フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:ドイツ情勢1905-06( 11 )

プロイセン第4皇子の婚約

f0028703_23495744.jpgf0028703_23494568.jpg1906年12月27日(木)

アウグスト=ウィルヘルム・フォン・プロイセン皇子はドイツ皇帝ウィルヘルム2世の第4子にあたるが、12月27日グリュックスブルク城において正式に婚約を発表した。お相手はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公女アレクサンドラ嬢で、若々しく魅力的な女性である。二人とも年齢は19歳である。

出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.25; FEV. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ウィルヘルム2世には6男1女の7人もの子供がいた。末子にようやく娘を得た。四男アウグスト=ウィルヘルム(August Wilhelm von Preussen, 1887-1949)の母親アウグステ=ヴィクトリア(Auguste Viktoria, 1858-1921)もシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公家出身で、アレクサンドラ(Alexandra von Schleswig-Holstein, 1887-1957)とは叔母姪の関係のような血縁の近さである。つまりこの婚約者は従兄妹同士ということになると思われる。

*参考サイト:「欧羅巴の旅」というサイトにグリュックスブルク城が出ている:GLÜCKSBURG
**これまでの関連記事france100.exblog:
(1) 独皇太子の結婚式(1905.06.06)
(2)エイテル皇子の結婚(1906.02.28)
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by utsushihara | 2006-12-27 23:44 | ドイツ情勢1905-06

ドイツ帝国議会の解散

f0028703_1318448.jpg1906年12月13日(木)

12月13日のドイツの国会審議において、南アフリカのヘレロス族との戦争継続を目的とする戦費予算編成案が178票対168票で否決された。多数派は中道カトリック党と社会主義政党で構成されていた。この結果を受けてフォン・ビューロー宰相は皇帝の詔勅を読み上げ、議会の解散を宣言した。新たな選挙は1月の最終週に実施される見込みである。画像は帝国議会議事堂と議長のフォン・バレストレム氏である。
f0028703_13182129.jpg
出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
議長のフランツ・グラーフ・フォン・バレストレム(Franz Graf von Ballestrem, 1834-1910)は、イタリア貴族バレストレリ伯爵(Conte Balestreri)を祖先とするドイツ・ポーランドの有力な企業家・政治家であった。当時72歳。議長の職は1898年から8年余り務めた。

2年近くにわたってドイツはアフリカ西南の植民地でホッテントット族の一部族ヘレロス(Herreros)を屈服させるために腐心しているが効果があがっていない。

**これまでの関連記事france100.exblog:ドイツの植民地支配(1906.02)
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by utsushihara | 2006-12-14 13:15 | ドイツ情勢1905-06

ドイツで火薬工場爆発

f0028703_1814945.jpg1906年11月28日(水)

ドイツのウェストファーレン州ウィッテンとアンネンの中間にあるロブライト火薬工場が11月28日爆発を起こした。爆発したのはその工場で作っていた無煙火薬約21トンで、40人が死亡し、150人が負傷した。損害は6百万フランに上る。アンネンの村では爆風で一軒残らずなぎ倒された。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ウィッテン(Witten)はドイツ西部の工業地帯に位置し、19世紀後半以降炭鉱の採掘に世界的に広く使用されたロブライト(Roburit)無煙火薬の製造地で有名だった。
*参考サイト:(英文)Wikipedia Witten
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by utsushihara | 2006-11-28 18:12 | ドイツ情勢1905-06

ドイツ社会主義者大会(1906)

f0028703_1843565.jpg1906年9月23日(日)~30日(日)

ドイツのマンハイムで9月23日から30日にかけて社会主義者大会が開かれている。写真(→)は会議場を馬車で立ち去る指導者アウグスト・ベーベル氏である。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
f0028703_1852819.jpg画像Crédit d’image : © Bilder-Datenbank von WeltChronik.de; August Bebel während des SPD-Parteitages 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ちょうど一年前の1905年9月にもドイツでは社会主義者大会が催されていた。ここで何が議題となっていたのか、などは未詳。写真(←)に大会の写真も引用してみた。
* 関連記事Blog:イエナでドイツ社会主義者大会(1905.09.18)
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by utsushihara | 2006-09-25 17:58 | ドイツ情勢1905-06

宰相フォン・ビューロー氏の快復と新植民地相デルンベルク

f0028703_1723392.jpg1906年9月19日(水)

ドイツ帝国宰相フォン・ビューロー氏は健康を快復した。9月19日からは2ヶ月の予定でホンブルクにある王宮に滞在することになった。彼はかなり老け込んで口髭はすっかり白くなった。皇帝は依然として彼に全幅の信頼を置いている。

ホーエンローエ公の植民地相辞任に伴い、後任として経済人で知られるダルムシュタット銀行の頭取デルンブルク氏が指名された。この決定はフォン・ビューロー氏が皇帝に進言したものであるが、専門分野外からの起用に政界では驚きをもって迎えられた。特にこの新大臣の出自の凡庸さに非難が集中している。
f0028703_17234799.jpg
出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906
画像Crédit d’image : ©zentral – und Landesbibliothek Berlin

[ Ψ 蛇足 ]
画像(↑)は乗馬姿のフォン・ビューロー。55歳の彼が体調不良を訴えて静養してから5ヶ月が経過している。関連記事Blog:ドイツ宰相発作で倒れる(1906.04.05)

(→)ベルンハルト・デルンブルク(Bernhard Dernburg, 1865-1937)については、上記のベルリン中央図書館のサイト(独文)に詳しい説明があるが、読めないので調査を省略した。
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by utsushihara | 2006-09-19 17:20 | ドイツ情勢1905-06

シレジアでの軍事演習におけるウィルヘルム2世

f0028703_21511127.jpg1906年9月14日(金)

シレジアにおいて9月14日まで行なわれていた軍事演習に臨んだ皇帝ウィルヘルム2世が演説した内容は、ドイツの新聞各紙にひどく不興の念を抱かせた。それは「余は他の国土を求めるのを不満に思う悲観論者(ペシミスト)はいらない。」というような発言であった。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
シレジア(Silesia)は現在のポーランドの南西部にあたる。
上記の演説は、他国への侵略、または植民地の獲得への意図をあからさまに示した独皇帝の姿勢がうかがえる。
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by utsushihara | 2006-09-14 21:56 | ドイツ情勢1905-06

アルブレヒト大公の逝去

f0028703_21172879.jpg1906年9月13日(木)

独皇帝ウィルヘルム2世の叔父にあたるアルブレヒト大公が9月13日に死去し、ブラウンシュヴァイク(ブルンスウィック)大公の摂政位は空席となった。ハノーファー家がこの大公領の統治権を要求することになると見込まれている。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
アルブレヒト大公(Albrecht von Preussen, 1837-1906)はプロイセン王国の王族の一人であり、軍人として普墺戦争(1866)や普仏戦争(1870)で功績があった。ビスマルクの裁定により、1885年に空位となったブラウンシュヴァイク公国(Braunschweig)の大公として摂政位に就いた。彼には3人の男子がいたが、今回の死去によってなぜハノーファー家が大公領を要求することになるのかが疑問だった。もともとアルブレヒトが就任するときに、すでにこの大公の摂政位は空位になっていた。ハノーファー家が一番近い相続権を持っていたのに、普墺戦争でオーストリアに加担したため、ハノーファー家の権力を抑えるために時の宰相ビスマルクが裁定したのがその原因だったようだ。今やビスマルク亡きあとでもあり、いわば臨時の大公位だったアルブレヒトの死去で相続権問題が再燃しようとしている。
*参考サイト:Wikipedia; アルブレヒト・フォン・プロイセン(和文)
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by utsushihara | 2006-09-13 21:14 | ドイツ情勢1905-06

ウィルヘルム2世のウィーン訪問

f0028703_17275276.jpg1906年6月7日(木)

ウィルヘルム2世は6月6日、ウィーンに到着した。特に歓迎式典はなかった。駐墺ドイツ大使館での昼食のあと、ウィルヘルム2世とフランツ=ヨーゼフ皇帝は、連名で三国同盟としての第3の忠実な盟友であるイタリアのヴィットーリオ=エマヌエーレ3世に宛てて、変わらぬ友誼の念を表明する電報を送った。イタリア国王はその返答として同様の内容の電報を送ってきた。ドイツ皇帝は6月7日、ベルリンに向けて出発した。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
独墺伊の三国同盟は、第一次大戦突入となる1914年にはイタリアが脱退するほど当初から関係の脆弱さが認められたが、中心的な存在のドイツとしては様々な工作による連携強化を図ったが、こうした皇帝自らの行動は、かえって軽々しく見えてくるから不思議である。
画像は、フランツ=ヨーゼフ皇帝の馬車に同乗してウィーン市内を巡るウィルヘルム2世。
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by utsushihara | 2006-06-07 17:28 | ドイツ情勢1905-06

ドイツ宰相発作で倒れる

f0028703_1874193.jpg1906年4月5日(木)

ドイツ宰相のフォン・ビューロー公は、4月5日帝国議会においてモロッコ問題に関する所信表明演説の最中であったが、急に気分が悪くなり意識を失って搬び出された。新聞各紙によればこの事態によって演説の最も重要な部分とされたアルヘシラスの会議でロシアがフランス支持に回ったことに対するロシアへの痛烈な非難が表明できなくなったという。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.16; Mai, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
1900年からドイツ帝国宰相となっていたベルンハルト・フォン・ビューロー (Bernhard von Bülow; 1849-1929)は貴族の名門の出で軍部および外交官としての経歴があり、特に駐伊大使としてビスマルクが作り上げた独墺伊三国同盟の強化に努めた。ビスマルクの後任のホーエンローエHohenlohe の病気辞任によって宰相の座についた。皇帝ウィルヘルム2世の世界覇権を狙う方針に従い、モロッコ問題においてもフランスおよびそれに加担する国々への厳しい批判を続けていた。

この発作は何だったのか?脳卒中か、心臓マヒか?このあとのフォン・ビューローの運命やいかに?についてはここではまだ書かないほうがいいだろう。
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by utsushihara | 2006-04-05 18:08 | ドイツ情勢1905-06

エイテル皇子の結婚

f0028703_16184145.jpg1906年2月28日(水)

ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の次男エイテル=ウィルヘルム=フリートリッヒ皇子(23歳)は2月28日ベルリンにて結婚式を挙げた。花嫁はオルデンブルク公女ゾフィー=シャルロッテで皇子よりも4歳年上である。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avril, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
皇子エイテル=ウィルヘルム=フリートリッヒ Prinz Eitel-Wilhelm-Friedrich (1883-1942) は軍部の要職(第一近衛連隊司令長官)に就いたようである。第一次大戦後は隠遁生活を送った。ゾフィー=シャルロッテ・フォン・オルデンブルク Sophie-Charlotte von Oldenburg (1879-1964) とは20年後の1926年に離婚し、それぞれ再婚している。こちらも名門の出であった。
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by utsushihara | 2006-02-28 16:16 | ドイツ情勢1905-06