フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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ルノー対ゴーダンの勝負

f0028703_1742481.jpg1906年1月31日(木)

いまフランスで最も秀れた剣の名手である二人、ルノー(Jean Joseph Renaud)とゴーダン(Lucien Gaudin)が1月31日の試合で対戦し、ルノーが勝利を収めた。(画像→)

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907

**これまでの関連記事france100.exblog:フェンシング道場対抗戦 (1906.12.16)
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by utsushihara | 2007-01-31 17:04 | スポーツ、乗物、探検1907-08

「アンナ・カレーニナ」の劇作化

f0028703_16541992.jpg1907年1月30日(水)

アントワーヌ座で1月30日に上演されたトルストイ原作の「アンナ・カレーニナ」の劇作化については興味深い。写真は左端に支配人兼俳優のジェミエ(Gémier)、その横に脚本家のギロー(Guiraud)、座っている主演のメガール女史(Mme Mégard)そして右端には演出の助言をするロシアの士官の姿が見られる。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907
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by utsushihara | 2007-01-30 16:53 | オペラ、音楽、演劇1907-08

シャルモワのベートーヴェン像

f0028703_1733570.jpg1907年1月

有名な教授の息子であるジャン・シャンタヴォワヌ氏による偉大な作曲家ベートーヴェンに関する大著が出版されるのを機に、彫刻家ジョゼ・ド・シャルモワ氏による彫像をここに紹介する。ベートーヴェンを尊敬する数多くの愛好家はこの著作を読んで多くの収穫を得るだろう。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ジャン・シャンタヴォワヌ(Jean Chantavoine, 1877-1952)は20世紀前半の音楽評論家で、特にベートーヴェンに関する書簡集の翻訳や研究書を出し続けたことで当時注目された。(Beethoven; étude d’histoire et d’ésthétique, 1907) またフランスの作曲家の評伝(ドビュッシー、ダンディ、シャブリエ、サン=サーンスなど)も残している。

彫刻家ジョゼ・ド・シャルモワ(José de Charmoy, 1879-1919)についてはあまり情報が多くない。モンマルトル墓地のボードレールの墓碑、あるいはベートーヴェンの彫像で知られるのみである。現在、パリ東部ヴァンセンヌの森の緑地の一角に巨大な台座だけのベートーヴェン記念碑が残っている。制作を中断して第一次大戦に出征したまま、彼は死去(戦死か傷病死かは不明)したという。
シャルモワは、アンドレ・ジイドの親しい友人の一人であったことが、彼の日記を拾い読みしているうちに気づいた。1906年~07年の記述を以下に引用する。

*参考サイト:Beethoven en français:Rencontrer Beethoven à Paris:Vincennes, pelouse de Fontenay

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1906年1月19日より引用:
・・・金曜日、シャルモワの家での、不思議な夜会。-彫刻台の隅や、ベートーヴェンの記念像を支えているあの巨きな天使達のマントの襞の間などに、ここかしこ、二十本ばかりの蝋燭が実に巧みに配置され、その光が所狭きまでに置かれた幾つかの巨大な像を幻想的に照らし出しているアトリエで・・・

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1907年1月13日より引用:
シャルモワは(・・・)ひどい病気になって帰ってきた。(・・・)ニイチェ、ベートーヴェン、ゾラの胸像を見にアトリエに来てくれという招待の葉書を受け取る。アトリエには、大勢客が詰めかけていた。だが、夫人だけが接待していた。夫人は私に、ジョゼは一週間前から床に就いていることを告げた。ぜひ見舞に行ってくれという。彼等はメーヌ街の袋小路のアパートは引き払っていた。恐らく部屋代が高過ぎるのだろう。ヴォージラール街91番地の、みすぼらしい家の階段の前までやってくる。三階に昇ると、(・・・)暗い控室のような部屋があって、その次がシャルモワが寝ているむさくるしい部屋。(・・・)

****(追記:2007.10)
「山田兼士教授の研究室」のサイト中の八島賢太氏の詩文 ©「オーニタをさがしてボードレールに遭う」(「詩学」2006年7-8月号より)に上記シャルモワの作品への言及がある。
「シャルル・ボードレールのもう一つの墓」第2節
それとも/シャルモワが造った記念碑の/(あまり評判のよくない悪霊めいた像ですが)/頭上二十メートルあたりの空間から/道行く人に視線の矢を放ったりしているのでしょうか
http://homepage2.nifty.com/yamadakenji/yashima/onita.htm
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by utsushihara | 2007-01-29 17:31 | 美術、彫刻1907-08

独仏2炭鉱でガス爆発

f0028703_17295949.jpg1907年1月28日(月)

1月28日ザールラント州の炭鉱で大惨事が発生した。レーデンの瀝青炭の坑内地下500mでガス爆発が起き、死者は150名を超えている。画像(←)はレーデン(Reden)の炭鉱。
f0028703_17302458.jpgまた同日、北仏パ・ド・カレ県のリエヴァンの炭鉱においてもガス爆発が起き、3人の犠牲者を出した。画像(→)はその1人、リエヴァン炭鉱技師総長のペルヴェー氏だが、その他、坑夫長のローラン氏、主任技師のヴェシエールとなっている。
皇帝ウィルヘルム2世とフランス共和国大統領は互いに電報により弔意を交わした。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907
画像Crédit d’image : © Gemeinde Schiffweiler

[ Ψ 蛇足 ]
ザールラント州(Saarland)はドイツの工業地帯と炭鉱で有名だが、アルザス地方と境を接している。この当時は、アルザス・ロレーヌ地方もドイツに編入されていた。現在の独仏国境はザールブリュッケン(Saarbrücken)の南にあるサールゲミーヌ(Sarreguemine)以西がフランス領となっている。フランス語読みでは「サール」(Sarre)で濁らない。

*参考サイト:リエヴァンの公式サイト(仏語)Site officiel de la ville de Liévin : Un peu d’histoire
**これまでの関連記事france100.exblog:クリエール炭鉱の大惨事(1906.03.14)
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by utsushihara | 2007-01-28 17:26 | フランス政治社会1907-08

独皇帝と5人の皇子

f0028703_17214118.jpg1907年1月27日(日)

写真は1月27日の独皇帝ウィルヘルム2世の48歳の誕生日に撮られたもので、皇帝は5人の息子とともに宮廷を出て海軍工廠に赴き、訓示を垂れるところである。写真左奥の皇帝の左手に皇太子(24歳)、フレデリック皇子(23歳)、海軍中尉アダルベルト皇子(22歳)、アウグスト=ウィルヘルム皇子(19歳)、オスカー皇子(17歳)と並んで行進している。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ウィルヘルム2世には6男1女の7人もの子供がいたのは既述のとおりで、ここには末子の2人を除く5人の息子との写真になっている。王家の男子直系のお世継ぎ問題など100%起こりえないほどの堂々たる安泰ぶりである。(しかし歴史はそう甘くなかった・・・)
**これまでの関連記事france100.exblog: プロイセン第4皇子の婚約(1906.12.27)
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by utsushihara | 2007-01-27 17:20 | 独墺バルカン情勢1907-08

写真電送装置

1907年1月
f0028703_17144331.jpg
ここに掲示したのは写真電送装置の若き発明家エドゥアール・ベラン氏の肖像と送信機(左)・受信機(右)の写真である。このテレグラフォスコープは社会的に大いに役立つものと目されている。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907
画像Crédit d’image : ©The Center for the Study of Technology and Society ; http://www.tecsoc.org/pubs/history/2003/mar4.htm

f0028703_17151676.jpg[ Ψ 蛇足 ]
写真電送は、現在のフランス語では「フォトテレグラフィー」(Phototélégraphie)と呼ばれている。現在のファクシミリ(FAX)装置の最初である。実験ベースでは米国人のデイヴィ、ベインなどが最も早く成功していたが、実用化に成功したのはこのエドゥアール・ベラン(Edouard Belin, 1872-1963)当時34歳の技師であった。(写真←)
上記の記事では今の辞書には載っていない「テレグラフォスコープ」(Télégraphoscope)という造語(?)を充てていたが、わかりにくかったらしく、商品化では個人名から取った「ベリノグラフ」(Bélinographe)という名称が世界的に通用した時期があった。絵葉書大の写真を送るのに12分間かかった。
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by utsushihara | 2007-01-26 17:13 | 科学、軍事、海事1907-08

ニューヨークの現金輸送車

f0028703_23201774.jpg1907年1月

ニューヨークでは最近、劇場、ホテル、レストラン等での夕方から夜における売上金の安全を確保する手段が考案された。マンガン鋼鉄製の金庫を車内に組み込んだ特別な自動車が夜間営業の施設を訪れて、現金が出納係の手から完全武装の集配人の手に渡され、その集配人が一旦車内の金庫に投入してしまえばその金庫は集配完了後にもどった銀行で主任出納係によってしか開けることができないという仕組みである。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
現代のパリでもこうした現金集配車は生命の危険が伴う仕事であるようだ。警備会社の集配人のいでたちは警察の特殊部隊に見まがうような制服なのを見て驚いたことがある。「完全武装」のフランス語は、être armé jusqu’aux dents(歯に至るまで武装している)というのも面白い。
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by utsushihara | 2007-01-25 13:19 | スポーツ、乗物、探検1907-08

「愛の姫君たち」の上演

f0028703_16463616.jpg1907年1月24日(木)

ジュディット・ゴーティエ女史の美しい劇作品「愛の姫君たち」が1月24日ヴォードヴィル座で上演された。主演は、イヴォンヌ・ド・ブレー嬢とモー・ダミー嬢で、多くの劇評は太鼓判を押している。他の出演者としては、ルラン氏、モントー氏が出ている。掲載のイラストはフィガロ紙に掲載されたセム氏のものである。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907
画像Crédit d’image : ©Archives Photographiques (Médiathèque de l'Architecture et du Patrimoine) © CNM

[ Ψ 蛇足 ]
イラストを見てすぐわかるように「愛の姫君たち」(Princesses d’amour)は、1900年にジュディット・ゴーティエ(Judith Gautier, 1845-1917)が発表した日本の遊廓の花魁を主人公とした小説だが、当時の日本文化への興味から劇化されたものと思われる。
我々日本人は、往々にして外国人が描いた日本や日本人を題材とする作品に冷淡である。その国に生まれ育った人でなければ人様にもっともらしく日本を語ることなど到底できるものではない、という思い上がりがあるのかも知れない。皮肉なことに日本人の海外生活体験談などはごく短期間の旅行記ですらそこそこ売れる本になりうるのだ。人間は自分たちの可能な立場での認識手法のスタイルを知らず知らず規定しているのだろうか。こうした日本文化の紹介に力をいれたエドモン・ド・ゴンクールやジュディット・ゴーティエ等々の人々の著作は、日本人の立場からも研究が進んでもいいはずではないかと思う。
f0028703_1726229.jpg
*参考サイト: 松本さんの「発見記録Blog」に先頃掲載されたばかりのジュディット・ゴーティエと花魁たちの物語(1~4)(2006.09)は、この原作小説の非常に貴重な文献紹介資料となっている。是非ご参照されたい。

(画像→)主演者の一人、イヴォンヌ・ド・ブレー(Yvonne de Bray, 1887-1954)はこのときまだ19歳である。すでに少女役として舞台に出ていたようだが、後年ジャン・コクトーが監督として作る映画「双頭の鷲」(L'Aigle à deux têtes, 1947)や「恐るべき親達」(Les Parents terribles, 1948)に出演する。(Filmographie)
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by utsushihara | 2007-01-24 16:45 | オペラ、音楽、演劇1907-08

オペラ「サロメ」のニューヨーク公演で物議

f0028703_1432176.jpg1907年1月22日(火)

このほどニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたリヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ「サロメ」は、初回の公演だけで以後上演中止となった。公序良俗に反するという物議を呼んだ結果である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907
画像Crédit d’image :(英)Wikipedia ; Olive Fremstad

[ Ψ 蛇足 ]
リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss, 1864-1949)のオペラ「サロメ」はその題材の特異性からしてもさまざまな物議をかもした歴史がある。これより1年余り前のドレスデン宮廷歌劇場での初演では、観客に興奮と衝撃を与えたが、大きな騒ぎには至らなかった。ドイツ以外では初めてとなる米国公演は、国民のピューリタン的なキリスト教道徳観念が根強いものであったせいもあるようだ。ドイツの初演ではサロメ役の歌手が「節度を保った」演技を貫いたのに対し、メトの歌手オリーヴ・フレムスタード(Olive Fremstad, 1871-1951)は極めて熱心に役になりきろうと努力したことがあげられる。彼女はサロメが最後の場面で大盆に載せた洗礼者ヨハネの首を受け取るとき、その重さでたじろぐのを実際どうなのかと検証するため、前もって市内の死体安置所(モルグ)に出向き確認したという。公演ではその首は紙粘土で作られていたが、観客の何人かは見るに耐えず逃げ出し、多くの人は生首にキスをするサロメに思わず顔をそむけたという。掲載の写真は英文ウィキペディア(公共物化)から借用したその時の写真である。

上記の記事では1回だけでとあるが、下記の参考サイトでは5回で終了となったと記述がある。いずれにしても「文化の名を借りた冒涜」であるという抗議が支配人へ殺到したのは確かである。
「サロメ」には最も美しい音楽とされる「サロメの七つのヴェールの踊り」(La danse des sept voiles)が薄絹をまとっただけの煽情的な踊りゆえに「スキャンダラスな成功」(Succès de scandale)の一例として語られることがある。

*参考サイト:
(1)米国ケネディ文化センターの「サロメ」の上演史:The John F. Kennedy Center for the performing arts; About the composition: Salome, Op.54 by Richard Strauss
(2)オリーヴ・フレムスタードの紹介: Great Singers; Andrea's Cantabile-subito Olive Fremstad
**これまでの関連記事france100.exblog:「サロメ」の初演(1905.12.09)
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by utsushihara | 2007-01-23 13:56 | オペラ、音楽、演劇1907-08

イッシーでの閲兵式

f0028703_2318283.jpg1907年1月22日(火)

画像は1月22日にイッシーで行なわれた閲兵式に臨んだピカール軍事相とペルサン将軍の姿である。第6および第7歩兵師団、第2機甲旅団、そして第1騎兵師団の砲兵隊のすべてが実戦装備で参加し、隊列行進は見事な訓練ぶりで、大きな喝采を受けた。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
イッシーとは、現在のパリの南西に隣接するイッシー=レ=ムリノー(Issy-Les-Moulineaux)市のことで、軍の駐屯地があり、今でも地図上に五稜郭のような亀甲形の城塞が見られる。
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by utsushihara | 2007-01-22 23:12 | 科学、軍事、海事1907-08