フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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ベンジャミン・フランクリンの銅像

f0028703_14175819.jpg1906年3月

パリのパッシ-地区にあるフランクラン街*の入口にベンジャミン・フランクリンの銅像が設置され、近々に落成式が行なわれる。彼は1776年のアメリカの独立宣言直後にフランスにおける同国代表として駐在した人物で、その住居があった街路に彼の名前がつけられている。
この像は完全な銅製で米国フィラデルフィアの中央郵便局の前に設置されたものの複製である。高さは2m50で、同じ銅製の台に腰をかけた姿である。鋳造費用は5万フランであり、アメリカの銀行家ジョン・ハージェス氏によってパリ市当局に贈呈されたものである。
f0028703_22342363.jpg
出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像はフランクリンの銅像の複製。現在でもフランクラン街*の入口というよりはトロカデロ広場の南端にある緑地の中に認めることができる。(Kazyusaさん提供)
ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Flanklin; 1706-1790)は必ず偉人伝に加えられる人物の一人であるが、政治家、文筆家、科学者などの多様多才な側面を持っていた。アメリカ独立宣言文の起草者の一人である。アメリカ独立戦争の最中1776年秋にパリに入り、米国に対するフランスの支援を引き出すという外交手腕で大きな成果をあげた。
岩波文庫にも入っている『フランクリン自伝』を昔読んだことがあるが、「もしこれまでに送った人生をもう一度繰り返せと言われたら私は喜んでそうするだろう。」という言葉だけが記憶に残っている。京都大学歴史研究会のHPにある「ベンジャミン・フランクリン」に略伝が要領よくまとめられている。
*街路名のフランクランとは Franklin のフランス語読みで、タクシーの運転手もそのように発音している。
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by utsushihara | 2006-03-31 14:12 | 美術、彫刻1905-06

炭鉱夫たちのストライキとクリエール炭鉱からの生存者

f0028703_14121435.jpg1906年3月30日(金)

ノール(北)、アンザン、パ・ド・カレの3つの炭田の炭鉱夫たちは、3月29日スト権確立のための投票を行ない、賛成32520票、反対18074票の結果となった。

また3月30日には、クリエールの災害現場から13名の生存者が救出された。彼らは事故発生から約20日間のあいだ坑道の水と腐った肉と燕麦とで食いつないだという。他の坑道からの生存者の声も聞こえたという噂も出ている。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906
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by utsushihara | 2006-03-30 14:11 | フランス政治社会1905-06

「アフロディト」初演

f0028703_16333671.jpg1906年3月27日(火)

ピエール・ルイス氏による有名な小説「アフロディト」をもとにルイ・ド・グラモン氏が制作した抒情詩劇「アフロディト」は、カミーユ・エルランジェ氏作曲の音楽とともに27日オペラ・コミック座で上演された。演出家のアルベール・カレ氏はこの作品を美的感覚あふれる完璧さで仕上げている。出演は、メアリー・ガーデン嬢とベイル氏である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
原作者のピエール・ルイス Pierre Louÿs (1870-1925)がこの小説を出版したのは1896年だが、もともと劇作品としてサラ・ベルナールのために書いたものであった。内容は、19世紀に好まれた異国趣味と世紀末的な退廃の美を取り混ぜた、紀元前1世紀のアレキサンドリアの遊女たちを描いたエロティックな古代風俗スケッチである。
Méditerrannée という地中海文化にしぼったテーマのサイトの中に「古代文明に着想を得た文学作品」 (Oeuvres littéraires d'inspiration antique)として19世紀の作家たちの作品が読める。ルイスの妖艶な作品群も挿絵付で参照できる。
f0028703_1634789.jpg
画像は「アフロディト」(Aphrodite)に出演したメアリー・ガーデン(Mary Garden; 1874-1967)。内容が内容だけにこの年のオペラ界にセンセーションを巻き起こした。彼女はアメリカで育ったが声楽の勉強のためパリに移った。経歴としては1900年のシャルパンティエの「ルイーズ」の初演、1902年のドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」の初演でメリザンドを歌い、たちまち人気歌手となっていた。 (Mary Garden:英文)彼女の20世紀初頭に果たしたオペラ歌手としての役割は大きい。

ルイ・ド・グラモンLouis de Gramont (1861-1923)については、オペラの台詞家として以外は詳しくはわからない。先般、ハイネ原作の音楽劇「ウィリアム・ラトクリフ」として紹介した作曲家グザヴィエ・ルルーの台本作家として言及されていた。他にマスネのオペラも手がけたようだ。

作曲者のカミーユ・エルランジェ(Camille Erlanger; 1863-1919)も今ではほとんど知られていないが、パリ音楽院でドリーブに師事し、1888年ローマ賞を獲得した。そのローマ留学の成果として作曲された「修道士聖ジュリアン」(Saint Julien l’Hospitalier)は、文豪フローベールの短篇をもとにした3幕7場の音楽劇で一躍名声を高めた。これら以外の作品に特に目立ったものはない。
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by utsushihara | 2006-03-29 19:28 | オペラ、音楽、演劇1905-06

アルヘシラス国際会議の閉会

f0028703_15354873.jpg1906年3月27日(火)

その開催から72日間続いたアルヘシラスの国際会議は、3月27日に予定に組まれていた議案の主要な点で各国代表団が合意に達することができた。
ドイツは、モロッコ国内の8つの港湾で治安維持のために警察機構の国際化を訴えたが、この機構に関してはフランスとスペインの士官たちに委任されることが決議され、総員2500名を超えないモロッコ軍兵士を指揮下に置くこととなった。ドイツはこの警察機構を監督する査察官を直接、外交勢力の管理下に置くことを望んだが、会議ではこの査察官をスルタン(君主)の直轄とし、単にその報告書の写しを外交勢力に伝えることと決定した。査察官はスイスまたはオランダからとなる予定である。
また、モロッコ国立銀行についてはフランスの政府と金融機関が分担して関税収益について管理を継続することが了承された。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は、散歩道でくつろぐドイツ代表団。モロッコ代表の横にタッテンバッハ伯爵と駐スペイン大使秘書官のウィルヘルム・フォン・ラドウィッツ父子。
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by utsushihara | 2006-03-28 15:31 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

霧の画家カリエール死去

f0028703_1633248.jpg1906年3月27日(火)

巨匠ウジェーヌ・カリエールが27日に死去した。我々は春のサロンに出展された彼の最後の作品に敬意を表するものである。しかしながらこの画家の最高傑作としては「母性」と「幼少期」を挙げるべきであろう。ジュフロワによれば「彼は正確で幻想的な肖像画家で、彼を前にした人物の秘密を巧みに捉えることができる。」と語っている。一生涯をかけたソルボンヌ大学とパリ市役所とベルヴィル劇場の装飾に加えて、彼の悲壮な作品「キリストの死」は大家たちの画業に並べうる傑作である。
さらに彼は自画像を含めた秀れた肖像画の作品を残している。その中には、アルフォンス・ドーデ父娘、ポール・ヴェルレーヌ、ギュスターヴ・ジュフロワ、エルネスト・ショーソンなどがある。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ウジェーヌ・カリエールEugène Carrière(1849-1906)については、この百年前の死亡記事を目にするのと前後して展覧会のポスターを見かけて驚いたのが最初である。そのポスターとは、折しも今2006年3月~6月にかけて東京上野の国立西洋美術館で開催されている毎日新聞社主催のロダンとカリエール展のもので、HPでも豊富な情報が見られる。
ロダンの親友だったことは、松本さんの 発見記録Blogでも教わった。
1890年頃にロダンやピュヴィス・ド・シャヴァンヌとともに「芸術家協会」を設立した。カリエールの開いた画塾でマティスや野獣派の画家たちが学んだ。印象派とはまったく異なる神秘的・象徴派的な画風で、ロンドン旅行で感銘を受けたターナーの霞がかったタッチからも影響を受けたようだ。しばしば霧の効果(l’effet de brouillard)と言われる対象がぼんやりと茶色にかすんだ独特の味わいを出した画家である。画像は「アルフォンス・ドーデ父娘」(オルセー美術館蔵)
不思議なことに、上記で傑作と言われた「キリストの死」(Mort du Christ)のことは今どこにあるのかが未詳である。上野の展覧会では「母性」(Maternité)を見ることが出来るようだ。
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by utsushihara | 2006-03-27 16:31 | 美術、彫刻1905-06

「愛らしい女」の上演

f0028703_14592191.jpg1906年3月26日(月)

ロマン・クーリュス氏の4幕劇「愛らしい女」は26日ジムナズ座で上演された。若い寡婦に心を奪われた一人の老人の話である。しかしその彼女は数ヶ月間関係を持ったあと彼から離れてしまう。みじめな老人は失望のあまり自分の娘に悩みを打ち明ける。娘はその寡婦を探し出すが、当の彼女は以後老人とは「大切なお友だち」としての関係になろうとする。この機知に富んだ、巧妙に組み立てられた作品は、その主題の奔放さに少々衝撃を受けるが、多くの観客を大いに引きつけている。
出演は、ユグネ、デュメリ両氏とマルト・レニェ嬢である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
作者のロマン・クーリュス(Romain Coolus; 1868-1952)は、本名をルネ・ヴァイル(René Weill)といい、画家ロートレック(Henri de Touleuse-Lautrec; 1864-1901)と最も親密な友人の一人であった。ナタンソンの主宰する雑誌「ルヴュ・ブランシュ」の執筆陣にも加わった。二人は一緒に観劇に行き、また女たちの部屋にも足繁く通った。クーリュスは物書きにはそこが一番静かな場所だと言い張ったという。ロートレックはクーリュスの本のために表紙絵を何枚か描いている。画像はロートレックによるクーリュスの肖像画の一つ(1899)。「愛らしい女」(L’Enfant chérie)はクーリュス38歳の頃の作品である。ロートレックは5年前に亡くなっている。
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by utsushihara | 2006-03-26 14:56 | オペラ、音楽、演劇1905-06

文豪フローベールの書簡集

f0028703_18204473.jpg1906年3月

文豪ギュスターヴ・フローベールから姪のカロリーヌに宛てた未発表書簡集の出版は文芸愛好家の間でも大いに熱望されていたものである。この文豪が並外れた仕事で疲れ切っていても、その素晴らしい筆先から落とされたもので無関心に見過ごせるものはない。
彼の書簡集についてはすでに出版されたものもあるが、「姪のカロリーヌへの手紙」の数々は、よりくつろいだ、より親密な、より家族的なもので、この大作家の仕事と生活により近く入り込ませてくれる。
何という生き方であろうか!何という労苦であろうか!何の喜びもなく、何の気晴らしもなく、そのうえ書き物机を拷問台に置き換えた1日12~14時間のすさまじい苦役。情熱を集中させて30~40ページの原稿から、削除し、再適用し、もみくちゃにし、引き裂き、書き直して1週間でやっと合計6ページにしかならないのである。この完璧さを追求する神々しい欲望は、フローベールを文学的な良心の最高のモデルと見なすことになる。
それに何という哀しさ、何という失望なのか。この文芸に捧げた人生の晩年に、これまであらゆる金銭に対する心配から遠ざかっていたのに、生計の破綻が到来して彼は働き口を探すことになる。結局、名誉職的な司書の地位で受け入れてくれることが決まって、彼は赤面しながら受諾する。
これらの手紙はどんな小説よりも読む人を引きつけ、あらゆる日常茶飯事からかけ離れて己の芸術ためのみに生き、ストイックに死んでいった真実の主人公を目の当たりにすることができる。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
フローベールGustave Flaubert (1821-1880)は58歳で執筆中脳出血で急死したが、死後25年経ってようやく個人的な書簡集が出版されてきた頃である。前の年にジョルジュ・サンドとの往復書簡集が出て話題となっていた。この「姪カロリーヌへの手紙」(Lettres à sa nièce Caroline)はフローベールの日常生活を知る貴重な文献であるばかりか、作家の個性あふれる心情に触れることのできる書簡集である。
恐らく日本では過去に出版された「フローベール全集」のうちの書簡集として抜粋が訳されていると思う。画像は1906年の出版当時、国立図書館に納入されたものの表紙である。BNF-Gallicaの電子図書としてネット参照できる。(No.80181 : Lettres à sa nièce Caroline)文面はやさしい筆致で書かれている。このような資料を残してくれた姪のCaroline Franklin-Grout に感謝すべきだろう。

** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1906年4月8日より引用:
・・・それから外出して森の門をくぐる。モンテーニュと、フローベールの『姪への手紙』を手に持って。私はこれを、とっつきの空いたベンチの上で書いている。いい天気。空気は吸い込むと甘い。
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by utsushihara | 2006-03-25 18:19 | 文芸、評論1905-06

レオン・ブルムの演劇評論集

f0028703_1521119.jpg1906年3月

レオン・ブルム氏はこのたび「劇場にて」というタイトルで評論集を出版した。最近の劇作品に関する賢明で奥深い評論で、著名なアルフレッド・カピュ、オクターヴ・ミルボー、モーリス・ドネー、ウジェーヌ・ブリュー、ポール・エルヴュー、ダヌンツィオ、マルセル・プレヴォらの作品を取り上げており、これらのほとんどが単純な心理学上の、あるいは社会的な、さらには政治に関わる白熱した論議を呼び起こしている。初演当日の感想を時間に迫られた記者が大急ぎで適当に書いた評価ではなく、イプセンの美しい言葉によれば「深海の淵」にまで届くくらい芝居に熱中した批評家がじっくりと頭を引いて注意深く丹念な考察を行なった結果である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
レオン・ブルム(Léon Blum, 1872–1950)はむしろ政治家として名を残した人である。パリのユダヤ系の商家の子として生まれ、大学で法律を学んだが、早くから文学的才能が認められていた。ここの記事にある「劇場にて」(Au Théâtre)は演劇評論集で1905年から1911年まで4巻出されたものの恐らく最初の巻と思われる。このとき彼は34歳。少し遡るが、反ユダヤ主義運動と関連する「ドレフュス事件」を契機に政治の世界に入り、後年、人民戦線内閣(1937~38)の首相や第二次大戦直後の臨時政府首班をつとめることになる。(Léon Blum)

同時代に活躍した作家で名前が非常に似通ったレオン・ブロワ(Léon Bloy; 1846-1917)がいるがまったくの別人である。しかも厄介なのは、こちらの方が熱心なカトリック信者で、こちこちの反ユダヤ主義的な論客で知られたことである。
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by utsushihara | 2006-03-24 15:19 | オペラ、音楽、演劇1905-06

英仏対抗ラグビー戦(1906)

f0028703_17224553.jpg1906年3月25日(日)

イングランドとフランスのナショナルチーム同士がラグビーの試合で初対決を行なった。イングランド・チームは、アイルランド、スコットランド、ウェールズの各チームに対して「英国のバラ杯」を防衛した強豪であり、パリに来てフランスの主立ったチームからの選抜者たちで編成されたメンバーとの対決となった。結果はフランス・チームが8対35で惨敗した。前半ではまったくと言っていいほどチームの連係プレーなされておらず、後半で盛り返したものの、為すすべが無かった。次回の試合では、フランスの旗を守り抜くには力のバランスの取れたメンバーの編成が不可欠である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は、3月25日、パルク・デ・プランス競技場での試合の様子である。フランク族はアングロ=サクソン族に比べればボール競技を得意としない、というよりもアングロ=サクソン族がよりボール競技に強いDNAを持っているのではないだろうか?
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by utsushihara | 2006-03-23 17:21 | スポーツ、乗物、探検1905-06

プッチーニの「マノン・レスコー」仏語版の上演

f0028703_1117772.jpg1906年3月22日(木)

プッチーニの叙情的な歌劇「マノン・レスコー」のフランス語版が3月22日南仏ニース公営カジノ場で上演された。台詞はモーリス・ヴォーケール氏によるものである。出演者は、シャルロット・ウィンス女史、コンスタンティーノ、デュイリオン両氏である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は、ヒロインのシャルロット・ウィンスCharlotte Wyns (1868-19xx) (Courtesy of the National Library of Australia) と仏語版「マノン・レスコー」のピアノ譜の表紙。1906年パリ、リコルディ社刊。台詞家モーリス・ヴォーケールの名前も見える。シャルロット・ウィンスはフランスのメゾ・ソプラノ歌手。カルメン役と「カヴァレリア・ルスティカーナ」のサントゥッツァ役で人気があった。
f0028703_1118270.jpgもともとイタリア語の「マノン・レスコー」(Manon Lescaut)の初演は10年以上前の1893年にトリノで行なわれていた。プッチーニGiacomo Puccini(1858-1924)が次々と傑作を生み出す最初の作品となった。すでにマスネ作曲のオペラ「マノン」が1884年に世に出ていたのにもかかわらず、同一題材のオペラをあえて競合させることになるのだが、昔からオペラの世界はそうした功名や陰謀の渦巻くところだったようである。
フランス語のオペラとして依頼された作品でも現代ではイタリア語台本に書き直したほうが一般的に公演されているのが多いのは、音楽的な言語(伊)と朗読的な言語(仏)との特性の差ゆえではないだろうか。ここの「マノン・レスコー」仏語版も今ではほとんど顧みられることはない。
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by utsushihara | 2006-03-22 11:05 | オペラ、音楽、演劇1905-06