フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

プロフィールを見る
画像一覧

検索

カテゴリ

フランス社会政経1909-10
フランス政治社会1907-08
オペラ、音楽、演劇1909-10
オペラ、音楽、演劇1907-08
美術、彫刻1909-10
美術、彫刻1907-08
文芸、評論1909-10
文芸、評論1907-08
科学、軍事、海事1909-10
科学、軍事、海事1907-08
★ベルエポック事件簿1909
★ベルエポック事件簿1908
スポーツ、乗物、探検1909-10
スポーツ、乗物、探検1907-08
※百年前の広告
独墺バルカン情勢1909-10
独墺バルカン情勢1907-08
モロッコ問題、アフリカ1909-10
モロッコ問題、アフリカ1907-08
日本・東洋事情1909-10
日本・東洋事情1907-08
ロシア帝政末期1907-10
各国事情1909-10
各国事情1907-08
フランス政治社会1905-06
オペラ、音楽、演劇1905-06
★ベルエポック事件簿1910
美術、彫刻1905-06
文芸、評論1905-06
科学、軍事、海事1905-06
スポーツ、乗物、探検1905-06
モロッコ問題、アフリカ1905-06
ドイツ情勢1905-06
ロシア帝政末期1905-06
日露戦争、東洋事情1905-06
各国事情1905-06

タグ

(24)
(24)
(22)
(19)
(14)
(13)
(13)
(12)
(12)
(12)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(10)
(10)
(10)
(10)

最新のトラックバック

一枚の絵 シャバ「九月の朝」
from 壺中山紫庵
オペラ「フォルテュニオ」
from のんのつれづれなるままに
四月の魚
from ブラッケン・ダーキンの肖像
大統領の恥ずかしいような..
from パリノルール blog
ルルー『黄色い部屋の謎』
from Proust+ プルースト・..
11. 異邦人"シャルル..
from サン=サーンスの墓
フロラン・シュミット
from サン=サーンスの墓
ポール・デュカス
from サン=サーンスの墓
鼻の整形術 美しいスマー..
from 鼻の整形術 美しいスマートな華に
タロー兄弟と、コクトーの..
from 発見記録

以前の記事

2011年 03月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月

人気ジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
語学

画像一覧

<   2007年 05月 ( 30 )   > この月の画像一覧

スペイン国王暗殺未遂爆弾テロ2周年

1907年5月31日(金)
f0028703_1724772.jpg
ちょうど2年前の1905年5月31日パリで、そして1年前の1906年5月31日はマドリッドで、国王アルフォンソ13世に対する爆弾テロが起きたことが思い出される。マドリッドでは、これを銘記するための閲兵式が若い国王の臨席のもとで行なわれる一方で、昨年マドリッドでのテロの首謀者とされるフェレーとナケンスに対する裁判が開始された。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.29; JUIN, 1907

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)(パリ訪問中の)スペイン国王に対する爆弾テロ(1905.05.31)
(2)スペイン国王の婚礼とテロ攻撃(1906.05.31)
(3)爆弾テロの犯人見つかる(1906.06.03)
[PR]
by utsushihara | 2007-05-31 16:59 | 各国事情1907-08

通信手段の進歩(三題)

f0028703_188965.jpg1907年5月

(1)光線に乗せた伝言
英国では、図解にあるとおりの仕組みの、コルン博士の写真電送と同様の方法でセレン(Selenium)を使った新しい機械による実験が行なわれている。光の揺らぎはセレン金属の凹面鏡によって集約され、受信機に固定された小さな隔膜が電流の変動によって動く。音声は普通の電話線からのように耳に届く。これはあたかも一方の灯台から話したことが、光線に乗って約15km離れたもう片方の場所で聞き取られるということである。
*参考サイト:Wikipedia(和文)セレン(Se)元素番号34

f0028703_1895766.jpg(2)無線通信
デンマークの発明家ヴァルデマール・プルセン(Valdemar Poulsen, 1869-1942)氏の名前は世界中に広く知れ渡っている。彼は人の音声をかなりの距離の場所へ転送する方法を発見したばかりである。もちろん電線無し(無線sans fil)である。
**これまでの関連記事france100.exblog: 無線通信のしのぎを削る研究競争(1907.02)

(3)ドナルド・マレーのテレタイプ
ドナルド・マレー(Donald Murray, 1865-1945)の考案によるタイプライターでロンドンからダブリンまでの送信実験が行なわれた。穿孔機で1行に5ヵ所の小さな穴をあけたテープが電気で動く2番目の機械に通されていく。その速度は指で打てる速さを上回っている。回線の行く先、つまりダブリンには同じようなタイプライターが備えられ、電気によるモーターが動き、ロンドンの局から発せられる機械と同調して、信じられない速度でキーが動き、タイプで打ったメッセージが紙の上に打ち出されて読み進めることができるのである。
(↓)の絵図はロンドンとダブリンを海峡を挟んで結ぶ通信回線のイメージである。テレタイプの5穴穿孔は32通りの順列組合せがあるので、アルファベット26文字と記号を置き換えることができる。f0028703_1812499.jpg
f0028703_18124879.jpgf0028703_18131488.jpg





*参考サイト:NADCOMM Papers and Writings : Five-unit codes(ABC文字割当表:英文)

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.29; JUIN, 1907
[PR]
by utsushihara | 2007-05-29 18:05 | 科学、軍事、海事1907-08

新戦艦「真実」の進水式

f0028703_2233793.jpg1907年5月28日(火)

掲載の写真はボルドーの造船所でのわが海軍の新型戦艦「真実」の全貌である。進水式は5月28日海事相のトムソン氏が出席して行なわれた。軍艦の建造物としては群を抜く記念碑的なもので、全長133m80cm、最大幅24m25cm、前部吃水7m88cm、吃水8m42cm、総排水量14,865t である。
「真実」は機関やボイラー、すべての砲門、船橋、2本のマストを取り付けたまま進水式が行なわれた。これは進水後にブレストの司令部から出動命令が来た場合に応じるためである。このような重要な艦船でこうした建造の仕上げの手段がとられるのは初めてである。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.30; JUIL. 1907
画像 Crédit d’image : ©Ardechephotos ; TOULON Marine de guerre au début 1900

[ Ψ 蛇足 ]
「真実」(La Vérité)が戦艦の名前とは、ずいぶん哲学的な感じがする。列強がこぞって巨大戦艦の建造に取り組んでいた時代である。下記の関連記事では、ド級と言われた英国の「ドレッドノート」のほうがすでに2万トンを超えていて及ばなかったが、これより前のフランスの「エルネスト・ルナン」よりも大型なので記念碑的(un superbe monument d’architecture navale)と述べたのだろう。
f0028703_2237106.jpg
**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)世界最強の戦艦「ドレッドノート」 (1906.02.10) 21,845t 英国建造、最大級、超弩(ど)級の語源となった。 
(2)巡洋戦艦「エルネスト・ルナン」の進水式(1906.04.11) 13,664t フランス建造
(3)戦艦「ローマ」号の進水式(1907.04.21) 12,000t イタリア建造

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-05-28 22:28 | 科学、軍事、海事1907-08

ノルウェー国王夫妻のパリ来訪

f0028703_1715222.jpg1907年5月27日(月)

ノルウェー国王ホーコン7世とモード王妃は5月27日パリに到着し、パリ市内は来訪を歓迎する祝賀行事でにぎわった。シャンゼリゼ大通りに面する当社屋の窓からは群集の歓呼する様子を見ることが出来た。
儀典長のモラール氏の先導で、ファリエール大統領がノルウェー王妃に腕を貸して歩き、その後からノルウェー国王と大統領夫人が続いた。(←)画像は「ブローニュの森」鉄道駅での到着と出発のときに行なわれた式典の様子である。

f0028703_17152650.jpgヴェルサイユでは、待ち構えた報道陣の前で国王一行は喜んでポーズを取った。(→)写真の前列は左から、文相ブリアン氏、モード王妃、ファリエール大統領、同夫人、ノルウェー国王、デュジャルダン=ボーメス氏である。また左隅の奥にヴェルサイユの館長ノラック氏とクレマンソー首相の姿が見える。
パリのアンヴァリッド、市役所、パンテオン、オペラ座でのガラ公演、そしてヴェルサイユ宮殿においてのホーコン7世の態度は各国君主たちの中でも最も優雅なものであった。王はこのパリ訪問がかなってどんなに幸福に思っているかを幾度となく口に出すのを欠かさなかった。
ファリエール大統領は来たる9月に答礼のノルウェー訪問を行なう予定である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.30; JUIL. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ノルウェーは1905年12月にスウェーデンから分離独立し、新しい国王をデンマークから迎えた。それがホーコン7世(Haakon VII, 1872-1957)である。父親はデンマーク国王のフレデリック8世(Frederick VIII, 1843-1912)である。また王妃のモードは英国王エドワード7世の娘である。

*参考サイト:Wikipedia(英文)Haakon VII of Norway
**これまでの関連記事france100.exblog:ノルウェー国王の戴冠式(1906.06.22)
[PR]
by utsushihara | 2007-05-27 17:13 | フランス政治社会1907-08

音楽雑誌「ムジカ」サン=サーンス特集号

f0028703_22355681.jpg1907年5月25日(土)

5月25日発行の雑誌「ムジカ」は、全頁が巨匠サン=サーンスに関する特集記事と別冊付録で占められている。表紙の絵(→)はバンジャマン・コンスタンによる巨匠の横顔であり、記事はポーリーヌ・ヴィアルド女史、ポール・ヴィダル氏、J.フィリップ氏、プロック氏などが執筆している。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.28; MAI, 1907
画像 Crédit d’image : © BNF Portraits et documents de Camille Saint-Saëns; Image fixe numérisée

[ Ψ 蛇足 ]
カミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)はこの年72歳であり、数々の名曲を世に送り、フランス音楽界の長老であった。表紙絵を描いたジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン(Jean-Joseph-Benjamin Constant, 1845-1902)は、19世紀前半の外交官で小説家のバンジャマン・コンスタン(Benjamin Constant, 1767-1830)とはまったくの別人である。

この時代の雑誌が現在次々と電子図書化されているが、残念ながら音楽専門誌「ムジカ」(Musica)はまだである。実物を手に取れないのは仕方がないにしても、PCから閲覧できたらと切に願う方々は少なくないだろう。
f0028703_22391510.jpgこの表紙絵に近い肖像がBNF-Gallicaの電子画像で見つかったので左記(←)に引用した。
別冊付録は、戦後の日本の音楽雑誌でも見られたように小型スコア(総譜)で短い曲(序曲など)が付いていたのと同じかも知れない。

老年のサン=サーンスの肖像は、なぜか鼻がひどく大きく誇張されている。BNFの画像集の中では下記の2つが面白い。
(1)Alfred Le Petit; Fugures du jour
(2)Le dessin de Luque; Les hommes d’aujour d’hui

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)サン=サーンスの帰国(1907.01.03)
(2)芸術家のラントレ(2)音楽家たち(1907.09)
(3)サン=サーンスの新作オペラ「祖先」(1906.02.24)

***またWikipedia の拡張版で「国際楽譜電子図書館計画」とでも訳せそうな International Music Score Library Project (IMSLP) をたまたま見つけた。
サン=サーンスの「動物の謝肉祭」(Le Carnaval des animaux)のスコアも簡単にPCで目にできるし、出力もできるとなると、楽譜出版社は近い将来倒産に追い込まれる可能性もある。

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-05-26 22:34 | オペラ、音楽、演劇1907-08

オペラ座の指揮者マンジャン急死

f0028703_15505684.jpg1907年5月24日(金)

オペラ座の正指揮者であり、パリ音楽院教授であったエドゥアール・マンジャン氏は5月24日に急死した。65歳だった。彼は1839年パリに生まれ、優れた音楽家であり、魅力的な人物であった。彼の後継者は、ローマ大賞受賞者でオペラ座の合唱指揮者であるアルフレッド・バシュレ氏である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.30; JUIL. 1907
画像 Crédit d’image : © BNF Portraits et documents d’Eugène-Edouard Mangin; Image fixe numérisée
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b77215287/f2.item

f0028703_1552376.jpg[ Ψ 蛇足 ]
ウジェーヌ=エドゥアール・マンジャン(Eugène-Edouard Mangin, 1839-1907)については、ネット上で過去の生存記録を見出すのが極めて困難だった。2つの偶然の手がかりから人物像が浮かび上がってきたのは嬉しかった。一つはBNF所蔵の画像集(Portraits et documents)であり、これは雑誌記事と同じような肖像である。もう一つはBNFの電子図書Gallicaで「全国現代著名人事典」(Dictionnaire national des contemporains)という表題の6巻本中に記載されたその人物の経歴だった。この事典は20世紀初頭に出された当時活躍中の各界の著名人の名鑑である。そこの記述をかいつまんでみると、
10歳そこそこからパリ音楽院に入り、マルモンテルやアンブロワズ・トマなどに教わる。20歳過ぎにパリ市立音楽学校で合唱の教授となる。またテアトル・リリークの指揮者としてヴェルディの「マクベス」「仮面舞踏会」やワーグナーの「リエンツィ」の上演にたずさわる。普仏戦争には義勇兵として参加したあと、戦後はリヨン歌劇場の指揮者とリヨンの音楽院での教育者として活躍する。特にリヨンのベルクール定期演奏会(Concerts de Bellecour)やリヨン音楽院定期演奏会(Concerts du Conservatoire de Lyon)を開設した。
f0028703_155322.jpgその後、1882年からパリ音楽院のソルフェージュの教授として任命され、さらに1887年にはオペラ座の合唱指揮者となった。1893年にワーグナーの「ワルキューレ」の上演に際し、指揮者のポール・ヴィアルドの代役としてオーケストラの指揮をとり、そのまま正指揮者となった。現在の指揮者の中では最長老である。
「全国現代著名人事典」より « Dictionnaire national des contemporains » : contenant les notices (---) de toutes les personnalités vivantes, françaises ou demeurant en France, qui se sont fait connaître par leur action dans les lettres, les sciences, les arts, la politique, l’armée, les cultes, l’industrie, l’administration, etc.
http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-82886
[PR]
by utsushihara | 2007-05-25 15:49 | オペラ、音楽、演劇1907-08

ヴァンセンヌの森で植民地博が開催

f0028703_22232982.jpg1907年5月23日(木)

5月23日からパリ東部ヴァンセンヌの森の一角にある「植民地庭園」(ジャルダン・コロニアル)を会場として植民地博が開催されている。主催者はジャン・ディボフスキ氏が熱心に運営する博覧会協会である。おもな見どころは、インド・シナの村、セネガルの村、カナカ族の村、トゥアレグ族やウレド・ナイル族の宿営地、象狩り、そしてその象たちが曳くトボガン橇などである。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.30; JUIL. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
「植民地庭園」(Jardin Colonial)は、現在も「熱帯庭園」(Jardin Tropical)と名前を変えて存続している。場所はヴァンセンヌの広大な緑地の東端にあたる。しかし造作物は長い間放置されていたためにパリ市では少しずつ再整備に取りかかっている。
植民地主義時代は、植民地を支配することとはそこの文化や産物を自国の共栄圏としていかに取り込んでいくかが大きな課題となった。人々はさまざまな異文化と接する必要も欲求もあり、その国の開発や産業振興が自国の経済発展の原動力となっていたのだろう。
ヴァンセンヌの植民地博は1907年の5月から9月まで開かれ、2百万人近い入場者を数えた。
f0028703_22235142.jpg(↑)画像は、セネガルの村の入口、また(→)画像はカンボジアの寺院の塔である。
ジャン・ディボフスキ(Jean Dybowski, 1856-1928)はポーランド人の家系に生まれ、農業技師として何度かアフリカ・サハラの調査団に加わった。地理学的、植物学的、動物学的、民族学的な収穫を残した。

*参考サイト:
(1)Baudelet Net :非常に詳しい案内サイト(仏語)Le Jardin Tropical du Bois de Vincennes
(2)ウレド・ナイル族 Images of the Ouled Nail(英文)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)インド・シナ劇団の俳優たち(1906.07)
(2)カンボジア国王、フランス到着(1906.06.11)

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1907年5月24日(金)より引用:
地下鉄で、サン・マンデの植民地博覧会を観に行く。果てしない旅。くたくたに疲れる。この陳腐極まる博覧会でアラビヤ音楽を再び聞き-それは極めて陳腐なものではあったが-怖ろしい憂鬱にとらわれる。

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-05-24 22:18 | フランス政治社会1907-08

リンネ生誕200年記念祭

f0028703_22291317.jpg1907年5月23日(木)

リンネの生誕200年を祝う行事がスウェーデンのウプサラ大学で盛大に行なわれた。スウェーデン王室の皇太子や王族たち、そして欧州各国の学士院からの代表者(その中にはわがフランス科学アカデミーからのローラン・ボナパルト公も含まれる)が参加した。
リンネはこの大学で37年間にわたり植物学の講義を続けた。当時の国王は彼に文人としては初めての北極星勲章を授与した。今日の王室も先人の事績を受け継いでいるのは明らかである。
f0028703_2230264.jpgカール・フォン・リンネ(Carl von Linné, 1707-1778)は、1707年5月23日生まれ、1778年ウプサラで死去した。
偉大な自然科学者であり、植物学を初めとする自然界における体系化の研究手法を確立した。生存中から非常に尊敬され、彼の名は自然科学の分野で最高の栄誉を保っている。右掲(→)の画像はウプサラにあるリンネの記念像の一部である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.30; JUIL. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
リンネの表記 Linné は、フランス語、ドイツ語、スウェーデン語のいずれでもアクサンé がついている。

*参考サイト:Linnaeus2007 リンネ生誕300年記念事業(和文)
[PR]
by utsushihara | 2007-05-23 22:17 | 科学、軍事、海事1907-08

ロシア楽派の演奏会

1907年5月22日(水)

グレフュール伯爵夫人の肝入りで活動している「大音楽鑑賞協会」では、5月22日から26日までの5日間、オペラ座においてロシア楽派の連続演奏会を企画し、普段なじみの薄い珍しい作品を聴けることもあって大盛況であった。ロシアの5人の先輩作曲家たち、すなわち、グリンカ、ムソルグスキー、ボロディン、バラキレフ、リムスキー=コルサコフたちは拍手喝采を受けた。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.30; JUIL. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
「大音楽鑑賞協会」(La Société des grandes auditions)と訳してみたが、良質の演奏と優れた作品を紹介する使命をもって作られたのだろう。こうした名前の団体は検索ではなかなか見つからない。英語の感覚ではaudition(いわゆるオーディション)よりも audience なのにと思われるだろうが、まったく同じ単語でも英仏のニュアンスが微妙に違っていることがある。仏語の audience は「事情聴取、聴き取り調査」の意味もあるので audition「傾聴」なのだろうと思う。

それから「5人組」(Les cinq)の名前が1人違っているのに気づかれた方も多いと思う。グリンカはバラキレフの師匠格なので普通は5人の仲間には入っていない。フランス人の血が入っていたセザール・キュイはロシア人とは思えなかったのかもしれない。ここではどんな曲が演奏されたかは記されていない。
ムソルグスキーのピアノ曲集「展覧会の絵」がモーリス・ラヴェルによって管弦楽組曲(Les Tableaux d’une exposition)に編曲されるのはこのあと1922年である。
f0028703_188124.jpg
本当の蛇足を言えば、「立派な髭をたくわえたリムスキー=コルサコフの奥さんは、あまりにも美人過ぎる!」とオルセー美術館に行くたびに思ってしまう。

**これまでの関連記事france100.exblog:「道化(クラウン)」の初演(1906.04)
音楽に造詣の深いグレフュール伯爵夫人(Comtesse de Greffulhe, 1860-1952)

*参考サイト:Wikipedia(仏語)グレフュール伯爵夫人Élisabeth de Riquet de Caraman, par son mariage comtesse Henry Greffulhe

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-05-22 18:05 | オペラ、音楽、演劇1907-08

1907年春のサロン展(9)ロダンの「歩く男」(L’Homme qui marche)

f0028703_15591427.jpg1907年5月

ロダンによる「歩く男」の像はサロン展において最も見つめられることが多い(le plus regardé)彫刻作品である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.28; MAI, 1907
画像 Crédit d’image : © Stephen Haweis & Henry Coles; ©Musée Rodin, Paris

[ Ψ 蛇足 ]
同じ題材でも小型サイズでの作品は1904年には出来上がっていた。大型サイズの完成形としてはこの1907年の春のサロンに初めて展示されたが、他の一般の出展者とはケタ違いの巨匠の作品であるために、展示カタログにも記載されていない。現在はオルセー美術館で見ることができる。「歩く男」(L’Homme qui marche)は男の胴体と両足だけの作品である。RMNのデータによれば、高さ2.13m 幅0.72m 奥行き1.61m であり、奥行きがこれほどあるとは意外に思えたが、片足を前に踏み出して歩く幅の分だということで納得する。その歩みには前進する力がみなぎっている。もし全身像であったら巨人の歩みであろう。

このときのロダン(Auguste Rodin, 1840-1917)は66歳である。アンドレ・ジィドの日記にこの時期のロダンとの会食のことが書いてあったので以下に引用する。
f0028703_1663799.jpg
*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1907年5月22日(水)より引用:
ヴァン・リセルベルグ夫妻、ケスレル伯爵、ロダンと銀塔亭(トゥール・ダルジャン)で昼食をとる。人々はロダンに彼の《駆出し時代》の話をする。長い間、彼は生活のために、素焼の《カリエ=ベルーズ人形 *》を作っていた。そうした面白味も何もない人形の一つを最近ドリュエがその店頭に陳列していた。
『青銅時代』で、彼は囂々たる物議を醸した。裁判はやっとのことで避けることが出来た。(単なる鋳型を出品したと言って彼は非難されたのである。)だが、この時、数人の友人が彼の周囲に集って、彼を擁護した。そして、この時、彼はブリュッセルを去って、パリに来たのである。
「その時おいくつでした?」
「四十五歳です。」
このことが私の一日を支配した。
(*註: 彫刻家のカリエ=ベルーズ(Albert-Ernest Carrier-Belleuse, 1824-1887)が創始した大衆的な着色人形)

*参考サイト:
(1)ロダン美術館Le Musée Rodin「歩く男」について(仏語)Le sculpteur : L’Homme qui marche
(2)A&A :art and architecture :カリエ=ベルーズ人形の一例(英文)Cornway Collections : Irish Boy and Girl by Albert-Ernest Carrier-Belleuse

*** 同時代人の証言として「パリ評論」(La Revue de Paris)に掲載されたジェラール・ドゥヴィルの批評文「1907年春のサロン展回遊」よりロダン部分を引用して紹介する。(写原試訳):
(…)だが、すぐさま「歩く男」に面と向かうことになる。その男が身体を温めるために歩いているとは思わない。その見事な脚を見つめながら、そして、かくも本物の、かくも驚くべき動きに感嘆しながら、その首と手を省かれた彫像が結局、エレディアの小詩にある走者のように《おのれの台座の上を》通り越して行くように思えてくる。人はこの場所の寒さに震えていることも、外で雨が降っていることも忘れる。これはロダンが作り上げた古代彫刻という堂々とした習作である。しかもこの象徴的な人物に頭部も両腕もないとしてもまったく驚くことにはならない。彼は、盲目的な力強さのように、避け難い運命のように、前進する。その恐ろしい足取りはおそらく数千もの小さな生命を踏みしだくであろう。彼にはそれを見る目がなく、それを聞く耳もなく、それを救う手もないのである。(…)
出典:BNF-Gallica #17495 « La Revue de Paris » (Année 14 / Tome 3) Livraison du 1er Juin, 1907; Page 577
Gérard d’Houville: Promenade aux Salons de 1907

[ ΨΨ 蛇足2 ]
筆者のジェラール・ドゥヴィル(Gérard d’Houville, 1875-1963)の本名はマリー・ド・エレディア(Marie de Heredia)であり、詩人エレディアの三人娘の2番目にあたり、「ベル・エポックの美神たち」と賞賛された。1894年から「両世界評論」や「パリ評論」などに詩作、小説、評論などを発表している。作家のアンリ・ド・レニェと結婚するが、・・・(話すと長くなるのでまた後日)
*参考サイト:« Florilège »(フランス詩選サイト:仏語 = 写真は文句なしの美女)Gérard d’Houville

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)芸術家のラントレ(1) ロダン(1906.09)
(2)パンテオン広場に「考える人」像(1906.04.21)

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-05-21 15:53 | 美術、彫刻1907-08