フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:各国事情1909-10( 19 )

ベルギーの新国王アルベール1世のブリュッセル入城(1909)

1909年12月23日(木)f0028703_2115848.jpg

22日の前国王の葬儀の翌日、新国王となったアルベール1世は民衆の歓呼の声に包まれる中、首都ブリュッセルへの入城式をおこなった。この祝賀気分の横溢は、葬儀のときの厳粛な雰囲気とは対照的であった。
レオポルド2世は嫡子を幼くして亡くし、また弟にあたるフランドル伯フィリップも継承を放棄したため、その子アルベールが新王となった。アルベール1世はフィリップの次男として1875年4月8日ブリュッセルに生まれたが、兄のボードワンが1891年に死去したため、王太子となった。素晴しい君主になるだろうと誰からも目されていた。彼は1900年10月にバイエルン公女エリザベートと結婚し、レオポルド王子、シャルル王子、マリー=ジョゼ王女の2男1女をもうけている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60-61; Jan-Fév. 1910
出典Crédit:©Larousse - Chronique du 20e siècle, 1908.09 @MFJ
f0028703_2125230.jpg

画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059976 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.52; le 25 Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738467 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.1; le 1 Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)画像は新王アルベール1世(Albert Ier de Belgique, 1875-1934)が議会において即位の宣誓をおこなう式典の様子である。

f0028703_2141939.jpgまた、王妃エリザベート(Élisabeth de Bavière, 1876-1965)は、自身優れたヴァイオリン奏者でもあり、後年国際音楽コンクールの中でも重要な位置を占める《エリザベート音楽コンクール》(Concours musical international Reine-Élisabeth-de-Belgique)の創始者となった。(→)右掲は微笑ましい王室アルバムの一枚である。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Élisabeth de Bavière

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by utsushihara | 2009-12-23 21:00 | 各国事情1909-10

ベルギー国王レオポルド2世の死去(1909)

1909年12月17日(金)f0028703_169234.jpg

ベルギー国王レオポルド2世は12月17日午前2時に死去した。2日前に施した腸閉塞の手術が成功したかに見え、医師団の経過報告にも「国王の容体は良好、体温37度3分、脈拍72」と伝えられたのだが、容体が急変し、医師たちが呼ばれたが手の施しようがなかった。国王は数日前から体調を崩し、レーケン城のそばの「ヤシの館」(Le pavillon des Palmiers)内の居室で静養していた。74歳だった。

レオポルド2世は1835年4月9日ブリュッセルに生まれた。ベルギーが立憲君主国となって初めての王レオポルド1世とその妃としてオルレアン王家から嫁いだルイーズ=マリー・ドルレアンとの間に出来た最初の息子であった。彼は1853年にハンガリー王族の姫君マリー=ヘンリエッテを娶り、1865年12月の父王の死に伴い、王位を継いだ。彼には息子が1人、娘が3人あった。しかし王位を継ぐべき息子は10歳で病死したため、王位は王弟フランドル伯フィリップの息子で甥にあたるアルベールが継承することになっていた。

彼の治世における偉大な業績はアフリカ中部ベルギー領コンゴの創設と開発であり、その地からもたらされたゴムを主とした生産物の富はベルギーの国力を豊かに潤わせた。そかしその強引な植民地統治施策は、非人道的な残虐なものとして治世半ばからしばしば批判の的となった。
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レオポルド2世は遺言として、葬儀は質素であることを望む、と記していたが、その謙虚な願いにかかわらず12月22日、世界各国からの参列者を含め、ブリュッセルで厳かに執り行なわれた。(画像↑)

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60-61; Jan-Fév. 1910
出典Crédit:©Larousse - Chronique du 20e siècle, 1908.09 @MFJ
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059976 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.51; le 18 Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738467 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.1; le 1 Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
レオポルド2世(Léopold II de Belgique, 1835-1909)の時代にベルギーは小国ながら財政は富み、国内各地に壮大な建造物が建てられた。首都ブリュッセルを訪れてみると、王宮や裁判所、劇場、博物館など軒並みに規模の大きな建築物の立ち並ぶ中心部に意外な驚きを感じた。数多くのアール・ヌーヴォー様式の邸宅などもこの時代のベルギーの繁栄が背景にあったのだろうと思う。

**これまでの関連記事france100.exblog:ベルギーのアルベール王太子がコンゴから帰還 (1909.08.16)
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by utsushihara | 2009-12-17 16:07 | 各国事情1909-10

ワルデマール公妃マリーの急死

1909年12月4日(水)f0028703_230742.jpg

旧オルレアン王族シャルトル公の長女マリー・ドルレアンは1885年、現デンマーク国王の弟君にあたるワルデマール公と結婚していたが、12月4日コペンハーゲンにおいて流行性感冒のため急死した。44歳の若さであった。彼女は4人の公子オージュ、アクセル、エリク、ヴィゴと1人の公女マルグリットの5人の子供を残し、とりわけ露仏同盟の下地をつくるなど政治的な仲介者の役割を果たした。デンマーク王室では不可欠な親しまれる存在であった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
ワルデマール公妃マリー・ドルレアン(Marie d’Orléans, Princesse Waldemar, 1865-1909)は気品の漂う顔立ちで人気があった。
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by utsushihara | 2009-12-04 22:58 | 各国事情1909-10

ローマの盲学校での体育教育

1909年12月f0028703_22372978.jpg

掲載の写真はローマの聖アレッシオ盲学校での体育の授業風景である。セガンティ教諭の指導の下、生徒たちは様々な動きができるようになった。(→)右掲では互いの手を触れながらまっすぐな横列をつくり、教師の声を聞きながら編隊行動をおこなっている。
f0028703_22343370.jpg(←)また左掲では、跳躍板と信頼心によって少しずつ練習を重ね、彼らは1m50の跳躍が出来るようになった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910

[ Ψ 蛇足 ]
障碍を克服する人々の姿はいつの時代でも驚嘆と敬意の念に囚われるものだ。体育の跳び箱の授業で使う「跳躍版」の仏語は「トランプラン」(Tremplin)というが、「トランポリン」(Trampolin)とは似て非なる単語である。

**これまでの関連記事france100.exblog:点字の発明者ルイ・ブライユの百年祭(1909.01.04)
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by utsushihara | 2009-12-02 22:33 | 各国事情1909-10

ポルトガル国王のパリ訪問

1909年11月27日(土)

若きポルトガル国王マヌエル2世は、11月27日ダンケルク港に到着した。今回の訪問は「半ばお忍び」(en demi incognito)ということで、パリではブリストル・ホテルに投宿し、市内での移動や散策は従って儀典長や衛兵隊なしの自動車でおこなわれた。マヌエル王は20歳、フランスのオルレアン家出身の母親の前王妃アメリーによく似ており、競馬場や劇場などの出先では、群衆は高貴でかつ好感の持てる若き王を歓迎し、王母アメリー妃の名前を交えながらの歓呼に快く応えた。ポルトガルの外相ボカージュ氏は、26日に外相ピション氏と会談を実施した。f0028703_144091.jpg

マヌエル国王は3度観劇に赴いた。オペラ座の歌劇「ファウスト」(Faust)、コメディ・フランセーズ座の「愛は眠らずに」(L’Amour veille)そしてオペラ・コミック座の歌劇「マノン」(Manon)である。いずれにおいても熱烈な歓迎を受け、拍手喝采を浴びた。王はまた、ヴェルサイユ宮殿、カルナヴァレ博物館、ルーヴル美術館、ゴブラン織美術館、労働者団地などを訪ねた。ファリエール大統領は夕食会を催し、ランブイエでは狩猟に招き、若い王は機転の利いた巧みな狩の腕前を披露した。(→)右掲の写真はオートゥイユ競馬場にて。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #563440 « Le Petit Parisien » No.12084, le 29 Nov. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059976 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.50; le 11 Déc. 1909

f0028703_14402986.jpg[ Ψ 蛇足 ]
はじめての外遊でポルトガルのマヌエル2世は、スペイン、英国、フランスを歴訪した。最後にパリを「半ばお忍び」(en demi incognito)という形で訪問したのは、公式行事で身動きがとれずに行きたいところや見たいところが制約されるのをきらってのことと思われる。(←)左掲はパリのルーヴルに隣接する「装飾美術館」(Musée des Arts décoratifs)の見学を終えて車に乗るマヌエル国王の姿である。
英国王エドワード7世もオペラや演劇を楽しむために「お忍び」でパリを何度も訪れていた。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)若きポルトガル国王の初めての外遊(1909.11.07)
(2)コメディ=フランセーズの「愛は眠らずに」の大成功(1907.09.30)
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by utsushihara | 2009-11-27 14:37 | 各国事情1909-10

若きポルトガル国王の初めての外遊

1909年11月7日(日)f0028703_21481635.jpg

マヌエル2世は11月に即位後初めてとなる公式の各国訪問の旅に出発した。国王は11月7日リスボンを発ち、まずマドリッドを訪れ、5日間アルフォンソ13世の歓待を受けた。警察機関の厳戒態勢がとられた。王は続いてフランスに渡り、ボルドーの訪問後、シェルブールから英国へ向かった。ウィンザー城には14日に到着し、国王エドワード7世のもてなしを受けた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.47; 20 Nov. 1909

*参考サイト:Wikipedia(和文)マヌエル2世 (ポルトガル王)

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)ポルトガル国王の葬儀と新国王マヌエル2世の即位 (1908.02.08)
(2)ポルトにおけるマヌエル国王(1908.11.27)
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by utsushihara | 2009-11-07 21:43 | 各国事情1909-10

ラッコニージの露伊両君主会談

1909年10月24日(日)f0028703_22482872.jpg

ロシア皇帝ニコライ2世のイタリア訪問における両君主の会談は有名なラッコニージの夏の離宮で催されたが、晩餐会で交された何度かの乾杯の発声には月並み以上に変わったことはないものの、欧州の均衡に影響を及ぼしかねない出来事ゆえに、各国から大いに注目を浴びる結果となった。
これはイタリア外交における恐らく重要な変更のきざしと思われた。両国の外相イスヴォルスキー(Isvolsky)氏とティットーニ(Tittoni)氏とは、この機会に先年のオーストリア帝国によるボスニア併合以来途切れていた折衝を、中東の現状維持の意向ともども会談の項目に取り上げた。彼らはまた、独墺伊の「三国同盟」(Triplice)条約の次の更新についても意見を交し、イタリアが依然として忠実にその枠組に留まっていることを踏まえながらも、新たな平和の手段を模索した。総体的に両国間の会談は平和の保証であり、他の諸国に対し好意的に受けとめられた。
わがフランスの外相ピション(Pichon)氏も帰途につくロシア皇帝の列車に乗り込み、同行のフランス外交官との打合せの時間を持った。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #4059975 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.45; 6 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]f0028703_22485239.jpg
ラッコニージ(Racconigi)はトリノの南約40kmにある町で、中世から城館(Castello Reale di Racconigi)があり、ヴィットリオ=エマヌエーレ3世も夏の離宮として使っていた。(町の全景→)

三国同盟(Triplice)は、ビスマルクの時代の1882年に独墺伊で締結された軍事同盟である。この時各国の君主も宰相もほとんど代替わりして、まもなく30年を経過しようとしていたので「次の更新」(prochain renouvellement)という言葉も出てきていたのだろう。

*参考サイト:Wikipedia(和文)ラッコニージ(Racconigi)
**これまでの関連記事france100.exblog:欧州バカンス外交(1907)(1907.08)
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by utsushihara | 2009-10-24 22:47 | 各国事情1909-10

ノルウェーで初の女性国会議員誕生

1909年10月20日(水)
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クリスチャニア市のアンナ・ログスタート女史は、ノルウェー自由保守党の支持を得て国会(Storthing)議員補欠選挙において激しい選挙戦の結果、議員に選出された。女性の選挙権および被選挙権を得て以来初めての出来事となった。アンナ・ログスタート女史はすぐれた教師と誰もが認める人物で、上掲(↑)の写真はその教室での生徒たちとの授業風景である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288620 « Le Figaro » le 23 Oct. 1909

f0028703_11553554.jpg[ Ψ 蛇足 ]
アンナ・ログスタート(Anna Rogstad, 1854-1938)の議員当選については、当時、婦人参政権でも後進国であった西欧諸国、とりわけフランスでは衝撃的な事件であったと思われる。クリスチャニアは現在の首都オスロのことである。
フィガロ特派員のポール・パルシー(Paul Parsy)が一週間続いた選挙戦を現地で見守り続け、その結果を伝える長文の記事が10月23日付で掲載された。彼が驚いたのは投票所に向かう人の流れの中に女性の姿を非常に多く見かけたことである。投票は一週間のあいだ午前9時から午後9時まで続けられた。仕事のために投票に行けない労働者などへの配慮であった。
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(フィガロ特派員の記事から)(原文↑)
アンナ・ログスタート女史へのインタヴュが必要であった。新議員はすんなりと会見してくれた。
「私はフランスの新聞社としてあなたに当選のお祝いを述べに参りました。ノルウェー初めての女性国会議員としての感想を《フィガロ》の購読者たちに伝えられるのは喜ばしく思っています。」
ログスタート女史は答えた。
「でも、どうしてフランスなどの方々が女性議員に会って驚いているのかわかりませんわ。女性は人類の半分じゃありませんか? いいですか、ここでは公共分野に女性が参加するのは誰にとってもまったく当たり前のことで、各政党でも女性候補者を出してますし、選挙集会でも男性の演説者に交って女性も発言するんですよ。」

*参考サイト:
(1)Wikipedia(英文)Anna Rogstad
(2)『ノルウェー女性の過去、現在、未来』クリスティン・ミーレ著(ノルウェー男女平等オンブッド)三井マリ子訳、注釈・・・Notes-Past-Present and Futur-Japanese
(3)「男を消せ!Cross Men Out! ノルウェーを変えた女のクーデタ-」三井マリ子著(毎日新聞社刊、1999年)ブックレヴュ

**これまでの関連記事france100.exblog:スウェーデンとノルウェーの分離 (1905.06.07)
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by utsushihara | 2009-10-20 11:52 | 各国事情1909-10

バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺

1909年10月13日(水)
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先般7月、バルセロナにおいて流血の事態に陥った反政府的な暴動の首謀者として、現代学校の校長フランシスコ・フェレー(Francisco Ferrer, 1859-1909)(写真→)が逮捕されたが、バルセロナのみならずマドリッドやバレンシアでの革命運動の扇動者だとして軍事法廷に訴追されていた。彼を死刑とする判決が下されたニュースに対し、人々は国王によって刑罰が減免されるだろうと思っていた。しかしながら憲法改正の後では国王には恩赦の権限はなくなっていた。f0028703_21375063.jpg
首相のマウラはその責任を取り、フェレーは10月13日モンヒックの城砦の空堀で銃殺されたのである。その数日後、アルフォンソ国王はマウラ内閣の総辞職を認め、自由主義的なモレに新内閣を組織するよう命じた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569215 « Le Matin »No.9361; le 14 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.43; 23 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この日の夜のパリでは、夕刊の特別号でフェレーの銃殺を伝えるニュースが報じられるや街頭のあちこちでスペイン国王と政府・軍部に抗議する人々が集まり、約1万人規模のデモ行進や集会が行なわれた。まるでパリに革命的暴動が起きたかのような勢いであった。レーピン総監は暴徒の中にはならず者の集団が混じっていると見ていたが、警官が一人深い傷を負ったあと死亡するという事態となった。負傷者は55名。その後応援の警官隊が駆けつけ、暴徒は逃亡し、街は静けさを取り戻した。(↓)下掲は、暴徒が押し寄せた在仏スペイン大使館付近(当時)のクールセル大通りの狼藉の跡である。
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*参考サイト:Wikipedia(仏語)Francisco Ferrer
**これまでの関連記事france100.exblog:バルセロナの市街戦(1909.07.26)
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by utsushihara | 2009-10-13 21:35 | 各国事情1909-10

ブルガリアの独立一周年

1909年10月5日(火)
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(↑)掲載の写真はブルガリアの古都ティルノヴォ(Tirnovo)で行なわれたブルガリア独立一周年の記念式典の様子である。中央に国王夫妻と王族たち、大臣や要職者、主だった民間人などが参列した。この同じ場所で一年前に独立を宣言したのである。
「テ・デウム」の演奏の後、軍事パレードが行なわれ、さらに王宮では国王夫妻主催による晩餐会が催された。夜には首都ソフィアでは松明行列(retraite aux flambeaux)があり、街中が大いに活気づいた。国内全体でも祝賀ミサと軍隊の行進があり、夜の町々は明かりで照らし出された。国民全体が熱狂的に独立一周年を祝った。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288603 « Le Figaro » le 6 Oct. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
「テ・デウム」(Te Deum)はローマ・カトリック教会の聖務日課で、「神を讃美し奉る」の意味がある。日曜祝日のほか、戦勝記念の式典などでも演奏される。

**これまでの関連記事france100.exblog:ブルガリアの独立宣言(1908.10.05)
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by utsushihara | 2009-10-06 22:40 | 各国事情1909-10