フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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第1回ゴードン・ベネット杯飛行船レース

f0028703_1703690.jpg1906年9月30日(日)

9月30日、パリのチュイルリー公園で飛行船による最長飛行を競うゴードン・ベネット杯の出発が行なわれ、20万人を超える見物人が集まった。7カ国から16チームが参加し、掲載した地図は結果として彼らが到達した地点を示している。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
画像Crédit d’image : © Suas Atividades Aéreas e Suas Invenções

[ Ψ 蛇足 ]
右掲の地図は第1回目のレースの結果で、参加した飛行船がパリから真北に飛んだ飛行距離である。優勝者、つまり最も遠くへ飛ぶことのできたチームは、米国のフランク・ラーム中尉(Lieutenant Frank Lahm)とヘンリー・ハーシー准尉(Major Henry Hersey)のチームで、22時間15分でパリから641.7km、英国ヨークシャー州東部のウィトビーに着地した。
f0028703_1794773.jpg
ゴードン・ベネット(Gordon Bennett, 1841-1918)はニューヨークの新聞社を相続し、ヨットや自動車レースのスポンサーとなり、その報道による売上増を図っていた。1905年にパリで「国際飛行船連盟」(FAI=Fédération Aéronautique Internationale)がアンリ・ド・ラ=ヴォー伯爵(Henri Comte de La Vaulx, 1870-1930)らによって設立されたことを知り、この飛行船の杯レースを作ってそのスポンサーとなることを提案したのだった。

参加資格は、この連盟へ加わった国から3つのチームまで出場でき、2人が乗り込む熱気球、最大容積が1000立方メートルまでのもの、持ち込めるのは水と砂だけである。海に着水した者は失格となる。
f0028703_1733233.jpgこの第1回の運営母体は「フランス飛行クラブ」(Aéro-Club de France)である。中心メンバーだったラ=ヴォー伯爵も参加したが、英国のチャールズ・ロールズのチームと同距離の3位に終わった。(←ラ=ヴォー伯爵)
f0028703_173280.jpgまた最も注目されたブラジル出身の飛行家アルベルト・サントス=デュモン(Alberto Santos-Dumont)は、当時プロペラ飛行機(空気よりも重い飛行体:heavier-than-air aviation)でテスト飛行に熱中していたが、急遽補助プロペラ・エンジン付きの飛行船「両アメリカ号」で参戦した。しかしながら離陸直後、プロペラの羽根で自分の腕を負傷し、早々に北仏ユール県でリタイアとなった。(→)写真は、出発前のサントス=デュモン。

*参考サイト:現在でも活動を続けている「国際飛行船連盟」のサイト:FAI News 14/06
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by utsushihara | 2006-09-30 16:58 | スポーツ、乗物、探検1905-06

キューバの政変

f0028703_15441925.jpg1906年9月29日(土)

キューバ共和国大統領エストラーダ・パルマ氏(画像→)は、島内の秩序を立て直すことができず、米国は9月12日に艦隊を派遣して現地の米国人居住者を保護するという名目で軍隊を上陸させた。この軍事介入に関しては様々な意見が出ている。
米国の軍事長官タフト氏は、ルーズヴェルト大統領の命によりキューバで起きている内紛に終止符を打つために派遣された。この軍事介入はキューバの大統領エストラーダ・パルマの辞職に至る結果となった。暫定政権としてタフト氏が首班をつとめることが公表され、9月29日キューバ政府の建物に入った。キューバの人々はこうした状況を概して平静に受け止めている。米国筋はキューバを併合するという考えを真っ向から否定している。
タフト氏の使命は一定の目処がついたため、後任のウィンゾップ氏に暫定政権の首班の座を引き継ぐことになっている。f0028703_15444693.jpg

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906&No.21; NOV. 1906
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 30 Septembre 1906

[ Ψ 蛇足 ]
キューバはコロンブスによる発見以来長らくスペイン領であったが、19世紀後半に独立の気運が高まり、スペインの支配に抗して叛乱を起こし独立仮政府まで樹立したが10年(1868-1878)で鎮圧された。1890年代に入って新たに独立戦争を起こし、米国の支援を受けてスペインの支配から脱することができた。(米西戦争1898)
f0028703_15524248.jpg
エストラーダ・パルマ(Estrada Palma, 1835-1908)は若い頃から独立運動に加わり、米国での生活も長く、米市民権を得ていた。米西戦争を機に再び活動を始め、1901年の選挙で初代キューバ共和国大統領に選出された。しかし1905年の選挙における混乱から内紛が顕在化し、右掲(→)のような女傑クラヴァ・サントス(Senora Clava Santos)が率いるゲリラ勢力などを沈静化させることができなかった。

米国の軍事長官タフト(William-Howard Taft, 1857-1930)は、フィリピン総督なども歴任し、セオドア・ルーズヴェルトの後継者として第27代の米国大統領(1909-13)となった。

* 参考サイト:
(1)Wikipedia: Tomás Estrada Palma(英文)
(2) Bartleby.com : The Columbia Encyclopedia, William- Howard Taft (英文)
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by utsushihara | 2006-09-29 15:42 | 各国事情1905-06

芸術家のラントレ(4)演劇界

f0028703_18484993.jpg1906年9月

ジェミエとレジャーヌとギトリはそれぞれ自分たちの劇場を開ける。成功の鍵を握る出し物かどうかはまだわからない。

アントワーヌ座は、ジェミエ新支配人のもと9月20日にシーズンの幕を開けた。出し物はエミール・ファーブル作の劇的な展開の生き生きとした作品「公的生活」(Vie publique)の再演である。これは当初ルネサンス座で上演されていたが、当時はジェミエがそこの支配人だった。今回の主な出演者は、バルト嬢、リーズ・フルーリ嬢、ジェミエ氏本人とジャンヴィエ、コラス各氏である。この他、クールトリーヌ、ジュリアン、クーリュス、アルフレッド・カピュ、ド・フレーとカイヤヴェなどの作品の上演を予定している。
f0028703_18491275.jpg
レジャーヌ女史(→)は偉大なサラ(ベルナール)にならってこの冬自分の劇場を持つことになった。舞台に乗せるのは、ポルト=リシュ、マックス・モーレィ、マルセル・プレヴォ、アルフレッド・カピュ、フェイドーなどの作品である。

ルネサンス座の支配人ギトリ氏は、今シーズンはとりわけ重要な作品、モーリス・ドネーの「アルマンド・ベジャール」とアルフレッド・カピュの「行きずりの女たち」などを上演する。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906&No.21; NOV. 1906
画像Crédit d’image : © Archives photographiques (Médiathèque de l'architecture et du patrimoine) © CMN

[ Ψ 蛇足 ]
上掲の戯画(↑)は、1906年に新たに自分で劇場の運営または所有することになった3人の俳優を描いている。昨日書いたオデオン座のアントワーヌも入れて変動を図式化すると下記の通りとなる。

(オデオン座)←アントワーヌ(アントワーヌ座)←ジェミエ(ルネサンス座)←ギトリ
(新作座)←レジャーヌ

劇団の花形俳優が座長のような形で劇場の支配人をしたり、劇場施設を買い取って自分の所有物にしてしまうことは、19世紀末の演劇界に多く見られたようだが、特異な現象だったかどうかはわからない。民衆の娯楽としての演劇やオペラが隆盛を極め、俳優や歌手の社会的な地位も向上したことが背景にあるのかも知れない。f0028703_1850698.jpg
上記のアンドレ・アントワーヌ(André Antoine, 1858–1943)が自由劇場(Théâtre Libre)を買い取ってアントワーヌ座(Théâtre Antoine)と改名して興行を続けたのもそうであるし(関連Blog:アントワーヌ座で「愛に向かって」の上演)、サラ・ベルナールが1893年にルネサンス座を名前を変えずに所有したことと、諸国座(Théâre des Nations)を買って「サラ・ベルナール劇場」(Théâre Sarah Bernhardt)と改名して興行させた(彼女は米国巡業など多忙でパリにいないことも多かった)ことも有名である。

フィルマン・ジェミエ(Firmin Gémier, 1869-1933)は独学で演技力を身につけ、俳優としての初舞台はアントワーヌ座だった。民衆劇(théâtre populaire)を取り上げることに熱心で、1902年にはロマン・ロランの「七月十四日」をルネサンス座で上演したのをはじめ、演出にも実績を積んでいた。(→)
f0028703_18503075.jpg
レジャーヌは、本名ガブリエル=シャルロット・レジュ(Gabrielle-Charlotte Réju, dite Réjane, 1856-1920)といい、パリ生まれの女優で当初は喜劇女優として当り役のサルドゥ作「無遠慮夫人」(Madame Sans-Gêne, 1893)などで人気を博した。その後、アントワーヌの自由劇場の影響を受け、自然主義的な劇作品「ジェルミニー・ラセルトゥ」(ゴンクール)、「パリの女」(ベック)、「人形の家」(イプセン)などに取り組んだ。1895年以降、長期にわたる米国公演には「無遠慮夫人」を引っ提げて行き、絶大な評価を得て彼女の名は国際的な名声をかち得た。上記の記事でレジャーヌが買い取った劇場は「新作座」(Théâtre Nouveauté)で、以後「レジャーヌ劇場」(Théâtre Réjane)と名前を変えて興行が続けられた。(現在では元の名前に戻っている)

リュシアン・ギトリ(Lucien-Germain Guitry, 1860–1925)は多才多芸な俳優として非常に多くの役柄を演じた。ロシアのセント・ペテルブルクの劇場で9年間過ごしたあとパリに戻り、上記レジャーヌの相手役としても組んだ。息子のサシャ・ギトリは俳優と同時に映画人としても有名である。(←)
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by utsushihara | 2006-09-28 18:46 | オペラ、音楽、演劇1905-06

オデオン座の開幕(1906-07)

f0028703_179563.jpg1906年9月

新たにオデオン座の支配人となったアントワーヌ氏は舞台の緞帳も含めすっかり改装となった劇場を再開した。出し物は、モーリス・ドネー氏とリュシアン・デカーヴ氏の共作による異色作「渡り鳥」の再演である。出演は、マルト・メロ嬢、ヴァン=ドレン嬢、グリュンバック女史、シェル氏、ヴァルガス氏などである。

さらにオデオン座ではいくつかの公演のほかに、劇作家による劇作家を語る一連の講演会を企画しており、多くの人々の耳目を引きつけずにはいられないだろう。モーリス・ドネー氏の語る「マリヴォー」、ウジェーヌ・ブリュー氏の語る「モリエール」、ジャン・リシュパン氏の語る「ヴィクトル・ユゴー」、ベルナルダン氏の語る「スデーヌ」が予定されている。この講演会の最初は11月25日のノジエール氏による「アルヌール・グレバン~情熱の本当の謎」(Le Vrai Mistère de la Passion, 1482)についての肩のこらない談話である。
f0028703_17112854.jpg
出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906&No.21; NOV. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像(↑)は、出し物の「渡り鳥」(Oiseaux de Passage)の作者の一人、リュシアン・デカーヴ(Lucien Descaves, 1861-1949)
ちょうど3カ月前に、アンドレ・アントワーヌがオデオン座の支配人に抜擢された記事を載せたばかりである。(関連Blog:アントワーヌ氏、オデオン座へ, 1906年6月)

別の「ラントレ(休暇明け)」の戯画(→)には、《 新たにオデオン座の支配人となったアントワーヌ氏は「ジュリアス・シーザー」を演じる。(まだ詳しくは発表されていないが、出し物に乗るだろう。) 》と書かれている。
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by utsushihara | 2006-09-27 17:08 | オペラ、音楽、演劇1905-06

エジソンと愛車

f0028703_1841068.jpg1906年9月

レコード・蓄音機をはじめ数多くの驚異的な機械の発明家である米国の有名なエジソン氏は、当『ジュセトゥ』誌のインタヴュー(1905年6月号)のあと自動車に夢中になっている。
掲載した写真は、ニュージャージー州オレンジ郡にある彼の工場の前で愛車に寄りかかる彼の姿である。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
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by utsushihara | 2006-09-26 18:10 | スポーツ、乗物、探検1905-06

ドイツ社会主義者大会(1906)

f0028703_1843565.jpg1906年9月23日(日)~30日(日)

ドイツのマンハイムで9月23日から30日にかけて社会主義者大会が開かれている。写真(→)は会議場を馬車で立ち去る指導者アウグスト・ベーベル氏である。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
f0028703_1852819.jpg画像Crédit d’image : © Bilder-Datenbank von WeltChronik.de; August Bebel während des SPD-Parteitages 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ちょうど一年前の1905年9月にもドイツでは社会主義者大会が催されていた。ここで何が議題となっていたのか、などは未詳。写真(←)に大会の写真も引用してみた。
* 関連記事Blog:イエナでドイツ社会主義者大会(1905.09.18)
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by utsushihara | 2006-09-25 17:58 | ドイツ情勢1905-06

黒人への私刑(リンチ)と虐殺

f0028703_1791978.jpg1906年9月22日(土)

9月22日、米国アトランタの市街地において、前日逮捕した黒人2名が仕掛けた暴動に対する報復措置として黒人たちに対する虐殺が行なわれた。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 07 Octobre 1906

[ Ψ 蛇足 ]
* 関連記事Blog:黒人に対するリンチ(1906.04.24)
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by utsushihara | 2006-09-24 17:08 | 各国事情1905-06

週休法の施行(1)

f0028703_18182317.jpg1906年9月23日(日)

働く者に対して一週間に一日の休日を付与する法律(週休法)がこの9月2日に施行されたばかりだが、10日後の9月20日までの間において深刻な混乱はほとんど起きていない。しかしながらこの法律の適用方に関しての数多くの抗議の声がわき起こっている。理髪店やいくつかの銀行ではごく平穏に推移しているのに対し、雑貨店や洋装店、書店では休日を申し出による交代制でしか取れていない。市場などにおいては何らかの妥協点を見出しており、同様に食料品店、レストラン、カフェなどもその方向にある。

一方、この法律をめぐっていくつかの場所で混乱が進行しているという報道もある。9月23日(日)パリでデモ行進に加わっていた何人かが日曜日に店を開けている店舗を襲撃するに至った。その中でメニルモンタンの市場も被害にあい、支配人のルピエートル氏はショックにより急死した。

f0028703_9344072.jpg写真(→)のアルトゥール・フォンテーヌ氏は今フランスでもっとも忙しい人物の一人である。氏は労働・通産省の労働局長として、激しい議論が交わされている週休法の適用解釈に絶えず心配りをしている。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906&No.21; NOV. 1906
画像Crédit d’image : © Le site des Annales des Mines:Les ingénieurs des mines au XIXème et au XXème siècles

[ Ψ 蛇足 ]
百年前だけでなく、ごく最近までもフランスでは日曜日に店を開くということに厳しい制約があったことが記憶にある。観光旅行で週末に訪れた街の商店がことごとく扉を閉めて買い物ができないことに日本では味わえない不便さを感じる人も多いだろう。キリスト教の「安息日」の観念もその日は仕事をせずに教会に行くことも踏まえてこの週休法(La loi sur le repos hebdomadaire)の精神に反映されていたのだろうか。

アルトゥール・フォンテーヌ(Arthur Fontaine, 1860-1931)は、鉱山技師を経て鉱山監察官、そして労働局の官吏だった以外はあまり詳しいことはわからない。文人や芸術家たちとの親交があったようで、夫人のマリー(Marie Escudier-Fontaine)の肖像画がオディロン・ルドンやエドゥアール・ヴィヤールによって何点か描かれている。
*参考サイト:メトロポリタン美術館、ヨーロッパ絵画 Works of Art Odilon Redon; Madame Arthur Fontaine (Marie Escudier), 1901
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by utsushihara | 2006-09-23 18:17 | フランス政治社会1905-06

パン職人のストライキ

f0028703_18161071.jpg1906年9月22日(土)

パン職人のストライキによってモー市の住民たちは、9月21日から22日までの24時間のあいだパンにありつけなくなった。公安部隊の司令官が緊急に軍用のパンを4000個運ばせ、買い込めなかった家庭に配給を行なった。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
モー(Meaux)市は、パリ北東約40kmにある人口6万人ほどの小都市である。ルイ14世時代の聖職者ボシュエ(Jacques-Benigne Bossuet, 1627-1704)はここの司教だった。Site officiel de la ville de Meaux
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by utsushihara | 2006-09-22 18:15 | フランス政治社会1905-06

香港に猛烈な台風襲来(1906)

f0028703_17313588.jpg1906年9月18日(火)

猛烈な威力を持った台風が9月18日香港を襲った。激しい風雨は2時間続き、8千人を超える人々が亡くなった。38隻の船舶が沈没もしくは損壊した。わがフランス海軍の駆逐艦2隻も被害を受けている。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 07 Octobre 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像はプチ・ジュルナル紙の挿絵:暴風雨に見舞われる広東湾内のジャンク船。この時の台風被害については遠く欧州各紙にまで伝えられている。当時は現代に比べればまだまだ防災工事等の面で未徹底で、自然の脅威になすすべがなかったために多くの犠牲者が出たのだろう。
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by utsushihara | 2006-09-21 17:30 | 各国事情1905-06