フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


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ポール・デュカがパリ音楽院の管弦楽科教授に

1910年1月5日(水)
***アンリ・ビュッセル著「パリ楽壇70年」、©池内友次郎・訳編、音楽之友社刊より引用
[第10章] 1910年1月5日:f0028703_22385366.jpg

音楽院で、ポール・デュカがオーケストラ科教授に任命される。ガブリエル・フォーレが、私たちを院長室に集めて、生徒の練習に充てる曲目の計画をたてさせる。デュカが「ベートーヴェンはあまり多くせずに、むしろ、不当に忘れられているハイドンを尊重しよう。」と言う。彼は私に「四季」を練習させることを提案する。私はポール・デュカと協力することがうれしい。私たちは、音楽院を出ながら、親愛なる我らが師エルネスト・ギローのクラスにおける昔の思い出を語りあう。私たちは1890年に顔を合わせたのであった。当時、私は単なる聴講生にすぎなかった。

(池内友次郎の注釈)ビュッセルのポール・デュカへの友情は美しいものであった。私が学生のころ、デュカは作曲のクラスの教授であって、そのクラスは、私たちの和声のクラスの隣の室であった。週に一回だけ、彼のクラスと私たちのクラスが同時間であったのであるが、ときには、彼のクラスからピアノの音が壁越しに漏れてくる。そのたびに、私たちの先生のフォーシェが、眉をしかめ、音楽院でこのような音を耳にするとは、と歎いていたことなどがあった。……そのほか、当時はまだエレヴェーターがなかった頃で、廊下でクラスの開かれるのを待っているとき、小太りで小柄なデュカが、とぼとぼと階段を上ってくるのをみかけたりしたこともあった。…(以下略)

[ Ψ 蛇足 ]
ポール・デュカ(Paul Dukas, 1865-1935)に音楽院の「教授」という肩書がこの時から与えられたのかどうかははっきりしない。下記の関連記事では、1907年3月に病気で引退するタファネルの後任として、院長のフォーレがデュカを選んだという。この間約3年近くは「准教授」のような立場だったかもしれない。
デュカが「小太りで小柄な」という様子だった、というのを読むと親近感がわいてくる。

恩師エルネスト・ギロー(Ernest Guiraud, 1837-1892)の名前は、ビゼーの「アルルの女」第2組曲を編んだ人として記憶されているが、彼自身の作品はあまり演奏されることはない。

f0028703_2232408.jpg上記の記述で「ハイドンを尊重しよう」とデュカが語ったことには、ある理由がある。ちょうど1909年には「ハイドンの没後100年記念」(ハイドンは1809年5月31日没)として楽譜出版社のデュラン(Durand)の企画によって、ポール・デュカは『ハイドンの名による悲歌的前奏曲』(Prélude élégiaque sur le thème proposé : H-A-Y-D-N)というピアノ小品を作曲していた。IMSLP所収の楽譜の冒頭と与えられた音型を参考に掲載する。ご存知の通り、H A D はシ、ラ、レの音にあたるが、Y N は音楽的になるように適当に割り当てたようだ。
f0028703_2232490.jpg

この曲はYoutube でデュシャーブル(F.-R. Duchable)やジャン・ユボー(Jean Hubeau)の演奏が聴ける。

このデュラン社の企画の依頼を受けた作曲家は、他にはドビュッシーとラヴェルがいた。
ドビュッシーは『ハイドン讃』(Hommage à Joseph Haydn)
ラヴェルは『ハイドンの名によるメヌエット』(Menuet sur le nom d’Haydn)
いずれも1909年の作曲である。これら3つの曲を同時に比べて聴いてみるのも一興だろう。優劣でなくあくまでも好みの問題だが、両巨匠の間でもデュカは独自の存在感は示しているように思う。

*参考サイト:
(1)IMSLP: Prélude élégiaque (Dukas, Paul)
(2)Youtube : Paul Dukas - Prélude élégiaque

**これまでの関連記事france100.exblog:ポール・デュカの「アリアーヌと青髭」初演(1907.05.10)
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by utsushihara | 2010-01-05 22:27 | オペラ、音楽、演劇1909-10