フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:文芸、評論1909-10( 24 )

ノーベル文学賞にスウェーデンのセルマ・ラーゲルレーヴ女史

1909年12月10日(金)
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1909年のノーベル文学賞は、12月10日スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴ女史に与えられた。彼女は『ゲスタ・ベルリングの伝説』(La Saga de Gösta Berling, 1890-91)や『ニルス・ホルゲルソンの驚異の旅』(ニルスのふしぎな旅)(Le Merveilleux voyage de Nils Holgersson, 1906-07)が知られる。選考の過程で複数の受賞者となる可能性があったが、最終的に彼女だけとなり、20万クローネの賞金を受け取った。

上掲(↑)は彼女の有名な小説をもとに劇化し、ストックホルムで上演された『ゲスタ・ベルリングの伝説』の一場面である。

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出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
出典Crédit:©Larousse - Chronique du 20e siècle, 1908.09 @MFJ

[ Ψ 蛇足 ]
セルマ・ラーゲルレーヴ(Selma Lagerlöf, 1858-1940)はスウェーデン人としては最初のノーベル賞受賞者であり、また女流作家としての最初の文学賞となった。当時のフランスの新聞・雑誌でも彼女の受賞は画期的であったことが注目される。
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by utsushihara | 2009-12-10 22:45 | 文芸、評論1909-10

2人の文筆家シャルル・モーラス対ジャック・ランドーの決闘

1909年12月6日(月)
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とにかく異例な決闘が12月6日午前11時、パルク・デ・プランスの敷地内でおこなわれた。シャルル・モーラス氏が書いた記事に関してジャック・ランドー氏が批判記事を寄せたことが、2人の間での剣による決闘に至った原因である。
シャルル・モーラス氏の介添人はフレデリック・ドレベックとリュシアン・モローの両氏であり、ヴィヴィエ医師も立会った。一方、ジャック・ランドー氏にはピエール・モルティエ、ユベール・ドレ=ド=カストニエの両氏とアラゴン医師がついた。
双方の合意のもと、介添人4名はルージエ=ドルシエール氏に決闘の進行役を依頼した。彼はモーラス氏に難聴の障害があるのを鑑みて、特別な条件で進行役を果たすことになった。
決闘する2人が対峙する前に、ドルシエール氏は型通りの決闘の再考を促す言葉を声高に読み上げた。慣例の「始め!」(Allez, Messieurs!)という合図の言葉がモーラス氏にはよく聞こえないため、ドルシエール氏は、両者を剣を合わせたままで待たせ、審判の手にするハンカチを勢いよく振り上げるのを合図に決闘が開始した。
戦いの間、このハンカチの合図は仕切り直しのために20回余り振られた。激しい撃ち合いになったのは5回ほどあり、一方の剣が壊れたため、また尖先が鍔に当って磨耗したため、取り替えを余儀なくされた。
結局、休憩の後の5回目の激しい撃ち合いのとき、モーラス氏が激しく攻め立て、それに応戦したランドー氏の剣がモーラス氏の右腕にかなり深く突き刺さったのである。血がほとばしり、モーラス氏は医師たちに傷を見せた。診断の結果、傷は明らかに戦いの続行には不利益と判断されたため、決闘は取りやめとなった。
両氏は和解の言葉なくそれぞれに立ち去った。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618830 « Le Petit journal » No.17147, le 7 Déc. 1909
画像Crédit:©BNF-Gallica #5526611 « Touche à tout » No.1; Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
20世紀に入っても決闘が頻繁におこなわれ続けている。文筆家同志の批判の応酬が「ペンから剣へ」と発展するのだが、かといって「腕で」片をつけることが本当の意味で決着と言えるのかどうか?どんなことをしても割り切れなさは残るのではないだろうか。ある意味では「戦争のむなしさ」にも通じる。

シャルル・モーラス(Charles Maurras, 1868-1952)は、思想的には君主制の復帰を望み、反ドレフュス派として盛んな論議を戦わせた。1899年以降、国粋的な政治団体「アクシォン・フランセーズ」(L'Action Française)を結成し、その中心人物として同名の機関紙を発行し、愛国運動を牽引した。介添人のリュシアン・モロー(Lucien Moreau, 18xx-1932)もその主要な一員で、出版人ラルースの親族にあたる。
対戦相手のジャック・ランドー(Jacques Landau)については詳細は今のところ見つからない。

**これまでの関連記事france100.exblog:批評家シュヴァッシュ対劇作家ベルンスタンの決闘(1909.10.27)
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by utsushihara | 2009-12-06 23:22 | 文芸、評論1909-10

ロダンの手による作家バルベー=ドールヴィイの胸像落成

1909年11月28日(日)f0028703_22512670.jpg

11月28日、マンシュ県のサン=ソヴール=ル=ヴィコントの町で、大彫刻家ロダンの作による作家バルベー=ドールヴィイの胸像の落成式がおこなわれた。この作家はこの地で1808年に生まれ、1889年にパリで没した。式典にはアカデミー会員の歴史家フレデリック・マッソン氏をはじめ、文筆協会長のジョルジュ・ルコント氏、「演劇評論」誌を代表してカミーユ・ル=センヌ氏が、かつて《文筆の元帥》(Connétable des Lettres)と称されたこの作家の業績を讃えて代わる代わる賛辞を述べた。彼は代表作として『憑かれた女』(Ensorcelée)、『騎士デ・トゥシュ』(Le Chevalier Des Touches), 短篇集『魔性の女たち』(Diaboliques)、評論集『作品と人間像』(les Oeuvres et les Hommes)などが知られている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059976 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.49-50; le 4 et 11 Déc. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
f0028703_22513836.jpgジュール・バルベー=ドールヴィイ(Jules Barbey d’Aurevilly, 1808-1889)は、19世紀の作家たちの中でも特異な存在であった。ノルマンディの貴族の家系に生まれ、カーンで法律を学んだあとパリに出て文筆活動に入った。思想的には極端かつ強硬なカトリック信者であり、市民階級の自由な思考を軽蔑し、ダンディスムに徹した生活を送った。この胸像の建立は彼の生誕100年を記念して発起された。

邦訳された彼の作品はごくわずかだが、信仰心の希薄な一般人の人生に現われる悪徳の諸相、特に男女関係の情愛にからんだ局面を強烈に描きだす筆力は、読む者の心を深く魅了する。
以前は「バルベー=ドールヴィリ」という表記がほとんどだったが、より原語発音に近い「ヴィイ」が仏文学会でも採用されているようだ。
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by utsushihara | 2009-11-28 22:50 | 文芸、評論1909-10

ジィドの新作『狭き門』への評価(4)

1909年11月7日(日)f0028703_22333199.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
11月7日、日曜日

 この作品は、こうやってみると、中にはいっている巴旦杏(はたんきょう)がおいしいヌガーのように思える。(即ち、巴旦杏は『アリサの手紙と日記』である。)だが、飴の部分はねばねばしている。うまく書かれていない。然し、立役者が、ジェロームのような、無気力な散文を持った無気力な性格の人間では、こうなるよりほか仕方がなかったのだ。で、結局のところ、この作品は成功していると思う。だが、早くほかのものが書きたくてたまらない! 再び、愛(アムール)とか心(クール)とか魂(アーム)とかいう文字を使うことが出来るまでには十年かかるだろう……

画像 Crédit d’image : ©CMN: Ministère de la Culture de France (Médiathèque du Patrimoine et de l'Architecture) Archives photographiques diffusion RMN / Portrait d'André Gide assis lisant à son bureau / Auteur de la photo : Marc Allégret /

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(3) (1909.10)
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by utsushihara | 2009-11-09 22:30 | 文芸、評論1909-10

批評家シュヴァッシュ対劇作家ベルンスタンの決闘

1909年10月27日(水)

フィガロ紙の劇評家フランシス・シュヴァッシュ氏はアンリ・ベルンスタン氏の戯曲『鉤爪』(Griffe)の再演に関して評論記事を書いたが、その中のいくつか辛辣な評価で作者を傷つけることになった。
ベルンスタン氏は「コメディア」誌にシュヴァッシュ氏対する公開書簡として同様な口調で反論を述べ、それが火薬に火を点ける結果となった。シュヴァッシュ氏はベルンスタン氏の暴力的な回答によって侮辱されたと判断し、2人の友人を介して先方の発言の撤回もしくは決闘のいずれかを申し入れた。その友人とはアカデミー会員のモーリス・ドネー氏と文筆家のジョルジュ・リヴォレ氏である。
(↓)ベルンスタン氏の方も2人の友人、劇作家アベル・エルマン氏とジャン=ジョゼフ・ルノー氏を代理人として公開討論を依頼した。長時間の折衝でも双方が和解に至ることはできなかった。こうして侮辱を受けた側として批評家シュヴァッシュ氏と劇作家ベルンスタン氏は、それまで紙面上に限られていた争点を武器によって決着をはかるべく、決闘場に赴くこととなった。

f0028703_21535265.jpg日時は27日午前11時半、場所はパルク・デ・プランス競輪場、武器は拳銃を使用することと決まった。天候は最悪だった。滝のような雨がこの決闘に立ち会いたいと望む限られた人々に降り注いだ。
まず1台の自動車からベルンスタン氏が降りた。「鉤爪」の作者は、伝統的な決闘のいでたち、つまり山高帽や硬いフロックコートの着用を前から気にしていて、結局チロル帽とチョッキを付けた軽装服だった。彼のそばには口髭を反り返らせたアベル・エルマン氏と拳銃の箱を持ったルノー氏がいた。それからポッジ教授が医師として立ち会った。
数歩離れた別の自動車からは、黒服の上下のフランシス・シュヴァッシュ氏が降り立った。モーリス・ドネー氏は風雨の中、麦藁色の革手袋をした両手で傘を差し、光沢のあるシルクハットと礼服という完璧ないでたちだった。その後にリヴォレ氏が同じように拳銃の箱を持ち、カザン医師が扉を閉めた。競輪場の芝生の上では伸び放題の草が靴のかかとまで踏み込ませた。立会人たちは急いで距離を測った。これはあまり例がないが、慣例の25歩の距離ではなく、30mの距離と決めていた。拳銃に弾が込められ、決闘者たちはそれぞれの場所から面と向かった。

進行役となったルノー氏は、雨の中で退きながら当人たちに最終的な注意事項をしつこく説明した。そして「用意はいいか?」(Etes-vous prêts, messieurs?) という決まり文句のあとに、「撃て!」(Feu!)と叫んだ。
シュヴァッシュ氏は静かに拳銃を持ち上げ、ベルンスタン氏に狙いを定め、引き金をひいた。弾丸は音を立てて劇作家の右側を飛び、観客席の下の砂利道に食いこんだ。
ベルンスタン氏のほうは「撃て!」の合図で同じく冷静に、拳銃を背中にまわし、銃口を地面に向けたまま、発砲しなかった。

「どうして撃たなかったんだ?」とルノー氏がきいた。ベルンスタン氏は何も答えず、進行役に武器を返した。ルノー氏は競技場の手すりの横の木材が積んである所に弾を放った。

決闘は終わった。一言もなく、身振りもお辞儀もなしに当事者たちはその場を離れ、車に乗り込んだ。この間、パルク・デ・プランス競輪場の囲いの陰から映画の撮影技師が熱心にその大きな機械を回していた。彼はがっかりした様子を露わにした。ベルンスタン氏は微笑み、シュヴァッシュ氏は会釈し、モーリス・ドネー氏は傘の陰に顔を隠した。雨はこれまでになく強く降りしきった。侮辱の応酬も洗い流すことだろう。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618790 « Le Petit journal » No.17107, le 28 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
決闘は表面上は禁じられていたのにもかかわらず、軍人や文筆家などの間では結構頻繁に行なわれた。
映画産業は急速に拡大発展し、人々に話題性の強い出来事をニュース映画のように見せることが次第に多くなったことがわかる。
f0028703_21541457.jpgアンリ・ベルンスタン(Henri Bernstein, 1876-1953)はこれまでも「突風」や「鈎爪」など刺激的な劇作で注目を集めていた。
フランシス・シュヴァッシュ(Francis Chevassu, 1861-1918)は評論家としての著作が多いが、反ドレフュス派の保守的な人脈とのつながりが深く、1904年の『顔』(Visages)というルポルタージュ本には、フランソワ・コペ、ジュール・ルメートル、デルーレード、アンリ・ロシュフォールなどの人物を取り上げている。(BNF-Gallica #619734 で電子図書として読める)(→)

**これまでの関連記事france100.exblog:「鈎爪」の上演(1906.04)
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by utsushihara | 2009-10-27 21:52 | 文芸、評論1909-10

ジィドの新作『狭き門』への評価(3)

1909年10月

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
キュヴェルヴィル、10月

リュシアン・ロルメルに手紙を書く。(馬鹿げた論文について。)――彼は『狭き門』を犠牲にして『背徳者』を賞めたのである。
「たしかに、水晶に比較されたことは大きな悦びであります!……ですが、あなたは画家とモデルをなんと奇妙に混同なさっていることでしょう。『美しい魂の告白』を書いたからといって、ゲーテがあなたに、より狭小な人間に見えるでしょうか?――もし私が『背徳者』――あなたがあんなにも賞めて下さる――のみの作者であったら、必ずや私は自分が小さくなるように感ずることでしょう。」

あるものをよく描くためには、その上にあまり鼻をくっつけてはならぬ。

[ Ψ 蛇足 ]
作家というものは、自分の書いた作品のみに自分自身が限定されるのを嫌う。逆に一般人は「あの作家は『○○』を書いた人だ。」というふうに仕分けたがる傾向にあるのは確かである。上記の日記では、自分の作風の多様性を巨匠ゲーテに例えているのが興味深い。
リュシアン・ロルメル(Lucien Lormel)は当時の文芸評論家の一人と思われるが不詳。

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(2)(1909.09)
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by utsushihara | 2009-10-09 10:43 | 文芸、評論1909-10

ジィドの新作『狭き門』への評価(2)

1909年9月f0028703_9502583.jpg

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年より引用:
キュヴェルヴィル 9月 

『狭き門』に関する批評。――彼等にとって、あれらの色々傾向のちがった作品が私の精神の中に共存したこと、また今もまだ共存していることを認めるのは困難なのだ。あれらの作品は、紙の上に書かれるからこそ、また、とても同時になど書けないからこそ、ああやって相次いで現われたのである。私は、どんな作品を書く場合でも、自分を全部そこに与えてしまうということは決してない。そして、この上もなく切実に私を求めていた主題も、忽ち、私の他の一端の方に展開して行くのである。

私の精神(エスプリ)の弾道を描くことは容易ではあるまい。その曲線は私の文体の中にしか現われないであろうし、多くの人はこれを見のがすであろう。もしも誰かが、私が最後に書いたものの中に、やっと私の似顔を見つけだしたと思ったとすれば、そうした迷いは覚まさねばならぬ。私は常に、末子には一番似ていないのだ。

**これまでの関連記事france100.exblog:ジィドの新作『狭き門』への評価(1) (1909.07.11)
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by utsushihara | 2009-09-27 22:39 | 文芸、評論1909-10

劇作家ルニャールの没後200年祭

1909年9月5日(日)f0028703_23101089.jpg

17世紀末の劇作家で詩人のジャン=フランソワ・ルニャールの傑作とされた『賭博者』(Joeur)、『狂おしき恋』(Folies amoureuses)、『包括相続人』(Légataire universel)などを含めた作品は、フランス演劇のレパートリーとして今でも残されている。
彼は1709年9月5日にドゥールダンのグリヨン城内で消化不良で死去したが、今ではその業績が不思議にも忘れ去られ、2世紀にもわたってまだ記念碑の一つさえも建てられることはなかった。ドゥールダンの人々も彼の作品は別としても愛好者のために記憶を思い起こすことはなかったのである。19世紀中頃彼の所有していたグリヨン城は、財務官のルブランの死後、染物工場に改装され、その後完全に取り壊され、今では礎石だけが残っている。
ルニャールは1699年にグリヨン城を領有し、この地では名士であった。彼の作品のほとんどがドゥールダンとグリヨンで書かれたことになる。研究家のギュヨ氏によって、コメディ・フランセーズ座に残されていた彫刻家フークー作の見事な胸像を複製し、没後200年にあたる9月5日にドゥールダンに銅製の記念碑の除幕式を行なうことになった。
f0028703_23105078.jpgこの式典は、セーヌ=エ=オワズ県知事のオートラン氏、上院議員のクールセル男爵が主宰し、コメディ・フランセーズ座の支配人クラルティ氏が祝辞を述べた。式典に先立って祝宴会が催され、夜にはコメディ・フランセーズ座による『狂おしき恋』の出張公演が行なわれ、またギュヨ氏によってルニャール頌詩が詠まれるという内容の豊富な行事となった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.57; Oct. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526296 « Touche à tout » No.10; Oct. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618722 « Le Petit journal » No.17039, le 21 Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526296 « Journal du Dimanche » No.42; le 5 Sep. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ドゥールダン(Dourdan)の町は、パリから南西の聖地シャルトルへの中間地点にある。昔から城砦が築かれ、ランブィエ共々王族の所領となっており、交通の要衝であった。
彫刻家ジャン=ジョゼフ・フークー(Jean-Joseph Foucou, 1737-1821)は18世紀の類型的な装飾彫像や貴族の胸像しか作っていない。f0028703_23111865.jpg

ジャン=フランソワ・ルニャール(Jean-François Regnard, 1655-1709)は18世紀から19世紀にかけてはモリエール以後の最高の喜劇作者と見なされていた。ヴォルテールにしても「ルニャールを気に入らない人は、モリエールの真の賞賛者とは言えない。」(Qui ne se plaît pas avec Regnard, n’est pas digne d’admirer Molière.)とまで語っている。
日本にほとんど翻訳や紹介がなされなかったのは不運としか言いようがない。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Jean-François Regnard
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by utsushihara | 2009-09-04 23:07 | 文芸、評論1909-10

ノアンのサンドの館がアカデミーへ遺贈

1909年7月f0028703_1357521.jpg

ジョルジュ・サンドの孫娘の一人であるガブリエル・サンド夫人が6月27日急死したが、その遺言書によりノアンの城館と敷地がアカデミーに寄贈されることとなった。(彼女の妹で画家としても有名なロート=サンド女史は用益権を留保するつもりである。)この尊い決定はベリー地方の人々の共感もさることながら、こうしてノアンはジョルジュ・サンドのものとして留まることとなった。偉大な女流文学者は昨冬再び話題を呼んでいる。ルネ・ドゥミク氏による連続講義をまとめて『ジョルジュ・サンド』の評伝が最近発刊されたのに加え、アルフォンス・セシェ氏とジュール・ベロー氏の小冊子も評判となっている。

f0028703_18374075.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.56; Sep. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738617 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.34; 21 Août, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738591 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.7; 13 Fév. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
(←)左掲はこの連載に参考図版として掲載された「ジョルジュ・サンドの自画像」(クレヨン画)である。1831年、27歳のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)は夫の元を離れてパリに赴き、7歳年下の愛人ジュール・サンドー(Jules Sandeau, 1811-1883)とともに小説を書き、作家として自立しようとしていた。
ルネ・ドゥミク(René Doumic, 1860-1937)はアカデミー会員でもあった文芸評論家で、特に『両世界評論』誌(Revue des Deux Mondes)の主筆をつとめた。記事には連続講義(Les Conférences sur George Sand)とあるが、『週間評論』誌(La Revue hebdomadaire et son supplément illustré)にその講義録が10回にわたって連載されており、それが『ジョルジュ・サンド』(George Sand, 1909)として出版されたようだ。彼にはほかに19世紀後半の仏文学に関する『作家たちの肖像』(Portraits d’écrivains)や『今日の作家たち』(Écrivains d’aujourd’hui)などもある。
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by utsushihara | 2009-07-29 18:36 | 文芸、評論1909-10

ジィドの新作『狭き門』への評価(1)

1909年7月11日(日)

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、©新庄嘉章・訳、1909年7月11日より引用:
 ジョルジュは『狭き門』を好きでない。彼はこれよりも他の作品の方を採っている。それは彼の勝手だ。だが、彼が、他の若干の作品の魅力をなしている特徴をこの作品がもはや持っていないと言って非難する時には、彼は誤謬をおかしはじめているのである。重要かつ困難だったことは、実は、この小説にはそぐわないそれらの特徴をこれに入れまいとした点にあったことを、彼に理解させようと努力する。

「万事において、卓越するということは、稀有かつ困難なことである。」(スピノーザ『エティカ』の最後の言葉)

[ Ψ 蛇足 ]
アンドレ・ジィド(André Gide, 1869-1951)の代表作『狭き門』(La Porte étroite)はこの時期にメルキュール・ド・フランス社から出版されたと思われる。最初に出てくる他人の目からの評価である。上記の「ジョルジュ」という人物が誰であるかは、原注も訳注もないので不明である。文学仲間であるのは確かなようだが…
これまでのジィドの日記を読んでいても、あまり信仰心や宗教心について考えこんだり悩んだりする記述が意外と少ないのが、逆にこうした『狭き門』や『田園交響楽』で登場人物が生死に関わる信仰心を掘り下げる姿と比べてギャップを感じる。日常の日記からは、彼は趣味人であり、鋭い感性を具えた観察者だとしか思えない。

*参考サイト:(和文)書評:HUREC AFTERHOURS 人事コンサルタントの読書備忘録「ヒューレック・アフタアワーズ」
【658】 ○ アンドレ・ジッド (山内義雄:訳) 『狭き門』 (1954/07 新潮文庫) ★★★★
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by utsushihara | 2009-07-12 23:27 | 文芸、評論1909-10