フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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スペイン国王の婚礼とテロ攻撃

1906年5月31日(木)
f0028703_15482274.jpg

国王アルフォンソ13世と英国王エドワード7世の姪にあたるヴィクトリア=エナ・バッテンベルグ公女との結婚契約書への調印が5月30日、マドリッドから13km離れたパルド城で行なわれた。新郎新婦は3日前からその城に滞在していた。
5月31日、教会での婚礼がパルド市街とマドリッド公園の中間に位置する小さな聖ジェロニモ教会で行なわれた。式を済ませてマドリッドの王宮へ戻る途上で、国王夫妻の馬車がカレ・マヨール88番地の前をさしかかった瞬間、そこの建物の5階から爆弾が投げつけられ、群衆の上で爆発し、一帯は恐ろしい災害現場となった。8人の兵士と11人の市民が死亡し、32人の兵士と24人の市民が負傷した。
国王夫妻は無事だったが、国王の馬車を引いていた馬のうちの1頭が倒れて死亡したため、急遽先行していた馬車に乗り換えて王宮に向かうことになった。
f0028703_15484626.jpg
出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
上(↑)の画像は、マドリッド市街での爆弾が破裂した直後の状況。向かって右手奥でまだ煙が立ちのぼっており、国王夫妻は手前の馬車に乗り換えた。(→)の画像は死亡した馬。
スペイン国王に対するテロ攻撃については、ちょうど1年前の1905年5月31日のパリ来訪の折、オペラ座で観劇の直後、馬車に向けて爆弾が投げつけられ、警護の兵士や市民に犠牲者が出ている。この時の記事はこちらに。同月同日だったことにテロリスト側のこだわりを感じて戦慄を禁じ得ない。
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by utsushihara | 2006-05-31 15:48 | 各国事情1905-06

1906年春季展(サロン)Ⅲ-3:「赤の歓び」

f0028703_18401732.jpg1906年5月30日(水)

今回のサロンで最も感動的で同時に最も重要な作品は、ジョルジュ・ロシュグロス氏の「赤の歓び」であることは疑いの余地がない。彼は過去の情熱を呼び覚ます大きな力と最も素晴らしい色彩表現を持つ画家の一人である。5月30日ロシュグロス氏はこの作品によって最優秀賞を獲得した。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.16; Mai, 1906 & No.17, Juin, 1906
画像 Crédit d’image : ©ADAGP: Photo RMN Agence photographique - ©François Vizzavona/Daniel Arnaudet

[ Ψ 蛇足 ]
ジョルジュ=アントワーヌ・ロシュグロス (Georges-Antoine Rochegrosse, 1859-1938) はヴェルサイユ出身の画家であるが、詳しい経歴は不明である。f0028703_18404429.jpg受賞作「赤の歓び」(La Joie rouge)は、この雑誌の5月号に紹介されていたが、不鮮明ながら大胆な構図で「歓喜の爆発」のような動きが感じられ、受賞は当然うなづけるものがあった。これまた偶然に、RMNのサイトにモノクロながら鮮明な画像(↑上掲)を参照することが出来た。色彩としては赤や黄が主体で描かれたものと思うが、現在この絵の所蔵先は不明のままである。
この画家はしばしば「歴史・伝説上の残虐な出来事」における過激な暴力場面を描く世紀末風の画家の一人と評されているが、ルーアン市立美術館(Musée des Beaux Arts, Rouen) にある古代ギリシア悲劇「アンドロマック」 (Andromaque) を題材とした絵にあるような、見るに耐えない凄惨な作品が記憶に残っている。他にはオペラや自動車ショーの催物のポスター作品も多い。
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by utsushihara | 2006-05-30 18:41 | 美術、彫刻1905-06

モロッコに対するフランスの要求

f0028703_18351488.jpg1906年5月

5月28日、モロッコのタンジールの城門付近でフランス人シャルボニエール氏が殺害された。フランスはモロッコ政府に対して全面的な賠償を要求することを決定した。つまり、10万フランの賠償金の支払と公式な謝罪、犠牲者が倒れた場所への慰霊碑の建立、および殺害犯の捜索と処刑である。
フランスはこれらの要求に圧力をかけるためにタンジールに向けて戦艦3隻を出航させた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
植民地主義の精神が端的に現れて見える事件である。勝手に相手の国に進出して、原因はさておき死者が出たことで多額の賠償請求を文字通り「突きつける」強者の論理である。
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by utsushihara | 2006-05-29 18:34 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

シンプロン・トンネルの開通祝典

f0028703_18153091.jpg1906年5月28日(月)

シンプロン・トンネルの完成を期しての祝典が28日スイスのローザンヌで開かれた。スイス連邦議長のフォラー氏とイタリアの前外務大臣のグイッチャルディーニ氏によって演説が行なわれた。6月1日にはジェノアでも祝典が開かれる。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は、シンプロン・トンネルのスイス側イゼル入口での祝祭風景。
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by utsushihara | 2006-05-28 18:13 | 各国事情1905-06

コルネイユの史劇「ポリュークト」上演

f0028703_18415398.jpg1906年5月27日(日)

コルネイユの「ポリュークト」が5月27日、北アフリカのカルタゴの古代劇場で上演された。ベドゥイン族がこの劇場の廃墟を採石場としており、その破壊行為を非難するための示威運動としての公演である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ピエール・コルネイユ(Pierre Corneille, 1606-1684)はフランス古典演劇の父と称される人物であるが、その活躍は17世紀、ルイ13世やルイ14世の時代であった。代表作は「ル・シッド」(Le Cid, 1636)のほか、三大悲劇とされる「オラース」(Horace, 1640)、「シンナ」(Cinna, 1641)、「ポリュークト」(Polyeucte, 1642)のほか、喜劇作品も残している。
誕生日は1606年6月6日と6づくしで覚えやすいが、1906年でちょうど生誕300年を記念する催しが行なわれ、記念碑の落成や上記にあるようなカルタゴの野外劇場での公演、また6月初めにはパリで「コルネイユ週間」(La semaine Corneille)として、コメディ・フランセーズを中心に記念公演が予定されていた。
知名度では「ル・シッド」が一番よく知られているが、19世紀のフランスでは、ローマ帝国時代のキリスト教殉教者の物語である「ポリュークト」がドニゼッティ(Poliuto, 1840)やグノー(Polyeucte, 1878)によってオペラ化されている。
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by utsushihara | 2006-05-27 18:40 | オペラ、音楽、演劇1905-06

ベルギーの総選挙

1906年5月27日(日)

5月27日、ベルギーで国会議員の選挙が行なわれた。今回は定数166名のうち約半数85名の議席の改選である。結果はカトリック派51名、自由主義派23名、社会主義派11名であった。カトリック派は改選前より4議席を失ったが、依然として過半数を12議席上回る多数派となっている。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
国が異なるだけで政治の世界も大きく様相が異なっているように思える顕著な例である。
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by utsushihara | 2006-05-27 18:16 | 各国事情1905-06

ロシア議会と政府の対立深まる

f0028703_18393652.jpg1906年5月26日(土)

5月26日の議会は、誰もが国会と政府との間で衝突が起きることを予見する中で開催された。首相のゴレミキン氏が登壇し、長文にわたる演説文を読み上げた。これは皇帝の演説に対して議会から出された建議書への回答であり、政府としてはそのすべての要求をごく単純に拒絶するものであった。
特赦の拒絶、選挙制度改革の拒絶、思想信条の自由と個人の自由を保証する法案提出の拒絶、農地改革問題における農民に満足を与える法案の拒絶、そして特権を保護する法律の廃止の拒絶である。
この回答書の読み上げで議場は嫌悪に満ちた空気に包まれ、そのあとのすべての発言者たちは例外なくこの政府答弁を厳しく非難する意見を陳述した。さらに国会は鳴り止まぬ拍手喝采の中で、全閣僚の即時退任と議会の大多数の信任を得た人物による組閣を要求する決議案を(7票を除く)全員の賛成をもって採択した。議会には内閣の罷免権が無いのは十分知った上でのことである。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は、内閣解任決議をしたあとで群衆に挨拶を送る議員たち。
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by utsushihara | 2006-05-26 18:38 | ロシア帝政末期1905-06

ルソーの私生活の劇化

f0028703_18253932.jpg1906年5月28日(月)

エドゥアール・ロッド氏による3幕劇「改革者」(Réformateur)が5月28日、作品座で上演された。この作品はジャン=ジャック・ルソーの私生活を劇化したものであるが、内容としては当然ながらルソー自身の著作ほど堅苦しいものではなく、劇的な展開で感動を誘う上々の出来である。主演は、カミーユ・ベール氏とカルメン・ド・レジー嬢である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906
画像Crédit : Ernest Biéler : Portrait de l’écrivain Edouard Rod, 1909; Musée cantonal des Beaux-Arts, Lausanne. エルネスト・ビエレ作「作家エドゥアール・ロッドの肖像」ローザンヌ美術館

f0028703_18261280.jpg[ Ψ 蛇足 ]
エドゥアール・ロッド(Edouard Rod, 1857-1910)は、スイスのローザンヌ近郊出身の作家である。パリでゾラの自然主義文学を受け継ぐ作家活動のほか、雑誌の編集にもたずさわる。のちにジュネーヴ大学で比較文学の教授も務めた。ゾラの影響から離れて、個人の意識の葛藤、情熱と義務感との抗争、諦念の美徳などを主題とした美しい作品を書いた。日本では昭和初期に「水と焔」という抄訳作品で紹介されたのみである。アカデミー会員に選ばれたが、スイス国籍ゆえに辞退した。1906年に「ルソー事件」(L’Affaire J.J.Rousseau, 1906)という評伝を出しているが、それと同時に上記の劇作も発表した。Wikipedia に人物紹介がある。(英文):Edouard Rod
さすがにアカデミーに選出されるだけあって、Gallicaの電子図書としても数点収められている。
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by utsushihara | 2006-05-25 18:22 | オペラ、音楽、演劇1907-08

文筆家ヴァノー氏の急逝

f0028703_16585947.jpg1906年5月24日(木)

詩人で評論家でもあるジョルジュ・ヴァノー氏は、5月24日脳溢血のため死去した。1865年生まれの41歳であった。氏には、詩集「天国」(Les Paradis)、劇作「ル・シッドの墓」(Le tombeau du Cid)、そしてワーグナーに関する評論「芸術の巡礼」(Pélerinages d’art)などの著作がある。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ジョルジュ・ヴァノー(Georges Vanor, 1865-1906) のほかにも夭折した作家たちの記事が掲載されているのを目にすることが多い。40歳代になったら「中高年」で、心臓発作や脳卒中は当然起こりうる、というのが百年前の常識であったようだ。
ヴァノーという文筆家のことも今日ではほとんど知る人はいないが、Gallica の電子書庫には「象徴主義芸術」L’Art symboliste という評論が1点だけ入っている。

人間の寿命というものは、才能と同じように、天からの授かり物であるとの実感が年をとるにつれて強くなってきた。才能のほうは、どのように発揮できるかで結果がうまく出せる場合と、そうでない場合がありそうだ。しかし生きる時間が限られれば限られるほど結果を残す機会は失われてしまう。30~40歳代で世を去っていく有能な芸術家・作家は現代でも少なくないが、無念だったというよりも、少なくとも彼らの記録が残されているだけでも「良し」とすべきなのだろう。
「あなたたちのことはちゃんと知っていますよ」という存在証明ほど人間にとって嬉しいものはない。
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by utsushihara | 2006-05-24 17:02 | 文芸、評論1907-08

劇作家イプセンの死

f0028703_2226211.jpg1906年5月23日(水)

スウェーデン(*)の有名な劇作家ヘンリック・イプセンは5月23日に死去した。1828年3月の生まれ、78歳だった。近代演劇の動向に多大の影響を与えた。主要な作品は「人形の家」(1879)、「幽霊」(1881)、「民衆の敵」(1882)、「野鴨」(1884)、「ペールギュント」(1867)などである。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.17; Juin, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ヘンリック・イプセン(Henrick Ibsen, 1828-1906)の作品は日本でも1909年に小山内薫らの新劇運動によって紹介され上演された。近代演劇史上最大の作家の一人である。
* 上記の記事ではスウェーデンの作家と書かれているが、当時はまだスウェーデンとノルウェーの分離がやっと前年(1905)9月に合意に達したばかりで、ノルウェーの新国王も12月に迎えられたところであったことが背景にある。スウェーデンとノルウェーの分離(2) もちろん、現在ではノルウェー最大の劇作家である。
パリではちょうどこの年の5月にアントワーヌ座で「野鴨」(Le Canard sauvage)が再演されており、ジィドの日記でも観劇の記録がある。なぜか「ジュセトゥ」のこの時期の演劇欄には記事がまったく載っていない。再演のものだからであろうか。

** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1906年5月5日より引用:
・・・ところで、アントワーヌ劇場では『野鴨』を上演していることが分ったので、青年達とブールヴァールを歩いて行く。こうした止むを得ない事情でもなければ、行く気にはならないのだが、でもやっぱり観たい気がした。私は、アントワーヌ劇場には、一寸だけ寄り、(・・・)別れるつもりだった。ところが、この異様な劇は、最初見た時のように、私の心をとらえた。そこで私はもう腰が上げられなくなった。(・・・)

** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1906年5月14日より引用:
・・・そこで今度は、元気を取り戻すために、早速、『野鴨』の最後の二幕を読み返す。(・・・)
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by utsushihara | 2006-05-23 22:21 | オペラ、音楽、演劇1907-08