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フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

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剣による決闘の再試合

1908年7月12日(日)

昨日(12日)の夕方6時、パリ郊外で剣(エペ)による決闘が行なわれた。当事者は新聞論説家のピエール・モルティエ氏対高等裁判所の弁護士ド・モンジィ氏である。この決闘はモルティエ氏の書いた記事によって引き起こされた。彼らの立ち合いは25回繰り返されたが、激しい戦いにもかかわらずどちらも無傷のままであった。
立会人はモルティエ氏側には、詩人のカチュル・マンデス氏と劇作家のアンリ・ベルンスタン氏がおり、ド・モンジィ弁護士の方はモロ=ジャフェリ氏とド・サル氏であった。彼らは翌日となる本日、その決着をつけるため再度対決することを取り決めた。

数年前のことであるが、同じような事例があった。このときはラベルデスク氏とマックス・レジ氏とがエペで対戦し、数え切れないほど撃ち合いを繰り返しても決着がつかず、立会人たちは次の日に再度対戦することに決めた。結局、その翌日にレジ氏が何度目かの対戦の末に傷を負った。

出典 Crédit:©BNF-Gallica #288150 « Le Figaro » le 13 Juil, 1908
出典 Crédit:©BNF-Gallica #288151 « Le Figaro » le 14 Juil, 1908

[ Ψ 蛇足 ]
立会人に当時の有名作家カチュル・マンデス(Catulle Mendès, 1841-1909)とアンリ・ベルンスタン(Henri Bernstein, 1876-1953)が立会人となっているのが注目される。決闘の当事者たち、ピエール・モルティエ(Pierre Mortier)とド・モンジィ(de Monzie)についての詳細な情報は得られなかった。

さて上記の持ち越しとなった決闘の結果はどうなったのかが気になるところだが、実のところド・モンジィは右の二の腕の内側に傷を受けており、立会人たちの取り成しもあって、彼らは勝負再開の前にカチュル・マンデスのもとを訪ね、そこにいた相手とうやうやしく和解の礼が交わされたのであった。

**これまでの関連記事france100.exblog:
(1)サラ・ベルナールの凱旋公演(1906.11.10)カチュル・マンデス作「アヴィラの聖女」(Vierge d’Avila)
(2)ルネサンス座で「サムソン」上演 (1907.11.06)アンリ・ベルンスタン作
by utsushihara | 2008-07-12 17:53 | 文芸、評論1907-08