フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:モロッコ問題、アフリカ1907-08( 17 )

北アフリカ会議の開催

f0028703_14155219.jpg1908年10月6日(火)

10月6日、政治科学自由学塾において代議士のジョゼフ・シャイエー氏の主宰のもと北アフリカ会議が開催された。夜の部ではアルジェリア統治者のジョナール氏の主催により、ルネ・ミレ大使の「もしイスラムが西欧文明と相容れないならば」という講演会が開かれた。

f0028703_14162566.jpg掲載の画像はカサブランカから特派員が送ってきたもので、今年はモロッコまで夏の観光客が押しかけるのが当世風となっている。パリからの華やかな観光客が(↑)カサブランカ周辺の干上がった川床=ワディ(ouadi)を訪ねたり、《若き英雄たち》とともに記念撮影に納まる様子が見える。(←)

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.46; Nov. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
北アフリカ会議(Le Congrès de l’Afrique du Nord)主催者のジョゼフ・シャイエー(Joseph Chailley, 1854-1928)は「両世界評論」や「議論新聞(ジュルナル・デ・デバ)」の寄稿者としても活躍した急進左派の政治家であった。この数年のモロッコや仏領インドシナへのフランスの勢力の拡大に関する議論も熱く戦わされたものと思われる。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Joseph Chailley
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by utsushihara | 2008-10-07 14:14 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

植民地相ミリエス=ラクロワのアフリカ巡訪

f0028703_22423958.jpg1908年7月

ミリエス=ラクロワ氏は素晴しい着想からアフリカ巡訪に出かけ、このほど帰着した。彼はセネガル、ダホメー、ギニアを精力的に横断し、至る所で熱烈な歓迎を受けた。ダカールに上陸後、彼は旅程を進めるためにある時は鉄道、ある時は船、ある時は担ぎ椅子で移動した。コトヌーの埠頭では、調査船シャスルー=ローバ号に乗り込むために、岸壁から伝統的な柳の網籠に入ってカヌーに移らなければならなかった。
帰国にあたっては西アフリカ植民地における生活文化に関する確かな資料の数々を持ち帰った。今回彼は、まだ交通手段が発達していないスーダンの奥地まで行けなかったことを残念に思っている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.44; Sep. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
ラファエル・ミリエス=ラクロワ(Raphaël Milliès-Lacroix, 1850-1941)は南西フランス出身の政治家。クレマンソー内閣で植民地相を務めた。
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by utsushihara | 2008-07-28 22:41 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

ドリュド将軍のパリ帰着

1908年1月12日(日)

ファリエール大統領は、軍事相ピカール将軍と一緒にエリゼ宮を訪れたドリュド将軍を迎えた。大統領はわがモロッコ派遣軍の司令官だったドリュド将軍と長い時間にわたって話を交わし、将軍は現地で指揮をとった作戦の数々について細部にわたる説明を行なった。将軍に対する国家元首の応対はきわめて親密なものであり、フランスにために貢献した努力について感謝の意を伝えた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287952 « Le Figaro » le 30 Déc. 1907
出典Crédit:©BNF-Gallica #287966 « Le Figaro » le 13 Jan. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
12月30日付のフィガロに叙勲の記事が掲載されている。
健康上の理由からフランスに帰任することとなったドリュド将軍に対し、政府はレジオン・ドヌール3等勲章を授与することを発表した。同時に海軍モロッコ派遣艦隊司令官フィリベール提督に対しては2等勲章が与えられる。

ドリュド将軍の帰任旅程は下記のようなものと想定できる。少なくともオラン到着は1月9日付のフィガロで報じられている。
1月8日:アルジェリアのオラン到着
1月9日:アルジェリアのオラン出発
1月10日:マルセイユ着
1月11日:マルセイユ発(列車?)
1月12日:パリ到着

**これまでの関連記事france100.exblog:
ドリュド将軍の帰任決定(1907.12.28)
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by utsushihara | 2008-01-12 16:48 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

ドリュド将軍の帰任決定

1907年12月28日(土)

一昨日(26日)の朝、アヴァス通信社の情報では「政府がドリュド将軍に対し、メディウナの城砦を奪取せよと命令した」と伝えた。この命令が出された厳密な日時は不明だが、ドリュド将軍に宛てて出されたのは間違いない。しかし、その数時間後に軍事相のピカール将軍が首相のところに赴き、そのあと非公式ながら「ドリュド将軍がマラリアの発作に襲われ、深刻な病状になっている」との談話を発表した。これはフィリベール提督からの電報をもとに出された情報だったが、前後してピカール軍相に召還を願うドリュド将軍の文書を受け取った。これらの出来事はすべて一昨日(26日)のうちに続けざまに起きたことである。
政府の出した命令とドリュド将軍の帰還要請が交差したことになる。
残念ながらドリュド将軍の病気は、自身の評判を落としかねないという懸念がある。病気はかなり重い。フィリベール提督の新たな電報でも「マラリア」と「無力症」という言葉が同時に使われている。

ドリュド将軍の後継者には、ラ・ロシェルの第69旅団長ダマド将軍が指名された。一昨日の晩、彼はピカール軍相からパリに呼び出され、大統領、首相と軍相に会見し、直ちに新任地に赴くこととなった。

出典Crédit:©BNF-Gallica #287950 « Le Figaro » le 28 Déc. 1907

f0028703_1733556.jpg[ Ψ 蛇足 ]
(←)これまでのドリュド将軍(Général Drude, 1853-19xx)は、カサブランカへの上陸作戦、カサブランカの制圧、カサブランカ近郊のシディ・ブラヒムやタデールの占拠など一応の成果を上げていた。かたや頻繁にモロッコの各部族の首長たちによる反撃にも応戦し続けていた。
下記のグラッセ大尉の従軍記によれば、12月になってカサブランカ南東約18kmのところにあるメヂィウナ(Mediouna)の城砦に部族の軍隊の再結集の動きが見られ、偵察の兵士が狙撃される事件も多くなってきていた。ただしドリュド将軍はその城砦を攻略するには手持ちの6千名の兵力だけでは不十分と考え、兵力の補強を要請していた。またこの頃、ドリュド将軍がマラリアの発症で体調を崩していたのも確かであった。

**参考文献:A travers la Chaouïa, avec le corps de débarquement de Casablanca (1907-1908) par Capitaine Grasset, 118e Régiment d’Infanterie「カサブランカ上陸作戦~シャウィアを横切って」第118歩兵連隊グラッセ大尉著(BNF-Gallica 電子図書105220)
http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-105220

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)仏人青年の殺害とタデールでの戦闘~モロッコ戦役(7)(1907.10.19)
(2)シディ・ブラヒムの占拠~モロッコ戦役(6)(1907.09.21)
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by utsushihara | 2007-12-28 17:01 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

アルジェリア=モロッコ国境での戦闘

1907年11月27日(水)~30日(土)

f0028703_1719029.jpg11月27日アルジェリアのわが国境警備隊の基地の一つ、バブ=エル=アサー(Bab el Asah)がモロッコの数千人の部族兵によって攻撃された。メール=セビユ中尉(Maire-Sebille)の指揮下にあった兵士たちはよく防戦したが、拠点から退却せざるを得なくなった。援軍が急派され、わが軍は反攻に転じることができた。激しい戦闘の後、モロッコ人たちは基地から掃討され、国境の彼方へ押し戻された。不幸にもわが軍はこの戦闘で勇敢なサン=ティレール中尉(Saint-Hilaire)(画像→)をはじめ12名の戦死者を出した。
f0028703_17192478.jpg政府はリョーテイ将軍(Lyautey)にわが領土の防衛体制構築のために全権を与え、必要とあらば国境を越えてまで戦闘を続けるように指示した。
この叛乱の動きはベニ=スナッセン(Beni Snassen)の地域一帯に広がり、わが最大の敵シ=モクタル=ウィド導師(Si Moktar Ouïd)が「聖戦」(ジハード, Djahad)を唱えている。

11月30日にはマナセブ=キス(Manaceb Kiss)で戦闘が起き、第3狙撃部隊のベレダ大尉が瀕死の重傷を負っている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.36; Jan. 1908

*参考画像Reférence d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 15 Déc. 1907
Mort héroïque d' un officier de Spahis : Le lieutenant Roze, chargeant à la tête de son peloton, tombe frappé par les balles marocaines
http://pagesperso-orange.fr/cen.tans/pj1907/pj89115121907b.jpg
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by utsushihara | 2007-11-30 17:16 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

仏人青年の殺害とタデールでの戦闘~モロッコ戦役(7)

f0028703_17121084.jpg1907年10月19日(木)

最近カサブランカに着いたばかりの一人のフランス人青年モーリス・クンゼー氏(Maurice Kunzer)が10月18日無謀にも野原に出かけて行って殺害されたという知らせがあった。翌朝フレテー中佐(Frétey)の率いる捜索隊が出発した。捜索隊はアルヴァレズ農園から6km離れたところでモロッコ騎兵の一団と出くわし、モロッコ兵らは銃撃を加えた後逃走した。タデール付近では新たな攻撃が始まり、今度は激しい戦闘となった。第1猟騎兵隊のイレール大尉(Ilher)と兵士2名が20頭ほどの馬とともに戦死した。また負傷者は15人出ている。クンゼー氏の首を切られた遺体はアロエの藪の陰で発見された。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.35; Déc. 1907

f0028703_17123969.jpg[ Ψ 蛇足 ]
画像はモロッコ・シャウィア地方の中心図、カサブランカとタデールが見える。円内は殺害されたクンゼー、および遺体の搬送。
これまで7回の経過報告となるモロッコ戦役だが、偶然見つけた従軍記「カサブランカ上陸作戦~シャウィアを横切って」の本は簡潔な文体で経緯を興味深く読むことができる。
同様に「マロカンタン(往時のモロッコ)」というサイトにもこの作戦経過が詳しく掲載されている。
上記で戦死したイレール大尉については、僚友の獣医の勇敢な美談が語られている。
《イレール大尉のそばで戦っていた獣医のマルヴァル(Malval)は、大尉が瀕死の重傷で馬から落ちそうになっているのを見た。大尉は彼に言った。「やられた。皆よ、さらば!」獣医は左手で大尉の体を支え、落馬しないように姿勢を保った。混戦のなかから抜け出ようとし、左右から襲いかかる刀の攻撃から身を守りながら、部隊の本営に着くまで大尉を見捨てなかった。そこで大尉は最後の息を引き取った。》

*参考サイト:MAROCANTAN, Le centenaire du débarquement franco-espagnol à Casablanca en 1907(仏語)仏西軍によるカサブランカ上陸百周年Combat de Sidi Messaoud, dit de Sidi Brahim, du 19 octobre 1907

**参考文献:A travers la Chaouïa, avec le corps de débarquement de Casablanca (1907-1908) par Capitaine Grasset, 118e Régiment d’Infanterie「カサブランカ上陸作戦~シャウィアを横切って」第118歩兵連隊グラッセ大尉著(BNF-Gallica 電子図書105220)
http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-105220

**これまでの関連記事france100.exblog:シディ・ブラヒムの占拠~モロッコ戦役(6)(1907.09.21)
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by utsushihara | 2007-10-18 17:14 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

シディ・ブラヒムの占拠~モロッコ戦役(6)

f0028703_23165661.jpg1907年9月21日(土)

タデール(Taddert)を奪取したドリュド将軍は、9月21日カサブランカから20kmのところにあるシディ=ブラヒム=エル=カドミリ(Sidi-Brahim-el-Kadmiri)の陣営を攻撃した。軍用気球がその地点を標定していたのにもかかわらず、我が部隊の迅速な行動によっても夜と霧に邪魔されてシャウィアの部族たちの動きを捕捉することができなかった。彼らはテントを撤収する十分な時間があり、内陸部に向けて遠ざかっていった。我が部隊は忘れ去られた数羽の鶏と一匹の子ロバをf0028703_23172730.jpg押収し、藁の掘立小屋に火を放った。しかしながらこの軍事作戦の心理的な効果は素晴らしく、3つの部族が投降してきた。この作戦における我が軍の被害は、死者2名、負傷者4名である。画像(↑)上は軍用気球を膨らませる様子、(→)右は負傷した第2外人部隊のモノ中尉(Monod)に元気づけようと手を差し伸べる首席参謀の一人である。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.34; Nov. 1907

**これまでの関連記事france100.exblog:シャウィアの部族との降伏交渉~モロッコ戦役(5)(1907.09.15)
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by utsushihara | 2007-09-21 23:15 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

シャウィアの部族との降伏交渉~モロッコ戦役(5)

f0028703_17275293.jpg1907年9月15日(日)

9月11日モロッコのドリュド将軍からの朗報を伝える下記の内容の電報がパリに届いた。
《今朝、霧と地勢のおかげで幸いにも我々はタデール(Taddert)を急襲することができた。モロッコ軍の陣営は燃やされ、軍勢はバラバラになった。我が軍と戦艦「栄光」(Gloire)からの協同砲撃が功を奏して敵軍は攻撃に持ちこたえることができず、追い払われた。当方の被害は、戦死者1名、負傷者6名のみであった。》
アラブ人たちは反攻を企てたが、30分間の戦闘の後に撃退された。彼らは陣営が破壊されるのを知るや、周辺の農場に火を放ち、彼らの陣営では解体されずに残ったテントは一つもなかった。火災は非常に多くの毛皮を燃やしてしまったが、テントの中には高価な金品は何も見つからなかった。彼らがカサブランカで略奪した戦利品はあらかじめ内陸に向けて運び出されたものと思われる。

9月15日、ドリュド将軍はカサブランカですべてのシャウィアの部族からの代表者3人と会見した。彼らは全シャウィア地域の降伏を申し出て、フランス側が要求するすべての条件を受け入れることとなった。彼らはそれぞれの主だった部族に戻り、19日に他の代表者や族長とともに全面降伏のために再度訪れることになっている。だが正式な委任状なしの交渉人たちの提案には信仰(アラーの名において)を付け加える必要があるのではなかろうか?

f0028703_17281444.jpgタンジール駐在のわがモロッコ担当大臣レニョー(Regnault)氏は9月15日「フォルバン」号でカサブランカに到着した。彼にはフィリベール提督(Philibert)とカサブランカ総領事のモーペルテュイ(Maupertuy)氏が同伴した。レニョー大臣はドリュド将軍(Drude)に会い、彼の軍事作戦の成功を祝福した。次いで領事館においてカサブランカの太守ハジ=ドゥリズ(Haj Driz)と会見した。大臣は戦艦「栄光」での昼食後、市内の駐屯地、病院、救護施設などを視察した。

出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.33-34; Oct-Nov. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
画像は、「ジュセトゥ」第33号の表紙に掲載されたドリュド将軍、およびカサブランカに上陸するレニョー大臣。

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Chaouia-Ouardigha(シャウィア=ウアルディガ地方)
**これまでの関連記事france100.exblog:
カサブランカの戦闘~モロッコ戦役(4)(1907.09.01~09.03)
ドリュド将軍カサブランカ上陸~モロッコ戦役(2)(1907.08.05) フィリベール提督(Amiral Philibert)とカサブランカ総領事モーペルテュイ(M. Maupertuis, Consul général de Casablanca)
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by utsushihara | 2007-09-15 17:27 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

カサブランカの戦闘~モロッコ戦役(4)

f0028703_22174474.jpg1907年9月1日(日)~3日(火)

9月初めに3件の重大な戦闘があった。9月1日カサブランカの前方での局地戦において砲兵隊のマスネ大尉は大砲のそばで重傷を負ったのにもかかわらず意識を失うまで持ち場を離れなかった。彼は怪我から快復しつつある。
一方で9月3日の戦闘では5名の兵士と2名の将校の計7名の死者を出した。将校のうちの1人は第1外人部隊のプロヴォ司令官であり、もう1人はアルジェリア狙撃第2連隊のベニッザ中尉である。
f0028703_2210492.jpg
出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.33; Oct 1907

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)画像は最初の上陸作戦によって破壊されたカサブランカの城壁の突破口。状況はカサブランカ市内全域をまだ制圧できず、散発的な戦闘がフランス軍とモロッコ軍との間で続いている模様である。

**これまでの関連記事france100.exblog:カサブランカの制圧~モロッコ戦役(3)(1907.08.08)
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by utsushihara | 2007-09-03 22:08 | モロッコ問題、アフリカ1907-08

カサブランカの制圧~モロッコ戦役(3)

f0028703_21114313.jpg1907年8月8日(木)
f0028703_21122921.jpg
カサブランカの町を掃討するまでは立て続けの戦闘が必要だった。特にわが領事館に向かった分遣隊を指揮し負傷したバランド海軍中尉の勇敢な働きが目覚ましかった。領事館は通訳のザジニー氏の指揮下にある。
ドリュド将軍が部隊を上陸させたのは8月8日の木曜日であり、5千人のモロッコ兵を退散させた。モロッコ軍の損害は甚大で、我が軍の戦死者は5名にとどまった。カビリー族の反乱者たちは店舗を略奪し、数多くのユダヤ人を殺害した。
スペイン軍が我々の作戦に協力している。他のモロッコの港はフランス艦隊で守られており、とりわけ不穏な動きはない。カサブランカ近辺だけは別で、我が軍隊は反撃を受ける可能性が十分にある。

f0028703_2112510.jpg出典:BNF-Gallica #102981 « Je sais tout » No.32; Sept 1907

[ Ψ 蛇足 ]
カサブランカ(Casablanca)は現代のGoogle地図の表記では、ダル=エル=ベイダ(Dar-el-Beida)となっている。
画像の上(↑)はカサブランカの市場、左(←)はバランド中尉(Enseigne Ballande)、右(→)はザジニー通訳(Interprète Zaziny)
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by utsushihara | 2007-08-09 21:10 | モロッコ問題、アフリカ1907-08