー」であろうと語った。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907

*アンリ・ビュッセル著『パリ楽壇70年』、池内友次郎・訳編、音楽之友社(1966.10)刊より引用。
1907年6月27日(木):画家のエルネスト・エベールが、オペラ座へ「ファウスト」を聴きに来た。彼は有名な政治家のエミール・オリヴィエとともに私を翌日の食事に招待する。オリヴィエは、リストの女婿で、ワーグナーの義弟であり、この二人の音楽家のことを話すときは、この上もなく興味がある。前者は極めて寛大であり、後者は心底からエゴイストであった由!…彼は、また、第二帝政時代の終焉にかんする思い出のいくつかを語ってくれる。特に、ひどい醜聞となって終った「タンホイザー」の初演のことを話す。ナポレオン三世は、(中略)ワーグナーの失敗を予感していたのだが、ウジェニー皇后とオーストリア大使の影響力が決定的だったという。いたましいその夜は、エミール・オリヴィエの言うところによると、仏独関係に極めて重苦しい結果をもたらしたらしい。

画像 Crédit d’image : © Photo RMN - ©Franck Raux
Ernest Hébert (1817-1908) Sainte Amélie;Musée Ernest Hébert, Paris
画像 Crédit d’image : © Photo RMN - ©Jean-Gilles Berizzi
Auteur de photo : Etienne Carjat (1828-1906); Emile Ollivier en pied, ministre 1870

[ Ψ 蛇足 ]
「タンホイザー」のパリ初演は1861年3月13日のことである。
フィツジャム伯爵(Comte de Miramon Fitz-James, 1875-1952)はマルセイユ出身の貴族で、名前からすると先祖は英国人かもしれない。音楽評論家であり、パイプオルガンに関する評論も多い。
f0028703_13455028.jpg
エルネスト・エベール(Ernest Hébert, 1817-1908)はアルプスに近いイゼール県出身の画家。ローマ大賞を獲得してイタリアに遊学し、のちにローマのフランス・アカデミーの院長にもなった。伝統的なアカデミーの技法によるナポレオン3世などの宮廷や貴族・有名人の肖像画、風景画を残している。レジオン・ドヌール大十字章も受けている。画像(→)はオペラ「ファウスト」の女主人公マルグリートを思わせる清楚な作品「聖女アメリ」(Sainte Amélie)である。
f0028703_1346982.jpg
エミール・オリヴィエ(Émile Ollivier, 1825-1913)は弁護士、作家、政治家(元首相)、アカデミー会員。(←画像)
マルセイユ生まれ、代議士の息子、パリで法律を学ぶ。南仏の警察や県知事の職を経て、パリで弁護士として活躍し、巧みな弁論で評価を高めた。リストの娘の一人と結婚していたが、死別して政治家の娘と再婚した。ナポレオン3世の第2帝政時代に内閣を運営した。当時は82歳になろうとしていた。歴史の証人である。

*参考サイト:ビブリオテカ グラフィカ(BIBLIOTHECA GRAPHICA): 西洋挿絵見聞録(産経新聞 / SANKEI EXPRESS連載)その他、のサイトから;ファンタン=ラトゥールの石版画「タンホイザー」(2006.07.29)
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by utsushihara | 2007-06-27 13:45 | オペラ、音楽、演劇1907-08

1907年春のサロン展(12) リタ・デル・エリド嬢

f0028703_15564985.jpg1907年6月

ベルナール・ブーテ=ド=モンヴェル氏は父親から最も創意に富んだ才能を受け継いでいる。彼は毎年のように自然で優美な作品で楽しませてくれ、その装飾的な斬新さは人々を引きつけている。ここで2頭立ての馬車を駆っている「リタ・デル・エリド嬢」(Mlle Rita del Erido)は、よく知られたサーカスの曲馬師である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.23; MAI 1907
画像 Crédit d’image : © Indianapolis Museum of Art; Collections : Provenance research project
Bernard Boutet de Monvel (1884-1949) : Rita del Erido (exposé au Salon de la Société Nationale des Beaux-Arts de 1907)

f0028703_15571811.jpg[ Ψ 蛇足 ]
作者のベルナール・ブーテ=ド=モンヴェル(Bernard Boutet de Monvel, 1884-1949)については、半年前に国家買上げとなった美術品の記事でも「快復期の老婦人」という作品を紹介している。スーラの点描画の雰囲気を受け継いだような洒落た軽やかな味わいがある。この時彼はまだ23歳の新進画家で、将来人気画家となる予感を思わせる。上記雑誌のサロン展特集記事では画像(←)があまりにも不鮮明で何を描いたか判別できなかった。しかし、まるで小説の主人公のような女性の名前を手がかりに根気強く捜索してみると現在の綺麗な画像が出てきて比較することができた。 (米国インディアナポリス美術館蔵)
父親もやはり画家で、ルイ=モーリス・ブーテ=ド=モンヴェル(Louis Maurice Boutet de Monvel, 1851-1913)といい、伝統的なアカデミーの平凡な画風ながら親子で活躍していたようだ。

リタ・デル・エリド(Rita del Erido)はドイツ生まれで、本名はマルガレータ・リープマンといい、サーカスの曲馬師および舞台俳優として有名であった。シャトレ座の劇でカウボーイ役で出て、舞台の上を激昂した馬で駆け回ったという逸話もある。数年後、作家のアンリ・デュヴェルノワ(Henri Duvernois, 1875-1937)と結婚する。

*参考サイト:SYNOPSIS, Un grand écrivain des Années Folles :(仏語)Henri Duvernois par Laurent François
**これまでの関連記事france100.exblog:国家買上げ芸術品の展示(1906年)「快復期の老婦人」(1906.12)

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by utsushihara | 2007-06-26 15:51 | 美術、彫刻1907-08

フェミナ劇場のバレエと女性歌手

f0028703_17524093.jpg1907年6月

(1)画像(→)はフェミナ劇場で行なわれた「フェミナ」誌の予約購読者のための昼公演(マチネ)に出演した名手ルガ氏(Legat)とペテルブルク帝国劇場のエトワール・ダンサー、ヴェラ・トレフィロフ嬢(Vera Trefiloff)である。

f0028703_17525843.jpg(2)また(←)オペラ座の新人エトワール・ダンサーとなったナターシャ・トルアノヴァ嬢(Natacha Trouhanova, 1886-1956)はクリュスティヌ氏(Yvan Clustine)とともにそのとても優美な演技を見せ、いずれも大きな喝采を博した。

f0028703_17154712.jpg(3)ドイツの有名なドラマチック・ソプラノ歌手のエリーゼ・クチェラ女史(Elise Kutscherra)は、そのニュアンスの理解と表現がとても難しいドイツ歌曲(リート)の傑出した歌唱で賞賛を受けた。(→)

f0028703_1753221.jpg(4)イスナルドン女史は、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」役をつとめ、またワーグナーの「ニュルンベルクの歌匠たち」(Les Maîtres chanteurs)のエヴァ役などで有名だが、今回はレオ・ドリーブ作の歌劇「アリオスト」(Arioste)の中のアリアを聞かせてくれた。彼女は現代における最も感動的な悲劇歌手の一人である。(←)

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907
画像 Crédit d’image : © American History 1900 to 1930s - Elise Kutscherra
old-picture.com/american-history-1900-1930s-index-718.htm

[ Ψ 蛇足 ]
上記の4人の芸術家のうち、詳しい活躍の記録が残っているのは(2)のナターシャ・トルアノヴァ(Natacha Trouhanova, 1886-1956)だけである。彼女は当時やっと20歳になったばかりの新人エトワールであり、5月に行なわれたリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」のパリ初演に際して、主役のソプラノ歌手エミー・デスティン(Emmy Destinn, 1878-1930)の代役として「七つのヴェールの踊り」(Danse des sept voiles)を踊った。後年、ポール・デュカのバレエ「ペリ」(Péri)を踊っている。
(4)のイスナルドンもサロメを歌ったと書いているが、パリ公演はドイツ系の歌手だけだったので、どこのことかは不詳である。

*参考サイト:
(1)Trouhanova (ビアリッツの劇場におけるトルアノヴァ:仏語)
(2)Richard Strauss' SALOME RECORDINGS(サロメ公演と録音の歴史:英文)
**これまでの関連記事france100.exblog:オペラ「サロメ」のパリ初演(1907.05.06)

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by utsushihara | 2007-06-25 17:10 | オペラ、音楽、演劇1907-08

競馬フランス大統領賞レース

f0028703_2252012.jpg1907年6月24日(月)

6月24日サン=クルーで行なわれたフランス共和国大統領賞レース(速歩=トロット)において、ラルエ氏(Lallouet)所有のエステル号(Esther)が優勝した。エステルの父馬はユガズ1世号(Ukaze I)、母馬はフォーヴェット2世号(Fauvette II)である。2着はエクレルール(Eclaireur)、3着はエヌ=ゴショ(Ene-Gocho)であった。(画像→)

f0028703_2255485.jpg
話は前後するが、これに先立つ6月16日にロンシャン競馬場でパリ・グランプリ・レースが行なわれ、ロートシルト男爵所有のサン=スーシ2世号(Sans-Souci II)、(父馬ロワ=ソレイユ号、母馬サヌティモニー、ミレン・ヘンリー騎乗)が優勝した。2着はモルダン(Mordant)、3着はピンポン(Ping-Pong)だった。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907
画像 Crédit d’image : © Antosch & Lin; http://www.stamps-auction.com/
Grand Prix 1907. La Tribune Presidentielle de Longchamps. Le President Fallieres, le Roi et la Reine de Danemark.

[ Ψ 蛇足 ]
(←)画像は、ロンシャン競馬場の貴賓席で観戦するデンマーク国王夫妻とファリエール大統領。
昔の馬名も面白いものがある。ユカズ(Ukaze)はロシア皇帝の勅命、エクレルール(Eclaireur)は偵察、サン=スーシ(Sans-Souci)は「憂い無し」、ロワ=ソレイユ(Roi-Soleil)は「太陽王」と強そうである。
 
**これまでの関連記事france100.exblog:デンマーク国王夫妻のパリ訪問(1907.06.14)
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by utsushihara | 2007-06-24 22:04 | スポーツ、乗物、探検1907-08

オールネー=スー=ボワの田園劇場の開演

1907年6月23日(日)
f0028703_18413583.jpg
6月23日、オールネー=スー=ボワにおいて、デュジャルダン=ボーメツ、デストゥルネル・ド・コンスタン両氏の主宰による田園劇場の開演式が行なわれた。カチュル・マンデス夫人の詩をコメディ・フランセーズ座のジョルジュ・グラン氏が朗唱したのを皮切りに、アンドレ・シェニエ作の田園詩「自由」(La Liberté)、ジュール・ルナールの「牧人の歌」(Bucoliques)、さらにジュール・プランセ氏の韻文田園劇「メシドール」(Messidor)が上演された。画像(←)は「牧人の歌」の合唱の場。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907
画像 Crédit d’image : ©CMN: Archives photographiques (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture)

[ Ψ 蛇足 ]
オールネー=スー=ボワ(Aulney-sous-Bois)はパリ北方郊外の田舎町で、もし隣接地ロワッシーにド=ゴール空港が建設されなかったら、100年前と同じような野原が広がっていたかもしれない。スー=ボワは森の下草のはえた場所の意味で、古くから広大なボンディ(Bondy)の森が繁っていた。

f0028703_2340463.jpg「メシドール」(Messidor)とは共和暦の収穫月のことで6月後半から7月に該当する。作者のジュール・プランセ(Jules Princet, 1873-1924?)は地元の作家らしく、野外の劇場(Théâtre aux Champs)を運営し、「オールネー=スー=ボワの歴史」(Histoire d’Aulnay-sous-Bois)も書いている。別の記録では1919年から町長を務めたともある。画像(→)は「メシドール」中の魔法使いの場。
f0028703_18372491.jpg
「にんじん」(Poil de carotte)の作者で有名なジュール・ルナール(Jules Renard, 1864-1910)は膨大な日記も残しているが、このとき43歳で、半年前の12月の日記にジュール・プランセと話をしたことを書いている。上記の上演についてはこの日の日記以降には何も書いていない。彼の日記には早世を予感していたような諦観じみた記述が多く見られる。(画像←)

***ルナールの日記、1906年12月17日(月)
ジュール・プランセ。何も進展しない長たらしい会話にいやになる。《お金をかせぐために》面白いことをしようと企てるこの御仁の目論見をそう簡単に理解することはできない。(…)この34歳の作家は、自分の《田園劇場》のために私の「牧人の歌」を芝居として上演したいと考えるほど気に入ってくれているが、「にんじん」も他の戯曲も本も読んだことはないのだ。(写原試訳)
Jules Princet. Ennui de ces longues conversations où rien n'avance, où l'on n'arrive pas assez vite à connaître le dessein de ce monsieur qui se propose de faire des choses intéressantes « pour gagner de l'argent ». (…)Cet homme de lettres de trente-quatre ans, qui aime les Bucoliques au point de vouloir les mettre en pièce pour son Théâtre aux Champs, n'a pas lu Poil de Carotte, ni la pièce, ni le livre.
*** Journal de Jules Renard; le 17 décembre, 1906
readme.it by SoftwareHouse.it
http://www.readme.it/libri/4/4069014.shtml

***ルナールの日記、1907年6月26日(水)
「死が普通の状態なのだ。人は生を当てにし過ぎている。」
La mort est l'état normal. On compte pour trop la vie.
*** Journal de Jules Renard; le 26 juin, 1907

*参考サイト:
(1)GeneaNet「オールネー=スー=ボワの歴史」(Histoire d’Aulnay-sous-Bois)と著者紹介(仏語)
(2)Aux Vignobles et Etiquettes(ワイン・ラベルのコレクション・サイト)Côtes du Rhône, Guide Oenographilique; Le Calendrier Republicain; Juin=Messidor 共和暦6月メシドール(収穫月)
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by utsushihara | 2007-06-23 18:34 | オペラ、音楽、演劇1907-08

南仏の騒乱に軍隊投入

f0028703_22412690.jpg1907年6月19日(水)~25日(火)

南仏におけるブドウ栽培農家による一連の大規模な抗議行動は、政府がやむなく公職者を保護し、法秩序を守るために軍隊を派遣する策に出たことでかえって過激な様相となった。
6月19日にはナルボンヌ市長のフェルール医師(Dr. Ferroul)が逮捕された。暴徒化した民衆は市庁舎の前にバリケードを築き、オード県知事のオバネル氏(Aubanel)らのいる郡庁舎を包囲した。憲兵隊と思われる兵士が群集に発砲し、竜騎兵が追い立てた。死者が2名出た。
モンペリエではフェルール氏とアルジェリエ委員会の3人が収容されている裁判所の前で抗議行動が行なわれ、数人が負傷した。
f0028703_22405751.jpg6月20日ナルボンヌでは、警察に対する一部の民衆の反感がますます募る状況となった。国家警察の刑事の一人グロッソ氏(Grossot)は滅多打ちに遭い、即席の裁判で死刑が宣告され、猛り狂った民衆によって運河に放り込まれた。新たな介入が開始され、銃撃が行なわれ、5人の死者が出たが、そのうちの1人は20歳の娘セシル・ブレル嬢(Cécile Bourrel)だった。犠牲者が倒れた場所には臨時の墓標が作られた。(画像←)ペルピニャンでは、暴徒は市庁舎を略奪した。
6月21日、ナルボンヌでは犠牲者の葬儀が厳かに執り行なわれた。その前夜には第17歩兵部隊の軍務放棄が起きている。

6月23日、これまでの騒乱のすべての発端となった「南仏の苦しみの贖い主」マルスラン・アルベールは、しばらく身を隠していたのが、突然内務省にクレマンソー首相との面会に訪れた。首相はこの機会を利用して極秘の使命を彼に託した。
帰郷したマルスラン・アルベールは民衆を前にしてクレマンソー首相との会見の経過報告を行なった。しかしその翌日(25日)から彼は法の定めに身をゆだねることとなった。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907
f0028703_22403661.jpg
[ Ψ 蛇足 ]
この事件は民衆の政治活動の中でも大規模な表われとなったものだが、暴徒化した段階から統率の取れた運動ではなくなっていった。記事中で不思議なのは、首謀者とされたマルスラン・アルベール(Marcellin Albert, 1851-1921)だけが尊称なしで(つまりMonsieur、英語ならMr. が付かないで)記述されていることである。
*参考サイト:1907 - la Révolte des Vignerons(1907年のブドウ栽培農家の反乱:仏語)
**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)南仏ブドウ栽培農家の危機(1907.05.12)
(2)ブドウ農産の危機(1907.06.09)

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by utsushihara | 2007-06-22 22:39 | フランス政治社会1907-08

日米の海軍力の増強競争

f0028703_18202952.jpg1907年6月

太平洋地域における日米間の対立(Le conflit japono-américain)を抑制するためには外交上の課題が山積している。かたや日本がドイツから高性能の大砲を購入すれば、他方で米国は海軍力の強化に急いで取組んでいる。6月には6隻の駆逐艦を完成させ、試験と称して大西洋岸沿いの300kmの航行レースに参加させている。
日本側では太平洋における戦艦の新装に奔走している。セバメト提督はその質問に答えて、日本は準備が出来ている、それに対して米国は太平洋側に海軍基地を持っていない、さらに海軍士官の育成についてもまだおぼつかなさが見られる、と語っている。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.27; AVRIL 1907
出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907

[ Ψ 蛇足 ]
画像(→)は「ジュセトゥ」1907年4月号の特集記事「日本対アメリカ」(Japon contre Amérique)での軍事力比較の図式である。太平洋戦争への動きはすでにこの頃から芽生えていた。
日本海軍のセバメト(Saibameto)提督とは誰だかわからない。

*参考サイト: NavSource Online: 駆逐艦(Destroyer) Photo Archive : Destroyers at the Norfolk Navy Yard, Va, Autumn, 1907(英文)
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by utsushihara | 2007-06-21 18:18 | 科学、軍事、海事1907-08

第17歩兵部隊の反乱

f0028703_1452647.jpg1907年6月20日(木)

6月20日の夜、南仏アグドに駐屯する第17歩兵部隊の約400名の兵士が武器庫を略奪したのち、任務を放棄した。太鼓と喇叭の音に合わせて彼らはベジエに向けて行軍し、翌21日には駆けつけた親族や友人の見守る中、市内のポール・リケ大通りに宿営した。バイユー将軍の取り成しにより、彼らは個々に処罰されないという約束で復命することとなり、アグドに帰還した。数日後、彼らは武装解除され、チュニジア南部にあるガフサの駐屯地に向けて引率されて行った。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.31; AOÛT 1907
f0028703_14522829.jpg[ Ψ 蛇足 ]
アグド(Agde)はラングドック地方の港町カップ・ダグド(Cap d’Agde)の中心の村である。彼らの反乱行動は、その頃この地方一帯でワイン栽培農家の騒動に呼応しようとしたものらしいが、詳細は不明である。ベジエ(Bézier)は、ナルボンヌとモンペリエの中間に位置する小都市(人口7万人)
画像(↑)はアグドから出る歩兵たち、(→)は南チュニジアのガフサ(Gafsa)の風景である。

*参考サイト: Le site officiel de l’Office de Tourisme du Cap d’Agde (仏語)
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by utsushihara | 2007-06-20 14:51 | 科学、軍事、海事1907-08