フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:独墺バルカン情勢1909-10( 9 )

ドイツの新宰相にフォン・ベートマン=ホルヴェーク

1909年7月14日(水)f0028703_16125845.jpg

フォン・ベートマン=ホルヴェーク氏は7月14日、フォン・ビューロー公が8年半の間務めたドイツ帝国宰相の座を退いたことに伴い、その後任となった。氏は1856年ブランデンブルクのホーエンフィノフ生まれ、52歳。1905年から政府の内務長官を務めていた。
f0028703_16134520.jpgこの日の午後にベルリンの新聞各紙による号外が出され、街頭で無料配布された。皇帝がフォン・ビューロー公の辞任を承諾し、彼に輝かしい黒鷲勲章を授与した。また内務長官のフォン・ベートマン=ホルヴェーク氏を後任の宰相に任命した。彼は同時に総務相と外務相も兼務する。通商相のデルブルック氏が内務長官に、財務長官のシドー氏が通商相となった。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526285 « Touche à tout » No.8; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569123 « Le Matin » No.9270 - le 15 Juil. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288500 « Le Figaro » le 25 Juin, 1909

(これに先立つ6月25日付の「フィガロ」紙で《宰相の挫折》(Échec au chancelier)と題された記事を以下に抜粋する)
宰相は打ち負かされた。ドイツ国議会では相続税法案が決定的に否決された。法案は本日(24日)の2回目の審議に掛けられたが、議事の最初からライヒトーフェン男爵が演壇に立ち、保守派は新たな税法案を断固拒否するが、宰相の内閣を不信任することはないと述べた。むしろ彼らは政府の財政再建の方針を支援したいという立場をとった。
財務長官のシドー氏は答弁に立ち、政治が足下の支えを失う感があり、宰相はその職にしっかりと留まることを望むと表明した。次にハツフェルト伯爵は帝国党の立場として法案に賛成すると述べ、中道派のハートリンク男爵は反対意見を述べた。そのあと採決に入った。賛成187、反対195となり、新税法案の基本方針は否決され、ついで法案全体が廃案となった。もはや立ち直る余地はなかった。これは宰相が蒙った4回目の挫折であった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ドイツ帝国宰相の交代は、フランスにとって最大限の関心事であった。ドイツも軍事予算が嵩み、新手の相続税法で財政再建を図ったが、既得権益にこだわる保守中道勢力の反対によって退陣に追い込まれた。
ベルンハルト・フォン・ビューロー(Bernhard von Bülow, 1849 -1929)
テオバルト・フォン・ベートマン=ホルヴェーク(Theobald von Bethmann Hollweg, 1856–1921)

*参考サイト:Wikipedia(和文)テオバルト・フォン・ベートマン=ホルヴェーク
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by utsushihara | 2009-07-15 16:09 | 独墺バルカン情勢1909-10

クレタ島問題

1909年7月
f0028703_18135896.jpg1898年のギリシア=トルコ間の戦争以来、欧州諸国はクレタ島に治安維持のために軍隊を駐留させていたが、トルコ皇帝の交代に伴い、クレタ島をギリシアに譲渡するしないで新たな懸案が起きている。
新皇帝モハメット5世はトルコ帝国全領土の保全のため、確固たる決意で駐留軍に撤退を申し入れたのである。リフナット・パシャは一層断定的にいわゆる「クレタ問題」(Question Crétoise)というものはありえない、と語った。

ギリシアの南に位置し、カンディア海に隔てられたクレタ島は長さ250km、平均幅30kmの細長い大きな島である。人口は30万人だが、そのわずか1/6がイスラム教徒であり、残りの大多数はギリシア正教徒である。この状況からすればクレタ島民が長い間ギリシアへの帰属を望んできたのは当然であった。
1897年から98年にかけてマケドニア地方でのギリシア対トルコの戦争以来、フランス、英国、ロシア、イタリアがクレタに侵攻し、島を分割統治下に置いた。各国軍は、クレタ島の名目的な支配者はトルコ皇帝にあるが、島民の自治権は彼らの庇護下で政務を行う総督によって保たれると考えた。
f0028703_18143997.jpgしかしながらイスラム教徒とギリシア正教徒との間で紛争が絶えず、殺戮の報復が繰り返される事態に、各国軍は駐留部隊を強化して治安の維持に努めるとともに、民兵を創設し、憲兵隊を指導してきた。
このたびのトルコ新皇帝の動きに対しては、一部にクレタ島のトルコからの分離とギリシアへの併合を望む勢力が山間部に革命軍を形成し、活動を強めている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618671 « Le Petit journal » No.16988, le 1er Juil. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738246 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.29; 17 Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
掲載の写真は、首都カンディア(現代名イラクリオン)の風景と典型的な服装のクレタ人たち。
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by utsushihara | 2009-07-10 18:12 | 独墺バルカン情勢1909-10

オスマン・トルコの特使の欧州歴訪

1909年6月13日(日)
f0028703_16342162.jpg
オスマン・トルコ帝国で新たに即位したモハメッド5世の新体制を欧州各国に対して公式に告知するため、ガジ・ムクタル・パシャ元帥を特使とする代表団が組まれた。パリには6月13日午後2時25分にリヨン駅に到着し、駅のホームでは駐仏トルコ大使のナウム・パシャをはじめとする全大使館員、総領事のジェミル・ベイ、副儀典長のフーキエール氏、警護のエヴルー竜騎兵連隊長トラフォー大佐などが出迎えた。
一行はクリヨン・ホテルに宿泊し、翌14日午前10時に外相のピション氏と会談し、11時30分にはファリエール大統領に来訪の主旨を伝える予定である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.55; Août, 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569092 « Le Matin » No.9239 - le 14 Juin, 1909
f0028703_1635443.jpg画像Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.30; 24 Juil. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ガジ・ムクタル・パシャ元帥(Maréchal Ghazi Mouktar pacha, 1839-19xx)は軍人として40年の経歴があり、4回の従軍のうち3回は司令官として手腕をふるった。1867年のパリ万博の際には当時の皇帝アブドゥル・アジズに随行した。その後1885年からエジプトの統治官を20年以上続けていた。

**これまでの関連記事france100.exblog:青年トルコ党の勝利(1909.04.24)
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by utsushihara | 2009-06-15 16:33 | 独墺バルカン情勢1909-10

青年トルコ党の勝利

1909年4月24日(土)f0028703_18144071.jpg

4月13日の反革命の動きは長く持たなかった。サロニキ(テッサロニキ)から出発した青年トルコ党の軍隊は、和平交渉のあと4月24日にコンスタンチノープルに入った。不幸にもいくつかの駐屯部隊が抵抗し、砲撃と戦闘がおこなわれた。タクシム部隊の砲兵隊は、卑怯にも青年党の兵士たちを引きつけるため、白旗を掲げて騙し討ちをした。同じ民族間の戦闘は多くの死者を出した。
この日の戦死者と犠牲者は合わせて2千人にのぼった。さらに残念なことにその後数週間には、反対派やその協力者だった人々を街頭で絞首刑に処す動きが続いた。
皇帝の近衛隊長だったアリ・ベイが語るところによれば、アブドゥル・ハミド帝は、宮殿付近で最初の銃声が起こるや、流血の事態を回避するため武装放棄するように命令を出したという。少なくとも皇帝はこの24日の殺戮の責任者ではなかった。彼の治世は血潮の中に終焉を迎えた。

f0028703_23343588.jpg出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5526271 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.18; 1er Mai, 1909
画像 Crédit photographique:Wikimedia File:Abdul-Hamid villa Allatini.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abdul-Hamid_villa_Allatini.jpg

この3日後の4月27日に、狂気の皇帝と称され、忠誠な配下を失ったアブドゥル・ハミド2世は、譲位を宣言し、サロニキにあるアラティーニ離宮(Villa Allatini)に護送され、幽閉の身となった。(画像↑)
f0028703_23345821.jpg(←画像)前皇帝の弟にあたるレシャド・エフェンディがモハメッド5世(Mohamed V)として新たに皇帝となった。年齢は65歳。気取らない態度でとても信仰に篤く、大権を掌握するつもりはない。
街頭での絞首刑が続いてはいても市民生活は穏やかさを取り戻しつつある。人々は新皇帝の治世を好感をもって期待している。彼は欧州風の宮廷を作りたいと望んでいる。

[ Ψ 蛇足 ]
和文のWikipediaでは、従来使われてきた「青年トルコ党」という言い方は不適切だとして「青年トルコ人」という語句を使用している。政治的な党派ではなかったのはもっともだが、この革命はフランス語で « Les Jeunes-Turcs » という意思を結束した集合体が、恐怖政治とも言われたアブドゥル・ハミド2世による専制政治を倒壊に追い込んだ革命であるので、その集合体を「党」と名づけた意義は認めてもいいように思う。

*参考サイト:Wikipedia(和文)青年トルコ人革命

**これまでの関連記事france100.exblog:トルコで反革命の動き(1909.04.13)
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by utsushihara | 2009-04-24 18:13 | 独墺バルカン情勢1909-10

ギリシアのコルフ島でのドイツ皇帝ウィルヘルム

f0028703_18373479.jpg1909年4月17日(土)

4月17日、ドイツ皇帝の御用船ホーエンツォレルン号はコルフ島に到着し、ウィルヘルム2世はアキレイオン離宮に数日間滞在する。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.53; Juin, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ギリシアのコルフ島にあるアキレイオン離宮(Villa Achilléion)には、毎年のようにウィルヘルム皇帝は滞在している。この離宮には、かつて絶世の美女、墺皇妃エリザベートが住んでいた。

**これまでの関連記事france100.exblog:独皇帝のコルフ島到着(1908.04.10)

*参考サイト:医療法人和楽会 貝谷久宣理事長「オーストリア皇后エリザベートの摂食障害」考察
http://www.fuanclinic.com/sonota/vol_29a.htm
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by utsushihara | 2009-04-20 18:35 | 独墺バルカン情勢1909-10

ブルガリアの軍備増強

1909年4月15日(木)f0028703_1565874.jpg

ブルガリアの権威筋の間では、オスマン=トルコ国内における混乱状況がこのまま続き、ブルガリアの独立の承認がさらに遅れる要因となるならば、政府はより強硬な決断を考慮しなければならないだろうという意見が出ている。
f0028703_1573292.jpgこの国における最近の軍備の増強ぶりを示す興味深い写真が公表された。(→)右掲は仏クルーゾ社製の速射砲(des canons à tir rapide fabriqué au Creusot)を操作するブルガリア砲兵隊。
(←)左掲はボルドーで建造された巡洋艦「ナデージャ」(Nadedja)とその艦上で魚雷発射訓練をする水兵。(→)
f0028703_158417.jpg
出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.52; Mai, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ブルガリアは何世紀もの間、トルコ帝国の支配下にあったが、19世紀後半から独立運動が活発化し、1908年秋の青年トルコ党によるトルコ国内における革命運動に乗じて10月に独立を宣言した。その正式な承認が待たれていたが、現実には着々と軍備の増強を含めた国家体制が進められていた。これにはフランスの軍需産業が大きな役割を担ったことは写真の伝えるとおり明白である。

**これまでの関連記事france100.exblog:ブルガリアの独立宣言(1908.10.05)
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by utsushihara | 2009-04-15 15:05 | 独墺バルカン情勢1909-10

トルコで反革命の動き

1909年4月13日(火)
f0028703_18255395.jpg
オスマン=トルコ帝国の改革の流れは突如、別の局面に入った。4月13日の早朝、軍事相配下の2つの駐屯部隊が聖ソフィア回教寺院に向かい、議会を包囲した。彼らは、大宰相、国会議長と軍事相の辞任を要求した。王宮の近衛部隊もほぼ全体がこの軍事行動に追従した。軍事相はただちに辞職をし、別の大臣が一人、数人の士官とともに殺害された。
f0028703_18265714.jpg新たに大宰相に任命されたのはテウフィク・パシャ(Tewfik-Pacha)(画像→)、軍事相はエドヘム・パシャ、海軍相代理としてハジエミール・パシャ副提督である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.52; Mai, 1909
出典Crédit ©BNF-Gallica #5526271 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.18; 1er Mai, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この事件は反動クーデター(Contre-révolution)として記述された。これまでのトルコ帝国の近代化を推し進めてきた青年トルコ党の動きを出し抜いて、皇帝アブドゥル・ハミド2世に守旧派への逆行を強いることでこの動きとなった。
f0028703_18273860.jpg画像(↑)上は叛乱部隊の本営の一つ、(←)左はこの騒乱で殺害された法相のナジム・パシャ(Nazim-Pacha)である。
出し抜かれた青年トルコ党は、このあとすぐに行動を起こし、自らの軍勢を首都コンスタンチノープルの防衛線まで押し寄せたうえで、皇帝との交渉に入った。統率者のアンヴェル・ベイ(Enver-Bey)の人望は厚く、市街戦となっても十分勝算があった。

**これまでの関連記事france100.exblog:青年トルコ党の政乱(1909.02.14)
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by utsushihara | 2009-04-13 18:23 | 独墺バルカン情勢1909-10

セルビアの譲歩とジョルジュ王太子の廃嫡

f0028703_16241996.jpg1909年3月25日(木)

f0028703_1625928.jpgオーストリア帝国によるボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合に反発し、撤回を要求するセルビアと険悪な状況に鑑み、欧州列国は協調の機会を模索し続けている。全体的には戦争の勃発は回避できるものと確信しているが、しかしそれには相互の譲歩もしくは摩擦なしには済まないのは明らかである。
(←)掲載は盛装したセルビア国王ピエール1世、また元セルビア法相のウェスニッチ氏(→)は、現在王室特命大臣としてフランスに駐在している。

こうした中、世継のジョルジュ王太子が御世話係のコラコヴィッチを殺害したという噂が国内に広がった。公式には確認されないままに彼は殺人者の汚名を嫌って、3月25日、首相のノヴァコヴィッチ氏宛に王位継承権を放棄する文書を送った。これにより1歳年下のアレクサンドル王子が新たな世継とされた。

3月30日、仏、英、独、露、伊、各国の大臣たちはついにセルビアに対する協同歩調を取ることに決め、ベルグラード政府がウィーン政府に宛てて再度文書を送るように勧告し、セルビアがオーストリアと友好関係を保っていくことを望んでいると明言し、召集した予備役をすべて解散し、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合を容認するというものであった。これは同時にロシア外相イスヴォルスキ氏の政策の失敗を意味し、彼の失職をもたらした。
f0028703_16261662.jpg
出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.51-52; Avr-Mai, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618574 «Le Petit journal» No.16891, le 26 Mars, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
セルビア国王ピエール・カラゲオルゲヴィッチ1世(Pierre Karageorgevitch, 1846-1921)はベルグラード生まれ、若くしてフランスの陸軍士官学校に在籍し、普仏戦争にも従軍した。1903年にピエール1世として即位した。スラブ民族としてゲルマン系のオーストリア、ドイツ帝国からの攻勢に対し、ロシアやフランスとの緊密な連携を保ちながら対抗し続けた。この時もオーストリア・セルビア双方の軍隊の予備行動が見られ、軍事衝突が一触即発の状態までに至っていた。

f0028703_16263817.jpg廃嫡となったジョルジュ王子(Prince Georges, 1887-19xx)は、かねてから無分別な言動で知られ、当時、対オーストリアとの緊張が高まる中で、22歳の若さながら内閣の要人への酷い仕打ちや政策への暴言、好戦的な発言などで、父王の政治体制を混乱させるふるまいが目に余っていた。ある意味ではセルビア国内の足並みを狂わす悩みの種であった。廃嫡後の消息については不明。画像(→)

*参考サイト:Wikipedia(和文)ペータル1世 (セルビア王)

**これまでの関連記事france100.exblog:オーストリアとセルビア間の暗雲(1908.12.02)
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by utsushihara | 2009-03-26 16:23 | 独墺バルカン情勢1909-10

青年トルコ党の政乱

1909年2月14日(日)
f0028703_15485640.jpg
コンスタンチノープルでは、この3日間で大宰相(Grand Vizir)キアミル・パシャ(Kiamil Pacha)と青年トルコ党の《連合と進歩》委員会(Comité Union et Progrès)との対立が激化する展開となった。大宰相は明らかに、自らの政策に我慢できなくなった青年トルコ党が政権打倒への陰謀を企てているとしてそれに同調した2人の閣僚を皇帝の同意を得て更迭した。信頼できる筋では内務相のフセイン・ヒルミ・パシャ(Hussein Hilmi Pacha, 1855-1922/23)と法務相のママシザド・ベイであるというが、他の大臣も辞意を表明しているという。
片や議会の多数派を占める《連合と進歩》委員会はこの更迭が不当であると抗議し、半年前彼らが大宰相に担ぎ上げたキアミル・パシャが守旧派との妥協に甘んじて革命の進行を鈍らせていると非難した。

議場において大統領のアーメド・リザ(Ahmed Riza, 18??-1930)は途方もない喧騒の中、大宰相の問責動議を読み上げた。末尾は以下のように終えていた。「我々は二度も大宰相に対して説明を求めたが、この二度の招聘にもかかわらず彼は来場を拒み、内外の政務を混乱に陥れた。こうした状況が続くことは憲政の危機であり、議会においては不信任の決議を望むものである。」投票は賛成198票、反対8票となり、キアミル・パシャの辞任が決まった。
f0028703_1549261.jpg青年トルコ党は、後任の大宰相として辞任した元内務相のフセイン・ヒルミ・パシャを推薦し、皇帝アブデュルハミト2世から勅令を受けることとなった。彼はすぐれた政治家として欧州各国からの評価も高く、特に最近ではマケドニアにおける騒乱への対応で注目された。

出典Crédit:©BNF-Gallica #568791-93 «Le Matin» No.9118-20, le 13-15 Fév. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #563152 «Le Petit Parisien» No.11796, le 14 Fév. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618535 «Le Petit journal» No.16852, le 15 Fév. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)上掲はトルコ議会と辞職したキアミル・パシャ。
新たに大宰相となったフセイン・ヒルミ・パシャ(→)

*参考サイト:Wikipedia(英文)Hüseyin Hilmi Pasha(フセイン・ヒルミ・パシャ)
**これまでの関連記事france100.exblog:トルコの新議会召集(1908.12.18)
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by utsushihara | 2009-02-16 15:47 | 独墺バルカン情勢1909-10