フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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エイテル皇子の結婚

f0028703_16184145.jpg1906年2月28日(水)

ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の次男エイテル=ウィルヘルム=フリートリッヒ皇子(23歳)は2月28日ベルリンにて結婚式を挙げた。花嫁はオルデンブルク公女ゾフィー=シャルロッテで皇子よりも4歳年上である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avril, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
皇子エイテル=ウィルヘルム=フリートリッヒ Prinz Eitel-Wilhelm-Friedrich (1883-1942) は軍部の要職(第一近衛連隊司令長官)に就いたようである。第一次大戦後は隠遁生活を送った。ゾフィー=シャルロッテ・フォン・オルデンブルク Sophie-Charlotte von Oldenburg (1879-1964) とは20年後の1926年に離婚し、それぞれ再婚している。こちらも名門の出であった。
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by utsushihara | 2006-02-28 16:16 | ドイツ情勢1905-06

ロニー兄弟の「重荷の下に」

f0028703_17304859.jpg1906年2月

J.H.ロニー兄弟の代表作の一つとも言える「重荷の下に」が出版された。この偉大な美しさに満ちた社会小説の中身を数行でまとめることは不可能である。それは人生の勝者と敗者との間で繰り広げられる幸福なあるいは悲しむべき争いごとに、一人の医者が職業柄かかわることになる話である。
そこに出てくる多くの総体的な人物像のうちで注目されるのは、ごく原初の暗い文明にとどまったままの野蛮人で、結局は人殺しをしてしまう人物や、心広く腕力も強い計り知れないほどまじめで善良な労働者の姿である。これはゴンクール兄弟によれば「現代小説」という小説の様式となっている。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
19世紀後半のフランスでは兄弟そろって文学界で活躍することが流行したのだろうか。古くは兄エルネストを頼ってパリに出てきたアルフォンス・ドーデから始まり、ゴンクール兄弟、ロニー兄弟、マルグリット兄弟が挙げられる。

ロニー兄弟の場合には、筆名を一つにし、J.H.Rosny とした。これは兄のJoseph Henri の頭文字から採ったようだ。二人ともブリュッセル生まれで、本名はジョゼフ=アンリ・ベクスJoseph-Henri Boex (1856-1940)とセラファン=ジュスタン・ベクスSéraphin-Justin Boex (1859-1948) という。初めは自然主義的な小説で文壇に登場したが、以後、社会小説、科学小説、空想小説(先史時代を含む)を書き、SF・ファンタジーの分野の先駆者と言われる。
「クシペユ」(Les xipehuz)など短篇の邦訳も数点ある。「人類創世」(La guerre du feu)は映画化・漫画化もされている。上記の「重荷の下に」(Sous le fardeau)はその時以降注目されていない。

兄弟が別々に書くことになるのは1909年以降のことで、J.H.ロニー兄 J.H.Rosny aîné とJ.H.ロニー弟 J.H. Rosny jeune に分かれて活動を続けたが、知名度は兄の方がやや上手である。画像は兄。
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by utsushihara | 2006-02-27 17:31 | 文芸、評論1905-06

「砂上の足跡」

f0028703_17275573.jpg1906年2月

ポール・マルグリット氏は象徴的な題名「砂上の足跡」の中で幼少期の思い出を語っている。これはアルジェリアの光あふれる澄んだ青空のもとでマルグリット将軍の息子がゆっくりと世界に目ざめていく過程を描く自伝的な作品である。
家族の歴史に光をあてるために、著者は簡潔で想起力のある文体で各年代の様相を描き出すことを考えた。力強く単純な形で書かれた父親マルグリット将軍の死の顛末ほど心打たれる箇所はない。また、少年時代が終りをつげる箇所は、光に満ち、詩情に富んだ言葉で余計な文章修辞なしに語られ、描写の正確さと真剣さへのたゆまぬ気配りが感じられる。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ポール・マルグリット(Paul Margueritte, 1860-1918)は、アルジェリア生まれ、父親のマルグリット将軍 (Général Jean-Auguste Margueritte, 1823-1870)が駐在していた時代である。上記で父親の戦死の場面とは、普仏戦争のスダンの戦いで瀕死の重傷を負い、ベルギーで死去したことを言う。
6歳下に弟のヴィクトル (Victor Margueritte, 1866 -1942)がいるが、兄弟で文学に志し、一時期は連名で作品を発表した。 (Wikipedia: 英文)

またまた酷な話だが、上記の「砂上の足跡」(Les pas sur le sable)は、このときの出版以後はすっかり埋没している。画像はポール・マルグリット、不鮮明な写真しか残っていないようだ。
また弟のヴィクトルは、兄ポールの死後、長く文筆活動を続け、代表作「ラ・ギャルソンヌ」(La Garçonnne, 1922)で平気で次々と男を変えていく自由奔放な女性を描いて大評判となるとともに、スキャンダラスな作家として顰蹙を買った。
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by utsushihara | 2006-02-26 17:23 | 文芸、評論1905-06

モーツァルト生誕150年「ムジカ」特別号

f0028703_17552277.jpg1906年2月25日(日)

モーツァルトの生誕150年を記念して、彼の作品のみで構成された音楽祭が、来たる3月末、新劇場(ヌーヴォ・テアトル)で開催されることになった。
雑誌「ムジカ」は2月25日に特別号として発売されるが、全巻モーツァルトに関する記事、評論、100枚の画像、そして何よりも彼の傑作の楽譜等で満載となっている。
記事の執筆者の中には、ガブリエル・フォーレ、レイナルド・アーン、カミーユ・ベレーニュ、ワンダ・ランドフスカのほか、ジョルジュ・ピオクによる「モーツァルト頌歌」も入っている。また付録として「魔笛」の46ページにわたるスコアの小冊子が付いている。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
現代の今年(2006)もモーツァルトの生誕250年を記念するさまざまな企画が行なわれているが、ちょうど百年前も同じような盛り上がりがあったというのは興味深い。生誕地のザルツブルクをはじめ、モーツァルト自身がかつて求職活動のためにパリを訪れたことからしてもこの盛り上がりは当然と考えられるが、ロンドンでもこの年に記念音楽祭が開かれている。
この年ザルツブルクの音楽祭を訪れたフランス人文筆家ダネ(ChristianDanet)の一文が別の雑誌「ヌーヴェル・ルヴュ」(La Nouvelle Revue; 15 Sep.1906 )に掲載されている。 [Les fêtes de Mozart à Salzbourg ]
「モーツァルトをやること、そして他をやらないこと:それは栄誉に包むとか祝福するとかの名目で彼をより偉大にさせることではない。ベートーヴェンやワーグナーの高みに引き上げたいという恥ずべき時代錯誤を犯すことではない。彼の生誕150年祭をザルツブルクで行なうのは、モーツァルトの天才への敬意を表する意義があるからである。」

何よりも1906年と2006年では百年のへだたりがあるが、この百年間でモーツァルトに匹敵する、もしくは超越する音楽家がほとんどいないという事実が、こうした「時差なし」のような感覚に通じるのかもしれない。
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by utsushihara | 2006-02-25 17:49 | オペラ、音楽、演劇1905-06

アルヘシラス会議(続報2)

1906年2月24日(土)
f0028703_17424889.jpg2月18日にドイツはフランスの提案に対して型通りの拒否の回答をし、逆提案はまったく出してこなかった。
実際のところドイツは、デルカッセ氏の外相辞任以降に始められた交渉で用いている戦術を変えることはなく、フランスのモロッコ政策に対して何一つ特例を認めようとしていない。しかしドイツが強硬に主張しているのは警察制度だけではなかった。2月20日ドイツ代表団は会議事務局にモロッコ国立銀行の設立に関する議案を提出した。しかしこの内容はフランス側の権益に真っ向から対立するもので、ルヴォワル氏はただちに別の議案の提出によって対抗した。
22日、銀行の案について討議が開始された。スペイン代表はフランス案を支持した。24日、モロッコ側から自分たちの手で修正した議案を提出したが、表現の中でフランスの権益が望ましいのは認めたものの、ドイツ側からの示唆が加わったもののように思われた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像はアルヘシラス国際会議風景。
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by utsushihara | 2006-02-24 23:40 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

サン=サーンスの新作オペラ「祖先」

f0028703_22134751.jpg1906年2月24日(土)

モンテカルロ劇場では24日、カミーユ・サン=サーンスの新作オペラ「祖先」の公演があった。台詞はオージェ・ド・ラッシュである。新聞は一斉にこの作品が爆発的な成功をもたらしたことを祝福した。この話はコルシカ島で繰り広げられ、かなり劇的な展開があり、巨匠サン=サーンスは「サムソンとデリラ」とはまったく異質のオペラを書き上げた。ガブリエル・フォーレ氏はフィガロ紙で、またゴーティエ=ヴィラール氏はエコー・ド・パリ紙で畏敬の念をもって称賛している。
舞台はフェリア・リトヴィンヌ、ファラール、ルノー、ルッセリエールらのすぐれた歌唱で演じられている。それは例によって演出家のラウル・ギュンズブール氏の力量によるものと見なされている。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
この時のサン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)の年齢はちょうど70歳である。組曲「動物の謝肉祭」などエスプリに満ちた音楽を作った。オペラでは1873年(38歳)のときにドイツのワイマールで初演された「サムソンとデリラ」(Samson et Dalila)が有名だが、それでも作曲の完成後、フランスではなかなか上演の機会が訪れなかった。「サン=サーンスの墓」という丁寧なサイトがあるが、その中の記述によれば、聖書を題材とした作品はフランスでは宗教を冒涜するもので感心されなかったという。フランス人の保守性、カトリック精神の堅固さを感じさせる。
サン=サーンスのオペラ作品は全部で10曲余りを数えるが、「サムソンとデリラ」以外は現在では劇場で取り上げられるのは皆無に近い。記事本文の「祖先」(L'ancêtre)も録音されているものはまったく無い。
上記の記事で当時絶賛されたというのは本当なのか?と思われるが、すでに大作曲家として名声を確立していたサン=サーンスが新作を発表したと言えば、それだけでニュースとなった事情は、いつの時代でも同じだろうと思う。

なおサン=サーンスと10歳年下のフォーレとの親交は知られている。フォーレは作曲活動のかたわら、フィガロに音楽時評を長年にわたり書き続けていた。

画像はこのオペラで主役を歌ったフェリア・リトヴィンヌ (Felia Litvinne, 1860-1936)。ロシア生まれだが15歳でパリに出て、声楽の勉強後オペラ歌手となった。ドラマティックな美しい声のソプラノである。ヴェルディのほか、特にワーグナーの作品を得意とした。
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by utsushihara | 2006-02-24 22:10 | オペラ、音楽、演劇1905-06

ルーヴィエ首相の演説

f0028703_17483239.jpg1906年2月23日(金)

2月23日の下院議会においてモーリス・ルーヴィエ氏はモロッコ問題に対する討論を拒んで、アルヘシラス国際会議におけるフランス代表団に与えられる指図はすべて彼が議会で表明した所信に合致したものであると断言した。彼は拍手と歓声の中で「フランスはその権利と尊厳を保つという条件において平和の維持に深く関わっている。」とつけ加えた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
2月18日に就任したファリエール新大統領のもとで本来であれば内閣も刷新されるところだが、同日から発足した新内閣もルーヴィエ首相以下、全員が留任となった。
野党が国会で追及したのはモロッコ問題で高圧的なドイツの言動を、いかに巧妙な外交術で切り抜けようと苦心するフランスの姿勢そのものだったと思われる。
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by utsushihara | 2006-02-23 20:47 | フランス政治社会1905-06

アレフレッド・ド・ミュッセの彫像

f0028703_1633359.jpg1906年2月23日(金)

テアトル・フランセ(フランス劇場)の建物の角に置かれるアルフレッド・ド・ミュッセの大理石像が完成し、2月23日に落成式が行なわれた。この彫像は当初ファルギエールが手がけたが、彼が死去したため弟子のメルシエによって完成された。ミュッセは台座に腰をかけ、その上にミューズ(女神)が立って霊感を与えている構図である。ここ数年のあいだミュッセの作品は評価が高まっており、文学好きの若者たちや演劇の崇拝者たちによって祝福されている。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
彫刻家のファルギエール Alexandre Falguière (1831-1900)は、トゥールーズ出身。パリの美術学校で学び、ローマ賞を得て、彫刻界で活躍した。作品は伝統的な手法にもとづく穏健なものが多く、オルセー美術館の前庭の「アジアの寓意像」やオペラ座正面の「ドラマ寓意像」などがある。(Wikipedia)

仕事を引き継いだアントナン・メルシエ Antonin Mercié (1845-1916)は、美術学校でファルギエールとジュフロワの教えを受けた。数多くの彫刻作品がある。 (Wikipedia)

現在でもこの像がテアトル・フランセ(コメディ・フランセーズ)の建物の角にあるかどうかは不詳である。チェス愛好の「文学とチェス」のサイト(仏語)にパリ17区のモンソー公園に置かれた画像を見つけた。上の記事と同じ構図なので複製か移設されたかのどちらかであろう。

アルフレッド・ド・ミュッセ Alfred de Musset (1810 -1857)の劇作品は、先の1月にも「マリアンヌの気まぐれ」が再演されている。またサラ・ベルナール主演による「ロレンザッチョ」や「戯れに恋はすまじ」など、当時も大人気であった。現在に至るまで演劇愛好者たちを魅了し続けているようだ。
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by utsushihara | 2006-02-23 16:01 | 美術、彫刻1905-06

「ボヴァリー夫人」の初演

f0028703_1904074.jpg1906年2月22日(木)

ルーアン市のテアトル・フランセでは、22日ウィリアム・ビュスナック氏の脚色・演出による「ボヴァリー夫人」の初めての公演が行なわれた。主役はデコンベ嬢とサン=ジェルマン氏である。観客はこの舞台をかなり好意的に受けとめていた。ゴーロワ紙ではデュケネル氏が「手際よくまとめられている興味深い作品」であると評し、ジル=ブラス紙のノジエール氏は、素晴らしい劇的効果をビュスナック氏が巧みに引き出していたと語った。しかしながら彼は続けて「ボヴァリー夫人」から良い劇作品を引き出すのは根本的に不可能なことだ、と述べている。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は1905年にフェルー社から出版された「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)の挿絵。
文豪フローベールのお膝元ともいうべきルーアンで彼の代表作「ボヴァリー夫人」が劇として演じられたのは大きな意味があったように思える。今で言うなれば映画化したという感じだろうか。文芸大作の映画化は大いに興味を引くことではあるが、上でノジエールが語ったように、原作を乗り越えることが不可能であるという意識がつねに伴う宿命であることは否めない。

フローベールが死去したのは1880年5月8日であるから、劇化は没後25年を期しての企画だったかもしれない。
ウィリアム・ビュスナック(William Busnach; 1832-1907) は19世紀後半に活躍したパリ生まれの劇作家で、エミール・ゾラの三大名作「居酒屋」「ナナ」「ごった煮」を題材とした劇作品も手がけている。このときはすでに70歳を超えており、執念で上演にこぎつけた気がする。フランス国立図書館(BNF)の電子図書として一幕物の喜劇「シャトー・イケム」(Le Château-Yquem, 1889)が読める。
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by utsushihara | 2006-02-22 18:34 | オペラ、音楽、演劇1905-06

ロシアの危機(06年2月)

1906年2月20日(火)
f0028703_1747488.jpgロシア政府は毎月のように最大限の力をもって革命的な動向を制圧し続けてきた。国内各地、とりわけバルト沿海地方では数多くの刑が執行され、まだ治安は回復していない。大都市の監獄は人があふれ、数千人もの囚人はシベリアに送還されている。それにもかかわらず土地所有をめぐる騒動を鎮圧するのは不可能で、ロシア政府は地方の農民が被っている経済的な危機を食い止める手段はまだ見つかっていない。誰しもが困難と思っている問題の解決は将来の国民議会(ドゥマ)まで先送りされている。そのあいだ農民たちは土地の所有を要求し続け、彼らは地主たちを追い立てて略奪している。
シベリアからは深刻な飢餓が伝えられている。2年前に土地を耕せる者はすべて満州に行って耕作するように命じられており、日露戦争終結後もまだ帰り着いていないのである。シベリアでも政治的な不満が最も高まっている。
ロシア内閣はすべてを首相のウィッテ氏と内務相のドゥルノーヴォ氏に任されている。当初はこの二人の間で権力抗争があった。前者は急進的な改革派で、後者は過度な抑圧を主張した。しかしウィッテ氏は宮廷における彼の影響力の低下を恐れて、ためらうことなく反動的な陣営に身を投じ、仲間たちの厳格な政策を推進することとなった。
2月20日開かれた閣議において帝国議会(ドゥマDouma)を4月末もしくは5月初めに召集されるのに合わせて議員選挙を実施することを決定した。通商大臣のティルマゼフ氏は辞職した。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は首相のウィッテ Witte (1849-1915) : ポーツマス条約の締結交渉でロシア側の全権代表でもあった。1905年末から首相となっている。
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by utsushihara | 2006-02-21 20:46 | ロシア帝政末期1905-06