フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:科学、軍事、海事1905-06( 14 )

マルコーニの無線通信の新実験

f0028703_11351793.jpg1906年12月

右掲(→)の写真に見られるように各軍港に無線電信のためのアンテナを設置するのみならず、おのおのの艦船に送受信可能な機器を装備させることにより他の艦船同士とのあるいは沿岸部との交信が可能となった。
ベルリンで電信の国際交信の統一基準を定める会議が開催されたばかりだが、全面的な解決には至らなかった。
f0028703_11353671.jpg
出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
マルコーニ(Guglielmo Marconi, 1874-1937)については学校で学んだことがある程度でしかないが、通信の歴史で偉大な貢献をしたことがわかる。下記のサイトで、マルコーニの「無線通信」会社が陸上では既存の「有線通信」の事業者たちからかなりの抵抗を受けたことを知って興味深い。(←)左掲は洋上から送信実験をするマルコーニ。
*参考サイト:我が小無線史(2)無線通信
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by utsushihara | 2006-12-31 11:33 | 科学、軍事、海事1905-06

練習艦「アルゲシラ」号炎上

f0028703_1754217.jpg1906年11月25日(日)

11月25日の真昼、トゥーロンの港内に繋留されていた練習駆逐艦「アルゲシラ」号が炎上した。艦内に搭載していた魚雷は爆発した。水兵2名が犠牲となった。出火原因はまだ明らかにされていない。「アルゲシラ」号は1855年に就役しており、艦隊の中では最古参の船であった。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
この月にはなぜか海難事故が特にトゥーロン付近で多発したのがわかる。
練習艦「アルゲシラ」号(Algésiras)は、モロッコ国際会議が開かれたスペインのアルヘシラスから採ったものだが、フランスの艦船なのでスペイン語ではなくフランス語読みにした。実際最後の s を読んだかどうかは定かでない。(女流ピアニストのMartha Algerichがアルゲリッチ、アルゲリチか、アルヘリッチ、アルヘリチなのか?で検索も大きく分断されてしまうのは困りものだ)
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by utsushihara | 2006-11-25 17:51 | 科学、軍事、海事1905-06

ラ・セイヌ造船所で火災

f0028703_2271497.jpg1906年11月23日(金)

11月23日未明、国内最大規模のラ・セイヌ製鉄・造船所が火災となり、その大半が焼け落ちた。出火原因はまだ判明していない。大きな損害の中でもとりわけ惜しまれるのは数多くの艦船の設計図が焼失したことである。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907

[ Ψ 蛇足 ]
ラ・セイヌ・シュル・メール(la Seyne-sur-Mer)は南仏の軍港で知られるトゥーロンの湾内にある町で1835年に最初の鋼鉄船の造船所が開設されて以来、フランスのみならず世界で最も知られた造船所の一つとなった。このときの火災について詳述された記事はあまり見あたらない。
*参考サイト:La ville de la Seyne-sur-Mer Histoire (ラ・セイヌ・シュル・メールの歴史;仏語)
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by utsushihara | 2006-11-23 22:07 | 科学、軍事、海事1905-06

大型客船「ウィルヘルム大帝」号の衝突事故

1906年11月22日(木)

11月22日の夜間、大西洋横断航路をニューヨークに向かっていたドイツの大型客船「ウィルヘルム大帝」号は、英国の汽船「オリノコ」号に衝突された。この汽船はシェルブール港の停泊地に向かって航行していた。「ウィルヘルム大帝」号は甚大な損傷を負い、5人の犠牲者を出した。
f0028703_18304065.jpg
出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.24; JAN. 1907
画像Crédit d’image : © Maritime Quest; Kaiser Wilhelm der Große

[ Ψ 蛇足 ]
画像はニューヨークに入港する「ウィルヘルム大帝」号(Kaiser Wilhelm der Große:カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロース)。この汽船はちょうど10年前に就航していたが、就航当時は最速航行の記録を樹立したことで有名である。
米国と欧州を結ぶ大西洋航路は19世紀後半から20世紀初頭にかけて移民や貿易の拡大により急速に脚光を浴びた。各船舶会社間で最新鋭の高速船を開発・建造を競い合うことになり、最速の記録を打ち立てた船に「ブルー・リボン賞」(Blue Riband)を表彰することになった。当初は英国が独占していたが、ドイツのウィルヘルム2世が国威発揚の号令をかけ、1897年に祖父の名前「ウィルヘルム大帝」(Kaiser Wilhelm der Große)を冠した初の4本煙突の汽船を竣工させ、同年11月に東行き航路(米→欧)、翌1898年に西行き航路(欧→米)の最速記録を出し、ドイツが「ブルー・リボン賞」を独占する時代の幕開けとなった。この20世紀初頭では所要日数は5.5日間、平均速度が23ノットだった。

*参考サイト
(1)英Wikipedia ブルー・リボン賞: Blue Riband リボンの原語が « Ribbon » ではなく « Riband » という表記なのが気になる。(仏語では普通に « Ruban bleu » である)
(2)The Great Ocean Liners : Kaiser Wilhelm der Große (英文)
**前の関連記事Blog:世界最大の客船「アメリカ」号(1905.11.15)
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by utsushihara | 2006-11-22 18:31 | 科学、軍事、海事1905-06

潜水艦「リュタン」殉難者の葬儀

f0028703_1721111.jpg
1906年10月30日(火)

10月16日ビゼルト沖合18kmの海中に沈没した潜水艦「リュタン」の引揚げ作業は強力な装置が必要で、11日間を要した。原因の調査が行なわれ、潜水艦後部のバラスト室の取水口が理由はわからないが開け放たれたままになっており、潜水が開始された時に外から海水が一気に流入したものと思われた。海中の強力な水圧がバラスト室の内側の鋼板を歪ませてしまい、潜水艦の後部全体に海水が浸入したようだ。再浮上を試みて艦の前方に置かれていた安定錘を分離した。その次にハッチから脱出しようと試みたらしく、部分的に開いていたことが判明した。しかしこの最後の試みで艦の内部に海水が流入し、沈没を早めることとなった。
10月30日ビゼルト軍港の兵器庫の作業所に犠牲者16名の柩が安置され、慰霊式がしめやかに営まれた。フランスに戻った遺骸は家族らによって丁寧に埋葬された。艦長のフェポー大尉(写真左)はパリで、ミヨ中尉(写真右)はノルマンディのエネクヴィルにて告別式が行なわれた。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.23; DEC. 1906

[ Ψ 蛇足 ]
*参考サイト:Man Machine System : 潜水艦って何?潜水艦の構造/潜航のしくみ(和文)
**前の関連記事Blog:潜水艦「リュタン」の沈没(1906.10.16)
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by utsushihara | 2006-10-30 17:18 | 科学、軍事、海事1905-06

ピカール将軍の正式就任

f0028703_11412644.jpg1906年10月

ピカール将軍は先般の議会における採決で軍籍を回復することが承認され、暫定的にパリ駐屯の第10歩兵師団の司令官代行として勤めてきたが、このたび正式に司令官に就任することになった。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
画像Crédit d’image : © Bibliothèque de l'Assemblée nationale

[ Ψ 蛇足 ]
ジョルジュ・ピカール(Georges Picquart, 1854-1914)は、1906年7月のドレフュス大尉の名誉回復と叙勲と同時に軍務復帰と将軍への昇進を受けた。
*以前の関連記事Blog:ドレフュス事件、第2回目の再審(1906.07.12)

将軍としてしばらくのあいだ司令官代行(par intérim)という試用期間を設けるのは必ずしも珍しいことではなかったようで、この記事と同時に他の師団の将軍も「代行」から「正式」の司令官となったと報じる記事がある。
*参考サイト:Wikipedia; Georges Picquart (仏文)
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by utsushihara | 2006-10-19 11:42 | 科学、軍事、海事1905-06

潜水艦「リュタン」の沈没

f0028703_21335111.jpg1906年10月16日(火)

潜水艦「リュタン」は10月16日の午前、潜水訓練実施のため引き船「イスクール」に曳航されてビゼルト港の沖合に出たが、通常の潜水を2度実施した後、消息を絶った。海面の天候は荒天でうねりがあり、雨が降っていた。「イスクール」は潜水艦が潜水を開始した場所にブイ(浮標)を置き、すぐさま司令部のベリュック提督に通報した。彼の指揮のもと水深36mの水圧に耐えて探査が行なわれ、「リュタン」はたしかにその海底で水平に沈んだままになっていることが測定された。救出作業がすぐさま開始された。「リュタン」には11名の乗組員と2名の士官、艦長のフェポー大尉とミヨ中尉が乗り込んでいた。
潜水艦の事故については、昨年ビゼルトで同じような潜水艦「ファルファデ」の沈没事故が起きている。このときは水深わずか10mのところだったが、引き揚げたときには生存者は残念なことに皆無であった。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.21; NOV. 1906
画像Crédit d’image : © Le Petit Journal, supplément illustré; du 4 novembre 1906
f0028703_2133716.jpg
[ Ψ 蛇足 ]
右掲(→)のプチ・ジュルナル11月4日号の表紙では、海事大臣トムソン氏が潜水艦「コリガン」(Korrigan)に乗り込んで救出作業に立ち会う場面を描いている。1年前の「ファルファデ」(Farfadet)の事故とは1905年7月に起きたもので、軍事演習でもこうした海難事故が多発したのは痛ましい。

[ ΨΨ 蛇足の蛇足 ]
(こうした事故の記事のあとでは不謹慎のようで申し訳ない。)余談になるが潜水艦の名前「リュタン」(Lutin)は普通名詞で、いたずらっ子、わんぱく小僧、小妖精の意味である。どうしてこうしたふざけた名前をつけたのかと思うが、恐らく敵の目を眩ませて神出鬼没の攻撃をする潜水艦に、という思いからなのだろう。ちなみに「ファルファデ」(Farfadet)も普通名詞で小妖精という意味になっている。・・・そのあと「まさか」と思って辞書を引いてみたら「コリガン」(Korrigan)もまた、ブルターニュ地方の伝説中の妖精、しばしば悪戯をする、と書いてあった。

神出鬼没のリュタン(Lutin)の言葉の響きには、怪盗ルパン(=リュパン, Lupin)に通じるものがある。悪ふざけをする点もなんとなく共通する。フランス人は無意識でも感じ取っていたのだろうか?
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by utsushihara | 2006-10-16 17:20 | 科学、軍事、海事1905-06

ミラノ博でのロンブローゾ教授

f0028703_1916236.jpg1906年7月

学識高いチェーザレ・ロンブローゾ教授は、犯罪と狂気の識別に関する数多くの研究で世界的に有名であるが、ミラノで開かれている博覧会場内に設置された人類学博物館を頻繁に訪れている。
彼はフランス政府よりレジオン・ドヌールの騎士団長勲章を授与されたばかりであり、これは彼が受諾した最初の勲章となっている。

出典:BNF-Gallica #102979 « Je sais tout » No.19; Août, 1906
画像Crédit: Jean-Paul DOUCET:Le droit criminel

[ Ψ 蛇足 ]f0028703_1916529.jpg
チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso, 1835-1909)は19世紀末から20世紀初頭にかけて犯罪者を人類学の視点から解き明かそうとする「犯罪人類学」の研究を進めた。特に顔面および身体的特徴から犯罪者を特定しようとする「犯罪者生来説」を唱えた。

犯罪学理論の流れに関する一考察というサイト(和文)にもロンブローゾの『犯罪人論』の序文の抜粋があり、犯罪行為に至る人間には類人猿のような粗暴な状態に精神が回帰する傾向がある!という「ひらめき」から学説を打ち立てた、とある。科学的な根拠は薄弱ではあるが、明治末期の当時は日本でも注目され、「天才と狂人」、「天才論」などが翻訳されている。

『犯罪人論』の仏訳は、L'homme criminel : criminel-né, fou moral, épileptique : étude anthropologique et médico-légale(犯罪的人間:生まれつきの犯罪者、精神異常者、癲癇患者:人類学的および法医学的研究) としてBNF-Gallica No.76987でも参照できるが、あくまでも歴史的な文献とすべきであろう。これの図版(右→)として歴史的な悪人/犯罪者の人物例が出ている。革命の闘士マラーを暗殺したシャルロット・コルデーやオペラ座で爆弾テロを起こしたオルシニなどが載っている。

元パリ大学法学部教授ジャン=ポール・ドゥセ氏のサイト(Jean-Paul DOUCET:Le droit criminel)も犯罪史・刑罰史などが目で見える点で興味深い。
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by utsushihara | 2006-07-03 19:10 | 科学、軍事、海事1905-06

英国戦艦の座礁

f0028703_1843196.jpg1906年6月20日(水)

去る5月29日の夜、大英帝国の主力戦艦「モンタギュ」が濃霧のためブリストル海峡のランディ島付近にあるシャター・ポイントの岩礁に乗り上げた。乗組員は救助されたが、戦艦は転覆するものと考えられた。それにもかかわらず船を取り戻すために大きな努力が支払われた。
6月20日には次のような手段が取られた。まずモンタギュの船倉の最下部に50cm毎に梁のある長さ98mに及ぶ鋼板の仮の船体を組み立てた。それから船底を突き破っていた岩礁を破壊した。穴が塞がれるとともに圧搾空気を送り込み、モンタギュを浮上させることに成功した。
これには前もって砲火器や機械装置のすべてを撤去している。この成功までには天候に恵まれた7週間が必要であった。
f0028703_1844640.jpgモンタギュは1901年に就役し、総排水量14000t、乗組員750名。建造には3千万フラン以上の費用をかけていた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.18; Juillet, 1906
画像 Crédit d’image : Battleships-Cruisers.co.uk
[ Ψ 蛇足 ]
画像はブリストル海峡で座礁した戦艦「モンタギュ」の遠景と海難事故現場の写真
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by utsushihara | 2006-06-20 18:44 | 科学、軍事、海事1905-06

ピエール・キュリー氏の事故死

f0028703_12254968.jpg1906年4月19日(木)

悲劇的な事故がフランスを代表する最も有名な科学者の生命を奪った。ラジウムの発見者で知られるピエール・キュリー氏は栄光の頂点にありながら成果を次々に生み出す実験を続けていたが、47歳の若さで世を去った。
4月19日、ポンヌフの橋の手前にあるドーフィヌ街を横切ろうとしていたキュリー氏は、走ってきた荷馬車にはねられて転び、頭部を車輪に轢かれた。即死だった。
ピエール・キュリー氏とその生活および研究の伴侶であるマリー夫人の名声は世界的なものである。この名声はある日突然に訪れた。3年前、彼らによるラジウムという新しい物質の発見が公式に認められたのである。その物質の特性は非常に異質なもので、物理学者や研究者たちを面食らわせた。この驚異的な物質は、ウラニウムの鉱石から長時間の系統立った処理過程を経て抽出され、光を放射し、見かけは何も変質せず、何も受けつけず、何も失わない様相なのに、エネルギーと熱と光を放出するのである。数年間にわたり光を放射したあとでも、ラジウムはほんのひとかけらも重量を失うことはない。この素晴らしい発見はキュリー氏および大きな部分はその夫人の助力によるものである。その労に報いるためにストックホルムのスウェーデン王立アカデミーはノーベル賞の科学部門に贈られる10万クローネの半分を彼らに授与することを決めた。
ピエール・キュリーは1859年5月15日に医者の息子としてパリに生まれた。ソルボンヌ大学の研究所で、ワルシャワ出身でパリの大学の博士号を取得したマリー・スクロドフスカ嬢と出会い、結婚した。
その後、2人は地道な研究に共同で取り組み、放射線の分野におけるすべての発見は彼らの協力の賜物である。キュリー夫妻の業績をさらに高めるために、1904年ソルボンヌの物理学教授職がキュリー氏に与えられ、その数ヵ月後、夫人が研究所の主席研究員に任ぜられた。1905年7月にはキュリー氏は科学アカデミーの会員に選ばれていた。

出典:BNF-Gallica #102978 « Je sais tout » No.16; Mai, 1906

[ Ψ 蛇足 ]
ピエール・キュリー(Pierre Curie, 1859-1906)よりも夫人のマリー・キュリー(Marie Curie, 1867-1934)のほうが偉人伝中の人物となっているのは、夫の死後もその研究を積み重ね、1911年に再度ノーベル化学賞を得ており、非常に優秀な人物だったからだろう。
参考Wikipedia(英文):Pierre Curie
この事故死の現場については、ミシュランのパリ・ガイドブック中でポン・ヌフ南側の説明でも言及されている。
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by utsushihara | 2006-04-19 22:23 | 科学、軍事、海事1905-06