フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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カテゴリ:独墺バルカン情勢1907-08( 22 )

トルコの新議会召集

f0028703_18403158.jpg1908年12月18日(金)

右掲(→)の写真は11月に実施されたトルコの総選挙のあと召集された新しい国会の議場の様子である。奥の桟敷席に皇帝(スルタン)が両脇に皇子たちを配して座している。新しい内閣の大統領としては、アーメド・リザが選出された。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288309 « Le Figaro » le 19 Déc. 1908
出典Crédit:©BNF-Gallica #102984 « Je sais tout » No.49; Fév. 1909

f0028703_13313591.jpg[ Ψ 蛇足 ]
オスマン=トルコ帝国は13世紀末から600年以上続いてきたが、露土戦争(1877)以降に専制政治を敷いた(←画像)皇帝アブドゥル=ハミト2世(Abdül Hamit II, 1842-1918)に対し、青年トルコ党が革命運動を起こし、立憲政治の実現に向けて総選挙にこぎつけていた。

*参考サイト:FORSNeT:Ahmed Riza(アーメド・リザ:英文)
**これまでの関連記事france100.exblog:青年トルコ党による選挙(1908.11.21)
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by utsushihara | 2008-12-18 18:38 | 独墺バルカン情勢1907-08

ドイツ軍用飛行船の脅威

f0028703_2147259.jpg1908年12月

昨今のドイツの軍用飛行船の度重なる訪問に関しては多くの騒音が沸き起こっている。それはわが国の東部要塞群の上空を通り、国内中心部まで及ぶもので、もし飛行士たちが(→)掲載した写真のような詳細な地理情報を自国に持ち帰るとすれば、あながち懸念が的外れだとは言えないものがある。これはドイツの飛行船が撮影したベルリンの市街であり、ケーニヒ・シュトラーセ(国王通り)の細部を見渡すことができる。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.48; Jan. 1909
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by utsushihara | 2008-12-05 18:18 | 独墺バルカン情勢1907-08

オーストリアとセルビア間の暗雲

f0028703_15264875.jpg1908年12月2日(水)

(←)左掲はオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の在位60周年を記念してウィーン市当局が彫刻家ルートヴィヒ・フューエル氏に頼んで作らせたメダルであり、12月2日に皇帝に献呈された。表面にはウィーンの市民が皇帝への感謝の念を表明している姿を表わしている。裏面は巫女が月桂樹の枝を皇帝に差し出して忠誠を誓っている様子を示し、背後には環状大通り(リンク)が見える。

f0028703_1527768.jpg片やセルビアでは、オーストリアによるボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合によってもたらされた数々の困難を解決するには程遠い状況となっている。セルビアとオーストリアの間で戦争がいつ勃発してもおかしくないと囁かれている。両国の国境沿いでは兵力が増強され、訓練が続いている。右掲(→)はセルビア陸軍の新調された軍服に身を固めた守備隊である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.48; Jan. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
スラヴ系民族国家のセルビアとゲルマン系帝国のオーストリアとの対立は、1908年10月のオーストリア帝国によるボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合によって抗争の火種が生まれた。1914年6月のサラエボ事件による第一次大戦の勃発まであと5年半である。
彫刻家ルートヴィヒ・フューエル(Ludwig Hujer, 1872-1968)については下記サイトを参照されたい。

*参考サイト:The Austrian Coins, Medals & Tokens(英文): Ludwig Hujer
**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)オーストリア皇帝の在位60周年記念式典(1908.05.07)
(2)ボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合(1908.10.06)
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by utsushihara | 2008-12-02 15:28 | 独墺バルカン情勢1907-08

青年トルコ党による選挙

f0028703_23103384.jpg1908年11月21日(土)

青年トルコ党主導による政府は、バルカン半島における様々な動きにもかかわらず改革路線を推進している。議会選挙は民衆の熱狂のさなかに実施された。ここに掲載した写真はその状況を物語るもので、(←)左は国旗の翻る街頭を投票箱を担いで練り歩く人々を、(→)右は旅行鞄を投票箱に仕立てた投票所である。
11月21日は事前に公表されていた内容に反し、第一段階の投票作業はまだ完了しておらず、翌日にずれ込む見込みとなっている。
f0028703_2371832.jpg前夜から始まった数百人規模のギリシア系住民の抗議行動は、選挙のもたらす不公平さを訴えている。この抗議行動は今朝も再開された。彼らによれば、ギリシア人候補者の名前がトルコ人候補者にすり替えられており、しかも選挙人たちの多くが資格の疑わしい人間であるという。抗議行動は夕方には終了し、閉まっていたギリシア人の商店は再び開かれた。
スタンブール(Stamboul)地区では投票の締切りのあと、人々は誇らしげに投票箱を県庁舎まで運んだ。その行列の先頭には軍楽隊が《自由行進曲》を演奏しながら行進し、生徒たちが歌いながらそれに続いた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.48; Jan. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288282 « Le Figaro » le 22 Nov. 1908

**これまでの関連記事france100.exblog:ブルガリアの独立宣言(1908.10.05)
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by utsushihara | 2008-11-21 23:05 | 独墺バルカン情勢1907-08

ドイツ宰相ビューローの演説

1908年11月19日(木)

ドイツ帝国議会では11月19日ビューロー宰相による国家予算に関する重要な演説がおこなわれた。その中では、わがフランスの国家財政、とくにフランス人の倹約に対する賞賛の言葉が見られた。ドイツの債務は24百万マルクの巨額に及んでいる。宰相は今後新たに8種類の税の創設を提言している。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.48; Jan. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288283 « Le Figaro » le 23 Nov. 1908

f0028703_18174479.jpg[ Ψ 蛇足 ]
ベルンハルト・フォン・ビューロー(Bernhard von Bülow, 1849–1929)をここで掲載するのは久しぶりだが、この1ヵ月ほど前に、ウィルヘルム2世が英国の新聞「デイリー・テレグラフ」とのインタヴュー記事で不穏な発言をしたため、宰相として引責辞任を表明していた。ただし国政の混乱を避けるためすぐには退任できず、上記のような財政再建のための新税導入案まで提出していた。
(←)左掲は1909年1月号の「ジュセトゥ」の表紙を飾ったビューローの写真で、下部の紹介記事にはこう書かれている: ドイツ宰相フォン・ビューロー公爵、1900年からドイツの外交政策を取り仕切る。最近、皇帝を取り巻く権力者たちによって引き起こされた内政危機を克服することが大きな課題となっている。

*参考サイト:
(1)Wikipedia(和文)ベルンハルト・フォン・ビューロー
(2)福岡大学 星乃治彦教授の論文「ヴィルヘルム2世の性愛と帝国の終焉」(いわゆるオイレンブルク・スキャンダルに言及している)
**これまでの関連記事france100.exblog:ドイツ宰相発作で倒れる(1906.04.05)
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by utsushihara | 2008-11-19 18:17 | 独墺バルカン情勢1907-08

ボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合

f0028703_2314841.jpg1908年10月6日(火)

10月6日、オーストリアは列強に対しボスニア=ヘルツェゴヴィナを自国に併合することを正式に告知した。この地域は1878年のベルリン会議において、その全土がオスマン=トルコ帝国の領内であることを認めつつ、オーストリアの信託統治領と取り決められていた。
オーストリアはこの併合の代償としてトルコに対し、ノヴィ=バザールの小さなサンジャクの町の返還を提示した。
f0028703_231316.jpg
右掲(→)はボスニアの首都サラエヴォの風景。2万6千人の住民の75%はトルコ人である。オーストリアはベルリン条約を破棄して公然と併合に踏み切った。

f0028703_2312180.jpg(←)ロシアの外相イスヴォルスキー氏はイタリア、フランス、英国を歴訪し、各国政府とバルカン半島における和平維持について協議を重ねた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.46-47; Nov-Déc. 1908
参考画像:Wikimedia commons : CIA Bosnia and Herzegovina MAP
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Bk-map.png

*参考サイト:Wikipedia(和文)ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
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by utsushihara | 2008-10-06 23:06 | 独墺バルカン情勢1907-08

ブルガリアの独立宣言

f0028703_17492233.jpg1908年10月5日(月)

10月5日ブルガリアの古都ティルノヴォにおいて、民衆に後押しされたフェルディナンド大公はブルガリアの王国としての独立を宣言し、ツァー(czar)としてフェルディナンド1世となった。この出来事は、その直後に公表されたオーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合とともに欧州の協調体制に深刻な動揺を引き起こした。権益を侵されたトルコ帝国は承認を留保し、列強諸国は他国の勢力がそれぞれの国に支援に回ることも含め、トルコとブルガリアとの間での戦争を回避させようと試みている。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.46; Nov. 1908

[ Ψ 蛇足 ]
(↑)上掲は将兵たちに囲まれるフェルディナンド1世。
ブルガリアは14世紀末からオスマン=トルコ帝国に支配されていたが、19世紀後半からトルコ帝国の弱体化とともに独立への機運が高まり、ロシア=トルコ(露土)戦争後、1878年のベルリン会議で半独立国となっていた。今回の完全独立への動きは、青年トルコ党の革命運動に誘発されたものと思われる。(オスマン=トルコ帝国はまだ滅びていない。)
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by utsushihara | 2008-10-05 17:46 | 独墺バルカン情勢1907-08

ベルリンでの第12回国際新聞会議

1908年9月22日(火)

第12回目の国際新聞会議が9月22日からベルリンの帝国議会の大会議場で開かれた。参加各国代表たちの間ではすっかり打ち解けた空気が流れ、オーストリア帝国政府代表のシンガー氏、ドイツ帝国外務次官のフォン・ショーン氏、そしてフランスの新聞代表で「ル・タン」紙の編集長、アドリアン・エブラール氏らが討議に加わり、ジャーナリストの役割の精神的な定義づけをおこない、新聞が世の中の平和と発展のためにどれだけ役立つかなどを話し合った。

f0028703_1731968.jpg特にドイツのフォン・ショーン氏は歓迎演説で次のように述べた:
「歴史の中において政治と報道は長い間互いに協力し合ってきた。それぞれの役割の近似性からしても事実そうであったが、それぞれの目的においては相違点が存在する。報道は想像力の翼を広げ、理想の頂点あるいは危機の極限まで読者を導くことができる。しかしながら政治は厳しい現実と冷静な判断とのしっかりとした大地を見捨てることはできないのである。
政治は報道と同じようにどこまでも大衆の意見につきあって行くことはできないが、国民感情とともにあることを模索する必要がある。この点で報道は政治に対し最も価値のある支援が可能となる。公衆の関心を満たすための報道の休みない活動は、全体を代弁する権利を獲得し、この権利は報道にとって義務ともなる。
このたびの会議は、ドイツ帝国政府の熱心な共感とともに、政治課題についての大勢の方々の議論の交差、均衡、正確さなどが歓迎されることだろう。」

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.46; Nov. 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288222 « Le Figaro » le 23 Sep. 1908
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by utsushihara | 2008-09-22 16:50 | 独墺バルカン情勢1907-08

ベルリン地下鉄の衝突事故

f0028703_1712457.jpg1908年9月

(←)左掲はベルリンで起きた地下鉄の衝突事故の画像である。事故は高架橋を走る2つの車両が正面衝突し、うち一輌が高架下に転落し、多数の死者を出した。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102983 « Je sais tout » No.46; Nov. 1908
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by utsushihara | 2008-09-13 17:00 | 独墺バルカン情勢1907-08

独皇帝のコルフ島到着

f0028703_23151385.jpg1908年4月10日(金)

ドイツ皇帝一家を乗せた帝室御用船「ホーエンツォレルン」号は恐ろしい速さで4月10日朝10時、ギリシアのコルフ島に到着した。出迎えたギリシアの国王および王族は、アテネ駐在のドイツ大使のダルコ伯爵とともにただちに乗船し、そこでは昼食が供された。
上陸は午後2時に16本の櫂をもつボートでなされ、ウィルヘルム2世はギリシア提督の制服姿で、またギリシア国王はドイツの提督の制服を着ていた。コルフの市長はギリシア語で祝辞を述べ、ウィルヘルム2世もこれにギリシア語で答礼した。次にギリシア正教の大司教が、ドイツ国家の栄光が久しく保たれることを祈念し、皇帝はフランス語で感謝の意を表した。そして儀仗兵の閲兵のあと、桟橋広場を横切り、60人ほどの政府高官、外交官、報道関係者の迎えを受けてから、自動車に乗り込み、アヒリオンに向かった。
ベルリンの新聞の伝えるところでは、皇帝のコルフ滞在は15日間の予定である。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102982 « Je sais tout » No.41; Juin, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288056 « Le Figaro » le 11 Avril, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
現在では「ケルキラ島」(Kerkira)と呼ばれる。市の中心から南へ10kmほどのところにある英雄アキレウスにちなんだ地名アヒリオン(Achillion)には、1898年に暗殺されたオーストリア皇后エリザベートの夏の離宮があった。

*参考サイト:ギリシャ政府観光局、イオニア諸島:ケルキラ(コルフ)島 Kerkira (Korfu)
**これまでの関連記事france100.exblog:独皇帝のヴェネチア訪問(1908.03.25)
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by utsushihara | 2008-04-10 12:22 | 独墺バルカン情勢1907-08