フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:フランス社会政経1909-10( 88 )

トロカデロ劇場で全国酒販飲食業連合会の年次総会

1909年11月17日(水)f0028703_2302858.jpg

11月17日、パリのトロカデロ劇場において全国酒販飲食業連合会の集会が開かれた。酒屋、カフェ、ホテル、レストランの加盟者たちが多数出席し、財務省から提示された新たな増税案に徹底して反対する議案を可決した。

会議の終了後、参加者たちによる議会まで抗議のデモ行進をおこなおうとしたのに対し、警官隊が阻止しようとし、あちこちで暴力的な小競り合いが起きた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.60; Jan. 1910
出典Crédit:©BNF-Gallica #618811 « Le Petit journal » No.17028, le 18 Nov. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
全国酒販飲食業連合会(Fédération nationale des débitants de boissons, hôteliers, restaurateurs et professions similaires) の年次総会は2日間にわたって開催された。収容人員の大きさで一二を争うトロカデロ劇場(Trocadéro)が写真のように満場となった迫力が感じられる。参加者数は1000人前後ではなかろうか、記事文中には見つからなかった。
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by utsushihara | 2009-11-18 22:59 | フランス社会政経1909-10

ウィサンブールに普仏戦争戦没者記念碑

1909年10月17日(日)f0028703_22514675.jpg

10月17日アルザスの古い町ウィサンブールにおいて、スパンネル氏を発起人とする戦没者記念碑の除幕式が行われた。その前日にはその戦いで戦死した司令官ドゥエー将軍と仏独両国の戦没者の墓地に巡拝する式典があった。記念碑はアルザスの彫刻家オットー・シュルツ(Otto Schultz, 1848-1911)の制作によるもので、《祖国のために死せるフランス軍兵士のために》« Aux soldats français morts pour la Patrie ! »と記されている。


ウィサンブールの戦いは1870年8月4日フランス第2帝政の命運をかけて開始された。しかしアベル・ドゥエー将軍(Abel Douay)率いる師団の9千人の兵士はドイツの皇太子軍4万8千人の圧倒的な兵力に屈したのだった。中でもガイスベルクでの第74戦隊のトルコ人兵士の英雄的な防戦は語り継がれる挿話となった。


出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618780 « Le Petit journal » No.17097, le 18 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.43; 23 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
アルザス・ロレーヌ問題は19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランス人の《失地回復》への大きな願望と熱意として様々な形で表出された。この当時ドイツ領に加えられた地域《アルザス・ロレーヌ》ではフランス人はフランス人として生きており、直接フランスに結びつく催しや祭典、記念碑の建立などが根強く企てられた。

f0028703_22524170.jpg上記の「ウィサンブール」(Wissembourg)はアルザス最北端の旧国境に位置する古い町であり、1870年の普仏戦争で最初の戦闘が開始されたのもこの地点であった。

フランスでは1910年に普仏戦争の40周年を迎えることになり、上記のような記念碑が各地に建てられたり、戦争功労者への叙勲を行なったりなどの動きが出てくる。この記念碑で最もフランス人らしい意図が表れているのは、(←)記念碑の頂点に大きな雄鶏(ゴールの雄鶏=Coq gaulois)というフランスの象徴が置かれている点である。こうした「あからさまな」愛国心の主張はドイツ人統治当局からのいやがらせや妨害の動きを誘発させた。新聞の報道でもいざ明日が本番というときに、式典の開催を認めないという通知が事務局に寄せられて当惑したという記事も見られた。結局、ドイツ当局は「独仏両国の戦没兵士のために」という主旨で開催を認め、大勢の参加者がつめかけた。

*参考サイト:Site Officiel - Office de Tourisme de Wissembourg

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)バロン=ダルザスの頂上にジャンヌ・ダルク像 (1909.09.19)
(2)ナンシーの国際博覧会 (1909.06.20)
(3)併合ロレーヌの1870年戦没者記念碑(1908.10.04)
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by utsushihara | 2009-10-17 22:50 | フランス社会政経1909-10

パリでフェレーの銃殺に抗議する大規模なデモ行進

1909年10月17日(日)
f0028703_20552071.jpg
フェレーの銃殺に対する新たな抗議の意思表示のため、社会主義的な新聞社等が呼びかけ、17日午後に行なわれた大規模なデモ行進は約3万人まで膨れ上がったが、4日前(13日)の大混乱とはうって変わって、幸いにも流血や乱闘の騒ぎはなく、革命歌を歌うなど平穏な中での行動が目立った。
(↑)写真はスペイン大使館への襲撃に備えて17区のヴィリエ通りに幾重にも増強して設営された軍の部隊と警官隊の非常線である。

スペイン政府の社会主義的活動への弾圧に抗すべくパリで新聞活動を続けるシャルル・マラト、アルベールの両氏はモンヒックでのフェレーの処刑に抗議するため、デモ行進を組織した。これには60台の自動車も加わり、バスティーユを出発し、リュクサンブール公園やコンコルド広場の主要なパリの道路を通ってスペイン大使館前で再結集するというものであった。しかしながら最後の地点で警察の介入を受け、散会となった。

f0028703_20555471.jpg社会主義派の代議士、マルセル・サンバ、ウィルム、ヴァイヤンらは議員の式綬を掛けて行進に加わり、仲間たちへ節度ある行動をうながした。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618780 « Le Petit journal » No.17097, le 18 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.43; 23 Oct. 1909

f0028703_20562058.jpg[ Ψ 蛇足 ]
(←)シャルル・マラト(Charles Malato, 1857-1938)は1905年にパリを訪問したアルフォンソ13世に対する爆弾テロの容疑者として逮捕されたことがある。

f0028703_20564591.jpgマルセル・サンバ(Marcel Sembat, 1862-1922)はパリ選出の代議士で、後年レオン・ブルム戦時内閣で閣僚となる。(→)

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Charles Malato

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺(1909.10.13)
(2)スペイン国王に対する爆弾テロ(1905.05.31)無政府主義者で文筆家のシャルル・マラト(Charles Malato)を逮捕
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by utsushihara | 2009-10-16 20:54 | フランス社会政経1909-10

ガス灯と夜のパリの保安問題

1909年10月

パリの街路のガス灯の点灯人組合(Le Syndicat des allumeurs du gaz)は市議会に対し、公共の街路に設置されているガス灯が朝まで一晩中灯されるように働きかけを続けている。現在は、真夜中になると街路の1/4以上のガス灯が消されている。しかし実際のところ、真夜中といえどもパリはまだ人通りの盛んな生活が続いている。人々は劇場から出てくるし、すべてのカフェはお客で混みあっている。この時間帯にお役所ではすでに明かりが少なくなった街路をさらに半暗闇にして、その中に人々を放り出すことを選んだのである。

組合が指摘するのはこの点であり、個人の利益を尊重すれば構造改革にぶち当たるというのもよくわかる。また一方では、真夜中にガス灯を消しに歩かなくともいいことになれば、すべての組合員が寛いだ宵を過ごせる利点となるだろう。

ガス会社では、点灯した街灯の減少に乗じた犯罪や強盗が増大する可能性を心配する広告を貼り出している。この時間にガス灯を消すということは今やかなり危険なことと言わねばならない。大都会の生活は昼夜を分けず続けられている。真夜中を過ぎれば、遊興者や追いはぎしかいなかった時代ではもはやない。むしろ真夜中から午前3時頃にようやく仕事が終わるという労働者も多い。馬車の御者、カフェやレストランの給仕、劇場の係員、印刷所の工員、新聞記者などなど。こうしてやむを得ず夜間に働く者たちは、邪悪な事件との遭遇から保護されるべき権利がある。
街路を明るく照らすことよりましな保安手段があるだろうか? レーピン総監が市議会で証言したときに、明るく照らされた街路が3人の警官に相当すると語ったのではなかったか?

f0028703_2123205.jpgパリ市全体にある約6万基のガス灯のうち、毎晩1万5千基だけ消し続けることで、年8万5千フランの経費の削減になるという。しかしながら3億7千フランの予算に対する0.02%にこだわり続けてパリ市民の安全を損なうよりも、経費を大幅に削減できる方法は他にいくらでもあるはずではなかろうか?

出典Crédit:©BNF-Gallica #618767 « Le Petit journal » No.17084, le 5 Oct. 1909
画像 Crédit photo : ©CMN: Donation André Kertész, Ministère de la culture (Médiathèque de l'architecture et du patrimoine), diffusion RMN
Titre série : La France 1926-1936 / Légende : Après la pluie ; [Homme allumant un bec de gaz] / Auteur de la photo : Kertész, André (photographe, 1894-1985) / Date prise vue 1927 / N° phototype : 72L000359
Publication : André Kertész et Pierre Mac Orlan, Paris vu par André Kertész, Edition d'histoire et d'art – Librairie Plon, Paris, 1934

[ Ψ 蛇足 ]
百年前のパリでは深夜にガス灯を部分的に消していたことを知る興味深い論説記事である。ガス灯(Bec de gaz)は20世紀の前半までは続けて使用されていた。ありふれていたはずだが、意外と参考となる写真画像が見つけにくかった。(↑上掲は©アンドレ・ケルテスの写真「雨の後」(ガス灯を点す男))

今でも東京をはじめとする大都会では一晩中煌々と照明が照らし続けられているのが当然のようになっているが、《本当は》こうした電力エネルギーが「不便だから」とか「危険だから」という理由で「ふんだんに」消費され続ける意味は改めて問い直す必要もあるような気がする。(さすがに災害時の大停電には人間の無力さを痛感するが…)
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by utsushihara | 2009-10-07 21:21 | フランス社会政経1909-10

飛行船《共和国》号の犠牲者たちの国葬

1909年9月28日(火)
f0028703_18455046.jpg


痛ましい墜落事故の起きたムーランでの厳粛な葬儀の後、4人の犠牲者を悼む国葬(Obsèques nationales)が9月28日ヴェルサイユで執り行なわれた。4つの棺は工兵部隊の兵舎に安置され、出棺の儀式は大聖堂でジビエ枢機卿による悲しみに満ちた追悼で行なわれた。政府関係者と各国の代表が参列した。墓地の入口では、軍事相のブリュン将軍をはじめ、セーヌ・エ・オワズ県知事などが弔辞を述べた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618761 « Le Petit journal » No.17078, le 29 Sep. 1909f0028703_1954237.jpg
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405973 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
ローギエ司令官の先導で葬儀会場のヴェルサイユ大聖堂に向かう閣僚たち、軍事相ブリュン将軍、ブリアン首相、ミルラン建設相それに各国武官たちが続く。(↑)

フランス陸軍の誇る第一線の飛行船《共和国》(レピュブリク)号の逸失事故である。7月からの新聞記事にも頻繁に取り上げられ、フランスの飛行船の中でも最も優美な勇姿と讃えられた。飛行船という存在感の大きな建造物は、後世の巨大戦艦と同じように国家の威信と国民の期待が込められていた。しかしその反面、その運行上の不安定性と脆弱性がこれほどまでにと考え直させる悲惨な事件が世界中で続出した。このとき、人間が空を飛べるようになってからまだ100年余りしか経っていない。

**これまでの関連記事france100.exblog:飛行船《共和国》号の惨事(1909.09.25)
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by utsushihara | 2009-09-28 18:40 | フランス社会政経1909-10

ベル・エポックの三美神の一人《オテロ嬢》危うく焼死という事故を免れる

1909年9月23日(月)f0028703_18523639.jpg

アントワーヌ劇場の女優が手袋のしみ抜きから大火傷を負うという事件からまだ3日と経たぬうちに同じくらい大惨事になりかねない事故が、かの有名なカロリーヌ・オテロ嬢自身の身の上に起きた。それは彼女のお化粧中の出来事である。
彼女が住むパリ17区フォルチュニー街の邸館の部屋にそのときたまたま一緒だった女友達が事件の詳細を語ってくれた。
「オテロ嬢はお昼ごろ化粧室で髪を洗っていました。彼女は近くの容器に手を伸ばして、中身を巻き上げた髪に振りかけました。その何滴かが隣のガス温水器の炎に飛び散ったと見るや、引火して彼女の髪に炎が広がったんです。」彼女は続けた。
「幸いにも私がそばにいたので、とっさにロシアのナプキンをつかんで、彼女の頭に投げたので炎が消せました。もし彼女が髪をマッサージする前に、注意深く滴が飛び散らないようにしていなければ、すべての容器に火が点いて彼女は火だるまになったかもしれませんよ。」
最小限だったとしても、首筋、のど元、胸、左のわき腹、左腕が火傷した。幸いにも表皮だけで済んだという。ルグラン医師がすぐに駆けつけ、包帯を施し、点眼薬も役にたった。この事故によるオテロ嬢の美貌への影響はほとんどないと思われる。結局、彼女は数日間の休養となった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618756 « Le Petit journal » No.17073, le 24 Sep. 1909
画像 Crédit photographique : © RMN(Musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / Cote cliché : 02-007918 / Fonds : Photographies / Titre : La Belle Otero (1868-1965), artiste de variétés, courtisane / Auteur : Reutlinger Charles (1816-après 1880) (atelier de)/ Localisation : Paris, Musée d'Orsay

[ Ψ 蛇足 ]
ベル・エポックの三美神とは、1890年代にその美貌の頂点で花開いた3人の女性のことを指す。
エミリエンヌ・ダランソン(Émilienne d’Alençon, 1869-1946)
リアーヌ・ド・プージィ(Liane de Pougy, 1869-1950)
カロリーヌ・オテロ(Caroline Otero, 1868-1965)
3人ともほとんど同じ歳であり、1910年近くなれば四十路を越え、名声の勢いでまだ輝いていた頃であろう。(絶世の美女は次々に出現する)

この時代には、身の回りで危険な物質、ベンジンのような揮発性の汚れ落とし、硫酸や塩酸といった化合物、ストリキニーネのような毒物などが頻繁に使用されていたことに驚かされる。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Caroline Otero
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by utsushihara | 2009-09-23 18:51 | フランス社会政経1909-10

バロン=ダルザスの頂上にジャンヌ・ダルク像

1909年9月19日(日)

9月19日午後2時、バロン=ダルザスの頂上、標高1214mのジュマントリー(Jumentrie)展望台にジャンヌ・ダルク像の落成式が行なわれる。ジャンヌ・ダルクの騎馬像は麓から頂上まで、頑健で献身的な人々の腕と牛たちの力強い牽引という長く骨の折れる努力によって運び上げられたばかりである。
f0028703_21245974.jpg像が置かれる台座は切り立った岩石を積み上げて固められたもので、聖女は足下に麗しいロレーヌの平原が波うって広がるのを見下ろしている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618751 « Le Petit journal » No.17068, le 19 Sep. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #405977 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.41; 9 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この地点は現在でもフランシュ=コンテとアルザス、ロレーヌの境界が接するところで、上記の記事では「独仏国境から250歩のところに」と述べている。普仏戦争以後、第一次大戦が終わるまではアルザスとロレーヌがドイツ領だったことから、こうした《失われた国土の回復》を願う国民感情は強かった。

「バロン=ダルザス」(Ballon d’Alsace)の地名はドイツ語では「エルゼッサー・ベルヒェン」(Elsässer Belchen)と呼ばれる。バロン(Ballon)はヴォージュ山脈(Vosges)の峯の名称としていくつか使われているが、もともとは「ベルヒェン」からBelchen → Bel → Ball → Ballon「バロン」に変容したという説がある。

*参考サイト:(仏語)Wikimedia commons; Category: Ballon d'Alsace
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by utsushihara | 2009-09-21 21:25 | フランス社会政経1909-10

突然の嵐でサン=ラザール駅前の道路が陥没

1909年9月18日(土)
f0028703_22582016.jpg


9月18日の夜、パリとその近郊を襲った激しい嵐が数多くの大きな被害をもたらした。その中で最も重大な被害はサン=ラザール駅前の道路で発生した陥没である。
風雨がおさまった早朝午前3時ごろ、降った雨水は下水道に流れ込み、猛烈な水量と勢いで流れていたが、そのうちの本管の一つが決壊した。現在建設工事中の地下鉄南北線の線路内にあふれ出し、この工区の落盤を引き起こしたのだった。
それはちょうど鉄道のサン=ラザール駅前広場とホテル・テルミニュス(終着駅ホテル)の前を通るサン=ラザール街の約20mの長さの道路の陥没となって現れた。歩道にあったキオスクの細長い円筒形の店が倒壊寸前まで傾いた。ルヴァロワ社の自動車タクシー(Auto-Taxi)793-G7号車はちょうどそのときサン=ラザール街の道路を幸いにも空車で通りかかったが、そのまま出来た穴に踏み込んでしまった。運転手のモーリス・エルマンは路面電車の線路が残ったお陰で落下せずに留まった。彼によれば鈍い音を出して地面がへこんで行き、その直後に裂け目から水の流れる激しい音が続いたという。この通りの交通は完全に遮断され、交通整理の警官隊が出て対処した。

パリ近郊のイヴリーでは多くの地下室に浸水し、消防に排水の要請が殺到した。多くの市街地で落雷による停電が起きた。ジュヴィジー駅では一晩中停電が続いた。

パリ20区のジュリアン・ラクロワ街では、プロテスタント教会に落雷し、建物の上にあった十字架に高電流が流れて焼け焦げたため、補修工事が必要となっている。
またバニョレとモンルイユでは午後10時過ぎに低く垂れこめた雲に対して大砲を撃つ試みがなされた。それによって雲が拡散され、あるいは方向が変わることを意図したのだが、砲撃の音と雷鳴とがあいまって、凄まじい響きとなり、ベルヴィルとメニルモンタン地区の住民たちは激しい雨が叩きつける中、緊張を強いられるほかに効果は現われなかった。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #569190 « Le Matin » No.9336; le 19 Sep. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618751 « Le Petit journal » No.17068, le 19 Sep. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
このとき工事中のパリ地下鉄南北線とは、現在ではサン=ドニ~シャティヨン=モンルージュを走る13号線を指す。陥没の地点にはメトロのサン=ラザール駅がある。
雨雲に大砲を撃ち放って蹴散らそうとする「伝説的な」試みがここで記事になっているのは珍しい。
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by utsushihara | 2009-09-18 22:57 | フランス社会政経1909-10

第7回国際労働総同盟会議

1909年9月2日(木)

f0028703_22154496.jpg(←)左掲の画像は9月2日に最終日を迎えた国際労働総同盟会議の様子である。今回はフランスCGTの事務局長のレオン・ジュオー氏を議長とし、25カ国から60余名の代表がパリ10区ストラスブール大通りのカフェを会場として8月30日から集まっていた。会議の目的は、全同盟の結束と統一を模索するために議論を練り上げることだが、7年間にわたるその足取りは簡単なものではなかった。
米国代表のサミュエル・ゴンパース氏が発言し、もし米国の同盟が国際総同盟と連携するようなことがあれば、自分たちの権限が制限されるようになり、何も出来なくなるのではないか、という主張を繰り返した。これには欧州各国の代表たち、特にレジアン氏(ドイツ)、アップルトン氏(英国)、カミーユ・ユイスマンス氏(ベルギー)にはあまり歓迎されなかった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.57; Oct. 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618732 « Le Petit journal » No.17049, le 31 Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
議長役のフランスCGT(Confédération Générale du Travail = 労働総同盟)のレオン・ジュオー(Léon Jouhaux, 1879-1954)は後年ノーベル平和賞を授与される。(1951)

*参考サイト:Wikipedia(和文)レオン・ジュオー
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by utsushihara | 2009-09-02 22:14 | フランス社会政経1909-10

真夏のパリの酷暑(1909)

1909年8月
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(8月15日付「フィガロ」紙のお天気欄《Echos》から)
昨日14日のパリの天気は快晴でとても暑かった。午前7時頃の気温は20℃もあり、午後には30℃を突破した。夜中の午前2時でも23℃の高さであった。平年よりも3℃ほど上回っている。(La température moyenne a été supérieure de plus de 3゜à la normale.)
高気圧が欧州の西側を覆っており、2日前に現われた低気圧は北西方向に動いている。バルト海方面は荒れた天候が続いている。今日のフランスの天気は晴れ、特に中南部で気温がさらに上昇すると見込まれる。
(1年前1908年8月14日のパリの天気は曇り、気温は朝13℃、午後21℃)
 各地の昨日の天気は:
 ロンドン:快晴、最高気温26℃、最低気温15℃、西からの微風
 ニューヨーク:曇り、最高気温24℃、最低気温18℃、風弱し

(8月16日付「フィガロ」紙のお天気欄《Echos》から)
 昨日15日のパリの天気は快晴でかなり暑い一日だった。温度計は前日よりもさらに上昇した。午前7時頃は23℃、正午には27℃、そして午後の間じゅう30℃以上から下がらなかった。しかし昨夜から気圧の谷が通過し始めており、欧州東部から中部にかけて雨が降った。フランスは晴れて暑かった。
(1年前1908年8月15日のパリの天気は本曇り、気温は朝15℃、午後21℃)

(8月17日付「プチ・ジュルナル」紙の記事から)f0028703_2223064.jpg
《暑さは収まるのだろうか?-パリでは昨日やっと雨降り》(←見出し原文)
 熱帯のセネガルのような暑さ(la chaleur sénégalienne)がパリをはじめとするフランス各地に一週間以上にわたって居座り続けている。平年並みの気温にいつ戻るのだろうか?ようやくその期待が叶いそうな変化が見え始めた。昨日の午後になって空が曇ってきて小雨がぱらついたが、見込んでいた荒天にはならなかった。わずかに夜の8時頃になって本格的な雨に恵まれた。しかしながらそれは異常な熱暑期の終わりを告げる、気持のいい、生き返るような雨ではなかった。午後の時間の大半でも温度計は29℃を保ち続け、恐ろしいほどつらい状況である。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288551-2 « Le Figaro » No.227-228; le 15-16 Août, 1909
出典Crédit:©BNF-Gallica #618718 « Le Petit journal » No.17035, le 17 Août, 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738615 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.35; 28 Août, 1909

[ Ψ 蛇足 ]
パリの地理的な位置は北緯48度50分であり、日露戦争後の樺太領有の日露境界線が北緯50度だったことと比べて見れば、真夏に30℃を超える日が何日も続くことはほとんど考えられなかったはずである。
『週刊雑誌』(ルヴュ・エプドマデール)掲載の写真(↑)に、8月15日の暑熱の波をブローニュの森でやり過ごすパリ市民の姿があり、興味深い。(寝転がるしか方法はなかったようだ。)
Paris l’été – au bois de Boulogne, le 15 Août : « La Vague de chaleur »

f0028703_220691.jpg熱帯のセネガルのような暑さ(la chaleur sénégalienne)という用語は現代の仏語辞書では見当たらない。暑いところはセネガルだけではないことがわかったからだろうか?(「セネガルの」という単語は "sénégalais(e)")


(8月14日付「プチ・ジュルナル」紙の記事から)
《酷暑の被害者たち》(Victimes de la chaleur)
昨日(13日)またパリでは酷暑による多数の被害者が出ている。
①午前10時頃、ダンケルク街で店員のアルフレッド・ダヴー氏が卒倒し、その1時間後にフォーブール・サン=マルタン街でパン配達のルイーズ・イサルディ夫人が倒れた。2人ともラリボワジエール病院に運ばれた。
②午前、サン=マンデ港の近くで洗濯作業をしていたルイーズ・カルデ夫人(42歳)は日射病が原因で卒倒した。彼女はヴァンセンヌ市内の自宅で看病されている。
③午後、オートゥイユ河岸で水上バス(バトー・パリジァン)の車掌の仕事をしていたレオン・ブッシー氏は日射病で倒れ、ブーシコー病院に運ばれた。
④午後、サントンジュ街で35歳くらいの男が突然へなへなと道路の真ん中に倒れた。すぐにホテル=デュー病院に搬送された。
⑤午後2時頃、ラペー河岸で近くのゴドフロワ=カヴェニャク街に住むジョアシム・ヴノ氏(55歳)は暑さで気を失い、セーヌ川に転落した。彼は1時間後水死体で発見された。
⑥午後3時頃、シャラントン街で荷揚げ作業中のルイ・ラケ氏(45歳)は脳卒中で倒れ、聖アントワーヌ病院で死亡が確認された。
⑦午後、北駅前の広場をベッドのシーツをすっぽり被ってうろうろしていたイポリット・プチトー氏を警官が呼びとめ、事情を聞くと、「この暑さだからこうしているんだ」と答えた。そこで警官がそのシーツを剥いでみると男は完全な裸だった。この気が変な男は拘置所附属病院に送られた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #618715 « Le Petit journal » No.17032, le 14 Août, 1909
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by utsushihara | 2009-08-18 21:58 | フランス社会政経1909-10