フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:ロシア帝政末期1907-10( 7 )

ロシア大貴族アレクシス大公の逝去

f0028703_1755193.jpg1908年11月15日(日)

ロシア皇帝アレクサンドル3世の叔父にあたるアレクシス・アレクサンドロヴィッチ大公は11月15日パリで死去した。厳かな葬儀は17日に執り行われた。

f0028703_1473139.jpg(←)左掲はロシアのセント・ペテルブルクでのアレクシス大公の葬儀の模様である。葬列はネフスキー大通りを進み、柩車に続く列の先頭には甥にあたるロシア皇帝ニコライ2世が行進し、多くの街路を横切り、沿道に集まった群衆からすぐ間近を通った皇帝に対し敬意の念が注がれた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.47; Déc. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.48; Jan. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
アレクシス大公(Grand-Duc Alexis de Russie, 1850-1908)は前ロシア皇帝アレクサンドル2世の第4子にあたる。フランスに定住し、社交界で名を馳せた。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Alexis Alexandrovitch de Russie
**これまでの関連記事france100.exblog:フランスのロシア大公(1906.02)
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by utsushihara | 2008-11-17 17:53 | ロシア帝政末期1907-10

ロシアでの悲劇的な決闘(ユスポフ公爵の長男の死)

1908年7月5日(日)

昨日(5日)、ロシアで悲劇的な決闘が行なわれた。当事者はスマロコフ=エルストン伯爵と擲弾兵部隊の士官マントゥフェル伯爵である。彼らは1ヵ月ほど前パリで、家族の問題に関する事件を起こし、決闘を申し合わせたのである。決闘の条件は最も厳しいものであった。つまり互いに20歩離れた場所から4発の銃弾を発射するのである。最初の2発がそれぞれ交わされたが何事も起きなかった。
別の拳銃に弾を込め、その2発目の銃弾がスマロコフ伯爵の胸にまっすぐ当たり、彼はほとんど即死した。死んだニコラス・スマロコフ=エルストン伯爵は26歳だった。マリア・フョードロヴナ皇太后の近衛連隊指揮官であるユスポフ公爵の長男であった。彼はサンクト=ペテルブルクでの大学教育を終えたばかりで、父親と弟のフェリクス・スマロコフ=エルストン氏とともにパリへは何度も往来し、春先にもパリに滞在していた。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288143 « Le Figaro » le 6 Juil, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
弟のフェリクス・スマロコフ=エルストン(Felix Soumarokof-Elston, 1887-1967)はやがて父親のユスポフ公爵位を相続し、フェリクス・フェリコヴィッチ・ユスポフ(Felix Felixovich Yussupov)となる。この人物が1916年に怪僧ラスプーチンを暗殺することになる。

*参考サイト:運命のタロット百科事典:ユスポフ(フェリックス・フェリコヴィッチ・ユスポフ)
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by utsushihara | 2008-07-03 17:45 | ロシア帝政末期1907-10

英露協商の成立(三国協商の完成)

f0028703_21173691.jpg1907年8月31日(土)

1907年8月31日、セント=ペテルブルクにおいて英国ロシア間の協商条約が成立した。交渉の当事者は、ロシアの外相アレクサンドル・イズヴォルスキー伯爵と駐露英国大使アーサー・ニコルソン男爵だった。
(←)左掲の画像は英国王の使者ウェンダム大尉(Captain Wendham)がロンドンに戻ってきたところである。右手に下げた厳重に密閉された手提げ鞄の中にロシア皇帝によって署名された条約文書が入っている。
f0028703_2118586.jpg
出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.33-34; Oct-Nov 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ロシアの外相はアレクサンドル・イズヴォルスキー伯爵(Alexander Petrwich Iswolsky, 1856-1919)。
アーサー・ニコルソン(Arthur Nicolson, 1849-1928)は、1905年から1910年まで駐露英国大使を務めた。
第一次世界大戦に至る列強の対抗軸は《独墺伊の三国同盟》と《英仏露の三国協商》であると世界史の授業で学んだ。英仏露の「三国協商」(Triple entente)については、1892年の仏露同盟(Alliance Franco-Russe)と1904年の英仏協商(Entente cordiale)に続いてこの1907年の英露協商(Entente Anglo-Russe)で三角形が完成したことになる。

右掲(→)の地図は「ジュセトゥ」第34号に掲載された巻頭特集記事「世界の野望」(L’Appétit du Monde)の図版の一つで、「ロシアが欲する欧州地図」と題されている。その説明文には、「これが汎スラヴ主義(Panslavisme)の願望である。スラヴ民族の国々をすべて統合すること、クロアチアからアドリア海に到達し、セルビアとブルガリアからコンスタンチノープルを併呑し、ダータネルス海峡の航行が自由になる」、と書いている。
この特集記事にはすでにオーストリア=ハンガリー帝国の脆弱性が指摘されており、バルカン諸国が戦争の火種となると考えられていたようだ。

*参考サイト:Wikipedia(英文)Anglo-Russian Entente(英露協商)
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by utsushihara | 2007-08-31 21:15 | ロシア帝政末期1907-10

セント=ペテルブルクのキリスト復活教会の竣工

f0028703_14311262.jpg1907年8月25日(日)

8月25日の日曜日にセント=ペテルブルクのキリスト復活教会の落成を祝って皇帝ニコライ2世と后妃アレクサンドラが式典に臨んだ。この教会は皇帝の祖父に当たるアレクサンドル2世が1881年に暗殺されたその場所に建てられたもので素晴らしい教会建築である。
f0028703_14313157.jpg
出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.33; Oct 1907

[ Ψ 蛇足 ]
(←)左掲はこの年(1907)に描かれたアレクサンドラ后妃(Alexandra Fyodorovna, 1872-1918)の肖像画である。ドイツのヘッセン公家に生まれ、英国で育った美貌の后妃であったのだが、ロシアの宮廷にも国民にも好まれなかった人物で、この後皇太子の健康問題(血友病)で怪僧ラスプーチンにつけ入れられることになる。

*参考サイト:Virtual Tour of St. Petersburg : Church of the Resurrection of Christ(英文)
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by utsushihara | 2007-08-25 14:28 | ロシア帝政末期1907-10

第2次ロシア帝国議会の開催

f0028703_1810627.jpg1907年3月5日(火)

3月5日、新たなロシア帝国議会(ドゥマ)が副首相のゴルベフ氏により開催された。左翼連合は一致団結して議長にモスクワ選出の民主立憲派の議員ゴロヴィン氏を推し、356票対91票でクロマトコフ氏を破った。ゴロヴィン氏は1866年生まれ、皇帝ニコライ高校から法科大学へ進み、1892年にスミトロフ地方の議員に選ばれ、地方行政に献身的な活動を続けていた。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.27; AVR. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)フョドール・ゴロヴィン(Fjodor A. Golovin, 1866-1929)は、前回の議会と内閣の対立の構図を和らげる意図で選出されたようだが、帝国の政体そのものが瓦解に瀕していたこの混乱期には、議事の運営も困難を極めたようである。
追加の記事で、13日に議場となっていたタウリス宮殿(Le Palais de Tauride)の天井が崩落する事故が起きたことが伝えられている。(↑画像)
**これまでの関連記事france100.exblog:(第2次)ロシア帝国議会の選挙(1907.02)
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by utsushihara | 2007-03-07 18:10 | ロシア帝政末期1907-10

ロシア帝国議会の選挙

1907年2月

ロシアでは2月に帝国議会の選挙が行なわれる。第一次投票はほぼ平穏に実施された。多数派は「カデ」と呼ばれる左翼穏健派で占められている。「弟分(カデcadet)」と呼び始めたのは立憲民主派で、政治的立場が近いからと思われる。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.26; MAR. 1907

f0028703_15395190.jpg[ Ψ 蛇足 ]
下記の関連記事にもあるようにロシアの議会が解散されたのは前年7月のことで、今回の選挙までは半年以上のブランクがある。帝政であるため、政務が停滞することはないはずだが、要人殺害などのテロが頻発していた。
**これまでの関連記事france100.exblog:
(1) ロシア政府要人の殺害(1907.01.03)
(2) ロシアのストルィピン内閣(1906.07.22)
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by utsushihara | 2007-02-06 15:37 | ロシア帝政末期1907-10

ロシア政府要人の殺害

f0028703_1657373.jpg1907年1月3日(木)

ロシアでは新たに相次いで政府要人の殺害が続いている。12月23日にアレクシス・イグナチェフ伯爵が暗殺されたのに続き、1月3日サンクト・ペテルブルクの市長フォン・デア・ラウニッツ将軍が協会でミサを終えて出てきたところを殺害された。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.25; FEV. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ウラディミール・フェドロヴィッチ・フォン・デア・ラウニッツ(Vladimir Fedorovich von der Launitz)は1年余り前から市長をつとめていた。革命後かも知れないが、この孫娘にあたる人物がニューヨークの西46丁目にロシア料理店「火の鳥」(Firebird Russian Restaurant)を開き、今日に至っているという。
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by utsushihara | 2007-01-02 16:56 | ロシア帝政末期1907-10