フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:日本・東洋事情1907-08( 10 )

明治宮廷の醜聞

1908年12月26日(土)

日本の宮中と華族の社交界においては、東京のある新聞社が明るみに出した醜聞事件によってすっかり動揺している。
しばらく前になるが、若い藤堂伯爵は英国留学中に現地女性とロンドンで密かに結婚した。この結婚は内密にされ、帰国後彼が皇族の王女と婚礼を挙げようと準備するうちに事実が発覚したのである。天皇は激怒され、この婚約は破棄となった。彼はすべての資格と職位を失ない、無期限に在野に放逐とされた。これまで藤堂伯爵の婚儀の画策に携わっていた何人かの高官たちも解任となった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618517 «Le Petit journal» No.16834, le 28 Jan. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
珍しい日本での皇族の醜聞(Scandale à la cour du Japon)がフランスの新聞「プチ・ジュルナル」紙(実際は1ヵ月後の日付の記事)で報じられた。この記事にある藤堂伯爵とは、藤堂高紹(とうどう・たかつぐ、明治17年生~没年不詳)(1884-19xx)のことで、父親の藤堂高潔(とうどう・たかきよ、天保8年~明治22年、1837-1889)は、津藩の第12代(最後)の藩主だった。藤堂家は藤堂高虎から続いた大名家である。
明治23年に幼くして爵位を継ぎ、学習院を卒業後、英国に渡りケンブリッジ大学に3年間留学した。英人女性との結婚はこの時のことらしい。帰国後、宮中の式部官となっていた。皇族の北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさ・しんのう)の第3王女、武子(たけこ)との婚約勅書を拝受していたが、事実発覚の後それを返上したため、華族懲戒委員会が開かれ、藤堂家の華族礼遇停止が決定された。
その後、藤堂伯爵は別の結婚をし、五女が朝香宮妃として、また名門岩倉一族との姻戚関係も得た。彼は後年「伊和辞典」の編著者としても知られる。

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
実は北白川宮能久親王自身も過去に同様の婚約騒ぎを起こしている。
(Wikipedia からの一部転載:北白川宮能久親王)
ドイツに留学中だった明治9年、貴族の未亡人ベルタと婚約を行なったうえで、明治政府に対し結婚の許可を申し出た。しかし政府は難色を示し帰国を命じる。帰国の直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため大問題となった。しかし結局明治10年7月に帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄、京都で謹慎することになる。

*参考サイト:化石鉱物オンライン販売専門店磐座(いわくら)-りんどう会
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by utsushihara | 2008-12-25 18:00 | 日本・東洋事情1907-08

日本の議事堂建設のための訪欧調査団

1908年7月22日(水)

日本の貴族院書記官長、太田峰三郎氏は数週間前からパリに滞在している。彼はここで東京の宮廷建築家たちを伴った衆議院書記官長の林田亀太郎氏の到着を待っているのである。
この二人の日本政府高官は欧州に来て、我方の国会の機能と、とりわけ議事堂の中に収容される設備について研究しようとしている。そのため太田氏はパリに入る前にすでに英国の議事堂を訪れており、仲間の到着の前にここ数日はブルボン宮とリュクサンブール宮を長い時間をかけて見学している。
彼らの出張と調査の目的は、日本の議会の本拠地として、東京にある仮の議事堂に代わる恒久的な殿堂を遅滞なく建てたいと望む日本の皇帝の要請による設計図の準備であった。この仮の議事堂は10年ほど前に一度火災により焼失したあと建てられたものである。
f0028703_23115246.jpg

太田氏はすでにブルボン宮とリュクサンブール宮で、少なくとも我が議会の基盤工事の石材の点でいくつかの有用な調査書を作成した。彼はまた国会の機能に関し、立法や議事の進行のために引き出された特権について何か着想を得られないかと調べるに違いない。それは彼の旅行の大きな収穫になると思われる。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288159 « Le Figaro » le 22 Juil, 1908
画像 Crédit d’image : ©Kazyusa; le Palais Bourbon, 1993

[ Ψ 蛇足 ]
明治時代における日本の国会議事堂建設に向けての一過程を示す珍しい新聞記事である。貴族院書記官長の太田峰三郎と衆議院書記官長の林田亀太郎については、詳細な経歴がネット上にはなかった。二人とも長期にわたって書記官長を務めたらしい。彼らがそろって欧州に調査旅行をしたのも本格的な国会議事堂の建設を推進するためであった。
現在の立派な国会議事堂が1936年(昭和11年)に竣工となるまで、あと28年の月日を待たねばならない。
(↑)画像はパリにあるブルボン宮(国民議会 Assemblée nationale)

*参考サイト:Wikipedia(和文)国会議事堂
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by utsushihara | 2008-07-22 23:10 | 日本・東洋事情1907-08

新たな日本の支配下の樺太

f0028703_22121660.jpg1908年3月

ロシア対日本の戦争終結後、ロシアから譲り受けたサハリン島(樺太)に日本人がようやく移住が完了した。日本の統治者はコルサコフのロシアの県知事が住んでいた地味な住居を引き継いだ。彼はそこに神社を建て増しし、正面上部には国家の紋章たる蓮の花が飾られている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.38; Mars, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
不鮮明ながら珍しい写真である。残念ながら神社(un temple shintoïste)らしいものは判別できない。国家の紋章は「菊のご紋」のはずだが、フランス人記者は蓮の花(une fleur de lotus)に見間違えたようだ。

**これまでの関連記事france100.exblog: ポーツマス会議(6)(1905.09.05)
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by utsushihara | 2008-03-07 14:10 | 日本・東洋事情1907-08

上海にある日本の諜報機関の学校(東亜同文書院)=歪曲記事

f0028703_17431173.jpg1907年8月

日本は日清戦争後の下関条約によって承認された項目の一つとして、中国の上海近郊に日本の同文(Tun-Wen)学校を設置し、帝国全土から採用した生徒たちをここに送り込んでいる。生徒たちは最も厳格な規律と、最も過酷な教練のもとに置かれる。日露戦争の間に活躍した密偵のほとんどがこの学校から輩出した。生徒たちは極めて容易に中国人で通るために自然に辮髪を結っている。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.32; Sept 1907

[ Ψ 蛇足 ]
まずこれは誤解に満ちた報道である。辮髪を結うなどの内容も一部の中国人生徒を除けばほとんどなかったのではなかろうか。
下記の(3)のサイトの説明にもある通り、同文館とは中国で設立された外国語翻訳者養成学校のことで、日本語のみならず列強の言語、つまり英仏独露の同文館も各地に作られていた。どちらかというと日本は後発だったが、日清・日露戦争で欧米列強が「日本脅威論」を唱えだしてから、特にこれまで彼ら影響力を行使してきた中国における日本勢力の台頭がとても気になっていたのだろうと思われる。「ジュセトゥ」のこの記事のタイトルも実は「日本のスパイ学校」(Ecole d’espions Japonais)というヒドイ表現であった。

上海の東亜同文書院が実際どのような目的の学校だったか、そしてどのような業績を残したのかは、下記の参考サイトの説明をぜひ参照されたい。

*参考サイト:
(1)「戦中・戦後学びましょう」Blog:東亜同文書院
(2)《 historical amnesia 》Blog:西所正道『「上海東亜同文書院」風雲録—日中共存を追い続けた五千人のエリートたち』[書評]
(3)Hatena::Group::Chinese(論文用メモ)同文館(中文&和文)
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by utsushihara | 2007-08-11 17:37 | 日本・東洋事情1907-08

「さわやかな朝の帝国」の保護国化

f0028703_15112061.jpg1907年7月20日(土)

大韓帝国には「さわやかな朝の帝国」(Empire du Matin Calme)の意味があるが、今後は極東地域の覇者である日本の保護下に置かれることになる。首都ソウルには日清戦争の後に建てられた独立門(L’arc de l’indépendance)が皮肉にも残されたままである。(画像→)激しい抵抗にもかかわらず皇帝・李珠淵(Li-Hsi-Hyeung)は廃位となり、その息子、李坧(Y-Sieck)は日本の保護下で統治することを受諾した。これは事実上の併合である。(C’est une véritable annexion.)

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.32; Sept 1907
f0028703_15115247.jpg
[ Ψ 蛇足 ]
これには1ヶ月前のハーグで開催された第2回万国平和会議における大韓帝国からの「密使事件」がきっかけとなった。

> 日本の影響力が強まっていた大韓帝国が国家権力の回復を意図して、このハーグの会議に3人の密使を送りこんで訴えたものの、列強は日本の既得権益を尊重し、彼らの主張が認められなかったという「ハーグ密使事件」も注目すべき事件である。
**これまでの関連記事france100.exblog:第2回万国平和会議、ハーグで開催(ハーグ密使事件)(1907.06.15)

***その後:(Wikipedia 「ハーグ密使事件」より引用)
韓国統監であった伊藤博文が事件を厳しく追及すると、高宗(李珠淵)は子の純宗(李坧)へ譲位した。同年7月24日に韓国統監の権限強化をうたった第三次日韓協約が締結された。この協約によって、韓国は外交権に加えて内政権も日本に接収されることとなった。

*参考サイト:
(1)Wikipedia 大韓帝国皇帝・高宗(李珠淵)
(2)Wikipedia 大韓帝国皇帝・純宗(李坧)
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by utsushihara | 2007-07-20 15:08 | 日本・東洋事情1907-08

黒木将軍の洋行

f0028703_2333282.jpg1907年6月

日本の黒木将軍は、先般のロシア対日本の戦争(la guerre russo-japonaise)において重要な役割を果たした人物であるが、令嬢と世界一周の旅に出たことが大きな評判となっている。6月に彼はニューヨークに滞在している。フランスも訪れる予定である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.30; JUIL 1907

[ Ψ 蛇足 ]
黒木為楨(ためもと)、[天保15年-大正12年](1844-1923)は薩摩藩士の子として生まれ、日露戦争では第一軍の司令官として鴨緑江の戦いから奉天会戦まで快進撃を続けた。薩摩武士らしい剛毅な性格で、猪突猛進型の軍人であった。日露戦後の軍人たちの内外の行動もあまりはっきりした記録が見出しにくい。画像の中央の令嬢の向かって右手が黒木将軍。
*参考サイト:Wikipedia(和文)黒木為楨
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by utsushihara | 2007-06-01 23:28 | 日本・東洋事情1907-08

中国で大飢饉

f0028703_13491422.jpg1907年4月

清帝国の中央部では数ヶ月来最大規模の恐ろしい飢饉が続いている。農民たちは雑草や木の皮までむさぼり食うに至っている。政府は事態を重く受け止め、すべての大きな町に救護所を設置し、飢えに苦しむ人々に米を配給している。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.29; JUIN, 1907

[ Ψ 蛇足 ]
この前の年1906年には日本でも東北地方が大飢饉に見舞われたと記録にある。現代では栄養過多で健康を害する人が多くなっているが、空腹こそが動物としての最大の脅威であることの反動なのだろうか?食べ残したら道義上申し訳ない、という人類の記憶もこうした歴史の教訓であり、またそうした状況が再来する可能性も否定できないのは確かだ。
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by utsushihara | 2007-04-19 13:49 | 日本・東洋事情1907-08

米大型商船「ダコタ」号、房総沖で座礁

f0028703_1639348.jpg1907年3月

米国の保有する最大級の商船「ダコタ」号(Dakota)は、3月3日の白昼、日本沿岸で座礁した。この事故で死者は出なかったが、損害額は2千万フランに上り、一部は保険で充当された。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.29; JUIN, 1907

[ Ψ 蛇足 ]
この海難事故の発生は3月初旬だったが、フランスの雑誌で報じられたのは約3ヶ月近く遅れた。座礁した地点は房総半島の先端部、白浜町の野島崎灯台東方、地元漁民が「鬼ケ瀬」と呼ぶ一帯だった。明治40年当時の白浜村長の指揮で十数隻の漁船で救助に向かった。一方、米国の商船員たちはこれを積荷の略奪にやって来たと勘違いする一幕もあった。乗客726名は全員無事救助された。
船体は大破し、そのまま放置されたが、3月23日に大時化(しけ)が来て真っ二つに割れ、沈没した。
*参考サイト:Prairie Public(英語)Dakota Datebook
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by utsushihara | 2007-04-17 16:39 | 日本・東洋事情1907-08

伏見宮貞愛親王のパリ逗留

f0028703_1814416.jpg1907年4月2日(火)

日本の皇族の一人、伏見宮貞愛(さだなる)親王殿下は数日間パリに滞在することとなった。殿下は日本皇帝の従弟にあたり、現役の陸軍大将である。英国王エドワード7世のもとへ赴く途中であり、4月2日ファリエール大統領は歓迎の昼食会を開いた。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.28; MAI, 1907

[ Ψ 蛇足 ]
伏見宮家は古く南北朝の時代から続く宮家の一つで、幕末から明治維新の時期にあたる第19代貞敬親王と第20代邦家親王は子沢山であり、多くの宮家が生まれた。貞愛親王(1858-1923)は明治5年(1872年)に第23代を継いでいる。遣英答礼大使として明治40年(1907年)1月27日出港して英国に赴き、同年7月14日に帰国する。この答礼の目的については日英同盟の更新(1905年8月)に関連していたかもしれないが、時間的余裕がなくまだ調べていない。

*参考サイト:Wikipedia(和文):伏見宮貞愛親王

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)英国艦隊の日本寄航(1905.10.11)
(2)日英同盟の更新 (1905.09) 現在のところ未作成です。
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by utsushihara | 2007-04-02 18:14 | 日本・東洋事情1907-08

カリフォルニアへの邦人移民抑制へ

1907年1月10日(木)

日本国政府は移民問題の紛争化を避けるため、米国への日本人の移民を抑制する方策を模索している。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.25; FEV. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
12月の邦人排斥騒動の対応として日本ではさまざまな動きがあったとされるが、この記事はいとも簡単に極東の国の動向の経過を伝えている。
ここで皆様にお願いすることになるが、もし明治時代の日本の新聞の紙面をインターネットの電子文書として閲覧できるサイトや方法がありましたら、是非お知らせください。

*参考サイト:(和文)Wikipedia 排日移民法
**これまでの関連記事france100.exblog:カリフォルニアの在留邦人排斥騒動(1906.12.04)
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by utsushihara | 2007-01-11 21:52 | 日本・東洋事情1907-08