フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:ロシア帝政末期1905-06( 33 )

ロシア国家財産の保全

f0028703_22511711.jpg1906年12月

銀行や郵便列車に対する革命的活動家による襲撃から護るため、ロシア政府は特殊部隊の編成に踏み切った。写真で紹介する彼らの制服は、国家財産の保全に期待が寄せられている。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
**関連記事ExBlogFrance100:ロシアの銀行襲撃 (1906.11.09)
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by utsushihara | 2006-12-01 22:58 | ロシア帝政末期1905-06

ロシアの銀行襲撃

f0028703_18114960.jpg1906年11月9日(金)

10月27日、ペテルブルクの帝国銀行の車輌に3発の爆弾が投げつけられた。死傷者が出て、実行犯たちによって10万ルーブルが盗まれた。
11月9日には、それに類似した襲撃事件がロゴフ駅の郵便列車で起き、かなりの金品が犯人たちの手中に落ちた。
f0028703_18124079.jpg
出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.23; DEC. 1906
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 11 Novembre 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像(→)は同じ頃にプチ・ジュルナル11月11日号に掲載された「ロシアの賭博場を襲撃する覆面強盗団」のイラストで、革命的な行動が社会道徳的な規範を逸脱した様相を呈した事例である。
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by utsushihara | 2006-11-09 18:13 | ロシア帝政末期1905-06

ロシアの圧政

f0028703_17174071.jpg1906年10月15日(月)

ロシア帝国内における蜂起はますます頻繁となり、その抑圧もさらに苛酷さを増している。9月10日から10月15日までの5週間のうちに軍事法廷では200人を超える人々に死刑が宣告された。また各地で多くの人々が流刑地に送致されている。掲載の写真の悲痛な行列もその一つである。

先月15日に急死したトレポフ将軍の後任として同月20日からデドゥーリン将軍が宮殿の統括官として就任している。先般のペテルホフにおける蜂起を摘発したのも彼の手腕である。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
f0028703_17191184.jpg
[ Ψ 蛇足 ]
デドゥーリン将軍については、ウラディミール=アレクサンドロヴィッチ・デドゥーリン(Vladimir-Alexandrovich Dedulin)、1905年から治安部隊の指揮官だった以外は詳細が不明。
*この前の関連記事Blog:
トレポフ将軍の急死(1906.09.15)
ロシアの騒乱(1906年7月) (1906.07.14)
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by utsushihara | 2006-10-15 17:21 | ロシア帝政末期1905-06

トレポフ将軍の急死

f0028703_15435381.jpg1906年9月15日(土)

モスクワを始めとするロシア各地での騒乱の制圧に重要な役割を果たしたディミトリ・トレポフ将軍は、9月15日ペテルブルクにおいて動脈瘤の破裂によって急死した。特に皇帝周辺の警護にあたっていた。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ディミトリ・トレポフ将軍(Dmitry Theodorovitch Trepov, 1855-1906)についての最近のBlog記事は:ロシアの騒乱(1906年7月)
過去一年余りロシアの治安維持の最高責任者であった。
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by utsushihara | 2006-09-15 15:42 | ロシア帝政末期1905-06

ポーランドでの反ユダヤ騒乱(ポグロム)

1906年9月10日(月)

ロシア帝国、特にポーランド領においては騒然とした状況が続いており、ほとんど毎日のようにテロ攻撃が起き、それに伴う恐ろしい報復措置が行なわれている。
9月10日シエディスでは、先般のビアリストクでの出来事を思わせるような反ユダヤ騒乱(ポグロム)が勃発した。それは一軒の民家への兵士たちの一斉射撃で始まった。見知らぬ者たちがそこの屋根裏部屋からパトロール隊に向けて発砲したというのである。そして兵士と住民との間で鉄砲と拳銃の射撃の応酬となった。兵士たちは隣接する通りにあるユダヤ人の店舗や家屋を荒らし回った。司令官は、首謀者が引き渡されるまでは家々に砲撃を加えるように命じた。何軒かは全壊し、またいくつかは一部損壊した。大多数の家々が被害をこうむっているのに対し、消防は何の活動も起こさなかった。負傷者も数百人に上っている。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ポグロム(Pogrom)というロシア語の単語がここでも一般的に使われている。これはロシアの歴史において、虐殺を伴った反ユダヤ的暴動を指す。このような人間の行動が、歴史的にナチスによるユダヤ人殲滅(ホロコースト)だけではなかったことを改めて知らされる。

*参考サイト: ヘブライの館(THE HEXAGON)ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史

上記地名のシエディス(Siedice)はワルシャワ近郊の町と思われるが、詳しくはわからない。それに対してビアリストク/ビエロストク(Bialystok/Biélostok)はワルシャワの北東約180kmにある町で、同じ年(1906)の6月1日~3日にユダヤ人住民に対する大量虐殺事件が起こり、死者70名、重傷者90名ほか多数の犠牲者が出た。

**トロツキー研究所のサイト中にあるトロツキー写真館:ポグロムの犠牲者たち

***当Blogの1906年7月2日(月)ロシア議会における死刑廃止の決議にも、ビエロストク事件の証人喚問の記述がある。
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by utsushihara | 2006-09-10 16:16 | ロシア帝政末期1905-06

ミン将軍暗殺

f0028703_1632487.jpg1906年8月26日(日)~27日(月)

モスクワ騒乱の鎮圧に加わった連隊の司令官であるミン将軍(Général Minn)は、8月26日ペテルホフで拳銃を5発撃たれて死亡した。犯人は若い娘で、それを捕り押さえたのは彼自身の妻であった。
翌日、将軍の死を悼む告別式が営まれ、ロシア皇帝も参列した。写真(←)はミン将軍で55歳であった。写真(↓)は殺人犯のコナプリアニコフ嬢(Mlle Konaplianikoff)で、これまでも政治犯として投獄されたことがある。(彼女は27歳で、9月12日に処刑された。)

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout »No.20; OCT. 1906
出典Crédit : ©Edmund A. Walsh:The Fall of the Russian EmpireAppendix V:Attempts on the life of Stolypin
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[ Ψ 蛇足 ]
8月25日の爆弾テロ事件に続き、エドムンド・ウォルシュ神父(Father Edmund Walsh S.J., 1885-1956)著の『ロシア帝国の衰亡』(The Fall of the Russian Empire)の注記で引用されている外務大臣イソヴォルスキーIsvolskyの手記の中から抜粋訳してみた。

「・・・翌日曜日、私はペテルホフに行った。皇帝と朝食をご一緒することになっていたのである。列車を降りると駅のプラットホームで大きな動揺が起きているのに気づいた。そしてミン将軍の横たわった姿を見た。彼はちょうど駅に運ばれてきたのである。将軍はセメノフスキー連隊の司令官としてモスクワ騒乱の鎮圧に際して主導的な役割を果たしていたが、一人の女性に拳銃で立て続けに撃たれて殺害された。彼女はその場で逮捕されたとき、警察に身体を押すなと警告した。ミン将軍を撃ち損じた場合に備えて爆弾を持っていると言うのだった。この爆弾は鰯の缶詰のような大きさと形をしており、取り上げてベンチの上に置かれ、二人の警官が見張っていた。その後の検査により、その中にはとても強力な爆薬が入っていたことがわかった。爆発が起きれば大きな被害となるところであった。

・・・また別のテロリストの一団がまさに事を起こそうとする直前に警察によって逮捕された。彼らの計画とは、強力な爆薬を積んだドイツ製の赤色の高級車をフルスピードで走らせて、サンクト・ペテルブルクの冬の宮殿にある首相の居室に通じる扉めがけて突っ込むというものだった。もしこの計画がうまく発覚しなかったならば恐ろしい被害が及んだことだろう。・・・」
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by utsushihara | 2006-08-27 16:29 | ロシア帝政末期1905-06

ストルィピン氏暗殺未遂

f0028703_16222045.jpg1906年8月25日(土)

ロシアの首相ストルィピン氏の殺害を狙った爆弾テロが8月25日、セント・ペテルブルクの郊外、「薬剤師の島」にある氏の別荘で起き、多数の犠牲者が出た。その日、2人の女と2人の男が陳情があるとやって来て、そのうちの1人の憲兵の制服を着た男が帽子から爆弾を放り投げたのである。爆発により別荘の一部が壊れたが、ストルィピン氏は書斎にいたため打撲傷を負ったに過ぎなかった。f0028703_16215191.jpg犯人のうちの3人はその場で射殺された。死者は約30名、負傷者も同数程度出た模様であるが、その中には首相の2人の子供も含まれている。
掲載の写真は、爆発の被害状況と前日別荘への首相夫妻の到着した時の模様である。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout »No.20; OCT. 1906
出典Crédit : ©Edmund A. Walsh:The Fall of the Russian EmpireAppendix V:Attempts on the life of Stolypin

[ Ψ 蛇足 ]
エドムンド・ウォルシュ神父(Father Edmund Walsh S.J, 1885-1956)は、米国カトリック教会イエズス会の神父であるが、反共産主義者の立場からロシア革命に関する著書がある。『ロシア帝国の衰亡』(The Fall of the Russian Empire)もその一つであるが、注記に外務大臣のイソヴォルスキーIsvolskyの手記が掲載してあり、その場に居合わせた立場が迫真的なので、少し抜粋訳してみた。

・・・議会の解散はテロリスムへの回帰の合図となった。それは最も顕著な暴力行為として開始された。・・・
「私はそのとき市内におり、外務省でウラディミール大公の宮廷長ニトロフ氏の訪問を受け、儀典上のいくつかの問題を相談された。話が済むと私は彼を引きとめ、政府の宮殿の内装工事の進み具合を30分ほど彼に見せて意見を聞いたのだった。ニトロフ氏はそのあと別の用事で首相の別荘に行く予定だった。この時間の遅れが彼を恐ろしい爆発から救ったのだ。そうでなければ大惨事の数分前に彼は別荘に到着していたからである。
 私は電話で何が起きたかを知らされると、馬車に飛び乗り、20分後には災害の現場に到着した。その凄惨な場面は筆紙に尽し難かった。別荘の建物の約3分の1が粉々になっていたが、それが木造であったために、石造であった場合ならば建物全体が崩壊して犠牲者が数倍であったのに比べればまだましであった。・・・」

Wikipadia の写真には、戦後の東京でマッカーサー元帥に同伴するウォルシュ神父の姿が見える。 Edmund A. Walsh(英文)
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by utsushihara | 2006-08-25 16:22 | ロシア帝政末期1905-06

クロンシュタットの謀反

f0028703_171614.jpg1906年8月1日(水)

8月1日、クロンシュタット艦隊の一部の乗組員が工兵隊のいくつかの小隊とともに叛乱を起こし、停泊中の僚艦に向けて発砲した。港湾を防衛する砲兵隊はこの蜂起に合流せず、応戦し、叛乱の炎を鎮める働きを見せた。(同月12日に首謀者の3人の中尉と5人の兵士が銃殺刑となった。)

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.19; Sep. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
クロンシュタット(Kronstadt)は、ロシア革命の過程において今後も重要な蜂起の拠点となる。帝都ペテルブルクの港の前衛ともなる島に設けられた軍港である。(前記事Exblog:クロンシュタット200年祭
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by utsushihara | 2006-08-01 16:56 | ロシア帝政末期1905-06

スヴェンボリの叛乱とヘルツェンシュタイン議員の暗殺

f0028703_1512494.jpg1906年7月31日(火)

フィンランド領内のヘルシングフォルス付近にあるスヴェンボリ要塞に駐屯していた一部の兵士たちが7月31日、叛乱を起こした。要塞内で忠誠を保った兵士たちとの激しい戦闘の末、叛乱者たちは降伏した。死傷者の数は500名を超えている。

また同じ日、フィンランドに滞在中のロシア国会議員の中で重鎮と目されたヘルツェンシュタイン氏が銃で暗殺された。実行犯はペテルブルクからやって来た4人の男たちだったが、列車で逃走したあと、警察はまったく捜索の手はずを取っていない。
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出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.19; Sep. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ヘルシングフォルス(Helsingfors)とは現在のヘルシンキのこと(スウェーデン語表記)である。スヴェンボリ(Svenborg)の地名はデンマークにも同名の土地がある。
画像(右→)の暗殺されたミハイル・ヘルツェンシュタイン(Michael Herzenstein, 1859-1906)は、ゲルツェンシュテインとも呼ばれる。ロシア革命思想の指導的な立場にあった。
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by utsushihara | 2006-07-31 15:11 | ロシア帝政末期1905-06

ロシア国会議員、フィンランドへ

f0028703_21513564.jpg1906年7月24日(火)

解散を命じられたロシアの国会議員200人は7月24日、フィンランドのヴィボリ付近のテリオキの森に集結し、ロシア人民に対しこれ以上の税金の支払うべきではないと勧告し、蜂起するように呼びかけた。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.19; Sep. 1906
画像Crédit d’image : © The Iniversity of Texas at Austin; Perry-Castañeda Library Map Collection

[ Ψ 蛇足 ]
上記の呼びかけに応じて8月4日にペテルブルクとモスクワでゼネストが起こったが、3日間で鎮圧された。

フィンランドは当時ロシア帝国の支配下の保護国のような時代が続いていた。帝政末期の特に1905年にはロシアからの分離独立をめざす動きがあった。(参考:Exblog フィンランドの独立行動

帝都ペテルブルクの臨むフィンランド湾の北側が当時のフィンランド領であり、古都ヴィボリ(Vyborg)はカレリア(Karelia)地方の中心であった。(右記の地図参照)当時政治犯として追及の手を逃れてこの地へ一時的に移ることが多かったようだ。上記の記事中でフィンランド領内とされたヴィボリ、テリオキ(Terioki)も現在はロシア領となっている。フィンランドを代表する作曲家シベリウスが1892年の新婚旅行でカレリア地方に滞在し、フィンランドの伝説や民謡に接する機会を得てそれをもとに組曲「カレリア」を作っている。
参考Wikipedia : Vyborg
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by utsushihara | 2006-07-24 21:48 | ロシア帝政末期1905-06