フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

検索

カテゴリ

フランス社会政経1909-10
フランス政治社会1907-08
オペラ、音楽、演劇1909-10
オペラ、音楽、演劇1907-08
美術、彫刻1909-10
美術、彫刻1907-08
文芸、評論1909-10
文芸、評論1907-08
科学、軍事、海事1909-10
科学、軍事、海事1907-08
★ベルエポック事件簿1909
★ベルエポック事件簿1908
スポーツ、乗物、探検1909-10
スポーツ、乗物、探検1907-08
※百年前の広告
独墺バルカン情勢1909-10
独墺バルカン情勢1907-08
モロッコ問題、アフリカ1909-10
モロッコ問題、アフリカ1907-08
日本・東洋事情1909-10
日本・東洋事情1907-08
ロシア帝政末期1907-10
各国事情1909-10
各国事情1907-08
フランス政治社会1905-06
オペラ、音楽、演劇1905-06
★ベルエポック事件簿1910
美術、彫刻1905-06
文芸、評論1905-06
科学、軍事、海事1905-06
スポーツ、乗物、探検1905-06
モロッコ問題、アフリカ1905-06
ドイツ情勢1905-06
ロシア帝政末期1905-06
日露戦争、東洋事情1905-06
各国事情1905-06

タグ

(24)
(24)
(22)
(19)
(14)
(13)
(13)
(12)
(12)
(12)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(11)
(10)
(10)
(10)
(10)

最新のトラックバック

一枚の絵 シャバ「九月の朝」
from 壺中山紫庵
オペラ「フォルテュニオ」
from のんのつれづれなるままに
四月の魚
from ブラッケン・ダーキンの肖像
大統領の恥ずかしいような..
from パリノルール blog
ルルー『黄色い部屋の謎』
from Proust+ プルースト・..
11. 異邦人"シャルル..
from サン=サーンスの墓
フロラン・シュミット
from サン=サーンスの墓
ポール・デュカス
from サン=サーンスの墓
鼻の整形術 美しいスマー..
from 鼻の整形術 美しいスマートな華に
タロー兄弟と、コクトーの..
from 発見記録

以前の記事

2011年 03月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
語学

画像一覧

カテゴリ:フランス政治社会1907-08( 99 )

1907年パリのノエル風景

f0028703_1651196.jpg1907年12月24日(火)~25日(水)

穏やかな天候に恵まれ、ノエルの夜は活気に満ちていた。毎晩のように群集が目抜き通りを流れ歩き、玩具がいっぱい飾られた店頭をのぞき、自分たちの製品を売り込む露天商の呼び声を聞く。カフェのテラスは夏と同じように多くの客で占められている。
教会では信者たちがあふれかえるにもかかわらず、極めて平穏に真夜中のミサが執り行なわれた。そしていよいよ宵越しの宴会(レヴェイヨン)が始まった。ここ数年はやや軽視されてきた感じだったが、今年はこれまでにない盛り上がりを見せた。高級レストランから質素な居酒屋に至るまで空いたテーブルは一つもなく、また多くの家々でも一階から屋根裏まで灯りがともされ、誰もがその好みと手段に従って伝統的なノエルの夜食に興じていた。

この期間にパリが食べつくした食料を数字で示してみるのも一つの考え方であろう。月曜から火曜までレアル(中央市場)で売れたのは、牛肉と豚肉あわせて315トン、牡蠣は4百万個(去年よりも2百万個以上多い)、鳥肉309トン、獣肉(ジビエ)35トン、魚267トン、そしてハム5千本、酢漬けキャベツ(シュークルート)200トン、1万尺のトリュフ入りパテ、さらにかなりの量の白腸詰と黒腸詰(ブダン)であった。

この騒ぎは一晩中続いたが、お祭り騒ぎの陽気さをぶち壊すトラブルはごくわずかであった。飲み過ぎた客同士の口論がいくつか程度で、平時の週末以上ではなかった。パリはひと言で言えば、賢明にふるまったのである。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287948 « Le Figaro » le 26 Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
この年が平和なクリスマスだったことを知る貴重な記事だと思う。(le reveillon a été cette année plus vivace que jamais)
[PR]
by utsushihara | 2007-12-25 16:45 | フランス政治社会1907-08

シテ島の地下鉄工事現場で爆発、5人死亡

f0028703_23464975.jpg1907年12月23日(月)

23日午後7時半頃、リュテス街の地下鉄4号線の工事現場で大きな爆発事故が発生した。4号線はクリニャンクール門からオルレアン門までパリを南北に縦断する地下鉄で、セーヌ川とシテ島の下をくぐるための工事が進められていた。
地下12mの深さで圧搾空気の力によって潜函の鐘形カバーが破裂し、潜函のボルトが外れ、その衝撃によって工事現場にいた60人の労働者が吹き倒された。それは恐慌状態を引き起こした。現場責任者はすぐさま労働者たちを地上に引き上げさせ、点呼を行なった。55名のほとんどが打撲傷を受け、中には頭部に負傷した人もいた。5人の労働者が見つからなかった。
犠牲となった人たちは事故発生の瞬間、粘土で水の流れを塞ぐ作業をしていたが、地下駅を作るための潜函の楕円形のトンネルの中に想像以上の強い力で投げ出された。最初の警報で彼らの仲間と救急隊が駆けつけ、60cmほどの凹みの中で犠牲者の捜索を行なわねばならなかった。
午後9時に最初の遺体を運び出した。身体が完全に損傷し、泥水と土砂と血にまみれていた。潜函作業員の一人、アルフォンス・ベッケル(24歳、ザカリー街9番地)だった。そのすぐ後で運び出されたのは、橋脚主任ジャン・ヴェザーニ(44歳、ヴィヴィエ街13番地)で、既婚者で家族が残された。

パリの市議会副議長のランピュエ氏と秘書官のデランド氏が現場に最初に駆けつけ、事故の模様をすぐさま開催中の議会に報告するために戻った。警視庁のボルド警視の指揮で事故の捜査がたたちに開始され、この恐ろしい事故の原因は、犠牲者の一人ヴェザーニ主任の不注意による取付けボルトの取違えによるものと考えられている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.37; Fév. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #287946 « Le Figaro » le 24 Déc. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
記事中の地下駅とは「シテ」(Cité)駅のことである。地下鉄4号線は現在では2番目に利用者数が多い路線となっている。セーヌ川の川底の下をくぐるため、川の中州にあたるシテ島の駅は地下20mの深さに作られた。全線開通はこの事故の2年あとの1910年1月となる。初めてこの駅に降りたとき、地上に出るためには必ずエレベーターに乗らなければいけないことを知って驚いたことがある。少なくとも戦前の建造でありながら高度の技術を必要とする難工事だったろうと思われる。地上にでるとほっとする。そこは花市場(Marché aux fleurs)になっていて、売り物の小鳥たちのさえずりも聞こえる。現在ではルイ・レーピン広場(Place Louis Lépine)という名前になっている。パリ市警の建物との境目がリュテス街(Rue de Lutèce)である。パリの街の古称はリュテシア(Lutécia)といい、その起源がシテ島から始まったことの証しである。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Ligne 4 du métro de Paris(パリ地下鉄4号線)
[PR]
by utsushihara | 2007-12-23 22:45 | フランス政治社会1907-08

歳末の露店小屋(Les petites baraques)

1907年12月20日(金)

クリスマスと新年が近づいてきた。当然のことながら小さな掘立て小屋もまた新たに建てられようとしている。警視総監はパリの各地区の警察署長に対し、今年は12月20日の夜から1月2日の夜半まで歳末の玩具や贈り物の品々を売るための路上の仮設商店を容認するようにという通達を出した。
レーピン総監の道理にかなった配慮により、この小屋の設置は手作り職人や自分の工場で作った製品を売る職人で困窮している人々にのみ許可されることになっている。また最近パリで玩具や商品の展示を行なった出展者や小店主たちの申請にもできるだけ応えるようにしている。
しかしながら小屋の設置は、大通り、並木道、河岸や広場などの歩道で通行の邪魔にならない十分な広さをもったところだけに許されており、それ以外は法的に罰せられることになる。さらに結局のところ自動車や乗合バスにぶつけられる恐れを思えば生易しいことではない。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287931 « Le Figaro » le 9 Déc. 1907
出典Crédit:©BNF-Gallica #287960 « Le Figaro » le 7 Jan. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
このパリの歳末の仮設商店(Les petites baraques)のイラストを探してみたが、なかなか見出せなかった。どなたかご存知の方はお教えいただきたい。日本の歳末風景ならば、同じように街角のあちこちに正月飾りを売る小屋を見かけるのを連想する。年明けのフィガロの論説記事では「こうした店にきいてみてもあまり商売にならないし、交通の邪魔になるだけならばいっそ廃止したら?」という意見を述べていた。しかし習慣や風物詩はそう合理的に変えられるものではなさそうだが・・・

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-12-19 18:36 | フランス政治社会1907-08

南仏水害支援のパレード

f0028703_21194618.jpg1907年12月7日(土)

グランパレを会場とした壮大な慈善祭典(Kermesse)が企画され、パリ中のすべての軍楽隊、俳優、芸術家たちが参加するという例を見ない催しとなった。これは南仏の洪水被害者たちに義捐金を募るためであり、人々は熱狂して支援の輪に加わった。
会場は午後9時に開かれ、内部の大通路で軍楽隊の演奏が始まった。共和国近衛軍楽隊(ガルド・レピュブリケーヌ)のほか、第1工兵隊、第28、31、46、89、102、104、119歩兵連隊、第1、第2胸甲騎兵部隊、第12、13砲兵隊、第27竜騎兵隊などのラッパ手、鼓笛隊、が参加し、総勢1000名による演奏となった。
午後10時からはプロ・アマ混成の英仏拳闘家によるボクシングの試合、レスリング、剣術、そしてサーカスの綱渡りや空中ブランコが披露された。
午後11時からはメイン・イベントの「時代をたどる乗り物の大パレード」が始まり、3千人の出演者に500の馬が加わった。石器時代の石の車輪の荷車、エジプト時代のファラオの戦車、ローマ時代の4頭建ての戦車、ゴール族の牛車、アンリ4世時代の馬車、ルイ14世時代の輿、ルイ16世がヴァレンヌの逃亡に使った馬車、郵便馬車、ディオン=ブートンの三輪自動車、辻馬車、最初のルノーの自動車などなどが次々に登場した。
午前0時からはバレーや演劇の公演。ミュージック・ホールの踊り子たちのショーなどが会場のあちこちで同時に催された。
午前1時半からは大舞踏会が始まった。500人の音楽家が演奏した。
グランパレ全館が暖房され、一般人の入場料は10フラン、服装は平服(街着:Toilette de ville)との指定だった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287926-30 « Le Figaro » le 4-8 Déc. 1907
画像 Crédit d’image : ©CMN: Archives photographiques (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture)

[ Ψ 蛇足 ]
この大パレード(Le cortège de la locomotion à travers les âges)が通る正面に貴賓席が設けられ、ファリエール大統領夫妻、クレマンソー首相夫妻などの大物政治家をはじめ、ロシアのウラディミール大公夫人、グレフュール伯爵夫人など社交界の名士、実業家たちが、一人250フランの席料を払って申し込んだ。新聞記事には、この祭典の実行委員会の関係者ですら「招待券を発行せず、無料でも入れない」仕組みとなっていた、と報じている。

*参考画像 Référence d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 22 Déc. 1907
La fête au profit des inondés du midi – Au Grand Palais le cortège de la locomotion à travers les âges
**これまでの関連記事france100.exblog:南フランスの大洪水(1907.09.30)

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-12-07 18:48 | フランス政治社会1907-08

モナコの殺人犯に死刑判決

f0028703_17191866.jpg1907年12月4日(水)

12月4日、モナコの高等裁判所は、ゴールド夫人に死刑を、夫のアイルランド人ヴェア・ゴールドに無期懲役の判決を下した。彼らは賭博場の得意客であったスウェーデン人エンマ・レヴィン夫人から金品を奪うため殺害し、死体を切断してトランクに詰め、小荷物として託送したが、ニースで押収され、中を開けられて発覚した。高等裁判所長のローラン男爵が公判を取仕切っている。

出典Crédit:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.36; Jan. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #287924-28 « Le Figaro » le 2-6 Déc. 1907
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 25 Août. 1907
Le crime de Monte-Carlo : Une femme coupée en morceaux; Portraits de la victime et des coupables
http://pagesperso-orange.fr/cen.tans/pj1907/pj87525081907.jpg

[ Ψ 蛇足 ]
この事件は1907年8月に起きた。裕福な人々が多数移り住むコート・ダジュールでの凄惨な殺人事件は大きなセンセーションを巻き起こした。その直後の絵入り新聞では、色刷りの表紙に極端なほどのグロテスクな犯行の発覚時のトランクが描かれていた。上掲(↑)は差しさわりのない一部分のみを引用した。中央が犠牲者のレヴィン夫人(Mme Levin)、左が主犯のゴールド夫人、右が従犯のヴェア・ゴールド(Vare Gold)である。
12月2日からモナコの高等裁判所で公判が開始されるに伴い、その詳細を伝える記事がフィガロでは連日掲載された。ここに抄訳してみようと思ったが、興味本位に走り過ぎの感があるので止めた。
探究してみたい方は、それぞれの日のフィガロの4ページ目の « Gazette des Tribunaux» (裁判新報)の欄を参照されたい。
[PR]
by utsushihara | 2007-12-04 17:17 | フランス政治社会1907-08

エタンプの急行列車強盗の犯人逮捕

f0028703_22401385.jpg1907年12月1日(日)

エタンプの検事局からの捜査支援要請にもとづき、パリ警視庁アマール氏の補佐官のジュアン氏と巡査部長のコルマール氏とが昨日の朝、リール市の平和通りで行商人リュシアンことフランシス・ロッシュを逮捕した。この男は列車襲撃事件の首謀者の一人であることを認め、すべてを自白した。彼はパリのフォーブール・モンマルトルの下宿人だが、犯行のあとルーアンの愛人のもとに身を隠し、ここ数日は関係を保っていた別の女を頼ってリールにやって来ていたのである。逮捕したとき彼はごくわずかな金しか所持していなかった。ジュアン氏は昨晩本庁に電話を入れ、フランシス・ロッシュとともに逮捕した2人の女も今日パリに連行することになっている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287923 « Le Figaro » le 1er Déc. 1907
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 8 Déc. 1907
Les dévaliseurs de trains; L'attaque du rapide de Toulouse entre Etampes et Etrechy (Seine-et-Oise). Novembre 1907

[ Ψ 蛇足 ]
この事件の発生から、連日新聞には捜査の進展を報じる記事が掲載された。それには、犯人の人相や服装、盗まれた売上箱が空で発見、前日エタンプの宿に投宿した3人の男の足取り、鉄道輸送の内部事情に詳しい人物の洗出しなどかなり詳細なものになっている。
シムノンの「メグレ警視シリーズ」でもよく描かれるように、フランスの新聞では捜査を担当した警察官の実名を記事の中に明記するのが伝統となっているようだ。だから「あの有名なメグレ警視さんですか」とか「あなたの活躍は新聞でよく存知上げておりますよ」とか言う台詞が出てくるわけである。上記の記事で「補佐官のジュアン氏」(M. Jouin, secrétaire de M. Hamard)と訳したが、警察署長格の警視の秘書役という職名がフランスではあるようだ。

**これまでの関連記事france100.exblog:エタンプで急行列車強盗事件(1907.11.22)

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-12-01 22:37 | フランス政治社会1907-08

エタンプで急行列車強盗事件

f0028703_19385839.jpg1907年11月22日(金)

11月22日未明、エタンプとエトルシー間を走行中のオルレアン鉄道会社の急行列車が3人組の強盗に襲われ、会社の売上金が盗まれた。彼らは2人の乗務員に傷を負わせ、1万フランを奪って逃走した。

*「フィガロ」11月23日付の記事から:
(・・・)今回の強盗たちは術策を立てずに、手に拳銃を持って荷物車を襲った。この列車はリモージュ発パリ行きの第16列車(Train 16)で午前4時24分にオルセー駅到着予定であった。
事件が起きたのは午前3時23分、列車がエタンプ(Etampes)の駅を出てまもなくのことで、あとはパリまで全速力で走り出そうという矢先であった。鍵がかけられた荷物車の戸が乱暴に開き、2人の男が現れた。車内にいた2人の乗務員、つまり車掌長のタルディールと車掌のフェリーヌは彼らを追い払おうと駆け寄ったが、強盗たちは彼らに向かって発砲し、傷を負わせた。警報が鳴り、列車が急停車し、乗客が駆けつけると、強盗たちはいくつかの売上箱を奪って逃走した。売上箱(boîtes de recettes)は一定の日付で地方の駅の売上金をパリに運ぶことになっていた。
以下が車掌長のタルディールがパリ・オルセー駅に到着後、駅特別警視のオリーヴ氏に供述した内容である:
「私の名はジャン・タルディール(Jean Taldir)、48歳、オルレアン鉄道会社の車掌長で、住所はセルパント街34番地です。私は昨夜9時34分、リモージュ駅から第16列車に乗務しました。3両目の荷物車で、荷物や郵便物、貴重品などが入っています。午前4時頃、エタンプとエトルシーの間を列車が時速60~70kmで走っているところ、通路右側の鍵のかかっていた扉が乱暴に開いて2人の男が車内に踏み込んできました。私は仲間のフェリーヌと一緒にいて、そのときは郵便物と貴重品の区分けをしていました。この乱入者を見るや、私はすぐ奴らを取り押さえようと向かいました。前にいた男が私を殴ろうとしたので、奴のみぞおちに蹴りを入れました。銃声が2発鳴りました。私は右の二の腕に激痛を感じて、余りの痛さで奴から手を離し、引き返して緊急警報を鳴らしました。列車はエタンプから約5kmのところで止まりました。
奴らは開いた扉からいくつかの売上箱を外に放り投げ、列車から飛び降りて逃げました。追いかけることは出来ませんでした。」
もう一人の乗務員アタル・フェリーヌ(Atale Féline)、31歳、車掌、住所、アルベール街60番地の供述。「(中略)傷を負っても私は非常ブレーキのレバーを引きました。これは列車にブレーキをかけるとともに非常警報を鳴らします。列車は止まりました。強盗たちは逃げ出しました。3人いるのが見えました。旅行客たちが追いかけて行きましたが、彼らは線路脇の森に消えてしまいました。」(・・・)

出典Crédit:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.36; Jan. 1908
出典Crédit:BNF-Gallica #287914 « Le Figaro » le 23 Nov. 1907
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 8 Déc. 1907
Les dévaliseurs de trains; L'attaque du rapide de Toulouse entre Etampes et Etrechy (Seine-et-Oise). Novembre 1907

[ Ψ 蛇足 ]
乗務員は2名とも軽傷で病院での応急手当のあとパリの自宅に帰った。車外に投げられた箱は8個だが、犯人は5個しか持ち運べず、3個が残されていた。中身は売上金で平均1万フラン入っており、被害は5万フランと想定される。この列車には「売上箱」68個を運んでいた。警視総監アマール(Hamard)氏は直ちに捜査を開始し、エタンプ(Etampes)の警察でも現場の鑑識を始めている。

にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
[PR]
by utsushihara | 2007-11-23 19:37 | フランス政治社会1907-08

マリー・ボナパルト公女の民事結婚式

f0028703_17371791.jpg1907年11月21日(木)

11月21日、パリ16区役所でギリシア王室のゲオルギオス王子とマリー・ボナパルト公女との民事上の結婚式が行なわれた。立会人は、花婿側が弟のニコラス王子とギリシア国王パリ全権大使のデルヤンニ閣下、花嫁側はコンスタンチン・ラジウィル公夫人と(叔母にあたる)ヴィルヌーヴ侯爵夫人ジャンヌ・ボナパルト公女であった。宗教的な婚礼の儀式はアテネで12月12日に執り行なわれる予定である。ニコラス王子・王子妃両殿下は来週初めにギリシアに戻るが、花婿のゲオルギオス殿下は来週木曜までパリに留まったあと帰国し、改めてピレウス港から御用船「アンフィトリト」に乗ってイタリアのブリンディジ港まで赴き、そこでローラン・ボナパルト公父娘を迎えてギリシアに案内することになっている。

この前日、ローラン・ボナパルト公はイエナ通りにある広壮な邸宅を開放して、娘のマリー公女とギシリアのゲオルギオス王子との婚約を祝う盛大な夜会を催した。夜の9時から午前1時まで続いた宴会に押し寄せた人々の群れで屋敷の広大さも十分ではなかった。招待状の発送は3000通以上に及んだ。

出典Crédit:BNF-Gallica #287913 « Le Figaro » le 21 Nov. 1907
出典Crédit:BNF-Gallica #287915 « Le Figaro » le 23 Nov. 1907
出典Crédit:BNF-Gallica #287918 « Le Figaro » le 26 Nov. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
民事結婚式(Mariage civil)と訳してみたが、彼らが法律上の婚姻届を出したのがこの日付である。フランスでは市役所(パリでは区役所)で二人が婚姻届にサインすることで首長から祝福される人前婚がしばしば見られる。教会での挙式はあくまでも結婚した二人が神の祝福を受けるに過ぎない、と海外挙式のパンフレット説明にもある。

上記の結婚式に関連して、ボナパルト帝家の家系について当時どうなっているのか、を解説する記事も掲載された。それを簡単にまとめると以下になるが、正統は現在ジェロームの子孫だけが保っている。

ナポレオン1世(Napoléon Ier, 1769-1821) ━━━ ローマ王ナポレオン2世(Napoléon II, 1811-1832)━ X
ナポリ/スペイン王ジョゼフ(Joseph, 1769-1844)━ 女系のみ
オランダ王ルイ━━━ ナポレオン3世 ━━━ウジェーヌ=ルイ ━ X
(Louis, 1778-1846) (Napoléon III, 1808-1873)(Eugène-Louis, 1856-1879)
ウェストファリア王ジェローム ━━━ ナポレオン=ジョゼフ━┳━ ヴィクトール=ナポレオン━ ○
(Jérôme, 1784-1860) (Napoléon-Joseph, 1822-1891) (Victor-Napoléon, 1862-1926)
                                    ┗━ ルイ=ナポレオン━ X
                                    (Louis-Napoléon, 1864-1932)
カニーノ公リュシアン━┳━ シャルル=リュシアン ━ 女系のみ
(Lucien, 1775-1840) (Charles-Lucien, 1803-1857)
              ┗━ ピエール=ナポレオン ━━━ ローラン ━━━ マリー
    (Pierre-Napoléon, 1815-1881)(Roland, 1858-1924)(Marie, 1882-1962)

**これまでの関連記事france100.exblog: モードの館で王室用婚礼衣装の展示(1907.11.07-19)
[PR]
by utsushihara | 2007-11-21 17:31 | フランス政治社会1907-08

南仏カンヌ付近の狼峡谷(ゴルジュ・デュ・ルー)で災害

f0028703_19104710.jpg1907年11月20日(水)

11月20日、南仏カンヌとグラスの間に位置する保養地バー=シュル=ルー(Bar-sur-Loup)から約3km離れた狼峡谷付近で土砂崩れが発生した。そこでは狼川から水を取り込むための堰堤の建設が進められていたが、水圧に耐え切れず崩壊し、作業員たち全員が生き埋めとなった。第23猟騎兵隊などによる救出作業の結果、12名の遺体を収容した。犠牲者たちの慰霊式は11月23日カンヌで知事とニース司教の列席のもと行なわれた。

出典Crédit:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.36; Jan. 1908
画像 Crédit d’image : ©CMN: Archives photographiques (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Gorges du Loup. Le tunnel de la cascade de Courmes

[ Ψ 蛇足 ]
狼峡谷(Gorges du Loup ゴルジュ・デュ・ルー)は、あえて地名を和文にする必要はないところだが、険しい山峡の地名にこうした意味が含まれていることを知ってもらうのも大切ではないかと思う。写真を見たところでは、日本ではごく見慣れた峡谷風景であるが、平地の多いフランスでは、アルプスに近い地方ならではの珍しさだったようだ。

*参考サイト:Tourrettes sur Loup (狼川流域の小旅行:仏語)
[PR]
by utsushihara | 2007-11-20 19:08 | フランス政治社会1907-08

英国ウッドノートンでルイーズ公女の婚礼

f0028703_1649979.jpg1907年11月16日(土)

オルレアン公女ルイーズ・ド・フランスと両シチリア王族カルロ・ディ・ボルボーネとの婚礼が11月16日、英国ウッドノートンで行なわれた。英国はもとより、スペイン、フランス、イタリア、ポルトガル、ドイツ、オーストリア、ロシアなどから親戚関係にある多数の王侯貴族が集まった。右掲(→)の写真はウッドノートンの城館で婚礼を前に数日間続いた賓客の挨拶と交歓風景である。左端がオルレアン公とパリ伯夫人、中央にポルトガル王妃、やや右に花嫁ルイーズが見える。
f0028703_16493326.jpg(←)式を終えて教会を出る花嫁花婿。花嫁は婚約指輪以外は一切の宝飾品を身につけなかった。

出典Crédit:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.36; Jan. 1908
出典Crédit:BNF-Gallica #287907 « Le Figaro » le 15 Nov. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
オルレアン家は七月革命(1830)でルイ=フィリップが王政を執ったが、二月革命(1848)で市民の自由への希求と民主主義の高まりを迎えたため、退位して急遽英国に亡命した。ウッドノートン(Woodnorton)はウースターシャー州の肥沃な土地に建つ元々狩の館であったが、既にオルレアン家で相続していたため居館とすることができた。現在この建物はBBC放送局の所有となっている模様。

フランスの新聞では、ルイーズ・ド・フランス(Louise de France, 1882-1958)と表記しているが、ルイ=フィリップから見れば、ルイーズは曾孫にあたる。王家の血統が断絶していないため、昔の王女のような表記でも不思議ではないということなのかも知れない。

花婿カルロ・ディ・ボルボーネ(Carlo di Borbone, 1870-1949)はスペイン・ブルボン王家から分かれた両シチリア王国(Royaume des Deux-Siciles)の王族の一人で、当然フランス王家の遠い親戚に当たる。

*参考サイト:Country House Wedding Venues : Woodnorton Hall, Worcestershire(結婚式場ウッドノートン・ホール:英文)
[PR]
by utsushihara | 2007-11-16 16:46 | フランス政治社会1907-08