フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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無政府主義者のテロ

f0028703_13355581.jpg1905年1月30日(月)

1月30日の夜間、駐仏ロシア大使付のトルベツコイ公(Prince Troubetzkoï)の邸宅の正門に爆弾が仕掛けられたのが発見されたが、不発のまま処理された。
同夜、レピュブリック通り13番地前の路上で別の爆発が起き、2人の治安部隊の兵士と3人の市民が負傷した。これはチボリ=ヴォー・ホールでのジャン・ジョーレス氏らが主宰のロシア帝政を糾弾する会合が開かれていたあと、整然としたデモ行進が行われ、23時50分頃にその場所にさしかかったときに起きた。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905
出典:Le Petit Journal illustré du 15 Fév. 1905
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by utsushihara | 2005-01-30 13:32 | フランス政治社会1905-06

黒溝台の激戦

f0028703_13403869.jpg
1905年1月28日(土)

1月24日から28日にかけて沙河の両岸を挟んで血みどろの戦闘が行われたが、双方何の成果も得られなかった。
グリッペンベルグ将軍率いるロシア第2軍は約10万人の大軍だったが、24日行動を開始し、日本軍の左翼に回りこんだ。激しい戦闘の末、沈旦堡(Sandepou)を陥したが、持ちこたえることはできなかった。
日本軍はこの2日間で状況が非常に厳しくなったと判断し、26日から反攻に転じ、27日にはロシア軍の前進を完全に食い止めることができた。
この作戦中、ミスチェンコ将軍率いるロシア騎兵軍は遼陽(Liao-Yang)からの日本軍の連絡線を断とうと試みた。主力部隊の敗退で包囲されると見た彼は後退しながら戦わねばならなくなった。ミスチェンコは脚部を負傷し、指揮を離れた。彼はまだ回復していない。
グリッペンベルグ将軍は、まさに勝利が確信できた機会にクロパトキン将軍が助勢しなかったことが今回の敗戦の原因だと非難している。彼はそれを皇帝に訴えるため満州軍を離れた。
この黒溝台(Heikoutaï)の戦い以降、両軍は決定的な作戦を打てないまま互いに砲撃を続けている。大山元帥の軍は旅順口攻囲戦後に到着した乃木将軍の5万人の兵士と輜重によって補強された。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905
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by utsushihara | 2005-01-28 13:38 | 日露戦争、東洋事情1905-06

ロシア騎兵部隊の反攻

1905年1月25日(水)

[ 日露戦争・続報 ]
旅順陥落のあと、戦時情勢の関心は沙河の両岸に移った。両国の軍隊は至近距離でにらみあったままどちらも動かなかった。
最近取られた軍事行動で大いに注目すべきは、1月10日にコサック騎兵、竜騎兵、コーカサス騎兵の混成部隊を率いたミスチェンコ将軍(Mistchenko)が日本軍の後方150Km付近にある牛荘(Niou-Tchareg)へ思い切った攻撃をしかけたことである。これはこの戦争が始まって以来、ロシア騎兵部隊が何らかの展開作戦をとった最初であった。勇猛果敢な騎兵たちによって海城(Haï-Tcheng)・遼陽(Liao-Yang)間の鉄道線路が数箇所にわたって破壊され、この作戦は部分的に成功したように思われる。

1月25日、クロパトキン将軍(Kouropatkine)が攻勢に出て奉天(Moukden)の南の要衝、沈旦堡(Saudepon)を奪取した。その後の電文によれば、厳寒の中にもかかわらず非常に重大な戦闘が烟台(Yentaï)付近で繰り広げられようとしている。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905

[ Ψ 蛇足 ]
地名の漢字表記がわからないので、下記の著作を参照した。この記事の内容も簡略化されているがほぼ同じである。
『世界史としての日露戦争』大江志乃夫・著、立風書房、2001年10月刊、ISBN: 4-651-70083-7
遼東半島の西側根元にある営口の港が日本軍の兵站基地だったが、そこから少し内陸に入った牛荘の村が攻撃されたことになる。
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by utsushihara | 2005-01-25 14:44 | 日露戦争、東洋事情1905-06

コンセール・コロンヌ演奏会

1905年1月22日(日)

アメリカから帰ったコロンヌ氏の演奏会。マルセル・シュウォッブの詩、ガブリエル・ピエルネ作曲による「少年十字軍」La Croisade des Enfants の演奏は大成功であった。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905
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by utsushihara | 2005-01-22 14:47 | オペラ、音楽、演劇1905-06

血の日曜日事件(ロシア)

f0028703_1838329.jpg
1905年1月22日(日)

前日にはサン=ペテルスブルグの労働者たちが皇帝に彼らの苦境を訴える嘆願書を改めて提出したいと静かにデモ行進を行っていた。人々は悲惨を極める奴隷のような生活の改善、単なる賃上げと労働時間の削減だけではなく身分制度の改革、しいては社会制度に対する性急な変化を望んでいた。それはひと言でいえば、国会の召集と特権階級の消滅だった。

1月22日の日曜日の午後。家族を伴った労働者たちはガポン司祭に率いられて行進していた。冬の宮殿に至る橋を守っていた衛兵の部隊が彼らに向かって発砲した。とくに挑発行為があったわけではないが、この瞬間から銃撃は夜になるまで続いた。犠牲者の数は確かではないが約3千人の死傷者が出たと伝えられている。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905
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by utsushihara | 2005-01-22 14:46 | ロシア帝政末期1905-06

オペレッタ版ラ・ボエーム

1905年1月20日(金)

アンリ・ミュルジェの「若き芸術家ボエームたちの生活情景」は今もってオペラ脚本家たちに着想を与えつづけているようだ。
ポール・フェリエ氏の台本、アンリ・イルシュマン氏の作曲によるオペレッタがヴァリエテ座で初演された。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905
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by utsushihara | 2005-01-20 14:48 | オペラ、音楽、演劇1905-06

モロッコ情勢(2)

f0028703_18403661.jpg
1905年1月15日(日)

フェズに向けて出発したフランスの特使団は、晴天のもと1月15日午前10時平穏理に市中に入った。特使サン=ルネ・タヤンディエ担当相にはフランス公使館第一秘書のサン=トゥレール伯が随伴していた。軍事派遣団のファリオ司令官とフェズ駐在のガィヤール領事が一行を迎えた。とりわけモロッコの君主とフランス植民地省および大使館の所属員たちによる歓迎ぶりは華々しいものであった。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.2; Mar.1905

[ Ψ 蛇足 ]
モロッコは数年の間、3つの領域に分けられていた。フランス勢力圏、スペイン勢力圏、そしてタンジール周辺の国際的な領域である。19世紀末から列国の帝国主義的な動向が激化する中で、フランスは特使を派遣し、モロッコの国家再編を提案したが、1905年を通して独仏の対立の端緒となった。
モロッコの地図
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by utsushihara | 2005-01-15 14:59 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

コンセール・ラムルー演奏会

1905年1月15日(日)

ローマ賞受賞者フロラン・シュミット氏の交響詩とエドムン・マレルブ氏の新曲は喝采を受けた。アメリカで「チェロの王者」と呼ばれているパブロ・カザルス氏はシューマンのチェロ協奏曲を演奏し賞賛を受けた。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905
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by utsushihara | 2005-01-15 14:50 | オペラ、音楽、演劇1905-06

歌劇「マノン」500回目の公演

1905年1月13日(金)

オペラ・コミック座でジュール・マスネ氏の最も人気の高い、そしておそらく最高傑作である歌劇「マノン」の公演が500回目を迎えた。初演は1884年。マノン役はマルグリット・カレ夫人、デ・グリュー役はタラザック氏である。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév. 1905
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by utsushihara | 2005-01-13 14:51 | オペラ、音楽、演劇1905-06

モロッコ情勢(1)

f0028703_22305313.jpg1905年1月11日(水)

1月1日にモロッコとアルジェリアの国境付近で王位を主張する一派の騎兵軍とマグザン駐留軍との間で戦闘が起きた。
1月3日、フランス側から出された提案に対してモロッコ君主からの回答文書がタンジールのフランス特使のもとに届いた。君主アブド=エル=アジズ(Abd-El-Aziz)はその中でフランスに対する友好の意を示し、フランスの駐留軍の軍事行動を禁じる考えはなく、フランスの担当大臣が首都フェズを来訪するようにと望んだ。同日、ウジュダにおいてモロッコ王の部隊は、ブウ=アママの私募兵の応援を受けた王位主張派の騎馬隊によって撃破された。
サン=ルネ・タヤンディエ特使はフェズに向けて出発した。道中は何事もなく到着した模様。

出典:BNF-Gallica #102976 « Je sais tout » No.1; Fév.1905
Crédit : Le Petit Journal supplément illustré du 15 Janvier 1905

[ Ψ 蛇足 ]
ウジュダはモロッコ東部国境の要衝。記録においては表記が Oujda と Oudja の2通りあって混乱している。日本語ではウジュダになっている。
モロッコの地図

19世紀末から20世紀初頭にかけての一連のモロッコ問題(La question Marocaine)については、ソルボンヌ大学教授シャルル・ゾルグビブ氏の論文↓(仏語)が詳しい。
Charles Zorgbibe, Professeur à la Sorbonne: Quand les Européens se disputaient le Maroc
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by utsushihara | 2005-01-11 14:56 | モロッコ問題、アフリカ1905-06