フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:モロッコ問題、アフリカ1905-06( 20 )

シ・ゲバスの軍勢のタンジール到着

f0028703_22532896.jpg1906年12月28日(金)

12月28日、シ・ゲバスの軍勢はタンジールの城門に到着し、太守を始め、地方の官吏たちから盛大な歓迎を受けた。部隊はブーバンの平原で数日間宿営し、国土の緊迫した状況を早急に解決することを確信している。
f0028703_22534610.jpg
出典:BNF-Gallica #102980 « Je sais tout » No.25; FEV. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
画像左(←)シ・ゲバス(Si Mohammed-El-Guebbas)はモロッコの軍事大臣である。モロッコの国内情勢が不安定になっていることは、先般の仏西両国の軍事介入でも明らかである。
**これまでの関連記事france100.exblog:仏西両国によるモロッコ介入(1906.12.08)
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by utsushihara | 2006-12-29 22:51 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

仏西両国によるモロッコ介入

f0028703_18231994.jpg1906年12月8日(土)

フランスとスペインは12月3日にアルヘシラス議定書の署名各国に対して共同通牒を送り、無政府状態に陥ったモロッコへの治安維持介入の了承を取り付けた。
フランス海軍の3隻の戦艦から成る艦隊が8日タンジールの沖合に到着した。トゥシャール少将が司令官として乗り込んだ旗艦「シュフラン」と「シャルルマーニュ」、「サン=ルイ」である。マタ准将の率いるスペイン艦隊の到着よりも数日前であった。
f0028703_18234873.jpg(←)掲載のスケッチはタンジールの太守の衛兵(ムカズニグ)2名の姿でモーリス・ロンベール氏が写生したものである。

f0028703_18241564.jpg
出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907
画像Crédit d’image : ©Battleships-Cruisers.co.uk

[ Ψ 蛇足 ]
右上の画像は、戦艦「シュフラン」(Suffren)の雄姿。右下がマドリッドを訪れたトゥシャール(Touchard)司令官。
*参考サイト:(英)Wikipedia 戦艦「シュフラン」French battleship Suffren
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by utsushihara | 2006-12-08 18:24 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

タンジール港内の事件

f0028703_18272139.jpg1906年11月5日(月)

タンジール港内の警備艦「ガリレオ」の乗組員は11月5日モロッコ人船頭たちによって突堤の上で襲撃を受けた。
モロッコでは国内の無秩序状態による経済危機を回避するため、11月中旬までに君主がフランス政府に対して支援を要請する見込みである。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.23; DEC. 1906
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by utsushihara | 2006-11-06 18:26 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

チャド調査団の出発

f0028703_178124.jpg1906年10月25日(木)

アフリカのナイジェリアとチャドとの英仏国境を確定させる役務を帯びた調査団が10月25日ユーロプ号にてボルドー港を出発した。団長はティロ大尉(写真前列中央)で、他に4人の士官が加わり、うち1名は通訳、1名は軍医、さらにもう1名は地理学者となっている。彼らの任務は15ヶ月間である。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.22; DEC. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
*参考サイト:外務省ホームページ、チャド共和国
**前の関連記事Blog:コンゴ調査団の出航 (1906.08.25)
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by utsushihara | 2006-10-25 17:04 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

タンジールのジゴン提督

f0028703_16193821.jpg1906年8月15日(木)

タンジール港を前に集結したフランス北部艦隊の司令官ジゴン提督は、8月15日、参謀たちの先頭に立って上陸した。君主の代官として治めているモハメッド・エル・トーレスに表敬訪問するためであったが、住民たちは好意的な態度を示している。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.20; OCT. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ジゴン提督(Amiral Gigon)については詳細不明。
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by utsushihara | 2006-08-22 21:17 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

モロッコに対するフランスの要求

f0028703_18351488.jpg1906年5月

5月28日、モロッコのタンジールの城門付近でフランス人シャルボニエール氏が殺害された。フランスはモロッコ政府に対して全面的な賠償を要求することを決定した。つまり、10万フランの賠償金の支払と公式な謝罪、犠牲者が倒れた場所への慰霊碑の建立、および殺害犯の捜索と処刑である。
フランスはこれらの要求に圧力をかけるためにタンジールに向けて戦艦3隻を出航させた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
植民地主義の精神が端的に現れて見える事件である。勝手に相手の国に進出して、原因はさておき死者が出たことで多額の賠償請求を文字通り「突きつける」強者の論理である。
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by utsushihara | 2006-05-29 18:34 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

アルヘシラス会議の閉幕

f0028703_1845574.jpg1906年4月7日(土)

4月7日アレヘシラス会議が誠意に満ちた雰囲気の中で閉幕となった。議長をつとめたアルモドヴァール公爵は、平和と正義による成果をもたらした代表団の努力を賞賛した。イタリアのヴィスコンティ=ヴェネスタ侯爵はそれに答えてスペイン側の心のこもったもてなしを誉め称えた。同じ日に代表たちによって7章156項目に及ぶ「アルヘシラス会議の公式議定書」に署名が行なわれた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.16; Mai, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像はアルヘシラス駅を出発するアルモドヴァール公爵。
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by utsushihara | 2006-04-07 18:01 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

アルヘシラス国際会議の閉会

f0028703_15354873.jpg1906年3月27日(火)

その開催から72日間続いたアルヘシラスの国際会議は、3月27日に予定に組まれていた議案の主要な点で各国代表団が合意に達することができた。
ドイツは、モロッコ国内の8つの港湾で治安維持のために警察機構の国際化を訴えたが、この機構に関してはフランスとスペインの士官たちに委任されることが決議され、総員2500名を超えないモロッコ軍兵士を指揮下に置くこととなった。ドイツはこの警察機構を監督する査察官を直接、外交勢力の管理下に置くことを望んだが、会議ではこの査察官をスルタン(君主)の直轄とし、単にその報告書の写しを外交勢力に伝えることと決定した。査察官はスイスまたはオランダからとなる予定である。
また、モロッコ国立銀行についてはフランスの政府と金融機関が分担して関税収益について管理を継続することが了承された。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像は、散歩道でくつろぐドイツ代表団。モロッコ代表の横にタッテンバッハ伯爵と駐スペイン大使秘書官のウィルヘルム・フォン・ラドウィッツ父子。
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by utsushihara | 2006-03-28 15:31 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

三国同盟の危機

f0028703_22135471.jpg1906年3月

アルヘシラスで行なわれている国際会議においてフランスに対するイタリアのあからさまに同調的な態度は、各国勢力の認めるところとなっている。イタリア代表のヴィスコンティ・ヴェノスタ侯爵は、ある時は会議を欠席し、ある時はドイツの提案に対してフランスに歩調を合わせて投票している。ドイツの新聞は最も激昂した論調でこのイタリアの態度を非難し、ドイツとの盟約により自ら課すべきあらゆる義務を欠いていると主張した。
これに対してイタリアのほとんどの新聞はこの論調を非常に厳しく取り上げ、結局アルヘシラスの会議がドイツ側の孤立を明らかにさせ、三国同盟はいまや「紙の上に書かれた契約書に過ぎず、イタリアの国民感情にもはや合致しなくなっている!」と反論している。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.15; Avr. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像はイタリア代表のヴィスコンティ・ヴェノスタ侯爵エミリオ(Emilio, Marquis de Visconti-Venosta; 1829-1914)。ガリバルディに従いイタリア統一戦争に加わり、政府の要職を歴任した。この会議のときはすでに72歳になっていた。
第一次大戦直前における列強の対立の構図は、学校の授業で学んだように、三国同盟(独、墺、伊)vs三国協商(英、仏、露)となっていたが、大戦に突入するときには伊=イタリアが同盟を離脱して英仏側についたことが知られている。その綻びの兆候がすでに8年前のこの会議の頃にも出始めていたことがわかる。
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by utsushihara | 2006-03-19 22:06 | モロッコ問題、アフリカ1905-06

アルヘシラス会議(続報2)

1906年2月24日(土)
f0028703_17424889.jpg2月18日にドイツはフランスの提案に対して型通りの拒否の回答をし、逆提案はまったく出してこなかった。
実際のところドイツは、デルカッセ氏の外相辞任以降に始められた交渉で用いている戦術を変えることはなく、フランスのモロッコ政策に対して何一つ特例を認めようとしていない。しかしドイツが強硬に主張しているのは警察制度だけではなかった。2月20日ドイツ代表団は会議事務局にモロッコ国立銀行の設立に関する議案を提出した。しかしこの内容はフランス側の権益に真っ向から対立するもので、ルヴォワル氏はただちに別の議案の提出によって対抗した。
22日、銀行の案について討議が開始された。スペイン代表はフランス案を支持した。24日、モロッコ側から自分たちの手で修正した議案を提出したが、表現の中でフランスの権益が望ましいのは認めたものの、ドイツ側からの示唆が加わったもののように思われた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.14; Mars, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
画像はアルヘシラス国際会議風景。
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by utsushihara | 2006-02-24 23:40 | モロッコ問題、アフリカ1905-06