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フランス国立図書館(BNF)のデジタル書庫"Gallica"で見つけた百年前の月刊誌「ジュセトゥ」(Je sais tout=私はすべてを知る、という意味)や新聞「フィガロ」(Figaro)等から記事や画像を紹介。(現在1910年で進行中)


by utsushihara

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バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺

1909年10月13日(水)
バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺_f0028703_2136565.jpg
先般7月、バルセロナにおいて流血の事態に陥った反政府的な暴動の首謀者として、現代学校の校長フランシスコ・フェレー(Francisco Ferrer, 1859-1909)(写真→)が逮捕されたが、バルセロナのみならずマドリッドやバレンシアでの革命運動の扇動者だとして軍事法廷に訴追されていた。彼を死刑とする判決が下されたニュースに対し、人々は国王によって刑罰が減免されるだろうと思っていた。しかしながら憲法改正の後では国王には恩赦の権限はなくなっていた。バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺_f0028703_21375063.jpg
首相のマウラはその責任を取り、フェレーは10月13日モンヒックの城砦の空堀で銃殺されたのである。その数日後、アルフォンソ国王はマウラ内閣の総辞職を認め、自由主義的なモレに新内閣を組織するよう命じた。

出典Crédit:©BNF-Gallica #102985 « Je sais tout » No.59; Déc. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #5526304 « Touche à tout » No.11; Nov. 1909
出典 Crédit:©BNF-Gallica #569215 « Le Matin »No.9361; le 14 Oct. 1909
画像 Crédit photographique:©BNF-Gallica #5738247 « La Revue hebdomadaire et son supplément illustré » No.43; 23 Oct. 1909

[ Ψ 蛇足 ]
この日の夜のパリでは、夕刊の特別号でフェレーの銃殺を伝えるニュースが報じられるや街頭のあちこちでスペイン国王と政府・軍部に抗議する人々が集まり、約1万人規模のデモ行進や集会が行なわれた。まるでパリに革命的暴動が起きたかのような勢いであった。レーピン総監は暴徒の中にはならず者の集団が混じっていると見ていたが、警官が一人深い傷を負ったあと死亡するという事態となった。負傷者は55名。その後応援の警官隊が駆けつけ、暴徒は逃亡し、街は静けさを取り戻した。(↓)下掲は、暴徒が押し寄せた在仏スペイン大使館付近(当時)のクールセル大通りの狼藉の跡である。
バルセロナ叛乱の首謀者フェレーの銃殺_f0028703_2139985.jpg

*参考サイト:Wikipedia(仏語)Francisco Ferrer
**これまでの関連記事france100.exblog:バルセロナの市街戦(1909.07.26)
by utsushihara | 2009-10-13 21:35 | 各国事情1909-10