フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

検索

カテゴリ

フランス社会政経1909-10
フランス政治社会1907-08
オペラ、音楽、演劇1909-10
オペラ、音楽、演劇1907-08
美術、彫刻1909-10
美術、彫刻1907-08
文芸、評論1909-10
文芸、評論1907-08
科学、軍事、海事1909-10
科学、軍事、海事1907-08
★ベルエポック事件簿1909
★ベルエポック事件簿1908
スポーツ、乗物、探検1909-10
スポーツ、乗物、探検1907-08
※百年前の広告
独墺バルカン情勢1909-10
独墺バルカン情勢1907-08
モロッコ問題、アフリカ1909-10
モロッコ問題、アフリカ1907-08
日本・東洋事情1909-10
日本・東洋事情1907-08
ロシア帝政末期1907-10
各国事情1909-10
各国事情1907-08
フランス政治社会1905-06
オペラ、音楽、演劇1905-06
★ベルエポック事件簿1910
美術、彫刻1905-06
文芸、評論1905-06
科学、軍事、海事1905-06
スポーツ、乗物、探検1905-06
モロッコ問題、アフリカ1905-06
ドイツ情勢1905-06
ロシア帝政末期1905-06
日露戦争、東洋事情1905-06
各国事情1905-06

タグ

(24)
(24)
(22)
(19)
(14)
(13)
(13)
(12)
(12)
(12)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(10)
(10)
(10)
(10)

最新のトラックバック

一枚の絵 シャバ「九月の朝」
from 壺中山紫庵
オペラ「フォルテュニオ」
from のんのつれづれなるままに
四月の魚
from ブラッケン・ダーキンの肖像
大統領の恥ずかしいような..
from パリノルール blog
ルルー『黄色い部屋の謎』
from Proust+ プルースト・..
11. 異邦人"シャルル..
from サン=サーンスの墓
フロラン・シュミット
from サン=サーンスの墓
ポール・デュカス
from サン=サーンスの墓
鼻の整形術 美しいスマー..
from 鼻の整形術 美しいスマートな華に
タロー兄弟と、コクトーの..
from 発見記録

以前の記事

2011年 03月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月

人気ジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
語学

画像一覧

カテゴリ:文芸、評論1907-08( 66 )

ジィドとアレクサンドル・ナタンソン

1908年12月24日(木)
f0028703_15325994.jpg
*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1908年12月24日より引用:
アレクサンドル・ナタンソンが二時半頃に誘い出しに来る。ポーランドの若い彫刻家ナデルマンの所へ案内しようというのである。
彼はピオの製作した壁画には、敵意を含んでいないにしても、まるで上の空の一瞥しか与えない。彼が試運転する六十馬力の自動車に乗る。私達はボワソナード街に到着する。
彼の言葉をいくつか写してみよう。だが、必要なのは、彼の声の調子である。一つ一つの言葉に、声の抑揚が「僕って、こんな人間ですよ!」と付け加えているように思われる。(中略)
「例えば、私の鞄の中には、値打ちのない株券しか残っていません。もう売れもしないようなね・・・、化粧室の壁を張る位は十分ありますよ!いつか弟のタデが怒って言ったもんです。『なんだってまた、苦労の種になりそうなそんな碌でない株券を背負いこんでるんだ?』ってね。そこで私は答えてやりましたよ。『まあ、心配するな。決して苦労の種になんかなりはしないよ。至極簡単さ。僕はもう全然気にしてなどいないんだからね。』ってね」
ナデルマンのアトリエで、ナデルマンが語っている最中にも、ナタンソンは時々私の方にかがみこみ、低い声で、早口に言った
「なかなかいい男だ!ねえ、そうでしょう?」
それに、彼は私に対して非常に愛想がいい。もう一度ぜひ会ってくれという。で、向う半か月は非常に忙しくなるからと言うと、「では、そのあとすぐ、よござんすね!」とさようならも言わずに、私の手を固く握りしめた。(後略)

[ Ψ 蛇足 ]
アレクサンドル・ナタンソン(Alexandre Natanson, 1867-1936)は、弟のタデ・ナタンソン(Thadée Natanson, 1868-1951)とともに1890年代に大きな文学・芸術活動の中心となった雑誌『ルヴュ・ブランシュ』(La Revue blanche)の運営に携わった。彼らはポーランドのユダヤ系銀行家の家柄で富裕層における交流も活発で、多くの文化人・芸術家たちの活動の源泉となった。ドレフュス事件の際には「オーロール」紙でのゾラの弾劾記事を全面的に擁護し、再審での勝利に導いた。1902年にアレクサンドル自身が重病に陥ったため、やむなく『ルヴュ・ブランシュ』を譲渡し、その活動は翌年停止することとなった。
上記のジィドの描写は、アレクサンドルの洒脱で人なつこい人物像を見事に捉えている。

*参考サイト:Les Commérages de Tybalt(「ティバルトの無駄話」=仏語): Frères Natanson - Alexandre, Alfred et Thadée

エリー・ナデルマン(Elie Nadelman, 1882-1946)はポーランド出身の現代彫刻家で、第一次大戦までパリで活躍し、サロンでも注目された。その後米国に亡命した。
*参考サイト:Wikipedia(英文)Elie Nadelman

上掲(↑)はルネ・ピオ(René Piot, 1869-1934)作の壁画の一例。ドラクロワ派とナビ派との折衷的な表現の画風である。
画像 Crédit photographique:©Photo RMN (Musée d'Orsay) Droits réservés / Cote cliché : 86-001649 / Titre : Requiescent - Avant restauration / Auteur : René Piot(1869-1934) / Localisation : Paris, Musée d'Orsay
[PR]
by utsushihara | 2008-12-23 15:31 | 文芸、評論1907-08

『奇巌城』の連載開始

1908年11月

当『ジュセトゥ』誌では、今や全世界で最も有名となった強盗紳士アルセーヌ・ルパンの一連の活躍を再開させる、というよりも引き続き掲載することとなった。
クリスマス特別号となるこの11月号について明言できるのは、当誌が愛読者の皆様のために特典と特集をたくさん盛り込んでいるが、とりわけモーリス・ルブラン氏のペンから生み出されるアルセーヌ・ルパンの新しい冒険『奇巌城』« L’Aiguille Creuse »(直訳では「空洞の尖塔」)においては、これまで見せたことのないルパンの論理の推考と至高の力の象徴となる尖塔をめぐる、夢見るような物語に読者を導くことだろう。
f0028703_17205695.jpg

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.45-46; Oct-Nov. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ルブランの傑作長篇の一つ『奇巌城』は初出誌「ジュセトゥ」に連載が開始されたのは1908年11月号であった。ちょうど百年になる。
(↑)上掲は1909年2月号に連載された『奇巌城』(第4回)の表題である。ご存知のようにこの物語のもう一つの魅力は、ルパンとの知恵比べの相手役としてパリ16区の名門リセ・ジャンソン・ド・サィイの高校生イジドール・ボートルレ(Isidore Beautrelet)の活躍である。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)アテネ座で3幕劇『アルセーヌ・ルパン』初演(1908.10.28)
(2)ルパン2冊目の単行本「アルセーヌ・ルパン対エルロック・ショルメス」発売(1908.01)
[PR]
by utsushihara | 2008-11-09 17:17 | 文芸、評論1907-08

オノレ・デュルフェの記念碑

1908年9月20日(日)
f0028703_13471114.jpg
16世紀の文人オノレ・デュルフェの栄誉を記念する石碑の落成式が9月20日、サヴォワ地方アン県のヴィリュー=ル・グランの町でおこなわれた。この記念碑は彫刻家ポール・フルニエ作のデュルフェの胸像が載せられたもので、アカデミー会員のルネ・バザン氏が主宰し、かなりの数の群衆がデュルフェの文学的業績への賞賛を共にした。代表作『アストレ』(Astrée)は、1620年から1625年にかけて書かれた小説で、その真実の愛の物語は7世紀の時代背景となっている。
ルネ・バザン氏は、貴族の身分での詩人であり、闘士でもあったデュルフェがフランス文学における栄光の創造者の一人であったことを褒め称え、魅力あふれる演説を締めくくった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.46; Nov. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288220 « Le Figaro » le 21 Sep. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
オノレ・デュルフェ(Honoré d’Urfé, 1567-1625)は16世紀の文人である。サヴォワ公家の流れを汲む南仏の貴族の子として生まれ、ジェズイット派の教育を受けた。折りしも宗教改革の嵐が起き、新旧教徒の対立が激しい時代で彼は旧教同盟に組し、その主導者の一人であるヌムール公に仕えた。代表作は上掲の長編小説『アストレ』(Astrée)で羊飼いの娘アストレと羊飼いの青年セラドンとの真実の愛をめぐる物語で、当時の知識階級で大いにもてはやされた。
2007年にエリック・ロメールが映画化(『アストレとセラドンの恋』Les amours d’Astrée et Céladon)したが、日本では横浜などでのフランス映画祭で紹介されたに留まった。
彫刻家ポール・フルニエ(Paul Fournier)についての情報は得られなかった。ヴィリュー=ル・グランの町(Virieu-le-Grand)はリヨンの東方サヴォワ山中に位置する。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(仏語) Honoré d’Urfé
(2)Unifrance (仏語) 映画『アストレとセラドンの恋』
(3)Yahoo cinéma (仏語) 映画『アストレとセラドンの恋』
[PR]
by utsushihara | 2008-09-19 16:24 | 文芸、評論1907-08

作家たちのバカンス(1908)

1908年8月

(1)ピエール・ルイス(Pierre Louÿs, 1870-1925)
『アフロディト』の作者として知られるピエール・ルイス氏は現在自作の小説『女とあやつり人形』(La Femme et le Pantin)にもとづく劇作を書いている。

f0028703_17281463.jpg(2)リアーヌ・ド・プージィ(Liane de Pougy, 1869-1950)(画像→)
ロスコフで静養中のリアーヌ・ド・プージィ女史は三幕劇『エリーズ』(Elise)の共作を終えたところである。魅力あふれる作家兼俳優の彼女はさらに『ひとり娘』(La Fille de la maison)と題した中篇小説を一つ書いている。

(3)ロマン・クーリュス(Romain Coolus, 1868-1952)
昨日(7月12日)バカンスの荷造りをしているロマン・クーリュス氏と何分か話す時間があった。この才能豊かな劇作家は毎年のようにノルマンディとブルターニュでのバカンスの前にプロンビエール(Plombières)に湯治に行く。彼のバカンスは決して仕事なしでは済まない。今回は軽妙な3幕劇をその間に書き上げる予定だが、その題名が辛辣な『かわいい女セム』(La Petite Sem)というもので、才気あふれる若い女性風刺画家を登場させている。この主人公はブールヴァール演劇の大舞台をつとめている最も個性豊かな女優によって演じられる予定で、この題名に可能な限り近づけるために、画家のセム氏自身がすでに風刺画の手ほどきをおこなったという。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288169 « Le Figaro » le 1er Août, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288173 « Le Figaro » le 5 Août, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288150 « Le Figaro » le 13 Juil, 1908
参考画像Crédit d’image: Wikimedia commons, Liane de Pougy
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Liane_de_Pougy
参考画像Crédit d’image: Wikimedia commons, Georges Goursat (Sem)
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Georges_Goursat

f0028703_17295633.jpg[ Ψ 蛇足 ]
ロスコフ(Roscoff)はブルターニュ半島の先端フィニステール県の北端にある保養地である。
プロンビエール(Plombières-les-Bains)はヴォージュ地方にある温泉保養地である。
(←画像:自画像)当時風刺画家としての第一人者であったセム(Sem)(本名:ジョルジュ・グルサ, Georges Goursat, 1863-1934)の作品は雑誌や絵入り新聞を頻繁に飾っていた。

*参考サイト:Wikipedia(英文)Plombières-les-Bains

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)「アフロディト」初演(1906.03.27) ピエール・ルイス原作
(2)リアーヌ・ド・プージィの新作小説(1906.12)
(3)「愛らしい女」の上演(1906.03.26)ロマン・クーリュス作
[PR]
by utsushihara | 2008-08-07 17:38 | 文芸、評論1907-08

剣による決闘の再試合

1908年7月12日(日)

昨日(12日)の夕方6時、パリ郊外で剣(エペ)による決闘が行なわれた。当事者は新聞論説家のピエール・モルティエ氏対高等裁判所の弁護士ド・モンジィ氏である。この決闘はモルティエ氏の書いた記事によって引き起こされた。彼らの立ち合いは25回繰り返されたが、激しい戦いにもかかわらずどちらも無傷のままであった。
立会人はモルティエ氏側には、詩人のカチュル・マンデス氏と劇作家のアンリ・ベルンスタン氏がおり、ド・モンジィ弁護士の方はモロ=ジャフェリ氏とド・サル氏であった。彼らは翌日となる本日、その決着をつけるため再度対決することを取り決めた。

数年前のことであるが、同じような事例があった。このときはラベルデスク氏とマックス・レジ氏とがエペで対戦し、数え切れないほど撃ち合いを繰り返しても決着がつかず、立会人たちは次の日に再度対戦することに決めた。結局、その翌日にレジ氏が何度目かの対戦の末に傷を負った。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288150 « Le Figaro » le 13 Juil, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288151 « Le Figaro » le 14 Juil, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
立会人に当時の有名作家カチュル・マンデス(Catulle Mendès, 1841-1909)とアンリ・ベルンスタン(Henri Bernstein, 1876-1953)が立会人となっているのが注目される。決闘の当事者たち、ピエール・モルティエ(Pierre Mortier)とド・モンジィ(de Monzie)についての詳細な情報は得られなかった。

さて上記の持ち越しとなった決闘の結果はどうなったのかが気になるところだが、実のところド・モンジィは右の二の腕の内側に傷を受けており、立会人たちの取り成しもあって、彼らは勝負再開の前にカチュル・マンデスのもとを訪ね、そこにいた相手とうやうやしく和解の礼が交わされたのであった。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)サラ・ベルナールの凱旋公演(1906.11.10)カチュル・マンデス作「アヴィラの聖女」(Vierge d’Avila)
(2)ルネサンス座で「サムソン」上演 (1907.11.06)アンリ・ベルンスタン作
[PR]
by utsushihara | 2008-07-12 17:53 | 文芸、評論1907-08

『ジャン・クリストフ』の新しい一巻『アントワネット』

f0028703_189628.jpg1908年6月

ロマン・ロラン氏はオレンドルフ社から『ジャン・クリストフ』の新しい連作《パリのジャン・クリストフ》の最初の巻『アントワネット』を出版した。
本来、主人公のジャン・クリストフはここではごく控え目な、通りかかるのを見かけるというような二次的な役割でしか登場しないが、この作品の最後の頁に至って、この挿話が主要な物語にいかに密接に関わっていたかを見出すことになる。それは地理学的に言えば、あたかも大河の流れの小さな傍流であり、取るに足らない人間存在の研究であり、アントワネットが弟オリヴィエのために自分の存在を犠牲にする物語である。
この娘の物語ほど単純で心を打つものはない。かつて少女だった幸福な頃には、快活ではじけるような楽しげな毎日であり、田舎の古い屋敷の広々とした庭で夢想好きなオリヴィエと一緒に遊び、そうした生活は美しく、豊かで充実したものと感じていた。
アントワネットは18歳で、14歳のオリヴィエとともにぽつりとパリにやってくる。銀行家だった父親は投機の失敗により破産し、自殺した。母親は苦悶と憂いと悲痛のあまり憔悴して死んでしまう。そしてアントワネットにはもはや一つの目標しかなくなる。それはオリヴィエの健康と幸福である。彼女は持てるすべての力をもって自己犠牲と永続的献身に傾注する。彼女自身が自分から抜け出して、オリヴィエの健康、幸福、活力そのものになろうとするのである。彼女は勉強を教え、ノートを写し、絶えず世話をし続けた挙句、今度は彼女が憔悴しきって死んでしまう。しかしその弟は救われる。今や彼は18歳でエコール・ノルマルに入学でき、将来は約束されたのだ。
自分の目標が満たされたと感じ、いつか自分の夢が実現するだろうと信じて歩むことだけでも大したことである。ただしこうした期待と確信はつねに最終的な完成までには至らないと人は経験で味わっている。そのためでもあろうがロマン・ロラン氏の感動的な簡潔な小説は心苦しい印象を感じさせない。悲しみは優しく、感動はしばしば心に訴える。この作品においてもまたロマン・ロラン氏の質の高さ、地味な技法、文学的な言い回しへの思い、繊細で純粋な感受性を見出すことになる。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288122 « Le Figaro » le 15 Juin, 1908
画像 Crédit d’image : Wikipedia (Polski): Romain Rolland
http://pl.wikipedia.org/wiki/Romain_Rolland

[ Ψ 蛇足 ]
ロマン・ロラン(Romain Rolland, 1866-1944)の代表作『ジャン・クリストフ』(Jean-Christophe)はベートーヴェンをモデルにした人間性の成長と発展を描いた大河小説、教養小説と習った。『アントワネット』(Antoinette)の一篇は全10巻のうちの第6巻にあたる。全巻の完成は1912年になる。3つの部分に分けられており、上記の記事でも《パリのジャン・クリストフ》と紹介されているが、その群の第5巻『広場の市』が先に発表になっていたか否かは不明である。
Ⅰ.《ジャン・クリストフ》(Jean-Christophe):①曙(L'Aube)、②朝(Le Matin)、③青年(L'Adolescent)、④反抗(La Révolte)
Ⅱ.《パリのジャン・クリストフ》(Jean-Christophe à Paris):⑤広場の市(La Foire sur la place)、⑥アントワネット(Antoinette)、⑦家の中(Dans la maison)
Ⅲ.《旅の終わり》(La Fin du voyage):⑧女友達(Les Amies)、⑨燃ゆる荊(Le Buisson ardent)、⑩新しき日(La Nouvelle Journée)

*参考サイト:青空文庫:ロマン・ロラン作、豊島 与志雄・訳、『ジャン・クリストフ』
第六巻アントアネット:図書カード:No.42595
[PR]
by utsushihara | 2008-06-30 18:06 | 文芸、評論1907-08

フランソワ・コペーの蔵書と愛猫たちの行方

1908年6月19日(金)

フランソワ・コペーの遺言状については既に報じられているが、特に彼の蔵書については遺言状に5人の間で分け与えることが記されていた。コメディ・フランセーズ座の書籍係で甥のモンヴァル氏、デュシャトレ医師、詩人のオーギュスト・ドルシャン氏、そしてコペーが文壇デビュを奨励していた2人の若手作家である。
その中でも最も価値があると目される犢皮紙(ベラム)装の『セヴェロ・トレッリ』を含むいくつかの稀覯書はオーギュスト・ドルシャン氏に割り当てられていた。

フランソワ・コペーは知っての通り、生前あらゆる種類の猫の集団に囲まれて暮らしていた。ペルシャからわざわざ取り寄せた猫もいて、7区ウディノ街にある詩人の自宅の庭や温室で四季咲きのバラとともに完全に馴染んだ生活を送っていた。コペーが高齢となり、これらの可愛い生き物の行く末を案じた動物愛護協会では、会員の一人をウディノ街に訪ねさせてみたところ、コペー自身も誰よりもこの猫たちの未来を心配していたのがわかった。何年も前から詩人は体調が思わしくなく、仕事と夢想の友としての彼らの数を増やすことをあきらめた。むしろそのうちの何匹かを友人たちに与えたりもした。
f0028703_1791453.jpg死を前にしてコペーのところには二匹の猫しか残っていなかった。一匹は《イザベル》という名前の非常に高齢の雌猫で、もう一匹が雀狩りに夢中な若い白黒の雄猫である。
今は詩人の小間使いが世話をしており、コペーがどれだけ可愛がっていたかを知る甥のモンルィユ氏(サルペトリエール病院長)がウディノ街の小さな庭を時おり訪れて、雀を追いかけまわす若い猫を《イザベル》が母親のような優しい眼差しで見守る姿を目にしている。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288110 « Le Figaro » le 3 Juin, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288126 « Le Figaro » le 19 Juin, 1908
画像 Crédit photographique:©Photo RMN : Cote cliché : 03-015346- © RMN (Musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski
Titre : Le Chat blanc (1894) / Auteur : Pierre Bonnard (1867-1947) / Localisation : Paris, Musée d'Orsay

[ Ψ 蛇足 ]
フランソワ・コペー(François Coppée, 1842-1908)は前月に亡くなった。
オーギュスト・ドルシャン(Auguste Dorchain, 1857-1930)は詩人、劇作家、評論家で「フランス抒情詩百選」(Les Cent Meilleure Poèmes Lyriques de la Langue Française)の編者でもあった。
7区ウディノ街(Rue Oudinot)は閑静な住宅街で、近くに気持の良いバビロン庭園(Jardin de Babylone)がある。
(↑)上掲はピエール・ボナール作の『白い猫』(オルセー美術館蔵)

**これまでの関連記事france100.exblog:詩人フランソワ・コペーの葬儀 (1908.05.23)
[PR]
by utsushihara | 2008-06-20 17:08 | 文芸、評論1907-08

詩人フランソワ・コペーの葬儀

f0028703_17522097.jpg1908年5月23日(土)

詩集「親愛」や劇作「通りがかりの人」、「セヴェロ・トレッリ」、「王冠のために」のほか、人々に親しまれた数多くの詩歌の作者であったアカデミー会員のフランソワ・コペー氏は、5月23日にウディノ街の自宅で死去した。66歳だった。アカデミー会員としては1884年に選出されて以来、20年以上重鎮の座にあった。彼は近年病気で長患いをしており、最近は何度も危篤状態を繰り返していた。彼の葬儀は近くの聖フランソワ=グザヴィエ教会で執り行われ、葬列には数千人の人々が続いた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.42; Juillet, 1908
画像 Crédit photographique:©Photo RMN : Cote cliché : 95-003505- © RMN / Gérard Blotf0028703_22222299.jpg
Titre : François Coppée (1842-1908), poète / Auteur : Paul Chabas (1869-1937)
Droits d'auteur : (C) Paul Chabas / Localisation : Châteaux de Versailles et de Trianon

[ Ψ 蛇足 ]
フランソワ・コペー(François Coppée, 1842-1908)は早くから高踏派の詩人の一人として名を上げ、その後、人間的な詩作を多数発表して一躍人気詩人となった。ドレフュス事件のときにはジョルジュ・ルメートルらとともに「反ドレフュス派」の代表格として論陣を張った。
上記の作品の原題は下記の通りである。
詩集「親愛」(Les Intimités, 1868)
一幕詩劇「通りがかりの人」(Le Passant, comédie en un acte, en vers; 1869)
五幕詩劇「セヴェロ・トレッリ」(Severo Torelli, drame en cinq actes, en vers; 1883)
五幕詩劇「王冠のために」(Pour la couronne, drame en cinq actes, en vers; 1895)

代表的な詩篇のいくつかや短篇集「ごく単純なコント」(Contes tout simples, 1894)の一部が « Miscellanées » ほかの電子図書サイトで読むことができる。
http://www.miscellanees.com/c/coppee05.htm

邦訳されたものはあまり見かけないが、貴重なWeb翻訳として
松本さんのblog「発見記録」に、«フランソワ・コペ「仏陀のツバメ」» (François Coppée: L'hirondelle du Buddha)があるので、興味のある方はご一読されたい。(2006.01.14)

また詩劇「通りがかりの人」はイタリアの作曲家マスカーニによって「ザネット」(Zanetto)という一幕オペラに翻案され、1896年に初演された。

参考サイト:
(1)Hatena::Diary えとるた日記 [文学研究]コペーの評論(2007.05.16)
(2)Wikipedia(仏語):François Coppée
[PR]
by utsushihara | 2008-05-23 17:43 | 文芸、評論1907-08

パッシーの「バルザックの家」の保存が確定

f0028703_22332233.jpg1908年5月16日(土)

パリ16区レヌアール街の奥まったところに文豪バルザックが1842年から1848年まで住んだ小さい瀟洒な家がある。
昨日(16日)午後、その最も熱烈な愛好家たちが彼の109年目の誕生日を期してそこを訪れ、バルザック記念館としての発足を宣言して祝った。その中にはモード・ゴンヌ嬢(Miss Maud Gonne)をはじめ、スタンダールやボードレールの崇拝者で知られるジャン・ド・ミッティ氏(M. Jean de Mitty)やクレペ氏(M. Crepet)などがおり、 彼らはやっとこの家を所有することができたのである。
レオン・メヤール氏は、大作家のこの隠れ家での生活への親愛の念を呼び起こす即興演説を行ない、大いに賞賛を受けた。また氏は、今後バルザックの思い出に敬意を表するためにこの建物を保存すべきだと主張し続けたロワイヨーモン氏に対しすべての愛好家を代表して感謝した。

f0028703_17334056.jpg(←)左掲の画像は、バルザックの家の敷居に立つバルビエ夫人である。彼女はバルザックの「小さな隣人」(petite voisine)だった人物で、若い頃からこの家に住み続けていた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #288092 « Le Figaro » le 17 Mai, 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.42; Juillet, 1908
出典Crédit photograpique:©Kazyusa

[ Ψ 蛇足 ]
オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac, 1799-1850)は51歳という短い生涯の中で「人間喜劇」と総称する長編・中編・短編小説を合計100作近く産み出した。文字通りの文学の豪傑である。バルザックの誕生日は5月20日である。
19世紀当時は、パッシー村はパリの郊外であり、こうした田舎家が点在していた。都市化が急速に進んだ20世紀初頭には高層アパルトマンが次々に建てられ、この「バルザックの家」(Maison de Balzac)のような田舎家はどんどん取り壊されて行ったに違いない。このときの愛好家たちの運動がなければ「昔、この辺りにバルザックの家があった」程度の説明になっていただろう。バルザックに興味のある人々は、こうした人々にも感謝しつつ見学してほしいと思う。

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2008-05-16 17:35 | 文芸、評論1907-08

若手作家・芸術家による「45の会」結成

f0028703_18524269.jpg1908年5月6日(水)

若い世代の何人かの作家や芸術家たちが集まって「45の会」という会の名前でグループを結成したのは興味深く、かつ魅力的な出来事である。この若き「アカデミー」の最初の会食において、アンリ・バルビュス氏は設立発起委員として会の目的と活動予定を発表した。(←)

7人の発起委員は、アンリ・バルビュス氏、アベル・ボナール氏、フランシス・ド・クロワッセ氏、エミール・ファーブル氏、フェルディナン・ノジエール氏、そしてポール・ルブー氏から成り、この委員を取り巻く若き才人たちの目を見張るような仲間が集まったのである。主な会員を挙げれば:
詩人としては、アンリ・バルビュス(Henri Barbusse)、アベル・ボナール(Abel Bonnard)、アンリ・ド・レニエ(Henri de Régnier)、ピエール・ルイス(Pierre Louÿs)など。
劇作家からは、アンリ・ベルンスタン(Henri Bernstein)、トリスタン・ベルナール(Tristan Bernard)、ロマン・クーリュス、カイヤヴェ&フレー、アンリ・バタイユ、ポール・ヴェベー(Paul Veber)、ミゲル・ザマコイス、フランシス・ド・クロワッセ(Francis de Croisset)、エミール・ファーブル(Emile Fabre)など。
小説家としては、ルネ・ボワレーヴ、マルセル・ブーランジェ、ポール・ルブー、ポール・アッケーなど。
新聞評論界からは、ピエール・ミル、フェルディナン・ノジエール、フラン=ノアンなど。
美術界からは、アンリ・カロ=デルヴァーユ(Henry Caro-Delvaille)、ポール・ランドフスキ(Paul Landowski)、カピエロ、デュルメなど。
音楽家として、レイナルド・アーン(Reynaldo Hahn)、ポール・デュカ(Paul Dukas)など。

この会の規則は、数字の「45」に関連づけられた2項目だけが定められている。つまり会員の数が45名を限度とすることと年齢が45歳を超えた会員は名誉会員となることである。
バルビュス氏の演説は、この会員相互の交流と理解を深めることと、この興味深い「45の会」に加わった人々の銘々とその作品に対する好意あふれる賞賛でしめくくった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.41; Juin, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288083 « Le Figaro » le 8 Mai, 1908
画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN

[ Ψ 蛇足 ]
「45の会」(Les 45)は、その後あまり目立った動きが見られないかもしれない。若手だけといっても嗜好や思考が様々であり、統一した運動を展開するにはそれなりの指針がなければ、「寄合組合」に終ってしまう恐れがある。蛇足だが「新潮45」という雑誌はよく続いていると思う。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)文芸批評・評伝作家協会の役員人事(1906.12.23) アンリ・バルビュスは「ジュセトゥ」誌の編集長
(2)1908年春のサロン展(3)「白孔雀」(1908.04) アンリ・カロ=デルヴァーユ(Henry Caro-Delvaille, 1876-1926)

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2008-05-06 18:50 | 文芸、評論1907-08